2.長男、悪夢を退ける
誰かの何気なく発した言葉が呪いになる。
そんな事は珍しくない。
言った本人も忘れているような瑣末な言葉が、言われた相手に刺さって、その後を縛る。
それはまるで『言霊』だ。
声に出した瞬間から、言葉は力を持ち、その効力を発する。
「こらぁ!悪たれ小僧!倉木さんの息子さんに、なんばしよったとか!!」
「げっ!ばーちゃん!!」
家の中で一番涼しい縁側で、腹ばいになって漫画を読みつつ寛いでいた禅一は飛び上がった。
野武士ように中途半端な高さで一括りにされた、ごま塩頭。
『この手で稼いで生きてきた勲章だ』と本人が評する、目元と頬に大きなシミがある浅黒い肌は、上気して赤黒くなっている。
若い頃はきっと美しかったのだろうと思わせる目を三角にして、祖母は走ってくる。
農業に従事しているだけあって、足腰は丈夫で、未だ衰えが見えない。
「別に何もしとらんよ!!」
そう言いつつ禅一は縁側を下りて脱出したが、あっという間に祖母に捕獲されてしまう。
運動神経はずば抜けているが、同世代より体が小さい禅一と、同等の運動能力を持ちながら、『大女』と周りから言われる祖母では勝負にならない。
家の中であれば、小回りを生かして逃げる事もできるのだが、外に逃げたのが運の尽きだった。
「裸に剥いて、木に括り付けられたっちゅうとったぞ!」
「いだだだだだっ!アイツは『ろしゅつのけ』があるけん、ごほーびをやったと!」
アイアンクローで、こめかみを締め上げられながら、禅一は叫ぶ。
「こ・の・へらず口がぁ〜〜〜!ばーちゃんが買った縄跳びば、そんなくだらん事に使いおって!!」
「あ、それ、俺のじゃなくて倉木の取り巻きの縄跳っっいでででででで!!」
「
再び締め上げられて禅一は悶え苦しむ。
「そこ座らんね!いつも言うとるやろ!因果応報!因果は巡るんよ!悪いことばっかりしよったら、悪いことが還ってくると!」
「いま、巡ってきとる〜〜〜」
締め上げられた目の横をさすりながら、禅一は嘆く。
「ばあちゃんの説教くらい因果に入らん!今に人前で裸を晒されるような目に遭うよ!」
「別に俺、スッポンポンで学校走り回っても平気やもん」
言い返せば、頭に拳骨が振る。
「羞恥心ば何処に捨ててきたとね!それはそれで問題やけど、因果は自分にだけ還ってくるもんやなかけんね!?ばあちゃんや譲や、いつかアンタに現れる大切なお嬢さんや、アンタの子供にも巡るとよ!!」
「え〜〜〜」
「『え〜』やない!!因果はな、自分だけに還ってくるものやないけん、大切な人を守るためにも自らを律して、清く正しく……」
「あ!わかった!」
禅一は祖母のお説教を遮る。
「倉木の馬鹿は、手下を使って譲ちゃんをひん剥こうとしたけん、俺にひん剥かれたとよ!倉木に『いんが』がかえったんよ!」
『俺は悪くない!』とばかりにそう言った禅一の頭に、拳骨が追加される。
「話ば逸らすな!………て、譲ちゃんが剥かれそうになったと?」
「うん。譲ちゃんのこと女じゃないか確かめてやるとか言って、四人がかりで剥こうとしてたから、俺がボコボコにして、逆にひん剥いて括り付けてやった」
その話を聞いた祖母は深いため息を吐き出す。
「ばーちゃん、アイツらキモいんだって。絶対譲ちゃんの事が好きなんよ。何かギラギラして近寄ってくるから、ここで一発痛い目に遭わせてやらねぇと」
ここぞとばかりに自分の正当性を主張しようとする禅一の頭に、祖母の手がのる。
「ばあちゃんは、『キモい』って言葉は好かんけん使わんと。……それはそれと、ばあちゃんも一方の言葉だけ聞いて怒ったのは駄目やった。禅ちゃんに、まず説明させんとやったな」
無罪放免となったか!?と禅一は顔を輝かせたが、最初は頭を撫でていた祖母の手に力が籠る。
「やけど、相手が悪かろうと、先に手を出したら禅一の方が悪くなると」
