5.聖女、抵抗する

暖かい家の中が嘘のように、外を吹く寒風は、身をすくめるよう冷たさを日々増している。

まるで氷の破片が風に含まれているのではないかと思うほどの鋭い寒さなので、アーシャは春はまだまだ遠いと思っていた。

『春に『フジモリ』の地で浄化のための儀式があるんだって。これに絶対、何があっても参加すること』

だから、夢の中で『自分』を介して『かの方』とした約束の日が、差し迫って来ているなんて、想像もしなかった。


春とは日差しが暖かく、柔らかな風が吹き、雪が溶け、川が流れ、草が萌え、花たちが一年で最も咲き乱れる季節だ。

少なくともアーシャの中の春は、そんなイメージだ。

『ゼンは全力で私を参加させないようにすると思う。だからゼンを負かすくらい、しっかり駄々っ子できるように、この国の言葉を喋れるようになって』

なんて言っていた夢の中の自分も、かなりの猶予があると思い込んでいたに違いない。



「や!!」

『その時』が来たのだとわかった時、アーシャはその一言しか、意思表示をする言葉を持っていなかった。

「アーシャ、これわしかたなくて……」

鋭く否定の言葉を放ったアーシャに、分厚い紙を持ったゼンの眉尻が大きく下げる。


彼の持った紙には、横に長細い四角が書いてある。

細長い四角は点線で四つに分けられており、その一つ一つに、空を表していると思われる色が塗られ、太陽と月が描かれている。

真っ黒から朝焼け、青空と太陽のシンボル、夕焼け、そして再び黒くなり、月と思われるシンボルが浮かぶ。

これが四つ連続している。

一見して、その細長い四角が、四日の時間の経過を表しているとわかる。


問題はその四角の下だ。

アーシャたちが住んでいる家を、究極に簡単な線画にしたと思われる形の横に、大小二つの人型があり、そこから真っ直ぐに、四日間の終わりまで、矢印が引っ張ってある。

その下にもう一つ大きな人型が描いてあり、それから出る矢印は、すぐに折り曲がって離れ、何やら大きくて立派な建物に行って、四日後に、前の大小二つの人型の矢印に合流している。


少し前までは、ただの丸に手足が生えたような形が人間を表していると理解できなかったアーシャだが、今ではしっかりわかる。

何せ、大小二つの人型には、それぞれ『ゆずる』『アーシャ』、そして一人だけ外れている人型には『ぜん』と書かれている。

間違いようがない。


朝起きて、いつものように身支度を整え、食卓に着いたら、深刻な顔をしたゼンとユズルに迎えられた。

そして朝食を用意するユズルの傍らで、分厚い紙を示したゼンに、これから四日間、別の所に行くと、説明をされたのだ。


アーシャは唖然茫然である。

説明された内容はわかるが、脳が理解を拒否してしまった。

———ゼンハ『かんぬし』カ、ナニカナノ?コレハ『とりい』ダワ

四日間もゼンがどこかに行ってしまう。

それだけで夜道の明かりを奪われたような気分だったのに、アカートーシャの疑問で、更なる事実に気がついてしまった。


ゼンの人型が行く先に描かれた、立派な建物の線画は、かなり簡略化されていて分かり辛いが、アーシャがこの国に来てすぐに行った建物のそれだったのだ。

瞬間、夢の中で交わした約束が頭を過り、「や!」と声を出すことができたのだ。


(いや、違うのかな。ゼンは、あの場所に行くのかも知れないけど、今はまだ全然冬だもん)

否定した後に、アーシャには迷いが生じた。

困り顔のゼンにも申し訳なくて、アーシャは次なる言葉が出せない。

アーシャは一方的に養われている立場なので、寂しいというだけで、ワガママは言えない。


———『せつぶん』ヲコエタカラ、モウハルダヨ

すると、アカートーシャが当たり前のように、そんな事を言う。

「へ!?」

———……?『せつぶん』。シキヲワケルヒダッテイッタヨネ?

