14.母、解放される(後)
『……モライウケル……』
濁った声に、ゾッとして目を開けた時、彼女は真っ暗な砂利道のような所に寝転がっていた。
全くの闇なのに砂利道ではないかと思ったのは、体にゴツゴツとした冷たい石の感触があったからだ。
光一つない中で、彼女は真っ先にお腹を確認する。
そこには本来なら大きいお腹があるはずの場所だが、自分のお腹ではない、柔らかくて温かな感触がする。
(良かった。無事だ)
彼女はその温かな感触を抱きしめる。
温もりを持った、張りのあるビーズクッションのような感触だが、これが自分のお腹の中にいる大切な子供であると、彼女は確信している。
大切な子供を抱きしめて彼女は立ち上がる。
上も下も、右も左もはっきりとしない真っ暗闇だ。
しかし声が近づいてくる方向はわかる。
(大丈夫。彼が起こしてくれると言ってくれたもの。すぐに目を覚ませる)
その声から遠ざかるように、足の感触だけを頼りに彼女は歩き出す。
夢だ夢だと思いながらも、視覚、聴覚、嗅覚、触覚、全ての感覚が生々しい。
現実では決してあり得ない状況なのに、夢だと言い切れないリアルさがある。
だから胸に抱いた温かな『子供』を絶対に守り抜かねばならないと思う。
ここで何かあったら、現実にも何かが起こりそうな気がするのだ。
『……モライウケル……』
いつもであれば、薄暗い中での追いかけっこで、自分の周辺だけは見えるのだが、今回は何も見えない。
影が見えないので、頼りは聴覚だけだ。
(近くに居るのか、遠くに居るのかわからない……)
気持ち悪いが、足元が不確かなので、走り出すわけにはいけない。
転けて子供に何かあったら大変だ。
『……モライウケル……』
思ったより声が近いところから聞こえて、ドクンドクンと心臓が強く打ち始める。
(早く、早く起こして……!!)
足先で地面を探って、もっと急ごうとした所だった。
『アッキーたいさーーーん!!』
この悪夢では聞いたことのない、溌剌とした声が響いた。
小さい子供特有の少し舌っ足らずな発音と、耳をキンとつんざく高音は、この陰湿な空間には全くの異質の明るさだった。
声に遅れて、真っ黒な空間に稲光が走り、何かを切り裂く音と共に「ぎゃっ!」と短い悲鳴が響く。
「あ……」
空間を切り裂いた稲光は、そのまま千々に別れ、光の粒となり、周囲を仄かに照らす。
「んふふ」
ふと気がつくと、仄かに照らされた中に、小さな女の子が立っていた。
黒髪をパッツンと肩口で切り揃え、可愛らしい柄の着物に朱色の袴を合わせたその姿は、座敷童と言われたら信じそうだ。
(縮尺がちょっとおかしいような……?)
大き的には三歳児くらいなのだが、年齢は娘より上に見える。
「安心するが良い。あの気色悪いのは、わらわがぶった斬ってやったぞ。この、主人の
可愛らしいマロのような眉毛を誇らしげに上げ、反りくり返りそうな勢いで、少女は胸を張る。
「えっと……有難う……?」
そう言うと、ピクピクと笑いたそうに唇の端が上がる。
「なに。礼などいらん。わらわは主人のおのぞみを叶えたまでだ」
口ではそう言っているが、全力でニヤニヤしたいのを我慢しているのがわかる顔つきだ。
(かーわいーーーー!)