「いでででででっ!!」
歳をとっていても、現役農業従事者の握力は舐めてはいけない。
締め上げられた禅一は再び悶絶する。
は〜〜〜っと祖母は深いため息を吐く。
「よか?アンタらは双子やけど、いつも一緒におれんと。ばあちゃんもおってやれん。一度痛い目を見た奴らは、今度はばれんように、もっと巧妙に譲ちゃんが一人の時に仕掛けてくるかもしれん」
「……うん」
「単純に殴っとったって防波堤にはならん。……やるならもっと陰湿に。ばれんように。確実に心を折っちゃらんと」
ギラリと光った祖母の目は説教している時より恐ろしかった。
そこからの祖母は早かった。
収穫してきた作物を手荷物に、禅一を引き連れて、お詫び周りと称した、念入りな釘刺しに出向いた。
謝っているようで、巧みな言葉回しにより、『好きな相手を裸にしようとする変態だとバラして回るぞ』と釘を刺しつつ、その行為がどれだけ恥ずかしいものかと言うことを、相手らが泣き出すまで滔々と語った。
はっきりと言葉にしないのに相手を追い詰める様子は、後々の譲にそっくりであった。
「…………………あぁ、そっか……」
禅一はポツリと呟く。
『譲にそっくりだ』と思った瞬間、ここが現実ではないことに気がついた。
自分の思い通りにはならない夢でも、夢を見ているとわかっているのだから、これも明晰夢と呼んでいいのだろうか。
(目覚めが近いんだ)
禅一は祖母の隣を歩きながら、自分の長くなった影を見つめる。
虫の声も、風も、夕陽の色も、懐かしい祖母の声も、全てが鮮やかなのに、全てが自分の記憶から引っ張り出してきただけの存在であることが、悲しい。
禅一はアラームいらずの人間だ。
よっぽど疲れていなければ、体の疲れが取れて眠りが浅くなった時点で、この優しくて悲しい夢に現実に戻される。
夢で見る懐かしい光景は様々だ。
悪いことをやって叱られている場面だったり、一緒に料理をしている場面だったり、寝かしつけてくれている場面だったり。
どれも全て、祖母からの愛情に溢れた、決して戻ることができない過去の光景だ。
「泣かんで良かよ。ばあちゃん、怒るけどな、禅ちゃんは譲ちゃんば守る優しいお兄ちゃんってわかっとるけん」
最後は、いつもそうやって祖母は髪を掻き回して、カサカサな手の平全体で頬を撫でる。
怒られたことが悲しいのではない。
現実では、もうこの手に触れてもらう事がないという事実が、ひたすら悲しい。
何度見ても、この悲しみだけは拭いきれない。
「……因果は巡ると?」
そう尋ねてみれば、祖母は目尻の皺を深くする。
「巡るけど、因果は何も悪いことばっかりじゃなかけん。禅ちゃんが良か事をしたら、良か因果も巡ってくけんね」
カサカサの手が禅一の短い髪を混ぜっ返す。
「禅ちゃんは良か事ば沢山して、ばあちゃんに巡らして。ばあちゃんは、とんでもなく悪いことばしたけん、このままやと地獄行きやからね。ばあちゃんのために頼んだよ」
そう言って祖母はカカカと笑う。
祖母は若くして夫を失い、娘しか産めなかったと責められながらも、婚家に尽くした人だった。
それを祖母はずっと後悔していた。
夫の記憶が残る家を離れる決心がつかなかったせいで、女しか産めなかったと責める義両親たちと同居して、自分の娘、つまり禅一たちの母親を苦しめたと。
そのせいで母が歪み、禅一たちに因果を巡らせてしまったと。
双子から親を取り上げてしまったのは自分の愚かさだと、ずっと悔いていた。
「………ばあちゃん、ごめん」
そう呟いた瞬間、夏の始まりを告げるミンミンゼミの声が、ジージーと少し耳障りなクマゼミの声に取って代わる。
穏やかに降っていた夕日が、一気に沈み、血で染められたような強烈な赤になり、最後の力で網膜を焼くような鋭い日差しを向けてくる。
隣に立っていた祖母は消え、禅一はいつの間にか畳の上に立っていた。
(始まった……)
