20.巫女、人外を受け入れる(前)

髪を乾かす熱風の心地良さに、アーシャは誘われるように目を閉じる。

「わっ」

そしてカクンと首が下がって、イズミに支えられる。

「アーシャちゃん、待って、待って」

少し不器用な動きで、和泉はアーシャの体を支えながら髪を乾かしてくれる。


———アァシャ、ガンバレ!ガンバレ!!

今にも睡魔に捕まりそうになるアーシャへ、アカートーシャは声援を送る。

それくらいしか彼女にできることはない。

「うっ……うぅぅぅぅ」

アーシャは必死で下りてくる瞼と戦っている。

「ごめんね〜、もうすぐだからね〜」

そんなアーシャに和泉が焦ったように声を掛けてくる。

「……だぁじょぶ……」

大丈夫と言いたいのだろうが、もう彼女の舌は上手く動いていない。


いつもは慧にお風呂に入れてもらって、頭は禅や譲が乾かしているのだが、今日は慧が倒れてしまったので、急遽人員配置が変わった。

譲が風呂係で、和泉が風呂後の支度係だ。

どちらも初めてのことでかなり手間取っている。


風呂に入れる時、慧は一緒に風呂に入るため裸で、洗うだけの禅は濡れても良い軽装になっていたが、あまり手順がわかっていない譲は普段着のまま風呂に挑んでしまった。

「頭からかけて大丈夫か?チビ、目ぇ閉じろ、目」

おっかなびっくり、慎重に頭からお湯をかける様子は微笑ましかった。

「いつもどれくらい湯船に浸けてるんだ……?」

そんな事を言いながら、湯船に浸けたアーシャを、普段着のままの譲が観察しているのは、何とも現実離れしていて可笑しい構図だった。


いつもは楽しく歌いながらお湯に浸かっているアーシャは、ただ浸かるだけの状態に、すぐに退屈して出ようとするのだが、「さんぷんは浸かれ!」と譲に戻される。

すると湯船で暇を持て余したアーシャは歌い始め、段々と興が乗ってしまい、慧といつもやっていたように踊り出し、湯船の横でしゃがんでいた譲の顔面に飛沫を浴びせかけてしまった。

「わっぷ!」

「わーーー!ごめんなしゃー!!」

そんなふうにお互い不慣れな風呂では、多くの事件が起こった。


アーシャはもう自分で頭も体も洗えると自負しているので、自信満々で譲に洗髪の実演を見せた。

「お前は逆ナミヘイか。後ろも洗え、後ろも」

しかし洗えていない部分をつついて指摘され、泡を後頭部に回そうとして、

「うわっ!」

少々その勢いが良すぎて、泡を譲に浴びせかけてしまったり。

汚名返上とばかりに顔を洗って見せたら、勢いが良すぎて、鼻から水が入って悶絶したり。

「チビ、背中、泡が残ってるぞ。あ、わ」

背中に残った泡を指摘され、細かい水の出る筒の方向を変えたのだが、その途中で盛大に譲の頭から雨を降らせてしまったり。

風呂が終わった頃には被害を受けまくった譲はもちろん、失敗続きのアーシャもぐったりと疲れてしまっていた。


いつもさり気なく入浴を助けてくれていた慧がいないだけで、大変な風呂になってしまった。

慧が倒れた主原因であるアカートーシャは申し訳なくて堪らない。

譲が台所に立っている間に、こっそりとアーシャが慧に氣を注ぎ込んでくれたおかげで、彼女の顔色は随分と良くなったが、未だ目覚めるには至っていない。

祟り神と化したアカートーシャを止めるために、彼女はかなり弱体化してしまっていた。

その上で新しい依代も用意してきて、アカートーシャが吸収されてしまう前に移そうとしてくれたのに、怖がって抵抗して、余計に彼女の体力を削いでしまった。

申し訳ない限りだ。


(でも……怖い……人でなくなることが……怖い)

