7.聖女、魔法使いを降す

1.聖女、夢を見る

(……眩しい……)

まぶたの上からでも感じる強烈な光に、アーシャは目を開けた。

「…………?」

先の方に目を焼くような、強い光が確かにあるのに、何故か彼女の周りには闇が広がっている。

一体自分がどんな所に立っているのかすらわからない暗さだ。

(あっち?)

アーシャは仕方なく強烈な光に向かって歩き出す。


(ベタベタして気持ち悪い地面だわ)

柔らかくはないのに、足を上げる度に、地面自体が吸い付いてくるように、まとわりつく。

「ん?」

暫く進むと、人影らしき物が見えてきた。

子供だろうか。

強烈な光に照らされた空間に、小さな影がポツンと立っている。


少し警戒しつつも、アーシャはその人影に近づいていく。

「おひゃっ!」

しかし、不意に、ねばつく粘液の塊のような物に突っ込んでしまって、アーシャは声を上げた。

「???」

慌てて下がるが、目の前には何もない。

否、正しくは、目には見えない、ベタベタとした膜のようなものが存在している。

恐る恐る手を伸ばして、粘着性の透明の膜のような存在を確認して、アーシャは顔を顰める。


(気持ち悪いなぁ)

このベタベタには触りたくない。

そう思ったアーシャは前進をやめ、その場から先の人影に目を凝らす。

人影を中心に光を吸い込む闇は遠ざけられているようで、そこだけ強烈な光が広がっている。

光の正体は、朝焼けか夕焼けかわからない、強烈な日差しだ。

窓らしい所から差し込み、人影を浮き上がらせている。


(黒髪の男の子……かな?)

人影の周りは、色々な物がごちゃごちゃと積み上がっていて、見辛い。

黒色の髪を短く刈り込んだ少年のように見えるのだが、確実ではない。

(顔が見える方に行けないかしら?)

アーシャは人差し指で透明の膜を辿り、最小限の接触で、膜に沿って歩き始める。


(どこかの部屋……なのかな?)

人影は四角い部屋の中に立っているように見える。

不思議なことに、アーシャの前の壁だけは消えて、内部が見えるようになるのだ。

自分の歩みに従って壁が消えたり現れたりする奇妙な状態なのだが、アーシャは大きな疑問を感じずに、膜の中を見ながら歩く。


(それにしては随分と汚い……)

赤い日差しに照らされた室内は、それが何か判別できないような物が、乱雑に積み上げられている。

床には、草を編んだ、お馴染みの敷物が敷いてあるのだが、物で埋め尽くされて大半が見えず、人が動く範囲だけ顔を出している状態だ。

せっかくの敷物に何かが腐ったような汁が広がっている所もある。

(草の敷物が腐っちゃうわ)

アーシャの国なら路地などで当たり前に見る光景だが、すっかり清潔生活に慣れてしまったので、異様に見える。


「んんん!?」

膜を伝って移動していたアーシャは目を見開く。

少年の横顔が見える位置にまで来たのだが、その顔に見覚えがあった。

「ゼン!!」

それはバニタロの記憶の中で見た、小さい頃のゼンの姿だった。


「ゼン!ゼン!ゼ〜〜〜ン!!」

アーシャは嬉しくなってブンブンと手を振る。

しかし膜が音を遮るのか、少年のゼンは立ち尽くしたままで、アーシャの方を見てくれない。

凍り付いたように一点を見つめている。

「………?」

アーシャに気が付かないのは仕方ないとして、ゼンの表情が気になる。


バニタロの記憶の中で見た、あの輝くような表情じゃない。

全ての感情が抜け落ちたような顔で、その目は先ほどの闇のように光がなく、温度を感じない。

およそゼンらしくない。

「ゼン………?」

アーシャはベタつく地面を気にしている場合ではなくなって、膜の切れ目を探して、足を早める。


移動するに従って、少しづつ見える角度が変わり、何かを冷酷に見下すようなゼンの表情がはっきりと見えるようになって、アーシャは驚く。

ゼンはいつだって優しくて、お日様のようで、絶対の安心感があって、まるで理想の『お父さん』のようだった。

そのゼンが、あんな表情をするなんて信じられない。


(ニセモノかも)