埃っぽくて、生ゴミや雑誌、ビールの缶、日本酒の瓶などが散乱し、据えたような匂いがする。
小学生最後の夏。
あの年は暑かったせいか、真夏の盛りに鳴くはずのクマゼミが、九月に入っても威勢よく鳴いていた。
晩夏と呼ばれる時期も超えたのに、冷房がついていない室内は、肌の上をいく筋もの汗が流れるほどの暑さだった。
周囲の暑さと裏腹に禅一の心は冷え切っていた。
『金持ちの奥さんになれるかと思って、好みでもない男と寝たのに、シングルマザーになるなんて思わないじゃない?』
そんな事を言いながら、下品に笑うのは、外見だけ美しい女だ。
いや、美しかった女だ。
『仕方ないから産んだけど、もらえるのは月々たった十万ぽっち。コイツらの父親は口だけ金持ちで、ほんとケチだったわ〜』
窓際で酒を飲んでいたかと思えば、フッと消えてゴミに包まれた小さなテーブルで、女は小さな鏡に向かって、顔を作っている。
その顔には、金を吸い取るだけ吸い取って捨てた男によって、薬品をかけられてできた火傷の痕が残っていた。
祖母は孫たちに母を悪く言う事はなかった。
しかし人の口に戸は建てられない。
事情を知る、周りの大人たちに、母の人となりや、所業を聞いて、自分の母親が、最低と言われる部類の人間であることを何となく悟っていた。
それでも実際の母親を見たら、あまりの酷さに、心が折れた。
『一人頭一千万まで出すってよ。もうちょっと粘れば、もっと引っ張れるかも』
顔を作っていた姿がふと消えたと思うと、タバコの煙を吐き出しながら、女は赤い唇を歪めて笑う。
女は顔についた火傷の痕さえ治せば、元の美しい姿に戻れると信じていたが、そのニタニタとした醜い笑顔は、美容整形で何とかできるとは思えなかった。
どんなに厚く化粧を塗り重ねても、消せない醜悪さだった。
『あの出し渋りの田舎成金、子供が出来ないんだって!ウケるよね。アタシの時は一回でできたのに』
タバコを吸っている姿が消えたと思ったら、汚い布団で下品に男と盛っている。
(すぐ終わる。すぐに目が覚める)
悍ましい光景を睨みつけながら、禅一は自分の目が覚めをひたすら待つ。
怒りや憎しみ、嫌悪で精神がブレればブレるほど、夢の内容も酷さを増す。
奥歯を噛み締めて、感情を抑え込む。
『あのババァ、意識不明だって。『あの子たちに手は出させん!』とか言いながら倒れて、そのまま死ぬって!イキがった直後に死亡とか、残念すぎて、ウケる!』
祖母を嘲る女の言葉に手が震える。
『双子は一人頭一千二百万、その上遺産まで入ってくるって、最高!ババァも最期は中々役に立ってくれるわ〜』
もう遠い過去の話なのに、祖母が永遠に喪われた事実は、たった今のことのように心を抉る。
それと同時に祖母の死を嗤う女への憎しみが湧き上がってくる。
憎い。
憎い。
憎い。
この女が憎い。
この女から産まれた我が身も憎い。
何故、大切な祖母と、自分たちを繋ぐのが、この女なのか。
憎しみに染まってしまいたいのに、この女が祖母の愛する娘だという事実が、それを邪魔をする。
この世にいた事実すら消し去りたいほど、この女を憎んでいるのに、それを願う事ができない。
感情が乱れた瞬間、
人を馬鹿にするような、
耳を塞ぎたくなるような声に、絶望が迫り上がってくる。
(今日もまた呑まれてしまう……)
この後の夢の続きは決まっている。
結末を知っていても、噴き出す汗は止まらない。
禅一は熱された部屋の空気の中で、酸欠の魚のように喘ぐ。
「ゼン!」
その時、涼やかな声が唐突に響いた。
そして熱気を払うように、風を纏った、真っ白な腕が禅一を捕える。
「!?」
その手は、迷いなく、禅一を引き寄せる。
「っっ!?」
柔らかな感触に、顔から突っ込んだ禅一は面食らってしまう。
こんな展開の夢は知らない。
こんな風に体を包み込む体温も知らない。
(あの女か!?)