祟り神と化すまでの記憶は朧げだが残っている。

裏切りに対する怒り、神を我が物にしようとする傲慢さへの憎しみ、手足を奪われた恨み、何日も続く飢えと体の痛み、己の糞尿と腐った体液に塗れ、閉じ込められる恐怖、そして自分が人外のものになっていく絶望。

段々と己が怒りや憎悪に染め上げられ、それでも何とか保っていた一欠片の正気が呪いによって奪われて狂い、『何か』に変じていく。

今では遠い悪夢のような記憶だが、間違いなく、それは自分のものだ。


神と呪いが混ざり合い、凶暴化した負の感情の中で、それでも微かに残滓のように残っていた人だった自分。

それをあっさりと見つけて迎え入れてくれたのがアーシャだった。

憎悪と呪いに染め上げられていた自分に、彼女は迷いなく手を伸ばした。

『仮の名前だし、アカートーシャでいいかな?』

そして彼女に名前をもらった瞬間、引き戻された感覚がした。

悪夢の中から、朝日に救い出されるように。

清浄なる彼女と繋がった瞬間、『戻った』と思えた。


彼女の中は清らかで心地良く、段々と人であった頃が思い出される。

人々の生活を眺め、美味しいものに感動し、珍しい物に感心する。

そうする事で、長い時間の中で忘れてしまっていた、喜びや、誰かを愛おしく思う心が戻ってきた。

もう自分の体は失ってしまったのに、一緒にはしゃいで、人に戻れたような気がしていた。

未だ憎悪と呪いに塗れた『自分』もしっかりと存在して繋がっているのに、そう思えることが幸せだった。


そしてこのままずっとこうしていたいと、いつの間にか願ってしまっていた。

アーシャの中は驚くほど清浄だ。

何にでも興味津々で、常に全力で、少し夢見がちで、大好きな人が沢山いる。

心には棘がなく、最高級の真綿で作った寝所のように、温かで柔らかで、光に満ちている。

彼女の中にいるだけで、癒されていく。

少々抜けていたり、勘違いで突っ走ったり、食い意地がかなり突っ張っている所がなければ、本当に人間か、疑いたくなる清らかさだった。


自分という存在が消えてしまうのは恐ろしい。

しかし同じくらい、彼女の一部になることが魅力的だとも感じてしまっている自分もいる。

また一人孤独に閉じ込められるくらいなら、このまま幸せを感じながら彼女の中に溶けてしまいたい。

(でも、その誘惑に囚われては、いけない)

自分を吸収してしまったら、アーシャは悲しむだろうし、招いてしまった自分を責めるだろう。


(恐れるな。……現世の体なんか、とうの昔に失っている)

桜の神霊は『中の者もまだ成りきれておらぬ』と言っていた。

『何に』とは言っていなかったが、何となくわかる。

人以外の何か。

それは人である自分にしがみついていては成れない物だろう。


[起きなきゃ……あったか………起きなきゃ……気持ち良………]

間抜けなアーシャの心の声が流れてくる。

彼女の心は常に開きっぱなしだ。

常人であれば、自分の思考や記憶を全て読まれるなど、気持ち悪いはずなのに、彼女の心の声は垂れ流しである。

一度も拒否をされたことがない。


———アァシャ!ガンバレ!

「……ふぉっ……」

声をかけると少し復活するが、再び瞼の重みに耐えられなくなっていく。

ワッシャワッシャと頭を掻き回すようにして乾かす禅、ガシガシと手櫛をかけながら乾かす譲に対し、和泉は丁寧に髪を撫でるようにして乾かすので、その心地良さが瞼の重みに拍車をかけている。


———アァシャ!ゴハン、オイシカッタネ!

「おいしぁ……にぁ……」

何とか意識を保つお手伝いをしようと、アーシャが一番食らいつく話題を振ると、ウンウンと頷きながらアーシャが答える。

いつも返答は心の中に留めているのだが、寝ぼけて、普通に口に出している。


———トロトロデ、ヤサイ、タクサンダッタネ!