全力で撫で撫でして褒め倒したいタイプの子だ。
『アカゴ ヨワイ マモリ アル』
「ひゃっっ!!」
片手で子供を抱いて、もう片手を少女に伸ばそうとしたら、彼女の肩から蛇が出てきて、彼女は飛び上がってしまう。
「へ、へ、蛇!!」
思わず胸の中の子供を遠ざけるように動いていまう。
あからさまな拒否を受けた蛇は、カパッと口を開けて呆然としていたが、がやてシオシオと萎れる。
「バ………バニタロウ………き、気にするな。大体のご婦人はニョロニョロウネウネするやつが苦手なもんじゃ」
しゅんと肩に伏してしまった蛇に、慰めているのかトドメを刺しているのかわからないことを少女は言う。
『バニタロー ワルサ シナイ………』
爬虫類故に表情は全くわからないが、がっかりしている様子に、彼女は申し訳なくなってしまう。
「ご……ごめんなさい……その、突然だったから、驚いて……」
心を込めて謝るが、爬虫類に近づくのは、生理的な問題で難しい。
無言の拒否を感じ取ったのか、蛇はノロノロと少女の後ろに隠れてしまう。
首の後ろあたりから話しかけているのか、少女は後側に耳をそばだてる仕草をする。
どんな話をしているのか、少し聞いてみたい気分もするが、背後に爬虫類がいると思うと近づけない。
蛇と話していた少女はウンウンと頷いてから、彼女に向き直った。
「え〜っと、わらわのどーはいが言うには、そなたの子には弱い守りがかけられているそうだ。そこそこ古株の神が守ってくれているみたいだから、礼と安産のお参りをしとけとの事じゃ」
言葉を発する時には胸を張らないくてはいけないルールがあるかのように、少女はふんぞり返って、フンッと鼻息を吐く。
「古株?お参り?えっと…………お参りって、初詣に行った神社とかで良いのかしら?」
残念ながら少女が言っている事は半分もわからない。
神社とか正直ピンとこない。
初詣になんかは行くが、それはあくまでも正月のイベントの一環で、特に信仰心があってのことではない。
意味がわからず問い返すと、また少女は背後の蛇とコソコソと相談を始める。
「多分、大きな木か石とかで、人間に祀られてる奴らしい。覚えはないか?」
「大きな木か石………」
「どっちかわからんが、土臭いから大地と直接つながっている奴だと」
「土臭い……」
考えていたら、仄かに明るくなっていた周囲が再び暗く張り始めた。
ハッと彼女が周囲を見ると、つられたように、少女も周りを見て、険しい顔になる。
「何じゃ!?確かに斬ったはずだぞ!?」
信じられないと言う顔で少女が叫ぶ。
『マモリ ヨワイ ナッテル!ツナガル!!』
少女の後ろに隠れていた蛇は飛び出して、地面に落ちた……と思ったら、地面に触れる前に姿が消えた。
「そなたは赤子を守っとれ!」
少女も地面を蹴って、地面に飛び込む。
「え……ええぇぇぇ!?」
まるでプールにでも飛び込むように地中に消えたので、慌てて地面を触るが、そこにはゴツゴツとした感触が残っているだけだ。
「ま……守るって言っても……」
どうしたら良いのと問いかける相手は、どこにもいない。
彼女は温かな塊を抱きしめ直す。
周りはどんどん暗くなり、再び闇に包まれようとしている。
「大きな、木か石……」
ドキンドキンと不安に音が大きくなる鼓動を誤魔化すように、彼女は呟く。
別のことを考えることで、だんだんと闇に戻っていく、この状況から目を逸らしたかったのだ。
家は築浅のマンションの七階で、庭もないので木も石もない。
徒歩五分くらいの所に大きな公園はあるが、大きい木はない。
正確に言うと二年くらい前までは老木が何本かあったのだが、中が空洞化した危険木として伐採されてしまった。
公園の入り口には石碑があるが、それは公園の名前が書いてあるだけで、全くご利益とか神秘性とかはない。
(公園以外に大きな木とか石がある場所……普段は家と会社と保育園くらいしか立ち寄らないし……)
そこまで考えて、彼女はハッとする。
『ママ!さくらちゃんに赤ちゃんとコンニチハして!』
保育園へのお迎えの時に、そう言って娘が手を引いて連れて行かれた、園庭の桜の老木。
見事な巨木で、柵に囲われ、小さなお社まで作られていた。
社の周りには、園児たちが柵の間から捩じ込んだ『プレゼント』——折り紙や花、綺麗な石などが散らばっていた。
猛暑のせいか、すっかり弱っている様子の桜の木に、挨拶させられて苦笑いした記憶が蘇ってきた。
(でもあの木は、すっかり枯れかけよね……)
秋を待たずに葉を落とし、花芽もついていないから、遂に枯れてしまったのかもしれないと言われている老木だ。
不思議な力があるとは思えない。
そんなことを考えているうちに、また周囲は闇に包まれる。
『アッキーせいばーーーい!!』
いや、包まれたと思った瞬間に、元気な声が響く。
(アッキーじゃなくて悪鬼なんじゃ……)
そんなツッコミができたのは、再び走った稲妻が、周囲を照らし始めたからだ。
「……。…………。………………?」
再びあの元気な少女と蛇が現れるのではないかと思ったが、いくら待ってもその空間は無音のままだった。
(………大丈夫。変な声は聞こえてこないし。気配もしない)
そう思いつつも、無音の空間にも、いつ失われるかもわからない頼りない明るさにも、真綿で締め上げられるような、ジワリジワリとした恐怖を感じる。
(大丈夫よ。『悪夢』になったら起こしてくれると言っていたし。……そうだ。目が覚めたら、私も『さくらちゃん』にプレゼントを持っていこう)
腕に抱いた温もりを、あやすように左右に足踏みしながら揺らす。
怖い想像をしないように、必死に明るいことを考える。
(桜の木が喜んでくれるプレゼントって何かしら……肥料……植物活性剤とか?きっと沢山持っていくわ……)
そうしていないと、心が恐怖に支配されてしまいそうだ。
今にもあの気持ち悪い声が迫ってくるような気がする。
(いくらでもお供えをするし、沢山感謝するわ)
再び明かりが翳り始め、彼女は腕の中の温もりを守るようにしながら、周囲を見渡す。
(だから……今、助けて……!)
