6.次男、お迎えに行く
(予想以上に早く終わったな)
時計を見上げて、譲はそう思った。
昼から、二コマ続きで入っている実験は大体の生徒が早めに終わる。
大学の講義は一コマ九十分。
実験は二時間もあれば終了する作業が大半なので、二コマ目は予備の時間も含めているのだが、それにしても早く終わった。
まだ三時前だ。
「譲氏、譲氏、この後時間ないですかな?良い儲け話がありましてな」
手早くカバンに筆記用具などを放り込んでいた譲に、声がかかる。
同じ機械工学科に通う、数少ない女子だ。
数少ない、譲が警戒しない女性でもある。
黒髪を一纏めにした飾り気のない髪型で、服装も全体的に平凡だが、清潔感があり、妙に太い赤縁メガネだけが存在をアピールしている。
「あ〜……」
お迎えの予定は四時なので、一時間以上の余裕は確かにある。
どうしようかと迷った譲の脳裏に、玄関に座って靴を履く、小さな背中が過ぎる。
『いてまーしゅ』
小さな背中の主は、顔をグジュグジュにしながらも、精一杯胸を張って、家から出て行った。
「……今日は止めとくわ」
世の流れに目敏く、金の匂いを嗅ぎつける能力に長け、それでいて利に溺れるのではなく、自分の興味が最優先という、面白い人物なのだが、今日はそれより優先すべき事がある。
返事を聞いた彼女はグフフと怪しい笑みを浮かべる。
「あんだよ?」
カバンを肩にかけつつ、不機嫌に聞き返す譲に、彼女はニヤニヤと笑う。
「学内の女子たちが騒いでおりましたぞ〜、か・く・し・子疑惑!」
ブッと譲は思わず吹き出してしまう。
「そのお迎えを急ぐ父の後ろ姿……確信を持ちましたぞ」
「待て、待て!何だその話!?」
「小児科、子供用品店に出入りする姿を
周囲が男臭い禅一と、女性に追い回されている譲を比べると、後者の方が怪しいという事だろう。
譲は頭を抱える。
隠し子がいるとなれば、近づいてくる女性が激減するであろう素晴らしい未来が訪れそうなのだが、皆が皆、大人しく引いてくれる人間ばかりでないことを、譲は痛いほど身をもって知っている。
子供が邪魔なら排除すれば良い。
まとわりつく人間の中には、そんな病的な結論に行き着く者もいる。
「………儲け話って……」
「わ・た・し・にとっての儲け話」
ククククと悪い笑顔を向けられて、譲は大きなため息を吐く。
「あのチビは俺たちの遠縁の子で、他に引き取り手が居ないから、禅が引き取ったんだ」
「ふむふむ、あの兄君ならやりそうな事ですな」
学科が違えど、禅一は目立つ。
息を吸うように人に手を貸しまくっているので、何となく人の良さは伝わっているのだろう。
ニチャァと彼女はいやらしい笑みを見せる。
「実は譲氏に、ある美術教室でモデルをしてほしいという依頼がありましてな。服着用・お触り・お喋りなしの一時間。……噂の訂正、致しますか?」
「…………訂正してくれ」
頭を抱えたい気分だが、噂は尾ヒレがつきまくって別の生命体になることもあるので、早目に苦渋の決断を下す。
「まいどあり〜!」
底抜けに明るい声に見送られながら、譲はお迎えへと向かう。
(クソッ)
心の中で毒づくが、学内で知り合いを増やすと絡まれる確率が上がるので、ほぼ人付き合いをしていない、人脈人望皆無な譲に噂の訂正などできない。
(だからチビを育てるなんて厄介なんだよ!)