———フユト、ハルノアイダノ『せつぶん』ヲマタイダカラ、モウ、ハルダヨ

「えぇぇぇぇ!?」

ある一日を跨いだら、季節が変わるなんて、そんな常識、アーシャの中では有り得ない。


(じゃ、じゃあ今は春で、やっぱり約束の儀式の時なんだ)

こんなに唐突にやってくると思っていなかったので、衝撃だ。

頑張ってはいたが、駄々をこねられるほど言語は上達していない。

まさかこんなに早く約束の日が来るなんて思っていなかった。

だから、まだ『自分も一緒に行きたい』と伝える言葉も調べていないし、言葉以外で、自分の意見を伝える方法も考えていなかった。


『あ〜、あるじ、よーやっと、かみんぐあうとしたか』

『良カッタ。内緒、チョット、気マズイ、カッタ』

どうやって一緒に行きたいと伝えれば良いのかと、グルグルと考えていたアーシャの傍で、呑気にそんな事を言うのは、食卓の上で遊んでいたモモタロ・バニタロの二人組だ。

「【知ってたの!?】」

思わずアーシャの口からは母国語が飛び出す。

言語上達のために、二人と話す時も、この国の言葉を使うようにしていたが、動揺が自制心を上回った。


『じゃってのう』

そう言ったモモタロが視線を送れば、バニタロが鎌首を大きく上下させる。

『我ラ従者、ヌシノ内緒、守ル。当タリ前』

二人の返事は容赦ない。

「【う、う、裏切り者〜〜〜!!】」

せめてゼンがどこかに行くという情報を得ていたなら、春はまだ遠いと思っていても、対策を考えられたのにと、彼らを責めてしまう。


『ん?裏切ってはおらんぞ?』

『バニタロウ、忠義モノ、ダケ』

『妾も超絶忠義モノなだけじゃ!』

そう言って彼らは、お互いの手と尻尾を合わせて、打ち鳴らす。

「うぅぅぅぅぅ〜!」

普段仲良くしていても、彼らは仕えているゼンが一番なのだ。


あっさりと主人を優先させた友人たちに、机に突っ伏して嘆くアーシャ。

「アーシャ、ここに、ぜったいかえる。だいじょーぶ」

彼らの主人は、そんなアーシャの背中を撫で、厚紙の矢印が合流する所を一生懸命強調するように指でなぞる。

「〜〜〜〜…………や!」

ゼンの困り顔を見ると、一瞬抵抗することに迷いが生じてしまうが、アーシャは大きく首を振ることに成功する。


「まいにちでんわする。でんわ。な?でんわ」

困り顔のゼンは『すまほ』を示し、それを耳に当て、アーシャを指差す。

———マイニチ、レンラクスルッテ、イッテルミタイヨ?