そう言うと、アーシャの中に美味しかった夕飯が浮かぶ。

食い意地のなせる技か、アーシャは熱々のご飯や、その上にかけられた、絶妙な塩加減の美味なトロミに包まれた、野菜や木の子、肉、海鮮、玉子の味を、今食べているのではないのかと疑ってしまうほどの臨場感を持って再現できてしまう。


「……ちゃまご……」

アーシャの中では、一口で食べられる小さな玉子の存在が、光り輝いていたようだ。

にゅるんとトロミを纏った玉子を口に入れた感触と、それに歯を突き立てた時のぷつんと切れる感触。

そして小さいのに、しっかりとした黄身の味が、とろみと共に口の中に広がる感触。

それを見事に頭の中で再現しながら、アーシャは口をモゴモゴと動かしている。

半分夢の中で玉子を食べている。


このまま好物を羅列したら、そのまま美食の夢の世界に旅立ちそうだ。

———キ、キクラゲ!オドロイテタネ!

独特の食感のキクラゲにアーシャは物凄く驚いていた。

それは木の子だよと教えたら更に驚いていた。

「きにょきょ……きにょきょ……」

驚きの記憶で少しでも目を覚まそうと思ったのが、アーシャは壊れたようにそう呟き始めてしまう。

「あ、アーシャちゃん!?ごめんね!?気を確かに!!」

突然不思議な鳴き声を上げ始めたアーシャに、和泉が縮み上がっている。


「何だ何だ?」

すると譲の少し速い足音が近づいてくる。

「譲〜〜〜ごめん、うまく乾かせなくて。アーシャちゃんが妙な異次元に片足突っ込んでる〜」

「あ、それ、寝ぼけてるだけだから大丈夫。ちょい待ち、和泉姉を先に部屋に戻してきて代わる」

チャリチャリと鍵を鳴らしながら、少し重くなった足取りが遠ざかっていく。

———アァシャ?ケイ、カエルミタイ

「けーおねちゃ……おやしゅむぃ……」

遂にアーシャの瞼は完全に下りてしまって、何も見ることができない。

多分違うだろうと思われる方向に、アーシャは手を振っている。


やがて譲が再び帰ってきて、

「また迷惑かけて悪かった」

「別に何もないよ?」

「これからねぇの面倒があるだろ……姉自体にもダメージ入れちまったし」

「それは譲のせいじゃないよ。姉ちゃんがやりたくてやったんだから。中の人?神様?外に出られるといいね」

「明日、トライしてみる」

「うん。頑張って」

「あと、雛人形、ありがとな。全然気がつかなかった」

「ふふふ、男兄弟だもん。気がつかないよ」

そんな会話を交わしながら、譲はアーシャを受け取る。


譲の手に渡った途端、アーシャは完全に脱力してしまう。

「おっ……と」

ガシッと耳の後ろを持たれる感触がして、先ほどより少し荒々しく熱風が顔にかかる。

「う〜〜〜」

「はいはい」

アーシャが不快そうに声を上げても、容赦はない。


アーシャの髪が乾いた後は、そのまま彼の胡座の上に横たえられる感触がして、上から熱風の音が聞こえる。

多分自分の髪を乾かしているのだろう。

「うむぅ……うむぁ……」

「はいはい」

髪を乾かし終わった譲は、片手でアーシャを抱っこしたまま、歩き回り、歯を磨いたり色々しているようだ。

時々揺らされたアーシャが唸っても、受け流している。


そうこうしてから柔らかい布団の感触がする。

「んんん〜」

執念の賜物とでも言えば良いのだろうか。

アーシャは既に夢の園に両足を突っ込んでいるのに、触れている体温を逃すまいとするように、子猿のように譲に張り付く。

「……はいはい……」

そんなアーシャに、疲れたような声が返事する。


自分に掴まった手を潰さないようにしながら、隣に人が転がる気配がする。

アーシャは芋虫のように動いて、その体温にくっついて大きく息を吐く。