そう判断した瞬間、禅一は自分を拘束する腕に抗う。
小学生の体は無力だが、何とかもがいて拘束を緩めて、相手の顔を睨み上げる。
「………………」
しかしそこにあったのは、化粧に塗り固められた顔ではなかった。
全く化粧っ気のない、オリーブ色の瞳と薄紅の唇をまん丸に開いた、十人が見たら十人が『驚いた顔』と断言するだろう、わかりやすい驚きの顔だ。
(誰だ?)
禅一がきつい目のまま睨みつけていると、驚き顔が一転、へにゃりと眉が下がり、悲しそうな顔になる。
「抱っこ、嫌い?」
明らかにショックを受けた表情で、そう聞かれて、今度は禅一が目と口を丸くする番だった。
外見は明らかに大人なのだが、その素直すぎる表情は、幼な子のようだ。
濁りのない透き通った声は、ショックを隠しきれずに震えているし、オリーブ色の瞳はみるみる間にしっとりと潤って、今にも水分が溢れてきてしまいそうだ。
こうも分かりやすく傷付かれると、敵意を向け続けることは不可能だ。
「……………」
驚くほど素直に感情を表す相手に、どう対応したら良いのかがわからない。
全く未知の存在だ。
禅一が戸惑っていると、泣きそうだった女性は『思いついた!』とばかりに、目を見開いたかと思うと、満面の笑みを浮かべる。
感情は素直に出てくるし、コロコロと表情が変わる。
「ゼン、いーこ、いーこ」
そして髪の毛を梳かすようしてから、頬を手の平で包むようにして撫でる。
「………………」
髪を掻き回すような強さはないが、その撫で方は祖母にそっくりだった。
懐かしい感触に、心が震える。
どうしようもない喪失感と、懐かしい気持ち。
夕方の空を見た時のような郷愁に、胸が切なくなる。
それを察したように白い手が、再び伸びてきて、そっと壊れ物を扱うように、慎重に禅一を抱き寄せてくる。
今度は抵抗しなかった。
ふわりと体温に包まれると、得も言われぬ安心感に満たされる。
「だいじょぶ、だいじょぶ」
少しおかしな発音は、禅一の『外国人はこんな喋り方をする』という先入観から生まれたのだろうか。
透き通った、柔らかな声で、そう言われ続けると、口から安堵の息が溢れる。
背中を撫でる感触が優しくて、体から力が抜ける。
「………………」
自分の記憶から作り出された夢の人物に、慰められると言うのも変な話だが、緊張が解けて行くのを感じる。
「だいじょぶ、だいじょぶ」
抵抗せずに身を委ねると、その腕の中は、温かくて、柔らかくて、声が近く聞こえて、安心できる。
ようやく息が深く吸えた気がした。
「因果が巡るぞ」
それなのに、安心して目を閉じようとした瞬間、視線の先に『あの』光景が広がる。
美しさを武器に、傲慢に人の財を食い潰し、無慈悲に善意を踏み躙った女が倒れている。
どんなに最低でも、祖母が愛していた唯一の娘が、自分が食べ残したカップ麺に塗れ、ゴミの一部のように惨めな姿で倒れている。
そこに美貌で人々を虜にしていた面影はなく、喉を切り裂かれ、顔を醜く怒りに歪めながら、黒い血を吹き出しながら死んでいる。
「お前も因果に食われる!」
ゲタゲタと狂ったような
「巡るぞ!巡るぞ!因果だ!因果だ!!お前の大切な相手にも巡るぞ!!」
喉を裂かれた女が笑えるはずも、喋れるはずもない。
しかし響いているのは、あの女の声だ。
女から吹き出す黒い血が、少しづつ、こちらに移動してきている。
「因果が……」
それに自分を守るように抱きしめている人は、気がついていない。
「ゼン?」
彼女は小さく首を傾げるので、禅一は恐ろしい存在を指し示す。
「…………!」
禅一の指の先を見た女性は鋭く息を呑む。
