3.聖女、玉子と砂糖の共演に喜ぶ
右側の髪が跳ねたゼンと一緒に階段を降りる。
ただそれだけの事がアーシャには嬉しい。
いつもは、ぐうたらと惰眠を貪っているアーシャは、起きたら一人ぼっちだったのに、今日は起き抜けから一緒である。
それだけの事が嬉しくて堪らない。
ゼンと一緒に起きたのは、これで二回目なのだが、最初の頃より近しく感じているせいだろうか。
顔のニヤけが止まらない。
アーシャは顔だけを洗うが、ゼンは豪快に頭を水栓の下に突っ込み、頭部を丸洗いにしている。
驚いたアーシャが、水をよく吸う布を手に伸び上がると、水を滴らせたゼンは白い歯を見せて、しゃがみ込んで、頭を差し出してきてくれる。
大きな頭を拭いていると、自分でも何が楽しいのかわからないが、お腹がとにかくこそばゆくて、笑いが止まらなくなってしまった。
ゼンも笑いながら、お返しとばかりに、アーシャの髪を優しく梳かしてくれる。
身綺麗になっても、笑いが治らなくて、アーシャたちは笑いながら、卓の置いていある部屋に向かった。
「ゆずぅ!おはよー!」
「おはよー」
そして一人で悠然と朝食を摂っているユズルに、二人揃って挨拶をする。
「あぁ」
ユズルは軽く頷いて、やたらと良い匂いのするパンを口の中に放り込んでから、席を立つ。
「すまん、ねぼーした」
ゼンはアーシャを椅子に座らせてから、ユズルの隣に並ぶ。
二人は言葉を交わしながら、食事の支度をしているのに、アーシャはぼんやりと椅子に座っているだけだ。
(お手伝いできることないかなぁ)
ゼンの頭を拭いたように、何か自分にできる事がしたいと、アーシャは二人がやっている事を、伸び上がって見ようとする。
しかし聳え立つ城壁の如き、二人の大きな背中に阻まれ、彼らが何をしているか、全く窺い知ることができない。
これではお手伝いできることを、探す事もままならない。
諦めきれずに、伸び上がったり、左右に揺れたりしていたら、振り向いたゼンと目が合った。
すると彼は真っ白な歯を見せて笑う。
「おまたせ」
ゼンはそう言いながら、『むぎちゃ』と、瑞々しい葉物野菜が入った器を持ってきてくれる。
「『かべつ』!」
アーシャは胸を張って答えるが、
「れ・た・す」
見事に訂正されてしまった。
「『りぇたしゅ』?」
「れたす」
葉っぱを指さして確認するが、やはりこれは『れたす』らしい。
(『かべつ』にそっくりなんだけどなぁ)
薬草とそっくりな毒草、美味な木の子にそっくりな猛毒木の子などが存在するから、植物の世界は難しい。
「べ・こ・ん」
う〜んとアーシャが考え込んでいたら、『れたす』の間に入った、小さな茶色の紙のような物をゼンが指差す。
「『べこん』」
わかったとばかりに頷きながら、アーシャはその茶色の物をよく見る。
「んん!?」
水分が飛んでいって、紙のように真っ直ぐになっているが、アーシャの中の肉感知能力が騒ぎ出す。
(間違いない……これは肉!!)
