11.次男、交信する(後)
コップを手で温めつつ、氷をかき回して溶かし、ほんの少しできた液体を嬉しそうに飲むが、薄まったジュースが不味かったのか微妙な顔をする。
「峰子ちゃん、アーシャちゃんにジュースをもう一杯……」
「糖分の摂り過ぎは、ご飯に影響を与えるから駄目。ほうじ茶を入れてくるわ」
そんなアーシャを見て、乾老は孫に頼んだが、峰子はあっさりと断ってから、席を外した。
「最近は厳しいねぇ……。じゃあ、まずは中に巫女様がいるか確認しようか」
乾老はしょんぼりしながらも、背中を丸めて、アーシャを覗き込む。
「アーシャちゃん」
今度はストローを思い切り吸い込むことで、氷を浮かせていたアーシャは、急に声をかけられ、びっくりして顔をあげる。
「はい!」
そしてカランと氷が落ちる音を掻き消すように、元気よく手をあげて返事をする。
口からポロリとストローが落ちて、慌てて拾う間抜けな姿からは、誰かの魂を受け入れて鎮めているなんて、とても信じられない。
「中の巫女様に質問をしたいんだが、答えてもらえるかね?」
乾老人はそう言って、五十音と『はい』『いいえ』が書き込まれた紙をアーシャの前に置く。
アーシャは首を傾げて、その紙をじっと見る。
(……いやいや、チビにそんなこと言っても、通じるわけねぇだろ……)
首を傾げた状態で止まっているアーシャを見て、譲は呆れてしまうが、乾老はじっと返事を待っている。
「あかーとーしゃあーにぅ……めいにぃ?」
数秒止まったアーシャは、困ったように、自分の胸を指差しながら、母国語らしき言葉で、独り言のように呟く。
当然こちらにその意味は全くわからない。
「中の巫女様に問わばや。いらえ、願うべしや?」
乾老はアーシャの胸の辺りを指差しもう一度問う。
「じーさん、古典イケるのか?」
「全く。半世紀前くらいに習ったっきりだ。それっぽく聞いた方が中の人が反応してくれるかと思ってな」
思わずタメ口で聞いてしまった譲に、イタズラっぽい笑顔が返ってくる。
乾老の言葉を聞いた瞬間は、ぼんやりとした顔をしていたアーシャだったが、四、五秒のタイムラグの後に、目を丸くした。
そして瞳を右下に寄せて、更に数秒固まってから、紙の中の『はい』を指差しつつ、ウンウンと頭を縦に振る。
「………………!!」
譲は驚き、乾老は『来た!』とばかりに目を輝かせる。
「待て、待て。まだ偶然指差しただけの可能性がある」
目を輝かせながらも、乾老は逸る自分に言い聞かせるように呟く。
「中におわすのは、巫女様か?」
その質問に、アーシャは先ほどと同じように右下を見た状態で数秒固まってから、紙の中の『はい』を指差した。
「巫女様以外に誰かおわすか?」
やはり質問を受けてから数秒のラグを経てから、アーシャは首を横に振りながら、『いいえ』を指差す。
どう見ても、ランダムで適当に指差しているのではなく、『はい』と『いいえ』を選んで指を差している。
「「……………!!」」
譲と乾老は顔を見合わせて、交信の成功を確信する。
質問をしてからの妙なタイムラグは、中の巫女とやらがアーシャが話しかけているのかもしれない。
「手紙の実物、出してもらえるかい?」
乾老に囁かれて、譲は慌てて、バッグから封筒を出す。
「この
質問すると、やはりアーシャは数秒止まる。
そして今度は難しそうな顔をして、何度も首をひねる。
「ん〜〜〜な〜〜〜〜〜」
困ったようにグデングデンと首を回しながら、アーシャは両方の手で、『はい』と『いいえ』を指差す。
「………んん?」
「……やっぱり通じてねぇのか……?」
予想外の行動に、男二人は顔を見合わせる。
「んぁ〜……アーシャ」
アーシャはそう言って自分の顔を指さしてから、何かを書く真似をする。
