9.聖女、思い出を得る

1.聖女、怪しき儀式に参加する

唯一神を信仰している国でも、昔ながらの土着の風習などというものは、中々廃れないもので、奇妙な儀式などは残っていた。

アーシャの暮らしていた地域では、今では排除されてしまった神に捧げる祈りの言葉も残っていたし、村長が祭司役を務め、束ねた麦藁の周りで男女服装を逆にして踊り回るなど、一見風変わりな儀式もあった。

だからこの国にも、固有の風習があるのは理解できる。


(一体……これはどういう風習なの!?儀式なの!?)

しかし今のアーシャは、自分が置かれている状況に適応できないでいた。

「あーさ!こい!ほきゅーにいくぞ!」

「ルータがおわれてる!!」

いつも賑やかな『ほいくえん』が、今日は一際騒がしい。

アーシャはコータやアキラに呼ばれて、訳がわからないままに走る。


本日の保育園には、見慣れない大人たちが入ってきている。

それだけなら、こんな大騒ぎにならないと思うのだが、やってきた五人の大人たちは、何とも奇妙な装いをしていた。


一番目につくのは、頭から足のつま先まで全身をピッタリと覆う服。

目が痛くなるような赤、青、白、黒、黄色と、色は全員異なるが、形は全て同じだ。

(体に添い過ぎて、皮膚の色が変わったみたいに見えちゃうわ)

その服の上から履かれた、黄色と黒のマーブル模様のスカートも、物凄く奇妙だ。

(こちらでは女性がズボンを履くのだから、男性だってスカートを履くのだろうけど……それにしても野生味が強いスカートだわ)

スカートの生地は上等そうなのに、下の方だけ、わざとのようにギザギザに裂けてしまっている。

野生的ワイルドに着こなすのが男性スカートの流儀なのだろうか。


(しかも何で全員頭が羊の毛みたいになっているのかしら)

五人が五人とも、アーシャの収まりの悪い頭よりも、更にクルクルと渦を巻く髪なので、物凄い違和感だ。

(それにあの仮面!まるでオーガじゃない)

頭から生えた、黒と黄色の縞模様をつけた、牛のような角。

あり得ないほど太く吊り上がった眉。

威圧するように見開かれた目。

存在感のある団子鼻の下に、怒鳴り声を上げそうな形に開いた口。

その下顎から飛び出す、猪にそっくりな牙。

どう見ても人型モンスターの顔だ。


(瘴気が出ていないし……サクラサンが寛いでるから……すっごく変な格好をした大人……よね?)

のんびりと大樹の上に寝そべって、楽しげに庭を観察している老女神の様子から、アーシャはそうやって判断できるが、他の子供たちはそうはいかない。

パニックを起こして泣き叫ぶ者、逃げ惑う者、逆に立ち向かおうとする者。

奇妙な大人たちに追い回され、大騒ぎだ。

いつもは真っ先に助けてくれる『せんせー』たちも笑ってばかりで、何かおかしい。


奇妙な大人たちは、棘のついた棍棒メイスを得物として持っている。

(全体に棘があると逆に扱いづらそう)

子供たちは叫ぶが、アーシャはついついそんな事を思ってしまう。

先端だけに棘があるモーニングスターなら、思った場所だけに効率的な攻撃を与えられそうだが、全体に棘があると、意図しない場所に引っ掛けそうである。

しかもその素材は鉄ではなく、紙だ。

攻撃力皆無だ。


(何で私たちは、あの大人たちに木の実を投げるのかしら……)

紙の武器を持った大人たちに対抗するべく、アーシャたちに渡されたのは、紙の箱に入った木の実である。

網目模様がついた、真ん中にくびれがある少し変わった形の木の実を、アーシャはしげしげと観察する。

形は確かに独特だが、少し香ばしい匂いがするくらいで、特におかしい所はない。

渡される時に口に入れてはいけないと重々注意されたので、毒があるのかもしれない。


(いや、みんな素手で持っているし、毒はないか)