毎日『どが』で顔を見せてくれると言うのだ。


『どが』で話すのは、ユズルとはやったことがあるが、ゼンとはない。

「でんあ!………んんんっ、や!」

再び、喜んでしまいそうになるが、アーシャは激しく首を振って、自分を取り戻す。

甘い誘惑に負けてはならない。

何せアーシャは既に約束を交わしているのだ。


「アーシャ、も!」

そう言って、アーシャは厚紙の上の自分を指差し、ゼンと同じ方向に動かす。

通じたかなと思ってゼンを見たら、何故か頬が緩んでいる。

「アーシャ、も!」

これは通じていないなと、アーシャは同じ動作を繰り返す。


「んんんっ!!まけそぉっ!!」

何故かゼンは顔を押さえて丸まる。

「あっさりまけてんじゃねー!」

ユズルがその頭を叩く。


「いーか?チビ。ここわあぶないんだ。あ・ぶ・な・い!わかるか!?」

ユズルはゼンの行く先をポンポンと指差し、真剣な顔で首を振る。

———アブナイトコロッダッテ

アカートーシャが訳してくれるが、『あぶない』はアーシャも実は覚えている。

『ほいくえん』で良く聞く言葉だ。


「ゼン、あぶない!?」

それなら尚更一人でなんて行かせられない。

「あっ」

聞かれたユズルは眉を寄せて、一瞬、言葉に詰まる。

「ゼンわあぶなくない。あぶないのはチビだけだ。チビにわあぶない」

そして苦虫を潰したような顔で告げる。

———アブナイノハ、コチラダケミタイ

アカートーシャの通訳に、アーシャは胡散臭い顔になる。


「えぁ〜?」

アーシャだけ危ないなんて、おかしいではないか。

これはゼンが一人で危険な所に行って、アーシャが匿われる形なのではないだろうか。

「んぎっ!!」

真意を確かめるように、ユズルの顔を下から睨むように見ていたら、不意に鼻を摘まれて、アーシャは声を上げる。


「よっか!よん!これだけだ。チビわおれとるすばん!いーな?」

ユズルは四歩だけ立てた指を見せて、強めに同意を求めてくる。

「や!」

約束を果たさなくてはいけない上に、ゼンが危険かもしれないと分かれば、絶対に着いて行かねばならない。

アーシャは断固として頷かない。


するとユズルは大きなため息を吐く。

「とにかく、チビわるすばん!」

長々としたため息の締めくくりに、ユズルはそう言った。

「や!」

無論アーシャは反対の意を示すが、ユズルは聞かないとばかりに後ろを向いた。


「やっ!アーシャ、も!!」

アーシャは大きな声を出して抵抗する。

しかしいくら言っても、ゼンは困ったように眉を下げるだけだし、ユズルも振り向かない。

『アァシャ、大丈夫じゃ。主は我らが守るゆえ』

『バニタロウ、頑張ル!』

ゼンについて行けること確定な二人は、どこか余裕を感じさせる微笑みで、そう言ってくれるが、納得は出来ない。

目に見えない二人だけが着いていけて、質量を持ったアーシャだけ駄目なんて、おかしいではないか。


「ゼン!アーシャ、も!」

「アーシャわほいくえんもあるからな」

「ほいくえん、や!ゼン!」

「う〜ん、いてもおもしろくないぞ〜」

「ゼン、も!アーシャ、も!」

「おれわいくけど、アーシャわほいくえんだな〜」

必死に頼み込むが、ゼンは頷いてくれない。

困り顔で諭そうとしてくる。


言葉でゼンを納得させるのは難しいようだ。

(……仕方ない……奥の手を使うしかなさそうね!!)

アーシャは首を振って体を起こす。

彼女は日々色んなものを吸収している。

良い事も学ぶが、悪い事だって学んでいるのだ。

この『子供』の姿を使い、自分の意見を通すために有効な手段。

周りを困らせて、我を通す最終手段があるのだ。


アーシャは自分の椅子から下りて、床に転がる。

「…………」

しかし場所的に、ユズルから見えなさそうなので、一度立ち上がって、窓際に寝転ぶ。

そして大きく息を吸う。

「アーシャ、も!アーシャ、も!アーシャ、も!」

手足を水を掻くように動かし、大声で要求を叫ぶ。


(これは意外と恥ずかしい………!!)

『ほいくえん』の子供たちは、『えんてい』など、外に面した場所でも臆面なくやっているが、やってみると、羞恥で声が段々と小さくなっていってしまう。

継続させるのに、中々根性が要る。


チラリと反応を確認すれば、ゼンもユズルもポカンと口を開けていて、全く困った感がない。

初めてなので、本場の駄々っ子のようには、上手く出来ていないらしい。

(ちょっと足と手の動きが揃いすぎているような気がするわ)

『ほいくえん』の光景を思い出して、アーシャは動きを改善する。


「アーシャ、も!アーシャ、も!アーシャ、も!」

今度は中々上手くできたような気がする。

ゼンとユズルが顔を覆って震えている。

(よしよし、困っている、困っている……!あと一押し!)

子供達の動きを思い出して、羞恥をかなぐり捨てて、アーシャは更に体を左右に揺らし、手足を動かす。


「アーシャ、も!アーシャ、も!アーシャ、も!」

トドメとばかりに頑張るアーシャであったが、

「フ………ゥブゥゥウウウウ!!」

「あ、バカッッッッブフゥゥゥゥ!!」

突然、ゼンが空気を破裂させるような音を上げ、続いてユズルが崩れ落ちる。


「へっ!?」

想定外な二人の反応にアーシャは寝転んだまま止まってしまう。

「ご、ごめっふひっひひひひひ!!ひっひっ、ひぃぃぃぃぃ!!」

「ふぐっ…………ぅぅぅふぐぅぅぅうううひひひひっっ!ひっぐ………ぅはははははは!」

ゼンは卓に突っ伏しているし、ユズルに至っては土下座のように床に伏している。

二人とも体が痙攣して、止まらない様子で、苦しそうだ。


「???………???」

アーシャは目の前で始まった大爆笑についていけない。

———ウン。ナレナイコトハ、シチャダメネ

アカートーシャが呆れ気味に呟く。

どうやら不慣れな駄々っ子は、全く別方向に作用したようだ。


『アァシャ、これ以上、主を笑わせたら酸欠になってしまうぞ』

『人間、空気、重要』

手伝ってくれないくせに、タロ組は気の毒そうな顔で、アドバイスしてくる。

「えぇ……」

そんな事を言われてもアーシャは困ってしまう。

絶対に連れて行ってもらわねばならないのに、従者ストップを入れられてしまった。


(ちょっと、ぶっつけ本番は難しかったみたいね……)

———タブン、レンシュウシテモ……ソモソモノ、テキセイガ……

アカートーシャの指摘を流しつつ、アーシャは腕を組む。

これが最終奥義だったのに、通じないとなると困ってしまう。


『アァシャ、暇なら、主の荷物に、妾の刀箱を入れてくれんかの?お泊まりじゃし』

『ア、『もちもち』モ!入レル、願ウ!』

困るアーシャをよそに、タロ組はお泊まり品の要望を出してくる。

何と言うマイペースさだろう。

「むむむむむ……」

質量がないから、同意なしに着いていける、二人の余裕が小憎らしい。


(私だって大きさ的には、そんなに場所を取らないのに……!!)