「あかーとーしゃ………」
そして胸の辺りをパンパンと叩いてから、パクパクと口を動かす。
「「???」」」
何かを伝えようとしているのだろうが、意味が良くわからない。
「ん〜〜〜〜」
短い腕を組んで、アーシャは何やら考えている。
「あぁ!えいにぃみゅっ!」
そして何か言ったかと思うと、紙の上を再び指差す。
「ん………?あ、あ……し…………や……お………も………ふ」
アーシャは一生懸命紙を見ながら、ゆっくりと平仮名を押さえていく。
押さえ終わった後に、クイックイッっとアーシャは自分の顔を指差す。
「ああしやおもふ……アーシャ、おもふ……思う、か?」
「ふむふむ」
譲と乾老、両方の顔を見て、ウンウンと頷いた後に、アーシャは再び紙の上に手を彷徨わせる。
『み・こ・ふ・み・に・す』
五十音をあいうえお順で覚えているわけではないようで、かなり時間はかかったが、アーシャはそんな一文を示して、パンッパンッと自分の胸を叩く。
「巫女、文にす……つまり……チビが思ってることを、巫女が通訳して、手紙にしたってことか?」
そう言ってみて、譲は首を傾げる。
アーシャは譲に伝えたい事があるが、日本語がわからない。
そこで一応この国の出身である巫女に頼って、文章を作ってもらった。
気持ち悪い文だったのは、大昔の人間である巫女が、何とか現代風にしようと頑張った結果だった。
(そう考えると辻褄は合うが………)
チラッと譲は隣に座るアーシャを見る。
大きな頭に小さな手足。
いかにも何も考えていなさそうな、能天気な顔。
間抜けで無軌道な、数々の言動。
どこからどう見ても、まごう事なきお子様だ。
(こんなチビに、そんな高等なことができるか!?)
巫女の方が手紙を書くことを提案してくれたとしても、普通の子供が、その提案を理解して、言われた通り、字を書けるだろうか。
(いや、そう言えば五歳ぐらいかもって話だったな。……五歳くらいなら、できるのか……?)
自分の小さい頃を思えば、確かに五歳ごろに、貰った手紙への返信作業をしていた記憶はある。
ただ書いていた記憶しかないので、どれくらいの内容を書けていたのかは、よくわからない。
(禅はすごく遅かったよな)
一方、片割れの禅一は、殆ど字に興味を示さず、小学校に入って直ぐに休学した事も影響して、小学校二年生になっても日記すらまともに書けず、先生から雷を落とされていた。
鏡字が完全になくなったのも、かなり遅かった。
「…………」
そんなことを考えた後にアーシャの顔を見る。
何も考えていなさそうな間の抜けた笑顔……否、大変無垢な笑顔は、どちらかと言えば禅一寄りに見える。
「アーシャちゃんは神様と契りを結んだのかい?」
『はい』
「どこの神様かな?」
『ふ・じ・も・り』
「藤護の神………神様は女性かい?」
『いいえ』
「違うのか……じゃあ神様は蛇かい?」
『いいえ』
「じゃあ、龍かい?」
『いいえ』
「う〜ん………?」
譲が思い悩んでいる間も、乾老は手紙の内容を解析しようと奮闘していた。
「藤護の神で、女性でも蛇でも龍でもない………?」
乾老はこめかみを人差し指で押さえる。
「……『藤護の神』なんて居るんだ……」
驚いて譲が呟くと、乾老は頷く。
「水の流れを司る女神さ。その御身に厄災を封じたがために、穢れてしまい、歴史からも消された……と伝えられているな。藤護の村に水路が張り巡らされているのは、農業のためだけじゃなくて、水の流れ自体が神格化されてるからだ。流れる水こそが村を清め、守る、結界の役割なんだ」
そう答えた上で、彼は首をひねる。
「……女神じゃないなら藤護じゃない気がするねぇ……いや、伝えられていない神がいるのかもしれないし……そもそも神の性別なんて人間が勝手に決めつけたモノかもしれないしねぇ……」