そう思ったアーシャは目を凝らす。

黒い短髪に、黒い瞳、太陽が似合う褐色の肌。

形はそっくりだ。

しかし雰囲気がどうも違う気がする。

「………えっ………」

偽物確定かなと思いつつ、観察を続けていたアーシャは思わず声を出してしまった。


全てが凍り付いた氷像のような姿の中、その握り締めた拳が、細かく震えているのだ。

「ゼンっっっ!!」

何か激情を堪えるかのように握り締められた拳に気がついたアーシャは、大きな声を上げた。

そして少し後ろに下がってから、気持ち悪い感触の膜に向かって、走り出した。

「くぉのぉぉぉぉ!!!」

べたりと張り付く膜は気持ち悪いが、透明なこともあり、すぐに破れそうでもある。

アーシャは顔を左右に引っ張り伸ばされながらも、膜に向かって全力で走り込み、めり込んでいく。


何でそこに少年姿のゼンがいるのかわからない。

本人じゃないような冷たい表情も、光のない瞳も意味がわからない。

そもそも雰囲気が違いすぎて、本当に本人なのかもわからない。

しかし感情を潰すように、震えるほど固く握り締められた拳を見ていたら、走り出さずにはいられなかった。

例えそっくりさんでも、ゼンの姿で、感情を殺さねばならないような状態になっているなら、放っておけない。


「んぬぅおぉぉぉ〜〜〜!」

足を激しく動かしていたら、プルンと粘膜の間に飲み込まれるような感触と共に、光の中に押し出された。

「………入れた!」

急に前に進んだため、たたらを踏んだがアーシャは何とか転ける事を回避する。


膜を抜けた途端、その耳に、ジーワジーワと物凄い騒音が届く。

全ての音を打ち消すような酷い大音量だ。

それとともに、身体中にまとわりつくような、気持ちの悪い熱気がアーシャを包む。

足元はよくわからない物が散乱していて、ザラザラしている。

一気に五感が戻ってきたような変な感覚だ。


しかしそんな事は瑣末な事である。

「ゼン!」

アーシャは少年の姿のゼンに駆け寄り、迷わずに抱きしめる。

少年のゼンはとても小さくて、アーシャの胸ほどまでしかない。

(あ……体が、元の大きさになっている)

ゼンの小ささと、自分の大きさに気がついたアーシャは、ホッと息を漏らす。

小さな体のままでは、彼の足に張り付くのがせいぜいで、彼を外界の全てから守るように抱きしめる事ができない。


アーシャの腕の中でゼンは体を緊張させて、抵抗する素振りを見せる。

少し体を離してゼンを見れば、猫の首を噛み切ってやろうとする鼠のような視線をアーシャに向けている。

ニセモノでも、ゼンに似た存在に敵意を向けられると、悲しくなってしまう。

「抱っこ、嫌い?」

思わず泣きそうな声が出てしまった。


アーシャはゼンに抱っこしてもらうのが、とても好きだ。

そうしてもらえるだけで、気分がとても落ち着く。

きっとゼンもそう感じるから、アーシャが怖がったり悲しくなった時に抱きしめてくれるのだと思っていたのだが、違っていたのかもしれない。


アーシャは不安に思って、腕を浮かしながら、相手の返事を待つ。

「………………」

その顔を覗き込むと、ゼンの姿をした少年の目は大きく見開かれ、敵意が消える。

やや、呆然とアーシャを見つめている。

(あ、言葉が通じないのか)