意識がないはずなのに、温もりを感じて、彼女の心には幸せが満ちる。

元気で明るく、我が道を邁進しているが、彼女はいつもこうやって温かさを求めている。

普段の彼女は寂しいとは感じていない。

それなのに抱きしめられたり、持ち上げてもらったり、普通の子供のように温かさを注がれると、こうやって幸せを感じる。

そんな姿を見ていると、寂しさを感じていないのではなく、寂しいと認識できないのではないかと心配に思ってしまう。


彼女はどんな事が起こっても人生を謳歌する種類の人間に見える。

どんなに小さくても喜びを見つけて、幸せそうにしている。

それは彼女の美点だと思うのだが、同時に何処か歪だとも感じる。


自分をこき使う人間がいれば、その相手を嫌い、そのうち憎しみ、何か不幸な目に遭ってしまえと呪う気持ちが湧いてくるだろう。

それに対し、彼女はこき使ってくる人間を嫌な奴だと思う。

隙あればしっかり報復もする。

しかしそれだけなのだ。

暗い、粘つくような感情にまで発展しない。

暗い感情が湧きにくいようだ。


(不思議な子)

自分の心を全てを見通す妖怪サトリなどに表現されるように、自分の心を丸裸にしてしまう存在など、普通は恐怖の対象でしかない。

アカートーシャは心どころか記憶も読める。

普通の人間だったら、そんな物が体の中に入るなんて、絶対に嫌だろう。

しかしアーシャは特に気にしていない。

話す手間が省けて便利とすら考えてしまっている。


(あっ……)

スヤスヤと健康的な寝息を聞いていたら、フワリとアーシャの一部が動く。

更に体温を求めるように、彼女の魂は体から彷徨い出る。

———アァシャ!マッテーーー!

それをアカートーシャは追う。

一緒に頑張ろうと言ったが、彼女は意識がないので、自分が追うしかない。

そう思ったのだが、上手く動くことができない。

先ほど引っ張られた感覚を思い出して、頑張るが全く動けない。


しかし、突如、既に存在しないはずのアカートーシャの体が、鷲掴みにされる感覚がする。

———ピャーーーーー!?

鷹に囚われた兎の如く、アカートーシャは吊り上げられる。

———ヒャーーー!!

グリグリゴリゴリガリガリ。

音で表すとするならばそんな衝撃が伝わり、最後にスポンっと抜ける感覚がする。


———へ!?ヘェッ!!?

真っ暗な室内が見える。

アーシャの視覚に頼らない、初めての外だ。

人間の目では暗いと何も見えないのに、今は全てが明確に見える。

———アァシャーーー!!

見れば安らかな顔をしながら眠っているアーシャの霊体らしきものが、しっかりとアカートーシャを掴んでいる。

眠りながらも約束を果たしてくれたという事だろうが、物凄く荒っぽい。


アーシャはそのまま譲に引き込まれるように入っていく。

彼女に掴まれたアカートーシャも、必然的に一緒に入る……

———ヒェェェーーー!!

かと思いきや、次の瞬間、物凄い力強さで弾き飛ばされてしまった。


———アワッ、ヒェッ、ファッ

ボンッボンッボンッと三回弾んで、アカートーシャはようやく止まる。

———ヘ

枕の隣に落下した彼女はポカンと天井を見つめる。

首を動かせばアーシャと、驚くべき反発係数を見せた譲が眠っている。


ひっくり返ったアカートーシャは起きあがろうとする。

———ヘェェェェェェェェェ!?

そこで生前のまま、自分には手足がないことに気がついて、彼女は悲鳴をあげた。

万事休す。

全く動けない彼女は呆然と天井を見つめ続けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る