わからない事だらけだが、アーシャはコータに連れられて、アキラに守られて走る。

「ちーさいぐみをまもるぞ!!おにゃそとー!!」

「おにゃそとー!!」

コータの掛け声で子供たちは一斉に木の実を、変装した大人たちに、投げつける。

「ぎゃああー!!」

木の実が当たった大人は、身を捩って苦しむ。


「…………」

アーシャはあまりの苦しみように、木の実を握り締め、振りかぶった状態で固まってしまう。

勇敢に戦う『おおきいぐみ』の子供たちは『ちいさいぐみ』を守るように展開する。

「あーさ!とどめだ!!」

「がんばれ!!」

そして固まったアーシャへの声援を送る。


「……あぁ〜……ん〜……」

青色の人も逃げれば良いのに、頭を庇うような姿勢をしながら、まるでアーシャの一撃を待つかのように、その場に留まっている。

その哀れっぽい姿に追撃を仕掛けられるアーシャではない。

しかし周りは応援するし、青色の人は怖がっているのに、チラチラとこちらを見て、待っているような仕草を見せるので、迷いに迷って、そっと木の実を青色の背中にのせる。


「ぎゃああー!」

痛みはなかったはずなのに、青い人が大声を上げてひっくり返ってしまったので、アーシャは飛び上がる。

「ごめんなしゃー、いちゃー?」

そしてその背中を撫でる。


(ダメージはなさそうなんだけど……やっぱり毒なのかしら!?)

触れて患部を確認してアーシャは焦る。

「あーさ!」

「あーさが!!」

そんなアーシャを青い人は突然抱き上げて、立ち上がった。

周りの子供達が焦ったように声を上げる。


「わはははは!とったどーーー!」

青い人はそう言いながら、アーシャを抱えて走り出す。

もちろん、子供とはいえ、それなりに重いので、そんなに早くはない。

人を抱えたまま全力で走れるのは、ゼンくらいである。

「あーさがさらわれたー!」

「おえーーー!」

子供達がその後を追いかけてくる。


「わ、わ、わ、わふぁっ、ふひっ、あはははは!!」

最初は驚いたアーシャだったが、ゼンの時とは明らかに違う、ガクガクと上下に揺れる抱っこに、そのうち笑いが出てきてしまう。

何故かはわからないが、激しい揺れが、とにかく笑いを誘う。


「ほんとーわ、いたくないから。だいじょーぶだよ」

笑うアーシャに青い人が囁く。

そしてポンポンとアーシャの背中を叩いてから地面におろす。

「いまだっっ!おにゃそとー!」

「おにゃそとー!」

そんな青い人に木の実の集中砲火が襲いかかる。

「ぎゃあああ!いたいいたいーーー!まいったー!」

よく聞けば、痛がり方が少し演技めいている。

青い人は大袈裟に身を縮めながら、走り去っていく。


「かったぞーーー!」

「やったーーー!」

子供達が勝鬨かちどきを上げる。

「????」

皆に保護されるように集団の中に入れられながら、アーシャは首を傾げるしかない。


(もしかして擬似戦闘訓練……なのかしら?)

そう考えれば納得できる。

しかし武器が木の実と言うのが納得できない。

———タブン……『せつぶん』ダト、オモウ

そんなアーシャにアカートーシャが自信なさげに教えてくれる。


(『せつぶん』?)

———ハルナツアキフユ、ヨッツノキセツヲ、ワケルヒ

———ナカデモ、ハルハ、サイセイノキセツ

———イイモノモ、ワルイモノモ、イブキヲフキカエス

———ダカラ、キセツガ、ハジマルマエニ、ワルイ『やく』ヲハラウノ

説明しながらも、アカートーシャは自信なさげだ。

(じゃああの色彩豊かな方々は『やく』?)

———ンンン〜『やく』ノショウチョウノ『おに』……ダトオモウ……タブン

「あぁ」

アーシャは納得して思わず声が出る。

言われてみれば、以前アカートーシャに似た物を見せてもらった事がある。


(『おに』は変な色で、角があって、頭が綿雲で、野生的なスカートを履いているのね)

———エット……ウン。デモ、カミハ……ナンカ、チガウヨウナ……

どうやらアカートーシャの知る『おに』の髪は、羊毛のような渦巻き頭ではないらしい。


よくよく聞いてみれば、今までアカートーシャが黙っていたのは、あまりにも自分が知る『せつぶん』とは違うので戸惑っていたらしい。

まず彼女の時代で撒くのは、『こめ』などの穀物や炒った豆だったらしい。

そして『おに』に象徴される『やく』を祓うための儀式だったが、このような攻撃的なものではなく、神殿関係者や特殊な年の生まれの人が撒いた物を、持ち帰って飾ったり食べたりする行事だったらしい。