こればっかりは彼にもわからないらしい。
「アーシャちゃんは、いつ、神様と契りを結んだのかい?」
『み・こ・の・け・い』
「う〜〜〜ん、けいってのは
『ふ・じ・も・り』
アーシャは返答に慣れてきたようで、質問から返答までのタイムラグがどんどん短くなってきた。
(巫女の答えを、ひたすらアーシャが出力している感じだな)
そんな事を考えていたら、乾老が譲の方を向く。
「藤護の本家には
「あぁ。行ってないです」
「ん〜〜〜、村に行ってないのに、巫女の怪異の時に、藤護の神に会った……?」
確かに引っ掛かりは覚えるが、目に映らない、超常現象に人間の常識は通じないだろう。
何十キロ、何百キロを超えて、人を手繰り寄せるような存在だ。
「神様なんだから、どうとでもできるんじゃねぇの?」
「いや……う〜ん……藤護の結界は外から中に入れないようにするより、中から外に出さないようにする力の方が強いはずなんだが……俺もあそこから追い出されて、かなり経つから、変わったかな……」
そんな話をしていている間に、お盆を持った峰子が帰ってきた。
「何かわかりましたか?」
峰子はアーシャに温かいほうじ茶を出しながら尋ねる。
「う〜ん……中の巫女様には我々の声が聞こえていること。アーシャちゃんを通じて交信できること。そしてこの手紙はアーシャちゃんが伝えたい事を、巫女様が文にした事、くらいかねぇ。一体どこの神と契約したのかも、まだわからない状態だねぇ」
祖父の答えに、峰子は半眼になる。
「お祖父ちゃん、契約した神が何かとか聞いていたの?そんな事は後回しで良いでしょう」
「えぇ、そんな事って……凄く重要な事だよ?契約した相手だよ?確定させておかないと後々厄介だよ?」
峰子は祖父の言葉をスルーして、ほんのりと湯気の上がる湯呑みにフーフーと息を吹きかけ、その香りを楽しんでいるアーシャの隣に、膝をついて座る。
「巫女様が答えていますか?」
『はい』
頷いて峰子は質問を始めた。
「神事に行かねば、
『はい』
微かに峰子の眉根に皺が寄る。
「何が起こりますか?」
つまる所、峰子にとってアーシャが何の神と契約したかより、契約に反した場合、アーシャの身に何が起こるかが重要だったのだ。
小さな手が、ヒョイヒョイと紙の上を動く。
『し・よ・り・あ・し・き・こ・と』
紙の上を一生懸命見ながら、文字を探して、『出来た!』という満足そうな顔で、指し示された内容に、一同が凍りつく。
「?」
ただ、アーシャだけがポカンと周りを見ている。
「巫女様、それはアーシャちゃんに伝えないでください」
アーシャが巫女に何かを聞く前に、と、峰子は素早く釘を刺す。
『はい』
少しだけ遅れて、アーシャの指は回答を示す。
『死より
その返答に、三人は暫しお互いの顔を無言で見つめ合う。
「……とにかく、アーシャちゃんは神事に参加させなくてはいけません」
誰よりも先に口に開いたのは峰子だった。
「まぁ……神との約束事は、絶対だからねぇ……人由来の祀られている神だったらまだしも、荒神だったりしたら……約束事を守っても、解釈違いで酷い目に遭うくらいだから……」
乾老も渋い表情だ。
彼がアーシャの契約をした相手を知りたかった理由は、それなのだろう。
「藤護の神事に参れば、
譲が聞くと、アーシャの手は迷わず、『はい』を押さえる。
「…………」
長年、悪霊に騙されたり、揶揄われたりしてきた身として、譲はアーシャの中にいる元悪霊を信じ切れていない。
何百年も経た悪霊にとって、数年しか生きていないチビを騙す事なんて、簡単な事だろう。