顔を近寄せ、鼻を鳴らして匂いを吸い込み、アーシャは確信する。
「アーシャ、アーシャ」
皿にくっつかんばかりに顔を寄せたアーシャを、笑いながらゼンは元の位置に戻す。
そして手にフォークを持たせてくれる。
「いただきます」
そして食べようと言うように、アーシャに手を合わせて見せる。
「いたぁきましゅ!」
アーシャも張り切って手を鳴らして、フォークを構える。
無論、狙うは小さなお肉『べこん』である。
アーシャが繰り出したフォークは、小さな『べこん』と、その後の『れたす』を貫く。
「あ〜〜〜……んっ!」
口の中に入れた途端、爽やかな柑橘の香りが鼻腔を抜ける。
そして噛み締めると、野菜の繊維が切れるシャキッとした歯応えと共に、程良い塩っ気と酸味が口に広がる。
「ん〜〜〜!!」
こちらに来て、アーシャは気がついたことがある。
酸味は、食欲を増幅させる。
腐りかけの酸っぱさは食欲を減退させるが、爽やかな酸味はもっと食べたいという気持ちを盛り上げてくれるのだ。
アーシャの考えに賛同するように、胃袋が『さっさと美味しい食べ物を寄越せ』とばかりに鳴き声を上げる。
喉も早く飲み込んでくれと急かしているのを感じる。
しかしこの美味しさを堪能したい。
アーシャはしっかりと味わうべく、口を忙しく動かす。
「ん!」
そんな中で、カリッとした感触が歯に当たる。
噛み締めば、爽やかな味の中に、肉の濃厚な旨みを詰め込んだ塩味が染み出してくる。
(朝から肉のある幸せ〜〜〜!)
アーシャは一気に唾液が吹き出して痺れる頬を押さえながら、感動を噛み締める。
(この感触、クセになる〜〜〜!)
野菜のシャキシャキとした食感と、少し焦がされた肉のカリカリの食感が合わさると、何とも幸せな二重奏となる。
喉が限界とばかりに食べ物を飲み込んでしまうと、アーシャは急いで次の一口を入れる。
一噛み目に『れたす』と『べこん』を一緒に噛めると、凄く得した気分になれる。
「んふふふ〜〜〜」
アーシャは上機嫌に左右に揺れる。
『べこん』は色んな所に隠れていて、もうなくなったと思っても、『れたす』と『れたす』の間に挟まっていたり、底に張り付いていたりと、探すのが楽しい。
「あぁ……」
しかし何事にも終わりは必ずくる。
美味しいからと、次々に口の中に放り込んでいたら、あっという間に、器は空になってしまった。
『れたす』も『べこん』も無くなった皿に、アーシャは肩を落とす。
(もう無い……)
アーシャは未練がましく、空の器をフォークでかき回す。
しばらくそうやってから、ハッとアーシャは気がつく。
(いけない……お腹いっぱい食べられるのが普通になってきちゃってるわ)
昔はお腹が減っているのが通常状態だったのに、こちらに来てから、お腹いっぱい食べさせてもらえることに慣れて、当たり前のように感じてしまっている。
(ダメダメ。何て図々しいことを!!何にもできない穀潰しなのに、朝から、こんなに美味しいお肉を食べさせてもらえる事に感謝しなくっちゃ!)
アーシャは自らを戒める。
そんな彼女の前に、コトンと音を立てて皿が置かれる。
「ん…………ほわっっっ!!」
彼女の目の前には、分厚い、焼きたての玉子……のように見える、ホコホコと湯気をあげる、黄色いパンが置かれている。
思わず顔を寄せると、ふんわりと、何とも甘やかな、美味しい予感しかしない香りがアーシャを包む。
(これは……これはこれは……!!)
たった今、図々しくなっている自分を戒めていた事が、頭の中から飛んでいってしまって、アーシャは期待を込めて、皿を置いた人物を見上げる。
「く・え」
目が合ったユズルは、皿を指さしながら、素気無く、そう言い捨ててくる。
ユズルは常に不機嫌そうな顔なので、表情からはあまり情報は読み取れない。
「『アーシャの』?」
期待を込めて聞いたら、口を引き結んだまま、ユズルは頷く。
「うわぁぁ〜〜〜!!『あいがとぉ』!!」
アーシャは嬉しくて、言うが早いか、出されたパンに齧り付く。
「んふっ!」
湯気が出ているパンは熱々だが、火傷するほどの熱さではない。
熱いと感じるが、火傷しないギリギリの線を攻めている絶妙な温度だ。
「んんん〜〜〜!」
そして噛みついた瞬間から、甘美な香りと共に、舌にはっきりとした甘味が触れる。
パリッと少しの抵抗を歯が破ると、しっとりと柔らかく、かつ弾力があるパンがアーシャを迎える。
一番外側はパリッと焼いてあって、外側に近い方は液体が染み込んでプルンとしていて、最深部はふかふかと、幸せの三層構造になっている。
アーシャは夢中でパンを噛む。
(この甘い匂いは何!?玉子の匂いもするような気がするけど、この美味しい匂いに全部持っていかれる!!)