因みに、今、子供達の遠投武器と化している木の実は、アカートーシャも知らないとの事だ。


(要するに悪いものを遠ざけて実りの季節を迎える儀式なんだ。うん。結界を張り直して土地に力を与える、豊穣の舞のようなものね)

アーシャはようやく納得する。

『おに』に木の実をぶつけ、撃退する形式になったのは、より『追い払う』ということを分かり易い形にしたのかもしれない。


「あーさ、こわないよー!」

大人しいアーシャが怯えていると思っているのか、コータの弟のルータは震えながらも、手を握ってくれる。

「ん!ルータ、あいがとー!」

こんなに小さいのに、自分も怖いのに、他の子を守ろうとする姿が、いじらしい。


演じているだけの人に、物を投げるのは物凄く抵抗があるが、ルータが本気で怯えているのがわかるので、アーシャも頑張ろうと、お腹に力を込める。

(要はこっちに来ないでと、木の実を当てれば良いわけよ)

思い切り投げる必要はない。


そう思ったアーシャであったが、優しく投げると、木の実は相手に届かない。

奇妙な形のせいか、意外と軽いせいか、風に押されて、全く遠くに飛ばせない。

それならばと、全力で投げても、投げ方が悪いのか、妙な方向に飛んでいってしまう。


「おにゃーそとー!」

そんなアーシャから比べると、コータの投擲とうてきは素晴らしい。

見事に空を切って『おに』に命中する。

他の子の木の実が当たった時は大袈裟に騒いでいるように見える『おに』が、コータのを食らった時だけ「いたっ!」と短い悲鳴を上げる。


「あーさ!こーた!いくよ!!」

アキラは投擲が得意ではないが、それを見事に足の速さでカバーしている。

『おに』に走り寄り、至近距離から木の実を投げつけ、さっと体を翻す様は、獲物を捉える猛禽のようだ。

足の速さに自信のある子たちはアキラを真似て、次々と木の実を放っては身を翻す。

素晴らしい撹乱部隊だ。

「アキア、かこいー!」

アーシャがそう言って褒め称えると、彼女は誇らしげに胸を張る。


コータやアキラたち、大きい子供に守られている小さい子たちは、地面に落ちた木の実をせっせと集めて、補給にあたる。

戦場では戦うことはもちろん大切だが、地面に落ちた弓矢などの資源を拾う事も重要なのだ。

良くわかっている。

(一見遊びのようだけど、戦の心構えが詰まってるわ……!やはり『ほいくえん』侮り難し!!)

大いに戸惑ったが、素晴らしい実りのある一日でもあった。




沢山走って声を出して、心地よい疲れを感じながら、美味しいご飯をお腹いっぱい食べて、ぐっすりと寝て、おやつを食べる。

『ほいくえん』の時間は満ち足りているが、おやつを食べるくらいから、やはり時計が気になり始める。

「ゼン!!」

門に張り付いてお迎えを待っていたら、猛スピードで走ってくる人影を見つけ、アーシャは喜びの声を上げる。

「アーシャ!!」

待ち人は満面の笑顔で応えてくれる。


最近はゼンのお迎えが増えた。

なんでも今は『てすと』という期間で、その間は仕事が少ないのか、早く帰れるらしい。

(やっぱりちょっと顔色が悪い)

しかし仕事時間が短くなったはずなのに、ゼンの目の下には不健康なクマが住み着いてしまっているので、アーシャは心配になってしまう。


アーシャはゼンの首にぶら下りながら、彼が発する神気を取り込み、癒しの力に変えて彼の中に戻す。

(ちょっとずつ、バレないように……)

やってはいけないと言われているのだが、幸いゼンは何も見えていないようなので、心なし体調が良くなった程度ならバレないだろう。


「アーシャ、きょーわおにがきたんだろう?おに、こわくなかったか?」

アーシャの密かな悪事に気が付かず、ゼンはアーシャの頭を掻き回す。

「きょー、おに!……ん〜……」

『おに』に変装した人が担いで走ってくれたこと、みんなで不思議な木の実を投げたこと、コータは投擲が上手だったこと、アキラの足が速かったこと、色々伝えたいのだが、まだまだ言葉が足りない。