「見ちゃ駄目!!」
そして何よりも先に、禅一の頭を抱き込んで、視線を遮った。
「だいじょぶ」
彼女は守るように、そのまま禅一を抱きしめる。
しかし禅一は知っている。
(違う、駄目なんだ)
誰にも遮る事はできない。
因果は既に禅一と繋がっている。
逃げられないのだ。
女から噴き出る血は、その場で沸騰するかのように泡立ち、真っ黒な、タールのような物質に変わっていく。
「因果が……巡る」
遂に悪夢のフィナーレだ。
「いんが?って……っっっ!」
呪いが腕に食らいついてくる。
腕が焼けつくように痛む。
「離れて!」
禅一は息を呑んだ女性を突き飛ばす。
夢の中の禅一はいつも無力で、大切な人たちが食い殺されるのを、ただ見ていることしかできない。
しかしこの女性は知らない人だ。
彼女が食われる所は、見なくて済むかもしれない。
急速に悍ましい感触に身体中を覆われながら、禅一は安堵した。
「離れない!」
しかし離れかけた手は、力強く禅一を抱き込む。
そして沸騰するタールに呑まれた禅一の左手を、迷わずに掴む。
黒いタールが彼女の顔や体に飛び散るのも、お構いなしだ。
(あぁ………この人も食われてしまう………!!)
そう、禅一が絶望に目を閉じた瞬間だった。
高く、鋭く、そして力強い音が、悪夢の部屋に響いた。
この夢には相応しくないほど清麗で、力強い。
その音が響くと同時に体を蝕む、痛みが止まる。
「………?」
薄く目を開けると、堂々と胸を張り、挑戦的な輝きを宿した瞳で、悍ましい動きを見せるタールどもを見据えている姿が見えた。
あまりに高く澄んだ音なので、何かの楽器の音かと思ったら、その音は微笑む唇から紡がれている。
黒鳶色の柔らかな曲線を描く髪が、ふわりふわりと流れる空気に合わせて、踊るように揺れる。
(………歌………?)
高く、低く、全く知らない言語で歌が紡がれる。
その声は空気を振るわせ、踊らせ、禅一に張り付いていた真っ黒な塊を浮かせる。
徐々に重力から切り離されて行くように、塊たちが浮いて、千切れ、小さくなって、蛍ような燐光を放ちながら舞い上がる。
禅一から離れれば離れるほど、重力の干渉がなくなるようで、一旦浮いた黒い塊はあっという間に、蛍の群舞に加わり、舞い上がっていく。
(洗濯洗剤のCMみたいだ)
雅を解する心や、デリカシーを何処かに置き忘れてきた禅一は、そんなことを思ってしまう。
黒い塊が浮いて行く様子に、界面活性剤が洗濯物の汚れを浮かす図を、思い出してしまったのだ。
「………………」
加速度的に数を増やして、舞い上がる燐光に禅一は見惚れる。
燐光に合わせて
柔らかそうなその髪を辿れば、清々しく、少しだけいたずらっぽさを含んだ微笑みが、禅一を迎えた。
光に包まれた姿は神々しいのに、その笑顔の子供っぽさが、彼女に人間味を与えている。
「……………っ」
この時になって、妙齢の女性に、抱き寄せられて、手を握られている事を思い出し、落ち着かなさを感じる。
彼女は『見ていて』とばかりに笑って、高く高く歌声を上げていく。
それと共に、禅一の手首から最後の悪意を空に返すように、上に向かって手を振った。
その手からは沢山の光の粒子が舞い上がる。
(夢みたいだ)
そう思ってから、本当に夢だったことを思い出して、禅一は不思議な気持ちで彼女を見上げる。
「ね?だいじょぶ」
そんな禅一に、満面の笑みが返される。
どの記憶から、こんなに生き生きとした人を作り出せたのだろう。
この人は本当に自分が作り出した夢の住人なのだろうか。
「あ………」
