15.次男、爆睡する
風呂を終えて和泉たちが帰ると、家には譲と小さな生物のみが取り残された。
「ゆずぅ、ゆずぅ、ぽんぽこいん〜〜〜」
これから禅一抜きで夜を越えないといけないと思い、微かな緊張を感じる譲に対し、小さい生物はいつも通り楽しそうである。
ぽっこりと出たお腹を撫でては、譲に見せてくる。
自分でもまん丸になった腹が面白いらしく、『ぽんぽこりん』と言ってはクスクスと笑う。
(うん。いつも通り、安定のバカだ)
呆れると共に、少し安堵して、アーシャの髪を乾かし、歯磨きをさせ、寝る準備を整えていく。
禅一がいる時に比べて、会話らしい会話がないのを除けば、これと言った違いはない。
一応、問題なくやれている。
『今、アーシャちゃんに愛情を補給できるのは譲さんしかいませんから、しっかり抱きしめて愛情を伝えてあげてくださいね』
そんな風に保育士である峰子に言われて、密かに気にしていた譲は、肩の力が抜ける。
(チビはそこそこ賢いからな。状況も理解しているみたいだし)
帰ってきて、藤護で行われる祭事はまだ先である事、祭事の前日に移動する事を、紙に書いて説明したら、大きく頷いていた。
禅一と離れるのも少しの間だけと、きちんと理解している。
(チビが寝たら単語帳みたいなやつを作るか)
アーシャの中には、かなり古い時代の人間が入っている事がわかった。
それがアーシャとの意思疎通の仲立ちをしてくれる時に、よく使う名詞、動詞、形容詞をカードにしておけば、会話がし易くなるはずだ。
ついでにアーシャの文字の学習にも役立つだろう。
(細かい話をしたい時のために、五十音を書いたコックリシートも持ち歩けるようにしてぇな)
そんな事を考えつつ、淡々と譲は作業を進めていく。
お茶を軽く飲ませて、トイレに行かせる。
アーシャはお茶を飲んでは
「ほんぽこいん?」
と、大きくなったか?とばかりに腹を見せてきて、トイレから出てきては、
「ぽんぽこいん」
腹が小さくなったとばかりに、撫でて見せる。
「そんなに腹のサイズが変わるか!とっとと寝ろ!ぽんぽこ娘!」
あまりにしつこく言ってくるので、最終的にはそう追い立てる羽目になった。
一階の自分の部屋と、二階の禅一の部屋、どちらで寝るのかと思ったら、夜は禅一の部屋と思っているようで、アーシャは聞くまでもなく、階段を上る。
(禅はいなくても、禅のベッドなのか)
小さな体をドアノブに向かって伸ばす姿を見ながら、そんな事を思う。
(あれ……?子供って一人で寝れるもんなのか?)
そんな疑問を感じたのは、巨大な禅一がいないベッドに、ちっぽけなアーシャだけが横になった姿を見た時だった。
頭に敷いた枕くらいの大きさしかないアーシャは、ベッドに対して、あまりにも小さく、物凄く頼りがなく見える。
広いベッドにポツンと横になっている姿を、この暗闇に残して行くことに、強い罪悪感が湧き上がってくる。
(いやいや……でも欧米人は子供だけで寝かせるもんなんだろ……?)
そう思いながらも、頭の中では、『しっかり抱きしめて愛情を伝えてあげてくださいね』との峰子の声が響く。
「電気、消すぞ。いーか?」
灯りを指差して尋ねれば、アーシャは力強く頷く。
ここで寂しいとか、心細いとか、ごねてくれたら、部屋に留まることができたのだが、アーシャはキュッと口を引き結んで、大人しく見送る姿勢だ。
「……じゃ、おやすみ」
「おやしみっ!」
キリリとアーシャは挨拶を返してくる。
(まぁ……大丈夫か……)
そう思いながら譲は部屋を出る。
それからパタンとドアを閉め、
(いや!?大丈夫か!?)
