2.長男、登学拒否する
「講義を詰めすぎるんじゃなかったなぁ」
洗濯カゴを抱えた禅一は、朝からもう何度目かのため息を零す。
「それはもう聞き飽きた」
その後ろをフローリングワイパーをかけている譲が、うんざりした顔で通り過ぎる。
「………なぁ、あれだけお金が入ったから、後期は少し単位を落としても良いと思わないか?」
そしてそんなことを言い出した兄に、心底軽蔑した眼差しを向ける。
「あ・の・な、確かにあれは大金だけど、言うてサラリーマンの平均年収程度だからな!?無駄遣いできるほどの金じゃねぇの!後々のチビのためを思うならしっかり勉強して奨学金を取ってこい!」
そう言われて、禅一はトボトボと洗濯カゴを戻しに行く。
「わかってるんだけどさぁ……はぁ〜〜〜俺ももうちょっと頭の出来が良かったらなぁ……」
ついつい言っても仕方ない願望が口から漏れる。
彼らの大学では奨励生という制度があり、成績上位者のみが返却不要な奨学金を受けられる。
これに禅一と譲は食い込んでいるわけなのだが、元々頭の出来が良い譲と違って、真面目に授業を受けるだけが取り柄の禅一は、できるだけ沢山の教科を履修する事で点数を稼いでいる。
配点の高い『秀』を効率よく集められる譲は、常識的な履修数で成績優秀者になれるのだが、得意科目でも『優』が精々の禅一は、細かい点数を山のように集めるしかないのだ。
洗濯カゴを戻した禅一は野菜を洗い、食材を刻む。
「慣らし保育がたった二日で、連休挟んで、今日からフル保育って……アーシャが可哀想で……」
「フルじゃねぇだろ。俺が終わり次第迎えに行くんだから」
「ほぼフルだろ………迎えに行った時、たくさん褒めてやってくれよ?」
「……………」
譲は聞こえないふりで階段周りの掃除に向かってしまう。
「おぉ〜〜っい」
しつこく追撃するが、譲はあからさまな無視で対応する。
禅一は大きくため息を吐く。
元々愛想なしの譲だが、外では特に愛想がない。
それは知らない相手から話しかけられ難くする譲なりの防衛術なので強要はできない。
「……家に帰ったら甘やかしてやってくれよ〜〜?」
しかし休みの間、ずっと一緒だった妹が、禅一は心配でならない。
小さく切ったベーコンをアルミホイルの上に並べて、トースターで焼き、洗ったレタスを皿に盛り付ける。
水を沸かした小鍋に切ったピーマンを入れて茹でる。
ケチャップにチューブのニンニクと塩胡椒でほんのり味をつけてよく混ぜ、パンに塗る。
「は?禅、何やってんだよ!?」
掃除道具を片付けてきた譲が小鍋を覗き込んで、柳眉を逆立てる。
「あー………ピーマン茹でてる」
「何で歯応えが悪くなるようなことをわざわざしてんだ!?」
「大丈夫だ。茹でてるのはアーシャ用だけだから」
「はぁ!?」
譲は全く理解できないという顔だ。
「ピーマンって茹でると苦味が抜けて、食べられるようになる子もいるらしいんだよ。これで成功したら、ちょっとづつ茹で時間を短くして慣らしていったら良いだろ?」
「へぇ……」
小鍋の中でグルグルと回っていた細切りピーマンを、菜箸で捕まえた譲は、手の上にのせて、少し冷ました後に口に入れる。
「どうだ?」
「………歯応えがグジョグジョしてて気持ち悪りぃ」
ものすごく嫌な顔で答えられる。
生ピーマンもボリボリ食べる譲には耐えられない食感だったらしい。
「まぁ……食感はこの際、仕方なくないか?」
タイマーが鳴り始め、禅一は小鍋を火から下ろす。
そして自身も細切りを一本手に取って、口に放り込む。
「……………うん。ピーマンの個性が消し飛んで、食感もクソもないが、少し甘みが出て食べやすい……かもしれない」
農業をやっていた祖母のおかげもあって、禅一たちには、野菜の好き嫌いがない。
故に茹でたそれが、食べ易くなったのかどうかの判定ができない。
「……………」
「……………」
兄弟は無言で見つめ合う。
「どう思う?」
「どうって……食わせて反応見るしかねぇだろ」
作ったものが美味しいという確信ができないまま、兄弟は準備を進める。
「……チーズ、分厚くしてみるか」
「流れ落ちない程度にしとけよ」
そうして作成したピザトーストをトースターに放り込んで、禅一はアーシャを起こしに向かう。
今日もアーシャは元気な寝相で、禅一が起きた時は枕の方に頭があったのに、今は足が枕に鎮座している。
ペリッと布団を剥がすと、両手を上げて、ドラミングする瞬間の子ゴリラのような姿が現れる。
「ぷっ」
