8.聖女、『日常』を知る

1.聖女、同居人を得る

枯れ果てた草。

乾ききった土。

座る気力すらなく、地面に転がった人間。

木だけで作られた家々は、中途半端に壊れていて、壁や屋根が力づくで剥がされたような状態になっている。

(…………?)

気がつけばアーシャは、そんな荒れた土地を歩いていた。


右手には簡素な杖。

左手では沢山の小さなベルがついた神具がシャラシャラと涼やかな音を立てている。

こちらの国に来てすぐの頃に見た神具にそっくりだ。

身につけているのは、この国の民族衣装と思われる、少し汚れた白い上着と、赤色のスカートだ。

足元には草を編んだ、サンダルのような物を履いている。


頭から被る薄い布越しに、どんどん苛烈さを増していく太陽を見上げた。

……と思った次の瞬間には、どこかの建物の中にいた。

(あ、これ、『私』じゃない)

全く知らない景色、衣装、体を包む熱が質量を持っているかのような空気、急に変わる場面に、アーシャはそう気がつく。

(誰かの記憶か、夢に紛れ込んだのかしら……?)

そんな事を考えているうちに、目の前に平伏する男女と子供が現れる。


「日が照り続け、二月ふたつき以上雨が降らず、川の水も絶えてしまいました」

先程道に転がっていた人間とは異なり、整った衣服の男が、そう話し出す。

その横の女性も、少し疲れた顔をしているが、外の人間ほど酷い状態ではない。

しかし彼らの子供と思われる三人の子供は、痩せ細り、焦点が合わない目も虚ろで、あまり栄養が取れていないようだ。


「我らも備蓄を出し尽くしましがたが、もう打つ手がございません。村では死んだ子の肉を泣きながら父母が貪る始末でございます。……どうぞスイジンの勧請を。絶対に後ほどご恩返しさせていただきますので」

地べたに頭を擦り付け、いかにも誠実そうに男は言う。

彼の妻と思われる女性も一緒に頭を下げる。


「……スイジン様を勧請することはできませんが、この土地に生まれつつある神に来ていただきましょう。まだ力は弱くいらっしゃいますが、真摯に祀ることで遠くなくシンカクを得て、恵みを下さるでしょう」

アーシャの入った体から出た声は、凛とした口調ではあるが、まだまだ幼さの残っている。

『彼女』はまだ少女という年頃、少なくとも、まだ十代であるように感じる。


(ダメダメ!よく見て!)

アーシャは声を上げたつもりだったが、その警告は音にならない。

(さっき外で見た人たちを思い出して!この人はおかしいくらい元気だよ!それにこの気配……絶対に魔法使いよ!!絶対碌でもないことを考えてる!)

それでも懸命に訴えかけるが、アーシャの声は空気を震わせる事ができない。


ならば何とか心に直接語りかけられないかと念じてみるが、そうそう上手くいかない。

代わりに『彼女』の記憶だけが少し垣間見える。

彼女は歩きミコ。

教会に属しない神職者のようだ。

行く先々で人々たちのために神を降ろし、祀る方法を教え、恵みをもたらしている。


ミコとは聖女に少し似ているかもしれない。

聖女は後々栄える方法などは教えないが、農地を巡り、土地に力を与えるという仕事があった。

神気を大地の奥深くから呼び起こし、その地に宿らせるのだ。

しかし教会からの命令で渋々仕事をしていたアーシャとは違い、『彼女』は誰から命令されたわけでもなく、己の信念と慈悲深さから、人々のために誇りを持って、自ら尽力している。

アーシャと比べると、数倍素晴らしい志の持ち主だ。

しかし真っ直ぐすぎるせいで、人々の中に流れる汚濁には疎いようだ。


『彼女』は山の麓を神の住まいと定め、そこで『神』を降ろす。

(……凄い密度の神気だ……)