姿が完全に見えなくなると、途端に不安になる。
先ほど考えていた単語カードを作ろうと自室のパソコン前に座るが、妙に落ち着かない。
デスクトップ型のパソコンが立ち上がるのを待ちながら、譲はスマホを手繰り寄せる。
フッと頭の中に浮かんだ単語は『乳幼児突然死症候群』。
(……あ、やっぱり一歳までだったよな。うん。心配はないな)
スマホで検索して、今のアーシャには関係ないと安心して、スマホを置く。
「……………」
しかし何となく気になって、自分の部屋の扉を開け放つ。
これでアーシャから声をかけられたら、すぐに把握できる。
「……………」
そう思って作業に入ったのも束の間。
今度は、いつもは全く気にならない、パソコンのファンの音が耳につく。
(小さい声だと、これのせいで聞こえねぇかも)
そんな不安が一回でも脳裏を横切ると、落ち着いての作業が難しくなる。
(カードを作るぐらいなら、タブレットでもできるか)
あまりにも落ち着かなくなって、譲はパソコンの電源を落とし、タブレットを持って、移動する。
そして譲と禅一の部屋の間にある、階段の一番上の踊り場に腰を据える。
(まずは人の名前……それからよく生活の中で使う物……)
そうして、ようやく落ち着いて単語のピックアップを始めることができる。
子供のそばには絶対大人がついている。
それが当然の環境で育った身としては、子供を一人で寝かせるのが落ち着かない。
それでも『では俺が一緒に寝よう』と思えない自分にイラついて、譲は髪を乱暴にかき回す。
(他人と一緒なんて……絶対寝れる気がしない)
譲はとにかくスキンシップが苦手なのだ。
小学五年の宿泊学習と、中学二年の修学旅行。
人生で二回だけの集団での宿泊では、それぞれ最悪な事が起こった。
特に中学の時は、もう思い出したくないトラウマ級の出来事が起きたので、高校の修学旅行は家庭の事情で押し切って不参加にした。
中学以来、睡眠という一番無防備な状態を、赤の他人に晒す事ができなくなった。
誰も鍵をかけない村の中で、しっかりと鍵をかけるようになったのも、この頃だ。
実を言えば、峰子が藤護についてきてくれるのは有り難いが、他人がそばに居たら眠れないだろうなと少しだけ気が重い。
峰子が完全に譲に興味を持っていない事は、肌で感じ取れるのに、そんな事を思ってしまう。
では男の篠崎は平気かと聞かれると、これも厳しい。
好意を持たれているとか、持たれていないとか関係なく、意識がなくなる時に、近くに人がいるのが嫌なのだ。
慣れた和泉ですら近くにいると眠りが浅くなってしまうのだ。
(そう言えば、前はチビが近くにいても、かなり深く眠れたけど……あれは多分チビの子守唄のせいだからな。しかも結構すぐに目が覚めたし)
しかもあの時は簀巻きにされていたから、体温は伝わってきたものの、毛布ぶんの距離があった。
一緒に寝るとなれば、接触を避けるのは難しいだろう。
悪意のかけらもない、小さな子供の体温に怯えてどうすると思うが、もうこれは条件反射のようなものだ。
あの肌の上を伝う、生ぬるい感触。
嫌でも相手の劣情を感じる、ねっとりと肌に絡みつく指先。
獲物を狙う蛇のようでありながら、煮えたぎるような熱を感じる目線。
興奮で荒ぶった、湿った吐息。
「………っっ」
思い出すだけで、胃から消化中のものが込み上げてきて、譲は口を押さえる。
ググッと食道を迫り上がってくる嘔吐感を飲み下しながら、必死に鼻で深呼吸をする。
(……無理。うん。無理だ)
産まれた時から一緒の禅一にすら、殆ど触れないで生活しているのだ。
背中を預け合って座り、作業していた頃の感覚は、今ではもう思い出せない。
祖母にくっついて寝た日々の感覚は更に遠い。
長時間、自分の側に体温があるという状態が想像できない。
まだ禅一の部屋では、ベッドが軋む音がして、アーシャが起きている気配がするが、譲にできる事はない。
このままここで寝るまで見守り、寝たら自分の部屋に帰る。
「ぜんぅぅ」
そうしようと思い定めた時に、小さな呟きが耳に入る。
「……………」
思わず譲は、目を閉じて天を仰ぐ。
(根性でそのまま寝付け………!)