内心で文句を言いまくりながらも、放置はできない。
一時間くらいの余裕があるが、さっさと引き取って、さっさと家に帰るに限る。
歩きか自転車が移動手段である禅一に対して、譲は車が多い。
ついてくる人間を振り切るためだ。
「クソが。死んでんのか生きてんのか、もっとはっきり主張しろ!!」
譲はフラフラと道路を横切る、この世に在らざる存在に毒づく。
禅一が一緒でない時は、飛び出してきたのが
迷わずアクセルを踏み続けるが、在らざる物の上を通過したあたりで、その足に、白い手が絡み付いて、不快な生温かさを持ったナメクジのような感触が、肌の上をネットリと滑る。
「………っ」
譲は思わず声をあげそうになったが、グッと堪えて、前方を睨みながら、呼吸を整える。
抵抗なしと見た白い手は、脛を這い上がり、やがて太ももに到達し、その頃にはズルリとハンドルの下から、腕につながった真っ黒な髪が出てくる。
「生きてても、実態がない奴はお断りだ!!」
ちょうど赤信号に引っかかった所で、一応サイドブレーキを引いてから、譲は氣を込めた拳で這い上がってきた影をぶん殴る。
柔らかい水袋を突き破ったような感触と共に、ニタニタと笑っていた赤い唇が、絶叫を放つ形に開き、声にならない悲鳴を上げて消えた。
「へぇ……効果覿面だな……」
消える瞬間に見せた、苦痛に歪んだ顔にも、譲は同情する気分にはならない。
これこそ譲が他人から思いを寄せられたくない第一の理由なのだ。
簡単に言えば、満たされぬ執着の煮凝り。
それが今のような『生き霊』だ。
執着を持てば誰でも出せると言うものではなく、思いが強ければ生み出せると言うものでもない。
しかし経験上、所有欲が強く、偏った『正しさ』を盲信する厄介なタイプが、現世の体を脱ぎ捨ててまで、こちらを手に入れようと憑いていくる事が多い。
生き霊なんて法で取り締まれるわけもないし、その被害は他の人間には見えないので、ひたすら自衛をするしかない。
厄介すぎる相手だ。
今回は不穏な噂に刺激されて、我こそが正式な所有者だという思いでついて来たのだろう。
(だとすると相手は大学の奴か)
早目に噂の訂正が進む事を願わざるを得ない。
生きていようと、死んでいようと、生き霊だろうと、自分の欲だけをぶつけてくる相手は迷惑以外の何者でもない。
「気持ち悪りぃ」
吐き捨てるように言ってみても、肌の上を滑った悍ましい感覚は中々消えない。
最悪な気分のまま、保育園につき、譲は車から降りる。
幸い、この時間にお迎えに来ている保護者はいない。
インターホンを鳴らし、一時間早いお迎えを詫び、中に入ると、珍しく園庭には誰も出ていない。
(いつもより静かだな)
静かではないが、いつものようなやかましさはない。
「失礼します。お迎えに来ました」
そう言って保育室のドアを開けたら、「お帰りなさい!」と言いつつも、保育士たちは忙しく動き回っていた。
布団をたたみ、各自の棚に戻し、小さなテーブルを出している。
(しまった、ちょうど昼寝が終わったあたりか)
来るタイミングが良くなかったと思ったが、今更どうしようもない。
迷惑にならないように、さっさと撤収しようと思ったのだが、肝心のチビ助は、床に座って、ウトウトと船を漕いでいる。
いつぞやは時間に合わせて帰り支度をしていたが、流石に一時間も早くてはそんな事をする暇もなかったのだろう。
本人の回収は最後にして、譲は持ち帰る荷物をまとめる。
「藤護さん、すみません。今日、私が目を離している時に、アーシャちゃんがお友達に噛みつかれてしまって」
そうやって頭を下げて来たのは、三歳児以下のクラスの担任である赤松先生だ。
「少々噛み癖のある子で……何故か好きな人ほど噛むので、あまり関わりがなかったアーシャちゃんなら大丈夫だと油断してしまいました。血は出ていないんですが、人差し指が少し剥けて噛み痕がついてしまって……本当に申し訳ありません」
「はぁ」
深々と頭を下げられて、譲は間の抜けた返事をしてしまう。
一緒に育ったのが血みどろ上等の喧嘩ばかりするような禅一だったので、噛みつかれたくらいで、と、戸惑ってしまったのだ。
噛まれたという本人は目を閉じて、呑気にうつらうつらと揺れている。
痛がるそぶりは全くない。