言葉で足りないところを、身振り手振りで補足しながら、アーシャはゼンに伝える。


ゼンは拙い話でも、しっかりと聞いてくれて、笑ったり頷いたりしてくれる。

それが嬉しくて、アーシャは覚えたての言葉を捻り出していく。

穏やかな時間は怖いくらい幸せだ。

だからだろうか。

時々、細かな事が不安で仕方なくなる時がある。



「わぁ!!」

今日は珍しくユズルが料理をしていると思ったら、食卓が凄いことになっていた。

こんもりと盛られた、黒、黒、黒。

手掴みで食べられる『のりまき』が沢山並んでいた。

食べ易いからと、時々朝に出てきたのだが、夜に出されるのは珍しい。


しかし今日の食卓に並んだ物は、いつも出される『のりまき』と、豪華さが違う。

いつもはもっと細い『のりまき』で、中心に一つの具が入っている形なのだが、今日のは太くて、何と中心が花になっている。

「しゅごーーー!!」

もちろん本物の花が巻かれているのではない。

五枚の花弁を模した、具で色をつけた、細い『のりまき』が五本巻き込まれているのだ。

花弁の中心のめしべには卵が入り、周囲のガクには細く切った『きゅーり』が挟まっている。

食べ物とは思えない、見事な細工だ。


「しゃけ!にく!………?」

アーシャの前にある『のりまき』は四本。

花弁に見立てられた細い『のりまき』には、一本ごとに、それぞれ違う具材が入っている。

オレンジ、茶色、薄い赤に白っぽい赤の花を、アーシャは一つづつ指差していくが、赤っぽい二本の具材の正体は不明である。

「さけふれーく、そぼろ、さくらでんぶ、めんたいこ!」

すると隣からゼンが補足してくれる。


「きえ〜」

「きれーだな〜」

アーシャは感動しながら、それぞれの皿を見回す。

どうやら花のような細工が施されているのは、アーシャのだけで、他の人たちの『のりまき』には卵や『きゅーり』など色々な物が、みっちりと詰まっている。

———カワイイ……!!

花の『のりまき』はアカートーシャの心にも深く突き刺さったらしく、その感動が伝わってくる。


「…………?」

そんな中、何故かゼンの『のりまき』だけ、謎の茶色い物体と『きゅーり』しか入っていないことに、アーシャは気がついてしまう。

「ほれ」

もっと良く見ようとすると、その視線を遮るように、ユズルがスープと湯気の上がる器を配膳する。

「しゃかな!」

何とも食欲をそそる『しょーゆ』の香りに視線を奪われ、アーシャは胸いっぱいに吸い込む。

最近ではこの香りを嗅ぐだけで、涎が出てくるようになってきた。


「いわし、だよ。よかったな〜」

「んふふふふ」

最初は馴染みがなかった魚にも、今ではすっかり慣れっこである。

肉と違って、小さな骨が入っている事があるのが難点だが、魚は魚でとても美味しい。

「さっさと、くーぞ」

そう言ってユズルも席に着く。

「いたーきましゅ!!」

アーシャは張り切って両手を打ち鳴らし、早速魚に飛びつこうとする。


「あ、アーシャ、こっちから、こっちから」

すると横からゼンが『のりまき』を指差す。

「のいまき?」

食べる順番に指定が入るのは初めてだ。

びっくりしてアーシャが聞くと、ゼンは大きく頷く。


「えほーまき。えーっと、ことしのえほーわ……あっちをむいてたべるんだ」

「???」

ゼンは『どーが』を見たり、音楽を聴いたりできる『すまほ』を覗き込みながら、玄関の方を指差す。

何を言われているかわからなくて、そちらを見ていたら、ゼンがアーシャの椅子の向きを変える。

「????」

こんなことは初めてで、アーシャには意味がわからない。


「どれをたべる?」

そう聞かれたので、アーシャは大好きな『さけ』の『のりまき』を手に取る。

「アーシャ、しーでたべるんだ。しー」

ゼンは口の前に人差し指を立てる。

これは静かにする時のサインだ。

「しー?」

黙って食べるということなのだろうか。

聞き返すと、ゼンは大きく頷く。

そんなことを言われたのも初めてだ。


(アカートーシャ?これって知ってる?)