何も聞こえない空間が恐ろしい。
しかし望まない声が聞こえてしまうのは、更に恐ろしい。
聞こえてくるなら、さっきの元気の良い女の子の声が良い。
この際、蛇でも文句は言わない。
『………ハライ………』
しかし現実は残酷だ。
必死に恐怖に飲み込まれないようにしていた彼女の背中に、冷たいものが流れた。
しゃがれた、陰鬱な声。
バクンバクンと心臓が存在感を示すように、鼓動を打ち鳴らす。
『…… ツユハライ……モライウケル……モライうける……つゆハライ……』
まだ周囲には仄かな光がある。
足元がしっかり見えているから、走れる。
彼女は周囲に視線を走らせる。
逃げる前に、影のいる方向を確認しようとしたのだ。
「…………っっ!!」
しかし次の瞬間、周囲を見た事を後悔した。
それは『影』だと思っていた。
しかし太陽に温められた風に晴らされる霧ように、『何か』から影に見えていた闇が剥がれていっていた。
『影』ではなく恐ろしく濃い、黒い霧に包まれていたのだ。
そして今、黒い霧が消え、その中から『何か』が現れていた。
「……っう………ひっ………」
黒い霧に隠されていた、その姿の悍ましさに吐き気が込み上げる。
先程の蛇なんかが愛らしく感じるほどの、強烈な生理的嫌悪が、彼女の足から力を奪った。
ペタンと尻餅をついて、彼女は迫ってくる『何か』を見つめた。
これ以上見たくない。
そう思うのに、強烈すぎる存在から目が離せない。
形は老婆だ。
いや、髪が長く、頭の重みに耐えかねたように腰が曲がり、足を引き摺るようにして歩いているので、恐らく老婆ではないかと思うのだが、もしかしたら違うかもしれない。
そう言うのも、その輪郭はびっしりと人の顔で覆われて、性別は元より、本当に人間であるかもわからない状態だからだ。
顔、首、胸、肩、腰、足。
それらの全てが、人の顔で覆われている。
元来の顔があるべき場所にも、二つの顔が場所を競い合うように存在している。
彼女は目を見開いた。
ただでさえ恐ろしい見た目なのに、身体中に張り付いた顔の中に、見覚えのある顔を見つけてしまったのだ。
「………うぅ………お………お………」
せり上がってきた嘔吐感を彼女は必死に堪える。
ほとんどの顔が目を瞑って、苦悶の表情を浮かべているのに、その見覚えのある顔はギラギラと目を見開き、周囲をギョロギョロと見つめている。
「……お義父……さん……」
その顔は間違いない。
毎週末に訪ねてくるから、嫌でも見慣れてしまった顔だ。
その顔が老婆の頭の側面、ちょうど耳があるはずの場所に生えている。
声に反応したように、義父の目がこちらに向くのが見えた。
『……つゆハライ……』
ニィッと笑ったその口から、凡そ義父の声とは程遠い、しゃがれた声が漏れる。
ボソッボソッと土が落ちるような足音を立てて、『何か』は彼女に近づいてくる。
悍ましさのあまり、吐き気と震えが止まらない。
異形の腕にだけは顔が生えておらず、ミイラのように、骨に乾いた肉がこびりついたようになっている。
その生者のものと思えない手が、彼女に向かって伸ばされる。
移動速度は驚くほど遅いが、やがて『アレ』は自分の元に辿り着く。
(起こして……起こして……早く起こして!!!)