「まあ、そんな大した怪我じゃないみたいなんで。チ……アーシャが馴染んでいるようで安心しました」
そう答えると、赤松先生のすまなそうな顔がパァッと輝く。
「そうなんです!アーシャちゃん!すっかり馴染んでくれて。もう他の子の面倒なんかも見てくれるんです!お手々を洗いにいく時なんて、他の子たちと手を繋いで、水場に連れて行ってくれるんですよ!」
その笑顔にお喋り好きのおばちゃんの影を見る。
「それに寝かしつけでも大活躍で!すごく綺麗な子守唄で、他の子をポンポンして寝かしつけてくれるんです!もう可愛いわ癒されるわで、麗美先生なんて、子供たちと一緒に寝かしつけられかけたんですよ!ね!麗美先生!」
小さなお皿に半分に切ったバナナをのせて回っていた、若い方の保育士は、恥ずかしそうに微笑む。
(パイプ椅子の人だ)
そのおっとりとした笑顔に、園児を守るために果敢にパイプ椅子を振り回した面影はない。
「すごく綺麗な子守唄で、癒されてしまいました」
そう応じながらも、彼女は手を止めない。
バナナを配り終えたら、次は床に転がっている子供達を回収して、椅子に向かわせる。
とても仕事熱心な人だ。
この前の事からも、彼女は若いながらも信頼のおける『先生』のようだ。
警戒しないで、ただの保護者として向き合える相手であることは、譲にとってかなり助かる。
「アーシャちゃん、お迎え来ちゃったからバナナは持って帰ろうか」
「ん………?」
「バナナだよ、ば・な・な」
「………ばばば………?」
「ば・な・な」
「ば・ば・ば」
まだ目が開いていないアーシャと、そんな微笑ましい会話をしている。
そんな二人の会話に赤松先生の目尻も下がっている。
「うふふ……アーシャちゃん、すっごく美味しそうに給食も食べてましたよ。あんまり美味しそうに食べるから、普段食が細い子も、つられてしっかり完食してくれて!……うふふ、アーシャちゃん豚汁大好きなんですね。最後はご飯をお汁に入れて、ねこまんまにして……っぷ、て、天に昇りそうなポーズで………グフっ……し、失礼っっ」
そこまで言って何かを思い出したらしく、赤松先生は背中を震わせて喋れなくなってしまう。
どうもかなり愉快なポーズを決めつつ、食事をしていたらしい。
(今日の給食は……ミートボールと玉ねぎのテリヤキ風と、豚汁だったか……どっちも肉入りでチビが喜びそうなモンだ)
色々な物を片付けつつ、譲は配布されている献立表を思い出す。
アーシャなら大喜びして食べたことが予想できるメニューだ。
(一体どれだけ騒がしく食ったんだ)
未だ赤松先生はヒーヒーと笑いを噛み殺すのに必死だ。
(食わせてねぇみたいじゃねぇか)
呆れつつ、譲はアーシャに歩み寄る。
ラップに包まれたバナナと、画用紙を持ったまま、まだ小さな頭がフラフラと彷徨っている。
開けたいのに開かない目が、遮光器土偶のようになっている。
「ん?」
バナナはわかるが、画用紙は何だろうと覗き込み………譲は止まった。
それは折り紙とクレヨンで描かれた絵だった。
中心にいるのは二色の折り紙で作られた、二人の人物だ。
褐色肌の方は、ごん
折り紙は中々上手に切っているが、その上から描かれたクレヨンの線は、曲線がうまく書けないようで、色々酷い。
褐色肌の方は『汚れが目立たない』との理由から禅一がよく着ている黒い服が描かれているのだが、トゲトゲしい色塗りのせいで、
白肌の方は複雑な服の形を線画で表現しようとしたようだが、胴体が別の生き物に寄生されているようにしか見えない。
二人の目は吊り上がった三角だし、吊り上がった口から覗くのはサメのような歯だ。
折り紙で作れなかった指も、クレヨンで付け足されているのだが、二体とも見事な
これだけでも立派な悪鬼だが、更に悪いことに、アーシャにしか見えない氣までもが書き込まれ、二人からは謎の刺々しい物が吹き出している。
(禅に比べたら俺のほうがかなりマシだけど、コレじゃ俺が使い魔みたいに見えるじゃねぇか)
その上、何の意図か、二人の周りには、不気味な物も色々と浮かんでいる。
四つ足の、恐らく豚や牛と思われる動物と真っ赤な肉がセットで描かれ、鶏っぽい菱形の生物から直接目玉焼きっぽい多角形が産み出されている。
(こっちはうんこ……じゃなくて唐揚げか?)