きっと少年は何を尋ねられているのか、わからないのだ。

「ゼン、『いーこ』『いーこ』」

アーシャは数少ない知っている単語での交流を試みる。

いつもゼンがやってくれるように、頭を梳かすように撫で、頬に優しく触れる。

本当は遠慮なく髪をかき回す撫で方が好きなのだが、壊れる寸前の硝子のような目をした少年にはできなかった。


大きく見開かれた目が、動揺するように細かく動き、吊り上がっていた眉がくしゃりと下がる。

その表情があまりにも頼りないので、思わずアーシャは手を伸ばした。

嫌がられないか、確認しながら、そっと抱き寄せると、今度は抵抗されなかった。

「『だいじょぶ』、『だいじょぶ』」

アーシャが使える単語は少ない。

壊れ物を扱うような慎重な手つきで、アーシャは小さな背中を撫でる。


最初は少し距離を保つように力が入っていた体は、背中を撫でるたびに、柔らかくなっていく。

更に背中を撫で続けると、少しだけアーシャに体温が寄りかかる。

「い……が……」

少年は何か呟いたが、部屋の中はジーワジーワと騒音が激しく、聞き取れない。

「ん?」

聞き返そうとしたのだが、何かを呟いた少年は、再び一点を見つめて凍りつく。


アーシャの腕の中に収まる体が、急に震え始める。

「ゼン?」

部屋の中は、見えない蒸気の中に閉じ込められているように感じる熱気なので、寒いということはないだろう。

だとするとこの震えは怯えからくるものだろうか。


少し体を離して、顔を覗き込もうとすると、震える少年の手が何かを指差す。

「…………!」

この部屋にはゴミしかないと思っていたのだが、何やら筒状の硝子が割れた先に、長い茶色の髪の毛が広がっている。

そしてその髪には顔がついていて、その下には体もついていた。

しかし顔と体の間にあるはずの首が見えない。


首がないのではない。

そこから迸る赤黒い液体が隠しているのだ。

「見ちゃ駄目!!」

アーシャはそこに転がっているものが何か、わかった瞬間に、少年の頭を腕の中に匿っていた。


部屋に入ったときは、ゼン似の少年以外、人間はいなかった。

例え、倒れていたとしても、こんなに大きな人影を見逃すはずがない。

(突然湧いて出た?)

アーシャは初めて今の状態に不自然を感じた。


光があるのに真っ暗な空間も、粘り気のある透明な膜も、膜を抜けた先に普通に存在する部屋も、荒唐無稽な夢のようなのに、アーシャは何の疑問も持っていなかった。

(これは……夢?)

夢にしては鼓膜を揺らす不快な振動も、体を包む不快な熱気も、腕の中にある温度も、生々しい。

しかし床に臥した女性の様子は、現実ではあり得ない。

何故なら、首から勢い良く噴き出し続ける血の勢いが、全く衰えないからだ。

脈を打つように噴き上がる血は、まるで本物だが、人間の体にはこんな勢いで噴き出し続けられるほどの血液は存在しない。

しかも、これだけの血が吹き出し続けているのに、周りには血の染みが広がっていない。


これは絶対に夢だ。

そう思うのに、やけに生々しい感覚と、腕の中の少年の揺れる瞳が、拒否する。

「『だいじょぶ』」

例え夢だったとしても、彼を守りたい。

そう思ったアーシャは、震える体をグッと腕の中に匿う。

「『いんが』が……めぐる」

耳がおかしくなりそうな騒音の中だが、少年との距離が近かったので、その言葉ははっきりと耳に届いた。


「いんが?って……っっっ!」

そう、アーシャが声に出したのが、早かったのか、異変が起こる方が早かったのか。

指差していた少年の手に、噴き出していた赤黒い液体が絡み付いた。

アーシャが息を呑む間に、液体はどす黒く変色し、粘着性の毒液のようにドロリと、少年の腕を飲み込んでいく。

「離れて!」

あっという間に片腕を、ヘドロのような液体に食われ、更に侵食されながら、少年はアーシャを突き飛ばす。


「離れない!」

しかしアーシャはがっしりと少年の頭を抱え込み、抵抗する。

(人の血液がこんなヘドロのようになることなんてあり得ない!)

となれば、これは恐らく呪いに近いものなのではないだろうか。


一口に呪いと言ってもピンからキリまであり、キリの呪いは魔力操作の初歩の初歩でできてしまう……らしい。

魔力を持たないアーシャには、全くわからないのだが、自分の魔力を相手に縁付かせる事が、一番下の呪いらしい。

そうすることによって、魔力を持っていない人間に、ほんの少し影響を出せると言う。

ただ、魔力がなくても健全な心身を持っていると、跳ね返せたりする程度の影響らしい。


この相手に縁付かせた魔力を燃やしたり、冷やしたり、切り裂いたりして、物理的なダメージを与えるのが魔法だ。

(物理化されようと呪いは呪い!魔力の供給を絶てば防げる!)