突然明るくなったせいか、子ゴリラは眉間に皺を寄せて、芋虫のようにウネウネと動く。
眠っていてもアーシャの反応は愉快だ。
「アーシャ、おはよ!」
そう声をかけると、目をシパシパとさせながら、何とかアーシャは目を覚ます。
「ん………………ゼン……………おはよぉ」
頭をガクンガクンと揺らしながらも、頑張って起き上がる。
昨日は回転寿司屋で寝てしまって、お風呂に入れても起きなかったくらい疲れていた。
まだまだ眠いのが見て取れるが、それでも梅干しのように顔をシワシワにしながらも起き上がるから健気である。
「ちゃんと起きて偉いぞぉ〜〜」
だから禅一は、抱き上げて、しっかりと褒める。
「ふひひひひ」
すると寝ぼけながらもアーシャは嬉しそうだ。
がっしりとしがみついてくる小さな手足に、全幅の信頼を感じる。
(あぁ〜〜〜これから預けられるって知ったらどうなるんだろぉぉぉぉ)
罪悪感も相まって、禅一は全力でアーシャを可愛がる。
アーシャは『朝はこうするんだよね!』とばかりに、誇らしげに顔を洗ったり口を濯いだりする。
一回一回胸を張って、渾身のドヤ顔をするので、禅一の頬は緩みっぱなしだ。
引き取って、まだそんなに長い時間が過ぎたわけではないのに、アーシャの成長は目覚ましい。
そんなに頑張らなくても良いのにと思うと同時に、頑張っている姿を全力で応援したくもなってしまう。
(大人は矛盾が多いなぁ)
禅一は苦笑する。
「ゆずぅ!おはよぉ!」
朝の挨拶も、もう完璧だ。
「………はいはい、おはよーさん」
唇から抑えきれぬヨダレが溢れ出しているが、それすら消化器官が元気で大変よろしいと、禅一の頬は緩む。
塩対応が基本の譲も、何だかんだ愛嬌のあるアーシャを可愛がっている。
「ほいよ」
ヨダレを拭いて、食卓につかせ、用意してあったベーコンとレタスの簡単サラダを出す。
ちょうど焼き上がったピザトーストと、湯を注ぐだけのコーンスープも出して、いざ朝食となると、迷わずトーストに飛びつこうとする肉食のアーシャを、譲は制する。
さっとトーストの皿を引いて、サラダを押し付けたのだ。
「譲〜〜〜!」
がっかり顔のアーシャの代わりに禅一が抗議するが、譲は涼しい顔だ。
「食べる順番は自由で良いだろ?」
小声で言い募ると、
「まだ
と、簡単な返事が返ってくる。
厚めにチーズをのせた熱々トーストで、火傷しないための配慮だったらしい。
やっぱり表には出さないが何だかんだと気を遣っているのだ。
「…………あんだよ?」
「ん?」
「何をニヤニヤしてんだよ?」
微笑ましく思っていたら、どうやら顔に出ていたらしい。
不機嫌な絶対零度の視線が突き刺さってくる。
「あ〜〜〜………仲良き事は麗しきかな、と」
そう言うと、視線の鋭さが増す。
(いつからこんなツンツンし出したのかねぇ)
藤護に引き取られて、禅一が鍛錬に引きまわされて、コミュニケーションが取れなくなった間に、すっかりやさぐれてしまった気がする。
(アーシャ効果で、もうちょっと昔みたいになると良いんだがなぁ)
シャクシャクカリカリとサラダを頬張るアーシャを観察しながら、禅一はスープを飲む。
アーシャはいかなる時も素直だ。
(あ、今、ベーコンを噛んだな)
と、表情を見ているだけでわかってしまう。
レタスを全く嫌がっていないこと、マヨネーズがかなり気に入っていること、やはり肉が一番なこと。
色々と手に取るようにわかって、観察しているだけで楽しい。
トーストを手に取って『これは美味しいですね。わかってますよ!』とばかりの謎のドヤ顔見せていたかと思ったら、
「んんんんん〜」
カッと目を見開いて、夢中で咀嚼を始める。
食事をするだけで、こんなに表情豊かな
ピザトーストも大変気に入ったらしく、ものすごい勢いで口を動かしている。
頬袋にひまわりの種を詰め込むハムスターに、勝るとも劣らない早さだ。
「ブレイクブレイク」
水分も取らずに、どんどん食べ進めるため、禅一はスープを掬って、アーシャの口元に持っていく。
すると獲物を飲み込むカエルの如き機敏さで、それをアーシャは咥える。
「おいひーにゃ!」
あまりの素早さに思わずビビってしまったが、幸せそうに笑われると、こちらも笑顔になる。
「よく噛むんだぞ」
そう言って撫でると、もっと撫でてくれと言うように手に擦り付いてくる。
愛嬌の塊のような子だ。
「ん?」
ニコニコと笑って食べていたアーシャが不思議そうな顔をして止まる。
彼女はじっと自分が齧りとった部分を見つめる。