(でも騙したところで得はないし、チビに何かあれば、中の奴は宿主を失う)
現世で生きている人間の損得勘定を、形なき者にそのまま適用する事はできない。
しかし今は人間的な判断で動くしかない。
「チビ」
譲は少し身を屈めて、真正面からアーシャの顔を見る。
不思議そうに見開かれた緑の目が、真正面から譲を見つめ返してくる。
その複雑な色合いの虹彩は、らせん星雲のようで神秘的だ。
「藤護は危ない」
アーシャはきょとんとしながらも、しっかりと頷く。
「それでも……俺と一緒に行くか?」
それは巫女という存在を通さずに、アーシャの意思を確認するための質問だった。
途端にアーシャのぽやんとした顔つきが、キュッと締まり、グッと真一文字に唇が弾き結ばれる。
「ん!いっしょ!」
そして強い意志のこもった目で譲を見つめながら、アーシャは力強く言い切った。
「………ふーーーーーーーーー」
それを見た譲は深く息を吐いた。
「………行くしかねぇか………」
子供らしからぬ強い意志の灯った目に、そう決定せざるを得なかった。
「いっしょ!?ゼン!?ユズゥ!?」
確認するように聞いてくるアーシャの鼻息は、ふんっふんっと荒い。
譲はその鼻を摘もうとして、
「あうあうあうあうあう」
思い直し、アーシャの癖っ毛を手荒に掻き回す。
「しょーがねぇから一緒に行く!しょーがねぇからな!」
そう譲が宣言すると、わかりやすくアーシャの顔が輝く。
「ん!ん!いっしょ!いっしょ!」
そしてアーシャは、自分の頭を掻き回していた譲の手を、小さな両手でギュッと握る。
(俺一人で守り切れるか……?でも、やるしかねぇからな……)
力強く握ってくる、小さな手の温もりを感じながらも、譲は表面に出せない緊張を感じる。
「良かったですね」
そんな譲に峰子が言う。
「良かった……?」
状態は全く良くないが?と疑問に感じたのも束の間。
「お母さんの初めての不在で、大拒否されるお父さんは肉体的な疲労もあるんですが、実は精神ダメージが一番大きい場合が多いんですよ。お母さんという接着剤がいなくなると、俺はこんなに拒否されてしまうんだって、盛大に傷つくようです」
クスッと小さく笑い声が峰子の鼻から漏れる。
「アーシャちゃんは禅一さんについて行かなくてはいけない事情があっただけで、譲さんを拒否したわけじゃなかったんです」
譲をしっかりと握ったアーシャの手を見る峰子の横顔は、いつもながらの無表情なのに、何故か慈愛のようなものを感じる。
「な、な、なん………」
慌てて振り解こうとした譲の手と、それを握るアーシャの小さな手の上に、ひんやりとした、真っ白な手がのる。
「では張り切って藤護の村にのりこみましょう。私も微力ながら、幼児に手を出そうとする輩をぶちのめし安全確保のお手伝いします」
まるで円陣でも組むようにして、峰子はサラッと宣言した。
ガチャンっとテーブルの向こうで、音が上がる。
「峰子ちゃん!?ちょっと気楽に参加を決めすぎじゃないかい!?」
テーブルに足をぶつけたらしい乾老が、膝をさすりながら立ち上がる。
「一大決心的に決めたわ」
「そう見えないけど!?」
「あら心外」
孫娘の唐突なる宣言に、乾老が焦り、新たなる言い争いが始まる。
「ユズゥ、ユズゥ、いっしょ、ゼン、たのしー!あいがとー!」
アーシャは能天気な笑顔を浮かべている。
上機嫌に鼻唄を歌って、そのまま踊り出しそうな様子だ。
言い争う孫娘と祖父、歌っている幼児。
人数は少ないのに大変騒がしい。
「…………はぁ」
譲はため息を吐いて、アーシャの頭に乗せっぱなしだった手で、もう一度黒い癖っ毛を掻き回した。
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