一応聞いてみるが、

———エホウハ、ワカルンダケド、コレガナンナノカハ……

しょんぼりとした答えが返ってきた。

残る頼みの綱はタロ組であるが……

『バニタロウ、無理。知ル、ナイ』

ゼンの頭から滑り下りたりして遊んでいる白蛇に視線を向けたら、尻尾をブンブンと振られた。

『ん〜〜〜、確か黙って一本食い切るイベントじゃったような……あれ?丸呑みだったかの?』

モモタロもあまり興味のないイベントだったらしく、首を傾げている。


(謎すぎる……)

昼には『おに』に扮装した人に木の実をぶつけまくり、夜には『のりまき』を変な方向を向いて、無言で食べる。

奇妙な風習に戸惑わずにはいられない。

皆が皆、卓ではない方向を向いて、無言で『のりまき』を食べる様は、とんでもなくシュールだ。


「ん!」

しかしこれにも何らかの意図があるのだろうと、『のりまき』を口に入れたアーシャは笑顔になる。

しっとりとした『のり』をぷつんと前歯で断ち切れば、口の中に程よい塩分とほのかな酸味が広がる。

今日の『こめ』はいつもより弾力があって、少し歯を押し返してくるので、噛み心地が良い。


「んふっ」

美味しいのだから、鼻息が出てしまうくらい許して欲しい。

口は閉じているので、喋っていない判定でお願いしたい。

『さけ』は朝ごはんにも良く出るのだが、はっきりとした塩味の、しっとりとした身がアーシャのお気に入りだ。


『のり』は手が汚れないように巻かれている、食べられる紙という認識だったが、口の中で混ざると、なかなか存在感がある。

『こめ』と『さけ』と『のり』。

そこに少し甘みのある玉子と、小気味の良い歯応えをくれる『きゅーり』が入ってくると、更に美味しい。

甘さと塩辛さが引き立て合い、歯応えも大満足だ。

「んふふふふ〜………ん!」

思わず上機嫌な鼻歌が出てしまうが、すぐに喋ってはいけなかったと思い出して、口を押さえる。


「ん?」

そんなアーシャの頭が軽くつつかれ、横に小さな皿が差し出される。

真っ黒な液体の『しょーゆ』だ。

差し出したユズルは、何事も起こらなかったという顔で、再び席に座り、変な方向を向いて食べている。

(………絵面が……酷い……)

美の女神のようなユズルが、卓を無視した方向に向かって、無言で『のりまき』を食べている姿は、無駄に絵になるせいで、返って哀愁のようなものを感じてしまう。


「ん〜!!」

勧められたので、『しょーゆ』を少しつけると、味が大きく変わる。

元の素材の味が変わるわけじゃないのに、少しだけでこんなに変わるのが不思議だ。

(ちょっとづつ、ちょっとづつ)

美味しいので、ついついつけ過ぎるのだが、やり過ぎると、元の味が完全に『しょーゆ』に食われてしまう事を、数々の失敗から学んだので、自制を最大限に働かせる。

美味しい物でも、やり過ぎると美味しく無くなってしまうのだ。


アーシャが『しょーゆ』の量の最適解を見つけつつ、一つ目の『のりまき』を完食する頃には、ゼンたちも食べ終わっていた。

「もーいーよ」

どうやら、変な食べ方をするのは一本目だけらしく、アーシャが食べ終わるまで、同じように変な方向を向いていたゼンが、そう声をかけて、椅子の方向を戻してくれる。

「おいしかったか?」

「おいしーな!かわいーな!」

感想を求められたアーシャは他にも色々と伝えたかったが、言葉として伝えられたのはその二点だけだ。


「ん〜」

アーシャは目の前に山盛りの食べ物を見て悩む。

他の『のりまき』も気になる。

初めて聞いた食材の味が気になるし、肉が入っているやつは絶対美味しいやつだ。

しかし先ほどから芳香を放っている魚も、湯気を上げるスープも気になる。


どれから食べようかと悩むなんて、贅沢な体験する日が来るなんて、昔のアーシャには予想もできなかっただろう。

「しゃかな!」

ここで一番肉々しい物を真っ先に選んでしまうのは、飢えた日々の名残のようなものだ。


(あれ、骨ある!?……魚は美味しいんだけど、骨はなぁ)