全力でそう願う。
「………じぇ〜ん………」
しかししばしの沈黙の後、先ほどより、もっと情けない声が響いてくる。
「……………」
譲は作業していたタブレット横に置いて、頭を抱える。
これは覚悟を決めるべき時が来てしまったのだろうか。
(まぁ……三日くらい寝なくても……いや、でも運転するからな……)
そんな事を考えつつも、渋々立ち上がる。
(今、この瞬間に寝ろ……!!)
そんな事を念じながら禅一の部屋のドアをソッと開ける。
「ユズゥ?」
しかし願いも虚しく、小さな人影は、元気に起き上がってしまった。
眠気のねの字も感じていない動作に、ため息が溢れる。
「……寝てねぇよな……」
当然そんなミラクルは起こらない。
アーシャは嬉しそうに布団から這い出て来て、生まれたての動物のように、ヨタヨタと四つん這いで譲の方にやって来ようとする。
「出てくるな、出てくるな」
手で押し留める動作をすれば、素直にその場でお座りするが、止めなければ、そのまま降りてきて駆け回りそうな勢いがある。
(うわぁ……)
近づいてみてわかったのだが、アーシャの目は、泣いた跡がある。
(……流石に、この状態を見捨てて行ったら鬼だろ……)
譲は這い出てきたアーシャを元の位置に戻し、しっかりと布団で固定してから、ベッドのヘリに座る。
元気すぎる姿に、ため息が漏れる。
(子供の寝かしつけってどうやるんだったっけ?……確か寝かせる時は部屋を暗くして静かにするとか……)
読んだ育児書を思い返すが、環境の整え方は書いてあったが、具体的な方法の記述はなかった。
寝かしつけ担当は禅一だと思っていたので、他で情報を調べたことはない。
(部屋はもう暗いし、静かだ……でも目がばっちり開いてやがるぞ!?これは何かしねぇと寝ねぇだろ!?)
譲は頭を抱えて、遠い昔を何とか思い出そうと考える。
一日中、それこそご飯中すらじっとできない禅一は、暗くなると同時に、電池が切れたように寝息を立てるタイプだったが、譲は家で本などを読むのが好きな大人しい子供であまり動いかないせいか、寝付きは良くなかった。
そんな譲に祖母はどうしてくれていたか?と、記憶を手繰り寄せる。
そんな記憶の発掘作業に勤しむ譲の、腰回りの毛布が盛り上がる。
「ん?」
何かと思って見れば、先ほどベッドの中央に配置したアーシャが、毛布の中を泳ぎ、ベッドに座った譲の左太ももの辺りから、ボスンと顔を出す。
「ん!」
そして譲の腰回りに、巨大なカブトムシの幼虫のように巻き付き、満足そうな顔をする。
「…………………?」
この状況はいったい何なのだろう。
何故この幼児は人の尻に巻き付いて、嬉しそうにしているのだろう。
戸惑っているうちに、アーシャはファ〜と小さく欠伸をこぼして、目を閉じてしまう。
(いやいや!!こんな状態で寝られたらまずいだろ!?)