歯がゆい気分で、そう考えていたアーシャだったが、ふと、ある事を思いつく。

(そうよ!そんなに場所は取らないわ!!)

その思いつきを実行するべく、アーシャは玄関に向かって走る。


思った通り、昨日まで雑に置かれていた、ゼンの荷物が、壁に沿うように置き直されている。

中身の入れ替えがなされた証拠だ。

ゼンの『りゅっく』は大きい。

『ふむ、刀箱はギリギリ入るかの』

『『もちもち』、入ル』

その中は申し訳程度の服が入っているだけだったので、広々とした空間が余っている。

それを見た、タロ組は嬉しそうな声を上げる。


「ない!」

アーシャはタロ組に宣言する。

彼らのお泊まり用品を入れるスペースなどない。

何故ならその空間の使い道はもう決まっているのだ。

『あ、ちょっっ……!アァシャ!刀箱のすぺーすが!!』

『『もちもち』ィ〜〜〜!!』

ズボッと『りゅっく』に足を突っ込んだアーシャに、タロ組は焦る。

「ないっ!ないっ!」

自分以外に入る空間はないと、アーシャは容赦なく宣告しながら、『りゅっく』内で膝を折る。

ギュッと膝を抱えても、少しお尻がつっかえるので、何とか体を揺らして捻り込む。


「………………」

『………それはちょっと無理が………』

『頭、出テル』

胴体は何とかねじ込めたが、肩から上が、どうやっても入らない。

「ふんぬっ!」

それでも何とか膝と膝の間に鼻を押し込み、収まってみる。


「いやいや……はいてねーよ……」

ようやく笑い終わったユズルが、はみ出たアーシャの頭を、ポンポンと叩く。

「ふっ……ふぶぶぶぶっ、あ、あ、アーシャ、あー、じゃ、ふぷぷぷぷっ」

ゼンはもう笑いが止まらなくなってしまっている。


「ホレ、でてこい」

「や!」

ユズルが『りゅっく』に手を突っ込んで、アーシャを取り出そうとするが、アーシャは内部で突っ張る。

結果、『りゅっく』まで一緒に持ち上がってしまう。

「こら!チビ!」

怒られるが、こちらも意地である。


「でーてーこーいー!」

「やーーーー!」

引き抜こうとするユズルに、全力で対抗するアーシャ。

———サスガニ、ソレハムリガ……

『妾、こう言うの、本で見た事がある………抜けないカブを食物連鎖連合が力を合わせて引くのじゃ』

『食物連鎖、違ウ。食ワレル、鼠ダケ。嫁、孫、食ベル、事件』

人外連合は呆れてその様子を見ている。


何とか引っ張り出そうとしたユズルだったが、大きなため息を吐いて、アーシャから手を離す。

(……勝った……?)