フォークで突き刺した魚を見て、アーシャは眉を顰める。

普段はゼンたちが骨を取って出してくれるのだが、それでも思わぬ所から魚の骨は出てくる。

それが今回の『いわし』には丸々残されている。

ゼンやユズルは二本の木の棒『はし』を上手に使って、小さな骨を取り除くのだが、フォークとスプーンしか扱えないアーシャは、手で取るしかない。


そうして骨を取ろうと手を伸ばしたら、隣の大きな手が、防ぐ。

「アーシャ、だいじょーぶ。たべられるぞ〜」

そう言って、ゼンがユズルを指差す。

丁度『はし』で魚を一口サイズに切り分け、上品に食べていたユズルは、挟んだ魚の断面を見せ、骨があることを示してから、それを口に運ぶ。

「ふぉわっ!!」

そして彼は数回噛んでから、あっさりと魚を飲み込んでしまう。

———イワシハ、ホネガヤワイノ。ダイジョウブ

驚きの声を上げたアーシャに、アカートーシャが笑う気配がする。


アーシャはフォークを刺した魚を、スプーンで一口サイズに切り分ける。

(確かに全然抵抗がない……!!)

そしてその柔らかさな手応えに、目を見張る。


「…………ん」

アーシャは一つ頷いて、覚悟を決めて、魚を口に運ぶ。

「んんんんん!!」

瞬間、ふわりと『しょーゆ』の香ばしい匂いが鼻を抜けたかと思うと、トロリと口の中で魚が蕩ける。

信じられないほど柔らかい。

「ほひひー!!」

豚や鶏の肉ではあり得ない、ほろりと崩れる柔らかさと、しっとりと身の中にまで染み込んだソースの味に思わず叫んでしまう。


———ホネマデ、トロトロ〜〜〜!!

『のりまき』にはそれ程衝撃を受けていなかったアカートーシャも唸る旨さだ。

口の中に広がる煮汁にも、魚の旨味が滲み出ている。

骨もポリンとあっさりと砕け、全く口に残らない。

「こえ、しゅき!おいしーな!!」

魚を飲み込んだアーシャは、熱い気持ちを報告する。


(これ、絶対『こめ』に合う!!)

そして夢中で次の一口を放り込み、『のりまき』を齧る。

「ん〜〜〜〜〜!!」

味のついた肉入りの『こめ』の破壊力は素晴らしい。

(美味しいと美味しいで、すっごく美味しいぃぃぃぃ〜〜)

アーシャは昇天せんばかりに、天を仰ぐ。


(『せつぶん』って美味しい〜〜〜最高〜〜〜!!)

奇妙な風習だが、こんなに美味しい物が食べられるなら、毎日やっても良い。

アーシャはホクホクと同意を求めようと、隣のゼンを見る。

「……………?」

そして首を傾げる。


ゼンの皿は既に空になっていた。

その皿には残った汁は透き通っており、油の一つも浮いていない。

全く魚がそこにあった気配を感じない。


(ゼンは魚を食べてない……?)

何故だろうと考えるアーシャの脳裏に、先ほど見た奇妙なゼンの『のりまき』が過ぎる。

(何かの病気で食べられない……?)

そう考えると、ゼンの目の下のクマが、再び急に気になり始める。


ゼンは魚を食べているかもしれないし、『のりまき』も見間違えか、何らかの理由があったのかもしれない。

しかし途端にアーシャは心配になってしまう。

安心できる環境で、心許せる人がいて、毎日色々な発見や学びがある。

そんな光に満ちた毎日だからこそ、小さな影が気になってしまう。


「アーシャ、おいしーか?」

そんなアーシャの視線に気がついたゼンが、ニカっと歯を見せて笑う。

彼の顔には何の不安もない。

こちらの不安の影も照らして消してしまうような明るい笑みだ。


(……何かあっても大丈夫か。何たって私は聖女だもん!)

単純なもので、その笑みだけで、そんなふうに思えてしまう。

手足が随分縮んで、木の実すら真っ直ぐ投げられないほど、体の制御も下手になっている。

しかし身近な人を守るくらいなら、まだまだできるはずだ。

「………おいしーな!!」

アーシャは笑い返して、再び魚を口に含むのだった。


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