そんな事を思っていたら、彼女は驚いたように自分の手を見た。
透き通るように白い手が、本当に透けてしまっている。
見れば悪夢の小部屋からは色が消え、全ての風景が白んでいる。
もう蝉の声も、息が詰まりそうな熱気もここにはない。
悪夢の終わりだ。
こんなに穏やかな終結は初めてかもしれない。
「ずっと私がそばにいるから!怖い夢なんてやっつけちゃうからね!」
半分透き通って消えかけても、やっぱり生き生きとした彼女は、拳を握り、力こぶを作って、そう宣言する。
細い腕には、力こぶとはとても呼べない、申し訳程度の膨らみしか出来ていないのは、ご愛嬌だろう。
『因果が巡る』
彼女の元気な声には、そんな呪いの言葉すら断ち切ってしまいそうな力がある。
そんな姿もどんどん透き通って、白んだ周りの一部になっていってしまう。
消えないで。
そう願った禅一の頬に、ほぼ消えかけの彼女は手を伸ばす。
ほとんど透明になっているのに、それでも生気に満ちた笑顔を見ながら、禅一はその手が頬に触れるのを待った。
ペチン
しかし優しい感触を待っていた頬には衝撃が降ってきた。
「んぁ………」
と、声を出したのは現実の声帯だった。
声が出ると同時に、目の前には見慣れた自分の部屋が広がる。
「………?」
周りの明るさに禅一は眉を寄せる。
日の出間際の薄暗さではなく、既に太陽が昇ってしまった明るさだ。
「…………え?」
スマホを手繰り寄せて時刻を確認すると、時間は既に八時を超えている。
「うわっ!寝坊だ!!」
慌てて禅一は体を起こす。
「んぶっ!」
すると胸にくっついていたアーシャがポロリと落ちて、顔からベッドに突っ込んでしまった。
「うわっ!ごめん!!」
いつもは起こさないように気遣うのに、驚き過ぎて、やらかしてしまった。
「ん〜〜〜?」
くしゃくしゃの柔らかい髪が、ソフトクリームのように盛り上がり、まだ寝たいと言っている目は半開きで、頬にはシーツのシワがついている。
「………おはよぉ」
ゴシゴシと目を擦る小さい手の間から見える瞳は、カーテンから差し込んでくる光でオリーブ色に煌めいている。
「……ぁ……」
それを見た瞬間、夢の中の女性が、誰を元に作り出されたのか、わかってしまった。
子供のような笑顔を見せ、不思議な歌を紡ぎ、奇跡を起こす。
間違いなくアーシャが原型だ。
(自分で思っている以上に、頼りにしてしまってるんだなぁ)
大男がこんな小さな子に頼るなんておかしな話だ。
(だからこそ年齢を逆転させるような夢になったのか)
あまりのご都合主義に、自分で自分がおかしくなってしまう。
「おはよう」
頬に触れると、眠たそうな目を細めてアーシャは笑う。
カミナリ様の頭のようになっている髪を、指で梳かすと、アーシャは気持ちよさそうに目を閉じる。
(アーシャが大きくなったら、あんな風になるのかな)
禅一は夢の中の神々しさすら感じる姿を、クンクンと鼻を鳴らす姿に重ねようとする。
ごぎゅりゅるるる〜〜〜
しかし派手な腹の虫の演奏に驚いて飛び上がる姿には重ならない。
禅一は吹き出しそうになったが、子供なりに恥ずかしがっているアーシャに気を遣って、なんとか堪える。
「まず、ご飯だな!」
そういうと、パァッと満開の笑顔の花が咲く。
「ごあん!」
この家に女神は要らない。
食いしん坊で、ご飯ひとつで、こんな笑顔を見せてくれる子がいれば、それで良い。
近年稀に見る快眠を得て、すっきりした禅一はアーシャを抱えて、朝ごはんへと向かった。
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