少し頭を上げて周りを見ると、肩を落としたユズルが去っていく後ろ姿と、笑いすぎて出てきた涙を拭っているゼンが目に映った。


「アーシャ、ないないなのか?」

まだ声がちょっと笑っているゼンに尋ねられて、アーシャは首を傾げる。

「アーシャ、も、ゼン!」

よく分からないので、とりあえず大切な事を主張する。

「ん〜〜〜、かわいーけど、だめだな〜」

ゼンは大きな手でアーシャの頭を撫でて、手を差し出す。

「アーシャ、おいで」

大きな手が最高の抱っこを提供すると言わんばかりに動くが、アーシャは歯を食いしばって、誘惑に抗い、首を振る。


「ちゃんとかえってくるから。だいじょーぶ」

「ここがあんぜんなんだ。よっかなんてすぐだ」

「いても、ぜんぜんたのしくないから」

「う〜〜〜ん、むらではいっしょにいられないんだ」

説得を重ねるゼンの困った顔を見ると、心が痛むが、アーシャはやっぱり首を振り続ける。


「ほれ、チビ」

そこにお皿片手にユズルが帰ってくる。

「!!!」

彼の手に持たれた皿には、鶏とその他の具が入った、『けちゃぷ』で染められた赤い『こめ』が入っている。

その『こめ』の上で燦然とした輝きを放っているのは、有り得ない分厚さと大きさに焼かれた、楕円形の玉子だ。


「……………」

ユズルは無言でナイフで玉子をつつくと、ぶるんぶるんと分厚さを誇示するように玉子が揺れる。

「は………ぅ……」

食欲に負けている場合ではないのに、口の中に涎が染み出してくる。


アーシャはこちらに来て、半熟玉子の罪深さを知った。

濃厚に舌に絡み、包み込む、あの蕩ける食感。

調味料ともよく混ざり合い、味わい深さを増してくれるのも、半熟の魅力だ。

眼前の楕円の玉子は、スライムの如き揺れで、その中身が半熟である事実をアーシャに告げている。


思わず首を持ち上げそうになってしまったが、騙されるものかとアーシャは慌てて体を小さくする。

「……………」

するとユズルはナイフを玉子の上に滑らせる。

「ふわぁぁぁ〜〜!!」

真っ直ぐに走った切れ目の中から、玉子の皮膜が左右に分かれて流れ、幾重ものレースを重ねたかのような、半熟卵が顔を見せる。


あっという間に半熟玉子のレースが、いかにも美味しそうな湯気を上げながら、具入りの『こめ』を覆う。

少し甘酸っぱい『けちゃぷ』の香りと、優しい玉子の香りが混ざり合い、『さあ召し上がれ』とアーシャを呼んでいるようだ。

「は……はぅ……」

そう言えばお腹が空いていましたとでも言うように、アーシャのお腹が鳴り、鼻が芳香の引力に負け、引き寄せられる。


「よっ………と」

「をあぁぁ!?」

瞬間、アーシャの首根っこが掴まえられ、入っていた『りゅっく』がスポンと引き抜かれる。

『りゅっく』の肩紐の部分に足を引っ掛けて、蹴り飛ばすようにして、脱がされたのだと理解した時には、『りゅっく』は遠くに飛んでいってしまっていた。


片手で皿を持ったまま、アーシャを捕獲したユズルは、

「みのむしほかく。ほれ、だっこしろ」

と、ゼンにアーシャを引き渡す。

「あぁぁぁぁあああ〜!」

手足を動かしつつ、無念の声を上げるアーシャを抱き上げ、ゼンは困った顔で笑う。


こうなれば本体にしがみついてやると、アーシャはゼンに両手両足でこびりつく。

「アーシャ?……う〜〜〜ん…………とにかくごはんおだべよーか」

ゼンとの力比べなんて、アーシャの圧倒的大敗になる。

力の差はわかっていたが、噛みついてでも離れないと覚悟の張り付きだった。


しかしゼンは無理にアーシャを剥がす事なく、食卓に戻る。

「はい、あーん」

そして決死の思いで、彼の服に噛みついていたアーシャの顔の横に、黄金のフリルを纏ったスプーンを差し出す。

「うっ………ぐぅ………!」

顔に当たる優しい温かさの湯気と、少し酸っぱい香りの猛攻に、お腹が大声で鳴いてしまう。

「だいじょーぶ。ごはんだけ」

アーシャは迷いに迷って、噛みついていた服を解放して、差し出されたスプーンをそろりと口に含む。


「んんん!?んんん〜〜〜!!」

以前も食べたことがあったのに、口に入ったそれは、全く別物のようだった。

沢山の具材が入ったご飯は、ふっくらとしていて、『けちゃぷ』味だけではない、旨味が広がる。

(鶏!?鶏の味なのかしら!?)

肉の味のような、肉だけでは説明がつかないような。

そんな味を、もっとよく確かめようと噛むと、

「ん〜〜〜!!」

これまた、ただの玉子とは思えない、濃厚なクリームのような甘みのある味が混ざり込み、震えるほど美味しい。


「おいふぃーーーな!!」

唾液が吹き出して、ジンと痺れる頬を思わず押さえてしまいつつ、アーシャはゼンに報告する。

「はっ!!」

そして嬉しそうに笑うゼンの顔を見て、正気に戻り、慌ててその胴体に腕を巻き付ける。


しかし口の中に入った美味しすぎる刺客を噛まずにはいられない。

「うむうむうむうんっ……はっ!」

噛めば噛むほど味が混ざり合って、腕から力が抜けそうになるので、油断ならない。


———エット……オチツイテ……?

控え目にアカートーシャに注意されつつ、

(だって、このまま『フジモリ』までしがみ着いていくんだもん!腹が減っては戦はできないわ!)

大いに言い訳をしつつ、

「アーシャ、あーん!」

新たなる刺客を迎え入れつつ、アーシャの忙しい朝ごはんは進んでいくのであった。


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