彼らが『神』と呼んでいるものは、眩いほどの神気の塊だ。

『彼女』の体の中に入った神気の塊は、そのまま『ゴシンタイ』という神具のような物に移される予定だったが、その儀式の最中に彼女は囚われた。

真っ黒な呪いの鎖に幾重にも包まれ身動きが取れなくされたのだ。

自分の身に降ろした神気を解放することもできない。


一体我が身に何が起こっているのか理解できぬまま囚われた『彼女』の耳に、恐ろしい会話が入る。

「ミコの肉に力を馴染ませる」

「その肉を食えば……神の力が手に入ると言うわけだ」

やはり魔法使いたちは、最初から皆の幸せなど祈ってなどいない。

神の力を我が物にするためだけの詭弁だったのだ。


「こんな……こんな事が許されるはずがない……!!」

皆の幸せを願った力が、私欲で独占される。

四肢を切り落とされたミコは全力で怒り、抵抗する。

富となるはずの力を災いとなして、祟る。

しかし解放されることはない。

それどころか、自分の意思で肉を食ったとは思えない子供達が、目の前で刈り取られるのを見なくてはいけなかった。

力を持った小さな体と引き換えに、彼女の意識は封じ込められ、塗り固められる。


(何て事を……!)

怒りが湧き上がるが、自分の体を持たないアーシャには何もできない。

歯痒い思いをしながら傍観するしかない。

(どこの国でも、こんな事が起こるのね……)

平和で、豊かで、清潔で、出会う人出会う人全てが善人ばかりだと思ったこの国でも、こんな事が起こっていたのだ。

悍ましい外道の所業が行われるのは、アーシャの国だけではないのだ。


年若いまま自由を奪われ、肉を貪られ、年老い、死後も解放されない。

『彼女』の苦しみはどれほどのものだったのだろう。

「……ニクイ……」

「うん」

「……ホロボシテヤル……」

「うん」

そう思う心を誰が止められるだろうか。


ふと気がつけば、搾取され尽くした、真っ白な髪の老婆が隣に立っている。

アーシャには彼女の憎しみを止める手立てはない。

「……………」

一生を食い潰され、道具にされた彼女にかける言葉が思いつかない。

苦しまないでとも、辛かったねとも、とても言えない。

しかし、それでも彼女のどうしようもない境遇を思うと、その頬に手が伸びた。


そっと頬に触れると、手に焼け付くような痛みを感じる。

「……っっ」

それでも手を引く気にはなれなかった。

自分を利用しようとする相手を憎む気持ちも、不幸になってしまえと呪う気持ちも知っている。

そして憎しみは、自らを焼け爛れさせるような苦しさをもたらすことも、それでも止められない事も知っている。


今のアーシャには、頬を優しく撫でてくれる存在がいるから、救われている。

だからこそ、このミコだけが、この地獄のような状態で終わるのが堪らない。

少しでも、ゼンたちが与えてくれたような温かさが彼女にも訪れることを願わずにはいられない。


カサカサの肌をアーシャは撫でる。

この頬が、長い間誰に撫でられることもなく、朽ち果ててきたのかと思うと、心が痛い。

触れた手に感じる痛みは、自らをも焼く憎しみなのか、無力を嘆く悲しみなのか、はたまた未だ彼女を縛る魔法の残滓なのか。

死してなお、こんな痛みをずっと感じ続けているなんて、そんな酷い事があって良いのだろうか。


(少しでも……この痛みが和らぎますように)