強く願った、その時だった。
フワリと綿毛のように小さな光が、彼女と異形の者の間に舞い降りてきた。
先程の稲光のように強烈な光ではない。
触れてしまえば消えてしまいそうな、淡雪のように儚く弱い光だった。
初めは一粒だけが、ハラハラと空気に翻弄されるように、舞い落ちる。
(……歌……?)
光が暗い地面に舞い落ちると、細々とした、歌のように聞こえる音が耳に届いた。
そして一粒だった光が二つ、三つと数を増やして、フワフワと舞い降りてくる。
増えた光たちも、同じように、音もなく地面に舞い降りる。
光が地面に降りる度に、最初は途切れ途切れに細々と聞こえた歌声が、はっきりと聞こえ始める。
それに伴って光もどんどん数を増していく。
『あアあァァぁぁあアアア!!』
たまたま異形の立つ場所に、光が舞い落ちたのだが、それが触れた途端、聞き苦しい悲鳴が上がる。
見れば、異形に光が触れた所が、小さく欠けている。
濁った悲鳴をあげながら、近寄ってきていた異形が下がる。
異形が下がった所にも、光が次々に降り注ぎ始め、異形はどんどん後ろに下がっていく。
(この光は……?)
恐々と手を伸ばして、舞い落ちてきた光を一つ捕まえる。
そして手の上の光をよく見ようとしたのだが、地面に落ちた光と違って、手にのせた光は、淡雪のように溶けて消えてしまった。
(消えちゃった)
残ったのは、先ほどまで冷え切っていた指先に宿った、ほのかな温もりだけだった。
光は次々に舞い降りて、最初は頼りない明るさだったのに、いつの間にか積み重なり、周りを明るく照らし始める。
異形の物との間に降り注ぎいだ光は、まるで織姫と彦星を隔てる天の川だ。
どんどん光の強さと、川幅が広がり、ロマンスのかけらもない異形の彦星は遠くへ追いやられていく。
途中何度も光の襲撃を受けたようで、色々な所に穴が空いている。
彼女にも光は舞い降りてきて、触れる度に体が温まっていく。
微かに聞こえていた歌声は、どんどんとはっきりと聞こえるようになり、その柔らかな旋律に、冷え切った心も温められる。
あれだけ恐ろしかったのに、遠く離れてしまった異形の、肩を縮こめて、ノロノロと光から逃げ惑う姿を、滑稽とすら思える心の余裕が生まれた。
光はどんどん量を増し、ちょっとした光の吹雪だ。
「あ………」
その美しさに見惚れていた彼女は、目を見張った。
量を増した光がゆっくりと集まって凝縮し始めたと思ったら、それは人の形になった。
長い髪の女性。
そんな形になったと思ったら、流れる髪の先から、染み入るように色が入る。
髪、手、足先から色づき、顔、腕、ふくらはぎと中心に向かって色が広がり、数秒後には美しい女性が現れた。
髪や身に纏う服は真っ黒なのだが、燐光を放っているため、恐ろしさなどは感じない。
全てに淡い色を纏った女性は、最後にその瞳を開き、微笑む。
現れた時の
「……はぁ〜〜〜……」
その愛らしさにため息を溢していたら、緩く波打つ髪をなびかせて、女性が彼女に近づいた。
———祝福を
声を聞いたわけではないが、そう言われたと確かに感じた。
そしてそれと同時に、額に柔らかな感触がする。
それが唇の感触で、キスをされたのだと分かった時には、女神の姿は光の束となって、彼女に降り注いだ。
『結界が成った。これで、そなたには悪い物は寄れない』
温かな光を目を閉じて受け入れていたら、先程の少女の声がした。
その姿を見ようと目を開いたが、光が眩しくて、相手の姿は見えない。
『守り手へ参るのを忘れるな。……それから、術者には……』
少女の言葉は続いていたが、最後まで聞く事はできなかった。
(……あったかい。ちゃんと動いている)
元気な胎動を感じて、安心した彼女は、より深い眠りに落ちていった。
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