このままでは、譲はここに座って一晩を越すことになってしまう。
よしんば、アーシャが熟睡したタイミングで抜け出せたとして、こんな端で寝かせたら、いつ下に落ちるかわかったものではない。
数秒考えて、譲はアーシャを元の位置に戻す。
「ゆずぅ〜〜〜!」
安眠体勢に入っていたアーシャからは、もちろん大批判される。
譲は特大のため息を吐いて覚悟を決める。
(一晩中座っとくより、寝れなくても横になっといたほうがマシだ)
そう思って、アーシャを壁側に持っていこうとするが、強い抵抗を受ける。
「真っ直ぐ、真っ直ぐ」
人格を持った洗濯バサミのように、腕と足で譲を挟み込んで、譲の腕を捕まえようと感張るアーシャを、何とか引き延ばして、譲は自分が転がるスペースを作る。
口をへの字に曲げて、眉を八の字にしていたアーシャだったが、譲がベッドの端に寝転ぶと、途端にパァァァァと顔を輝かせる。
「ゆずぅ、ゆずぅ!」
アーシャが眠ったら脱出する予定だった譲に、彼女は布団を被せようと、小さな手で一生懸命引っ張っている。
(………ちょっとの間だけ。仕方ねぇ)
ため息をつきつつも、譲は中央に寄る。
一緒に布団に入らなかったら、アーシャはずっと布団を掛けようとしてくるだろう。
コロコロっとアーシャは譲の胸元に転がり込む。
「あったかーね!」
そして嬉しそうに笑うのだ。
(どちらかと言えば、俺が入って冷たくなってねぇか?)
廊下で冷やされた譲の体に、アーシャの熱が奪われている。
熱を奪う側の譲と違って、アーシャは結構寒いはずなのに嬉しそうなのは何故だろうと、譲は不思議に思う。
(子供ってめちゃくちゃ体温高いな)
触れたところから、どんどん熱が移ってきて、人間というより、湯たんぽのようだ。
特に頭なんか、そこから放熱してるのかと思うほど、温かいを通り越して熱い。
「はいはい。寝ろ寝ろ」
確かこんな風に体を叩いてもらっていた気がする、と、大昔の記憶に従って、譲はアーシャの背中を叩く。
(もっと軽く叩いていたか……?叩く間隔ももうちょっと空いていたような……)
とても眠たくなるとは思えない、自分の不器用な寝かしつけに、譲は渋い顔になる。
「んふふふふ」
しかしアーシャは嬉しそうだ。
譲の胸に、ゴンっと頭をぶつけたかと思うと、ゴリゴリと額を擦り付け、満面の笑顔のまま目を閉じる。
力を加減したり、どのくらいの速度が寝易いかと試行錯誤している譲をよそに、程なくして、アーシャの口からは健やかな寝息が聞こえてくる。
(体温が人外なせいか?特に嫌な感じはしねぇな)
譲は意外に思いつつも、ポンポンとアーシャを叩き続ける。
この動作のやめ時が良くわからない。
『しっかり抱きしめて愛情を伝えてあげてくださいね』
峰子の言葉がチラつく。
(ま、寝たら抱きしめるもクソもねぇよな)
今はこれくらいが譲の精一杯だ。
そんな事を考えながら、譲は軽く目を閉じる。
『子供って寝るとポカポカするんだよ。で、この所、そのポカポカエネルギーで寝てたから、寝方がわからないというか……眠気ってどうやったら出るんだったか……』
そう言えば禅一がそんな世迷言を言っていたな。
確かにこれは温かい。
かつて自分に触れてきた、生ぬるい体温とは違う。
譲はすぐに眠れないし、起きられない。
人が近くにいるだけで眠れないのに、一緒の布団なんてとんでもない。
そのはずだったのに、高い体温と共に、何か温かい物が体の中に潜り込んだと思ったのを最後に、譲の思考は微睡に呑み込まれた。
「ゆずぅ、ゆずぅ」
「あ“ぁ?………………は?」
揺り動かされる感覚で目を開けた譲は、状況が理解できず、呆然として、上から覗き込んでくる鳥の巣のような頭のアーシャを見つめた。
「おはよー!ゆずぅ!」
元気に挨拶をするアーシャの後ろのカーテンからは、眩しい日差しが差している。
付けっ放しになっていた廊下の電気が、朝日の中で存在感を失っている。
そして何より、遠くで自分のスマホのアラームが鳴っている。
「………嘘だろ………」
このチビ助と一緒だったのに、夜中一度も目を覚まさず眠り続けられた。
それどころか、アラームの音ですら起きられない程、深く眠っていた。
自分で自分の状態が信じられない。
そんな状態だった譲が、既に保育園に向かう時刻を超えていることに気がついたのは、それから更に数分経ってからのことだった。
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