効くのか効かないのかはわからない。

それでも何もせずにはいられずに、アーシャは歌を紡ぐ。

少しでも彼女の痛みが和らぎますようにとの祈りを込めて、癒しを流し込む。


老婆の眼窩には何も入っていなくて、鼻の肉も唇も干からび欠けていて、表情が読めない。

「………ヨリシロ………」

しばらくして小さく彼女は呟く。

どんなに癒しても、大昔に死んだ彼女に変化はない。

「よりしろ?」

歌を止めて聞き返すと、腕がない彼女は、首を傾け、肩と挟むことで、頬に触れた手を強く掴む。

「………マツロヲ……ミタイ……」

掴まれた手には、尚、激しい痛みが伝わってくる。


自分と同じミコが幸せになるのが憎い。

こんな力があったから自分は不幸になったのだと、確信したい。

同じミコが破滅する様を見たい。

憎悪、嫉妬、恨みから解放されたい。


彼女自身、人を不幸を見て嗤いたいのか、そんな自分から解放されたいのか、わからないのだろう。

「……………。ゼンや周りの人たちにちょっかいをかけないのなら、私の『末路』ってやつを見せてもいいよ」

眼窩のない顔が小さく動く。

「でも見せるだけだよ。こちらに干渉してきたら駄目。私、情け容赦のなさには定評があるから、干渉しようとしてきたら、即刻、問答無用で貴方の生きてきた全ての痕跡を消し飛ばす。それでも良い?」

少し迷うかなと思ってそう言ってみたが、やはり彼女は頷く。

「………消えたいからって、わざと干渉してきたら、超強力結界に私が死ぬまで封じ込めるからね?」

その言葉には、彼女は少しの間止まり、そして頷いた。


「じゃあいいよ」

そう告げると、彼女は再び小さく頷いて、アーシャの手を解放した。

「……ヨリシロ……」

「私はアーシャ。貴方の名前は?」

「……………」

彼女は無言で首を振る。

「覚えていないの?……じゃあ、何か仮の名前をつけようか。んんん〜〜〜」

アーシャは首を捻るが、人に名前をつけた経験などがないので、上手い名前が思い浮かばない。


「ん〜〜〜、仮の名前だし、アカートーシャでいいかな?確かすごい謂れのある良い名前だって言ってたよ」

考えた末に、自分がつけられていた仮の名前をお譲りすることに決めた。

かなり適当な命名だったが、彼女は気に入ったらしい。

表情筋が全く無い顔ながら、少し喜んでいるように、光がさす。


アーシャは受け入れられた事にホッとして笑ったが、彼女を包む光がどんどん強くなりすぎて、目を閉じる。

「え……ちょっと、これは……眩しすぎるというか……!!」

顔を背けても、光はどんどん強さを増す。

このままでは瞼越しに目を焼かれてしまう。

「アーシャ、おはよ!」

そう思った時、生命力に溢れた声がアーシャの鼓膜を揺らした。

いつも聴いている大好きな声だ。


「ん…………」

アーシャは眩しさに眉間に皺を寄せながら、再び目を開ける。

「………ゼン」

ミコの姿はどこにもいなくて、アーシャがいるのは、荒れ果てた土地ではない。

起き上がったのは、いつものベッドだ。

そして目の前には眼窩のない悲劇の女性ではなく、生き生きとした表情のゼンが立っている。


「おはよぉ」

夢と現実があまりに綺麗に繋がっていたので、混乱してしまったが、アーシャは適応する。

目をこすりながら起き上がると、大きな手が頭を掻き回す。

「ちゃんとおきてえらいぞぉ〜〜」

両手を伸ばせば、当たり前のように抱き上げられて、更に褒められる。

「ふひひひひ」

アーシャはお腹の中から湧き上がってきた笑い声を上げながら、大きな肩に飛びつく。


———アタタカイ


ふとそんな声が聞こえたような気がする。

「さぁ〜ごはん、ごはん!」

アーシャは首を傾げたが、すぐに明るいゼンの声でかき消される。


いつものように顔を洗って、身支度を整えるのだが、その間にも美味しそうな匂いが漂ってくる。

———イイニオイ

アーシャが幸せな気持ちで、思い切り鼻から匂いを吸い込んでいたら、また何かが囁く。

一瞬自分の声かと思ってしまったが、違う。

(焼きたてのパンの匂い!それからチーズ!お肉の匂いもする!そして、この、ちょっと酸っぱい感じの匂い……きっとあの赤いソースだ!)

アーシャの感想はより具体的だ。

匂いだけで、味の予想までできてしまって、頬がジンと痺れて、涎が染み出してくる。


「ゆずぅ!おはよぉ!」

「………はいはい、おはよーさん」

既に起きて、完璧に身支度が整えているユズルは、呆れ顔で涎のにじむアーシャの口元を拭いてから、荷物のように持ち上げ、椅子の上に置く。

「ほいよ」

そう言って生野菜の上に、カチカチに焼いた肉の破片がのった皿を置いてくれる。


———ナマノヤサイ………!