そこには緑色の紐……ではなく、細切りした上に煮られたピーマンが顔を出している。
「「!」」
遂に煮ピーマンが試される時が来たようだ。
マイペースに食事をしているように見えていた譲と、アーシャの観察に余念がなかった禅一は同時に反応した。
アーシャは二人の緊張には気が付かず、もぐもぐと口を動かし続け、
「んふっ」
と幸せそうに笑う。
そしてゴクンと飲み込んでから、禅一たちが見守っていたことに気がついて、首を傾げる。
「アーシャ、偉い、偉い!」
ピーマンを見事に克服したアーシャを、禅一は手放しで褒める。
アーシャは突然褒められて意味がわからない様子だったが、すぐに嬉しそうに笑う。
「んふふふふふ」
頭を撫でる禅一の手に、気持ちよさそうに目を細めながら、アーシャはご飯を続ける。
ピーマンの味を誤魔化せとばかりに、大量に入れていたウィンナーのスライスを食べると、激しいヘッドバンキングを始め、今日も絶好調だ。
この小さな体で、よくぞこれだけ食べるなと感心してしまう。
ご飯を終えたアーシャはポコンと出たお腹を満足そうに撫でてから、自分の皿を真剣な顔で流しに運び、言わずとも洗面所に行って歯磨きの準備を始める。
洋服を持っていくだけで、お着替えも始めてくれる。
完全に朝のルーチンを理解して、一つ一つ誇らしげに、そして楽しそうにこなす姿に、禅一の胸は再び痛み出す。
(こんなに楽しそうにしてるのに、今日は保育園だって言い難い……!!)
そう思いつつ、登園の荷物を入れたリュックを手に、楽しそうにクルクルと洋服の裾を広げて回っているアーシャに近づく。
「アーシャ……えっと……」
笑顔を曇らせたくない。
泣かせたくない。
悲しませたくない。
そんな気持ちで声をかけた禅一だったが、アーシャはあっさりとリュックを受け取り、下から笑いかけてくる。
それどころか、禅一の気持ちを察したかのように、こちらの足を撫でてくる。
(こんなにちっちゃいのに………健気!!)
禅一は堪らなくなってアーシャを抱きしめる。
そして意外と保育園に抵抗を感じていないことに、安心する。
(まぁ保育園には峰子先生もいるし。安心できる場所ってわかってるんだな)
早々の独り立ちは少し寂しい気もするが、自立とは心の拠り所を増やしていくことだと聞いたことがある。
これも素晴らしい成長だ。
「今日のお迎えは四時。よ・じ。………わかるかな?今は八時ちょっと前で、ここから九、十、十一、十二、一、二、三、四。で、四時だ。お迎えには譲が行くから。ゆ・ず・る、ね。四時に譲」
もう必要ないかもしれないと思いながら、禅一は今日のお迎えに行く時間を教える。
出発の時間と、お迎えの時間の時計を書いた紙と、部屋の時計を指さして説明してから、アーシャの顔を見て……、
「えっっ」
禅一は息を呑んだ。
緑色の瞳が、限界まで溜まった涙に歪んでいる。
「………ふぐっ……」
泣き声が出そうになった口は、真一文字に引き結ばれる。
そして縦に潰れてしまいそうなほど、顔を皺だらけにして、アーシャは嗚咽を押し殺す。
しゃくり上げるのを無理に堪えようとして、フゴッフゴッと子豚の鳴き声のような音が出る。
「アー……」
声をかけようとしたら、アーシャは大きく頭を振った。
「……っぅぐっ……じょぶ……だいじょぶ……」
そしてそう言ってから、何度も大きく息を吸って、更に耐える。
真一文字の唇は何とか笑おうとして、失敗して、大きく曲がる。
(あぁもう……!そんな簡単なもんじゃないってわかってたはずなのに……!!)
うっかり大丈夫だったと安心してしまった己の観察眼のなさに、禅一は歯噛みする。
「………アーシャ……ごめんな……」
精一杯の我慢に気がついてやれなかった禅一はアーシャを抱き上げる。
小さな背中をポンポンと叩くと、大きく震える。
食い込めとばかりに押し付けられる小さな頭が、切ない。
「……っっぅ……よじ……あとはいしょ」
自分に言い聞かせるような呟きも、切ない。
「お迎えは四時。あとは一緒」
そう言いつつも、自分の講義が終わる時間は五時過ぎだ。
終わり次第、光の速さで帰ってこようと思うが、それまでアーシャが待っていると思うと、我慢できない。
「………譲、やっぱり俺、休もうかな〜〜〜」
「寝言をほざいてねぇで、とっとと行ってこい!」
再び泣き言を漏らした禅一が、譲に蹴り飛ばされたのは言うまでもない。
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