魔力の元である魔素は、極限まで薄められた瘴気である。

瘴気をすっきりさっぱり消し飛ばして、ついでに魔法使いまでとばっちり浄化して無力化してしまったりして、大顰蹙を買っていたアーシャに防げないはずがない。


呪いが飛び移ってきたと思われる、少年の手首を、アーシャはしっかりと掴む。

そして肺いっぱいに息を吸い込み、高らかに声を上げる。

本来は舞踏により大地の神気を呼び起こして使用するのだが、生憎少年を捕まえたままではできない。

しかし呪いを剥がす程度なら、声だけでも何とかなるだろう。


アーシャの歌声が響き始めると、ヘドロはピタリと動きを止める。

———退け

音に強い力を乗せると、ヘドロがゆっくりと少年から剥がれ、外側からハラハラと光の粒となって、飛散し始める。

浄化までできると思っていなかったので、アーシャは目を丸くするが、更に音を紡ぐ。


顔までヘドロに覆われそうだった少年は、消えていく光を呆然と見送り、我に返ったように、アーシャを見上げる。

(もう、大丈夫)

アーシャは歌を止めることはできないから、そんな気持ちで、少年に微笑む。

「……………っ」

先程まで、凍りついたようだった少年の顔に、赤みがさす。

それがアーシャには嬉しくて、更に高らかに歌う。

ヘドロたちは次々に光となって舞い上がり、最後に残った少年の手までが解放される。

アーシャは少年の手を掴んでいた手を離し、最後のヘドロを空へ舞い上がらせる。


「ね?『だいじょぶ』」

一緒に最後の光を見送って、アーシャは笑いかける。

抱きしめていた腕には、もう震えは伝わってこない。

光を取り戻した目がアーシャを見上げている。

(やっぱりゼンだ)

その表情を見て、アーシャは確信する。


いつもは見上げる黒い髪が、下に見えるのが不思議で面白い。

意志の強そうな眉に、陽の恵みをしっかりと受けた褐色の肌、今よりもずっと大きく感じる、黒曜石のように煌めく瞳。

小さくても、ゼンはこうでなくてはいけない。

アーシャは満足して微笑みながら、強烈に差し込んでいた光も、窓も、壁も、地面に転がっていたゴミたちも、薄くなって消える寸前であることに気がついた。


「あ………」

見れば、自分の手まで透けている。

夢の終わりだ。

先程までの息苦しいまでの暑さも、騒音もなくなっている。

「ずっと私がそばにいるから!怖い夢なんてやっつけちゃうからね!」

通じないとわかっていても、アーシャは言わずにいられなかった。

そしてどんどん景色が白んでいく中、夢のゼンに向かって手を伸ばす。

最後にもう一度彼の頬を撫でて安心さたかったのだ。



しかしその手は、夢のゼンに届くことはなかった。



空中に差し出していた小さな手は、フラフラと空中を彷徨った挙句、重力に引かれて、倒れる。

そしてペチンっと何かを叩く感触が手に伝わる。

「んぁ………」

直後に先ほどの少年とは全く違う、低い声が響く。

「…………え?うわっ!ねぼーだ!!」

「んぶっ!」

アーシャが張り付いていた小山が動いて、ボスンとアーシャは寝具にめり込む。

「うわっ!ごめん!!」

「ん〜〜〜?」

まだくっついていたいとゴネる瞼を引き剥がすと、珍しく頭に寝癖をつけたゼンが、そこにいた。

いつも通り大きい。


「………『おはよ』」

目をこすりながら、そう言うと、何故か目を見開いてから、ゼンは小さく吹き出した。

「おはよー」

そして夢の中でアーシャがそうしたように、頬を撫でて、上に盛り上がった髪を梳くようにしてくれる。

それが気持ちよくて、アーシャはうっとりと目を閉じる。

すると、鼻に何とも芳しい、甘い匂いが迷い込んでくる。


ごぎゅりゅるるる〜〜〜


寝起きでも元気なアーシャの腹の虫が三重奏くらいの複雑な音をあげる。

アーシャは慌ててお腹を押さえると、ゼンはいつものお日様のような笑顔で、抱え上げてくれる。

「まず、ごはんだな!」

やっぱりゼンは笑っているのが最高だ。

「『ごあん』!」

アーシャも安心して笑い返すのだった。



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