息を呑む気配がする。

アーシャは既にこの野菜の美味しさを知っているので、今更驚くはずもない。

(アカートーシャ?)

———ニク!?シシ?シシニク!?

アーシャは心の中で尋ねてみるが、返事はなく、驚きの声は続いている。


チンとベルの音が響くと、ゼンが鉄の箱から何かを取り出してきてくれる。

「はい」

そう言ってゼンは、熱々の湯気を上げる皿を、アーシャの前に置いてくれる。

そこには全面をトロトロにとろけたチーズに覆われた、薄く平たいパンがのっている。

パンとチーズの間からのぞいているのは、アーシャの予想通りの、甘酸っぱい味の赤いソースだ。

チーズの下には具材が挟まれているらしく、表面が凸凹している。

(これは……スライスした腸詰め!間違いない!!)

チーズが薄くなった所を凝視したアーシャの口から、涎が溢れそうになる。


(朝からお肉にチーズにパン……!!豪華すぎる……!!)

アーシャは素直に嬉しくて堪らないのだが、心の中の同居人アカートーシャは物凄く戸惑っているのを感じる。

「ぬふふふ」

少し前の自分を見ているような気分である。

(戸惑うでしょう、戸惑うでしょう。朝からこんなに素晴らしいものが食べれるんですもの……!!)

そう思っているアーシャの横に、スープまで配膳される。


「わぁぁぁぁ!」

先程まで全く香りがしていなかったので、全く気が付かなかったが、嬉しい追加だ。

以前食べたことのある、黄色の歯に似た形の豆が浮いているので、きっとあの豆のスープなのだろう。

湯気を吸い込むと、どこか甘さすら感じる優しい匂いがする。


「アーシャ、いただきます」

そう言ってゼンが手を合わせる。

「いたぁきましゅ!!」

アーシャも張り切って、両手を鳴らす。

そして一も二もなくチーズトロトロのパンに手を伸ばそうとしたのだが、その瞬間パンの皿が引かれ、生野菜の皿が押し付けられる。


「ユズル〜〜〜!」

アーシャの代わりにゼンが抗議してくれるが、皿を入れ替えたユズルは涼しい顔で無視だ。

———ナマ……ウシ……

熱々のパンも悪くないが、『牛馬でもあるまいし生の野菜を食べるなんて……』と眉を顰めている体の中の同居人に、この美味しさを知らしめるのも良いだろう。


アーシャは張り切ってフォークを野菜に突き刺す。

しっかりとカリカリのお肉を巻き込むことも忘れない。

(食らえ!!)

そう思いつつフォークを口に運ぶ。

「んふぅぅぅぅ〜!!」

しかし口に入れた途端に、シャキシャキとした繊維と、カリカリに焼かれた肉、そしてそれらを包み込む『まよ』の味に、自分が蕩けてしまう。

そして一口二口と夢中で貪ってから、ハッと同居人のことを思い出す。


———…………!!

何か語りかけてくるわけではないが、同居人も美味しさに感動していることは間違いない。

(わかるっっ!!美味しいよねぇ!)

ゼンもユズルも食べ慣れているせいか、この感動を分かち合うことが、中々難しい。

しかし同居人は若くして自由を奪われたせいか、この国の出身でも、この食事にアーシャと同じくらい感動している。

いや、この驚きようを見るに、アーシャの方がここの食事に詳しいような気がする。


(ここで熱々のパンを頂くわ!!)