匂いが甘いなんて信じられるだろうか。
玉子やミルクの存在も感じるのだが、それらを甘い香りが包み込んで、パンを甘い甘い菓子に仕立て上げている。
「ほひひ〜な〜〜〜〜」
主食なのに、お菓子。
お菓子のご飯。
アーシャの体は幸せすぎて揺れまくってしまう。
「…………!!」
もっともっとと、慌てるように二口目にかぶり付いたら、カリッとした歯応えがする。
(焦げが……美味しすぎる!!)
パンの角が少し黒く焦げているのだが、この焦げの食感が堪らない。
柔らかな中で、サクサクとした小気味の良い歯触りが、一際輝いている。
真ん中部分の弾力と柔らかさを兼ね備えた部分も凄く美味しいのだが、やはりカリカリのパンには抗えない魅力がある。
「おいひ〜な!」
ここが最高とばかりに焦げを辿りながら報告すると、食卓の近くを歩いていたユズルは、適当に話を合わせるように頷く。
最初は甘やかな香りと味、食感に魅了されていたが、食べ進めるうちに、はっきりと感じてきた玉子の存在感にアーシャは夢見心地だ。
(やはり玉子……!玉子は食べ物の王様だわ……!)
ぬるりとする唇を、行儀悪く舐めながら、アーシャは美味しさに震える。
何が入っているかわからないが、玉子と砂糖だけはわかる。
こちらに来て、その相性の良さを知ったが、ここまで如実に最高の相棒であることを語ってくれる食べ物は、このパンなのでは無いだろうか。
「はぁ………『おいしーな』………!!」
アーシャが夢中でパンを貪り、満足と共に『むぎちゃ』でシメた時、既にユズルはいなかった。
「ユズゥ?」
こんなに美味しいものを食べさせてくれたユズルに感謝を告げようと思ったのに。
アーシャは空になった席を指差して、彼の所在をゼンに尋ねる。
するとアーシャと同じく『むぎちゃ』を飲んでいたゼンは困った顔をする。
「お・で・か・け」
彼は眉尻を下げながら、外に出る扉を指差す。
どうやらユズルはアーシャが食べ物に夢中になっている間に出かけていったらしい。
(お礼を言いたかったなぁ)
美味しい物をに夢中になりすぎて、周りが見えなくなってしまうのはアーシャの悪い所である。
少し落ち込むアーシャの頭を、ゼンがくしゃくしゃと撫でてくれる。
「アーシャも、お・で・か・け」
そしてゼンとアーシャを交互に指差した後に、また外への扉を指差す。
「…………!」
ゼンの仕草に、アーシャはピンとくる。
「『おできゃきぇ』!」
これは一緒に外に行こうというお誘いだ。
大きく頷きながら、アーシャは張り切って復唱する。
心が弾むと同時に、体まで跳ねてしまう。
嬉しさのあまり、椅子の上で、お尻を弾ませるアーシャを、ゼンは目を細めて見守ってくれている。
外はお日様が燦々と照らしている。
お散歩日和である。
「あ、せんたく、せんたく」
歩くのに邪魔にならないがフワフワと風に揺れる短いスカートと、動き回り易いスボンを組み合わせた、夢のような服を着せてもらって、上機嫌でクルクルと回るアーシャの隣で、ゼンは何やら作業を始める。
「?」
皆が服や布を投げ込む、金属製の箱の謎を、アーシャが知るのは、このすぐ後の事だった。
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