何故、生前の姿と一緒に描くんだと盛大につっこみたいが、鶏と茶色の塊も描かれている。
邪悪な一枚に、譲が声を出せずにいると、麗美先生が気遣わしそうな視線を向けてくる。
「あ……あの……節分の絵の予定だったんですけど、アーシャちゃんにはわからなかったみたいで、大好きなお兄ちゃんたちを書いてくれたみたいなんです。で……えっと……他の子が鬼の絵を描いていたので、合わせてちょっと怖くしちゃったみたいですね」
一生懸命なフォローが、逆に心苦しい。
差し出された連絡帳を受け取りつつ、譲は何とか笑顔を取り繕う。
「あはは………どうも、曲線を書くのが苦手みたいで」
口の端が引き攣るのは勘弁してほしい。
「あぁ、だったら、幼児向けのドリルがオススメですよ!曲線を書いたり、グルングルン円を書いたりする練習ができるんです。最近は百円ショップとかにも置いてありますから。是非お兄ちゃんと一緒に……」
笑顔で説明していた麗美先生の声が途切れる。
その驚いた視線が譲の右下に固定される。
「ん?」
それに釣られて視線を落とすと……そこにはカッと目を見開いた遮光器土偶。ではなく、アーシャがいた。
「…………チビ?」
極限まで目を見開いてプルプルしている姿に、譲は首を傾げる。
「…………ゆずぅ…………」
「おう。迎えに来たぞ、チビ」
呟くように呼ばれたので答えたら、みるみるうちに小さな下瞼に水が溜まって、あっという間に氾濫した。
「うわっ」
吹き出す涙に譲が仰反るより先に、どしんと小さな体が突進してきた。
「ゆずぅ!ゆずう!よじ!ゆずぅ!よじ!」
べしっと胸に張り付いて、やかましく騒ぐ。
「俺は四時じゃねぇよ。ちなみに今はまだ三時だ」
しゃがんだ状態では至近距離からの突進に耐え切れず、尻餅をついてしまい、譲は不機嫌に言う。
「ゆずう!ゆじゅうぅぅぅ!!」
しかし譲のツッコミなど、アシャの耳には入っていない。
グシュグシュと鼻を鳴らしながら、容赦なく涙を服に擦り付けてくる。
「はぁ」
譲はため息を吐いて、先ほど受け取った連絡帳と、アーシャが投げ捨ててしまったバナナを荷物に入れる。
「あ、絵は掲示しますので」
呪われた絵はそう言って麗美先生が引き取ってくれた。
「ふふふ、お兄ちゃんをずっと待っていたんですよ」
そう言われてしまうと、無理に引き離す事なんてできない。
(どうやってコレをチャイルドシートに載せるんだよ)
譲はもう一度深々とため息をついたが、とりあえずはコアラのようにアーシャを腹に貼り付け、オヤツに忙しい保育室を辞すのであった。
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