少々先輩風を吹かせて『これも絶対美味しいんだから!』という気持ちでかじりついたのだが、

「んんんんん〜」

予想以上に美味しくて、自分がびっくりする羽目になった。


サクリと感じる軽やかなパンの歯触り、そして驚くほど柔らかなチーズ。

噛みついて、ちぎり取ろうとすると、柔らかなチーズは、パンとの別れを惜しむように、口から伸びる。

「んふぅ〜〜〜」

それは見た目だけで、チーズが熱々で柔らかい事を、こちらに訴えかけてくる。

視覚からも美味しさを感じる。

そんな贅沢が朝から楽しめてしまうなんて幸せだ。


「はふはふっ!」

伸びたチーズを口の中に巻き取り、噛むと、甘辛酸っぱい赤いソースと、濃厚なチーズ、そしてほんのり甘い軽い歯触りのパンが混ざり、それぞれの味がお互いを引き立て合う。

「ほひひ〜〜〜!!!」

体が震える美味しさだ。


もっとこの歯触りと、味の共演を楽しみたいが、喉が早く早くと急かすので、十回も噛まないうちに飲み込んでしまう。

「ん〜〜〜!」

喉を通過するパンとチーズの質量感までたまらない。

喜びに震えていたら、横からスープを掬った匙が差し出される。


「あむっ!」

匙に飛びつきながら、差し出してくれたゼンの顔を見ると、少し心配そうだ。

もしかすると、あまり噛まずに飲み込んだから喉に詰めたのかと思われたのかもしれない。

「おいひーにゃ!」

思った通りの、濃厚なあの豆の味がするスープを味わって、アーシャはゼンに笑いかける。

「よくかむんだぞ」

するとゼンはホッとしたように笑って、優しくアーシャの頭を撫でてくれる。


「へへへへへ」

アーシャはニヤニヤと笑いながら、次なる一口にかじりつく。

細く長く伸びるチーズを啜り、再びパンとソースとチーズの共演を楽しもうと思ったのだが、そこに思わぬ味が入ってきた。

「ん?」

この柔らかな歯触りは何だろう。

そう思って齧り付いた断面を見ると、緑色の細く切った野菜が見える。


「んふっ」

噛むと野菜特有の少し青臭い香りが広がる。

味は些細な変化しかないが、ソースとチーズが絡むと美味しい。

「「…………」」

上機嫌で咀嚼していたら、じっとゼンとユズルが自分を見ていることに気がついた。

「?」

首を傾げると、ゼンは嬉しそうに笑い、ユズルは何事もなかったように、自分のパンにかじりつく。


「アーシャ、えらい、えらい!」

普通に飲み込んだだけで、何故かまた、ゼンに頭を撫でられる。

「んふふふふふ」

パンを飲み込んだ喉は幸せだし、大きな手に包まれた頭も幸せだ。

何故撫でられたかはわからないがアーシャは上機嫌で食べ進める。


あまりの美味しさにうっかり失念していたが、アーシャの中の同居人も、この食事をすごく楽しんでいる気配がする。

(んふふふふ、幸せに浸り切るのはまだ早いわ!ここからが本番よ!)

アーシャは喜びを共感できることを嬉しく思いながらも、大きく口を開ける。

その先にいるのは、スライスされたと思われる腸詰めだ。

絶対に美味しいという確信がある。

どうも彼女アカートーシャはこの国の人なのに、お肉の美味しさを知らないらしく、先ほどのカリカリお肉にも感動していた。


アーシャはカリカリのお肉も、油たっぷりのお肉も大好きだ。

お肉を差別するなんてあり得ない。

しかし腸詰めは特にアーシャのお勧めだ。


「んふ〜〜〜〜〜!」

———………………!!

かじりついた瞬間、二人は一緒に震えた。

サクリと軽い歯触りの中に、プツリと弾ける肉の皮の食感が混ざる。

それと同時に、美味しい肉の油が弾けて口の中に広がる。

ねっとり濃厚なチーズと、爽やかなソースの酸味、その中に広がる肉の油の旨味。

「んんんんん!!」

美味しさにジンと痺れる頬を押さえ、アーシャは身悶えしながら、その味を楽しむ。


(幸せすぎる〜〜〜〜!!)

そんなアーシャの心の中の雄叫びに、全力で同意する意識を感じる。

どうやら彼女も、ゼンのご飯の虜になってしまったらしい。

(だよね!だよね!)

美味しいご飯も最高だが、横でニコニコと笑ってくれる人が作ってくれたと思うと、更に最高だ。



アーシャはいつも以上に高揚してご飯を平らげた。

「ふふぁ〜〜〜〜」

ご飯を食べると、口を小さなブラシで洗うのだが、これも気持ちが良い。

チーズの味や肉の味の余韻をいつまでも楽しんでいたい気持ちもあるが、口を濯ぐと、口の中がとても爽やかになるのだ。


用意されている服に着替えると、髪の毛はユズルが整えてくれる。

今日の服もとても素敵だ。

以前はゴブリンそのものだった、見苦しいほどのガリガリだった体も、少しづつ肉がついて、服に着られている感じは無くなってきた。

「ぬふふふ」

アーシャは上機嫌でクルクルと回る。


「アーシャ……えと……」

そんなアーシャに、少し気まずそうな顔をしながら、ゼンが背負い袋を持ってくる。

これは『ほいくえん』に行くための道具が詰まっている袋だ。

(大丈夫。もう知ってるから)

アーシャはゼンの足を撫でて、笑って見せる。

行きたくないなんて言う気はない。

とても寂しいが、家に帰って来れることを理解しているから頑張れる。


幾分かホッとした顔のゼンが、袋を自ら背負ったアーシャを抱きしめてくれる。

「へへへへへ」

何をしたわけでもないのに、アーシャは少々誇らしいような気分になってしまう。

「きょーのおむかえわ、よじ。よ・じ」

そんなアーシャにゼンは一枚の紙を示す。


「……………」

そこに書いてあったのは時計と思われる絵だ。

シノザキに教わった1から12までの数字が書いてある円で、短針が指し示しているのは、以前の11を随分と超えた、4の部分だ。

アーシャの理解が間違っていないなら、今の時間から11よりかなり遠い。


ゼンが今の時間と思われる、8の辺りを指した図と、実際の時計を交互に指し示し、そこからぐるっと辿って、4を示す時計の絵を指差す。

「…………………」

何か説明してくれている声が遠くに聞こえる。

あまりの衝撃にアーシャは声が出せない。


11までも、かなり長かった。

それなのに今日は4まで頑張らなくてはいけないらしい。

(この前が目盛り三つ分。今度は八つ分)

時計の間と間を数えてみて、改めて衝撃を感じる。


「……………っ」

時計の絵が滲んで、涙が溢れてきたことに気がついたアーシャは、慌てて服でそれを拭う。

大丈夫だとアピールして、褒められたばかりなのに、泣くなんてみっともない。

「………ふぐっ……」

しかし拭いても拭いても、涙は溢れてくる。

息継ぎをしようとしたら、声が出そうになって、唇を強く引き締める。


ゼンが心配そうにアーシャの顔を覗き込む。

「……っぅぐっ……じょぶ……『だいじょぶ』……」

そんな彼に、アーシャは力強く頷く。

「アーシャ……ごめんな……」

ゼンが壊れ物のようにそっと持ち上げてくれる。


「……っっぅ……『よじ』……『あとはいしょ』」

ゼンを困らせるつもりはないし、これはアーシャに必要な訓練だ。

ちゃんとわかっているのだと、ゼンの首っ玉にかじりつきながら、伝える。

するとギュッとゼンも抱きしめ返してくれる。

「おむかえわよじ。あとはいしょ」

そして力強く言い切ってくれる。


———アノ……アノ……

先程まで他人の不幸を望んでいたはずの同居人が、戸惑っている気配を感じる。

(ごめんなさい。ちょっと驚いただけ)

長い間、閉じ込められ、孤独を噛み締めていたはずの彼女に、恥ずかしい所を見せてしまった。

語りかけると、彼女は更に戸惑いつつも、少し安心したような気配になった。

結局のところ人の不幸を願い切れない、彼女はかなりのお人よしのようだ。


そうして、ズビビと大きく鼻を啜って、アーシャは同居人と一緒に『ほいくえん』へ出発するのだった。

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