9.聖女、狂乱する(前)
「かっるびっ!」
「かっゆびっ!」
「ろっおすっ!」
「ろっおしゅっ!」
「たー・んっ!」
「ちゃーんっ!」
「は・ら・みっ!」
「は・や・みっ!」
「みぃぃぃのっ!」
「にぃぃぃのっ!」
最初にシノザキが節をつけて歌い、それを真似てアーシャが歌う。
シノザキが歌ったらアーシャを指さし、アーシャも歌ったらシノザキに順番を戻すように指さし返す。
ゼン不在のままのお出かけに不安が高まってしまったアーシャのために、シノザキが始めた遊びは結構面白い。
最初は歌だけだったのだが、そのうちシノザキは身振りまで始めたので、アーシャもそれを真似る。
(真似をするだけなのにすっごく面白い!!)
これが面白くて、時々笑いが止まらなくなって、歌えなくなってしまうほどだ。
賑やかなアーシャたちに、最初こそユズルは文句を言っていたが、そのうち諦めてしまった。
「あ!」
すっかり楽しくなってしまっていたアーシャの目に、大きな人影が映る。
「ゼンっ!!!」
アーシャは高くなったテンションそのままに、『くるま』の中から大きく両手を振る。
こちらは移動しているので、気がついてもらえるかなと一瞬不安に思ったが、ゼンはすぐに気がついて破顔する。
そしてアーシャと同じように両手を振ってくれる。
ゼンが立っているのは、物凄く豪華な建物の前だ。
建物自体も巨大で美麗なのだが、その周りには洒落た植物が植えられ、入り口の前には、なんと昼だと言うのに、篝火が焚かれている。
太陽が昇っている間は、明かりとして全く意味をなさないと思うのだが、火は周りの空気を揺らめかせながら、轟々と燃え上がっている。
(暖をとるなら話は別だけど……昼の間は節約したらいいのに)
貧乏が染みついたアーシャには燃料の無駄使いにしか感じないのだが、きっとそんな事を気にする必要がない、お金持ちの家なのだろう。
(ゼンはどうしてお金持ちの家にいるんだろう)
アーシャは手を振りながら、疑問に思う。
『くるま』が停まると、手を振っていたゼンはアーシャの元に走り寄ってきて、そのドアを開けてくれる。
「ゼン!っっ…………!!?」
喜んで彼の方に手を伸ばそうとしたアーシャだったが、外からの空気が流れ込んできた瞬間、動きを止める。
(な、な、何なの!?何なの!?何なの!?空気が美味しい!?空気が美味しい!!)
それは初めての体験だった。
今までも美味しそうな香りとか、食欲をそそる香りは嗅いだことはある。
しかし今、周囲を漂っている香りは、暴力的なまでに胃袋に響く。
空気が美味しい。
そんな表現しかさせない力を持っている。
「おわっ!!」
気がついた時には閉めていた唇から、滂沱の涎が染み出し……いや、噴き出していた。
垂れる寸前で、いつの間にかゼンの隣に来ていたイズミが、アーシャの口の下に布を当ててくれる。
アーシャは慌てて涎を飲み込むが、息を吸ったら味付きの空気が入ってくるので、涎は次から次に、とめどなく溢れ出してくる。
アーシャの脳は、この匂いを食べ物と判定したようで、さあ噛めと指令を下してきて、カチカチと歯が鳴ってしまう。
この体が狂喜する香りは何なのだろう。
「はお……はう……」
ただでさえお腹が減っていた所に、質量のない美味しい空気が次々と入ってくるものだから、アーシャは間抜けな声を出してしまう。
これ以上嗅いだら、意識が飛んでしまいそうなのに、やめられない。
嗅覚によって脳が支配されている。
「アーシャ、おにく!」
卑しさ全開のアーシャに呆れる事なく、ゼンは『くるま』から取り出したアーシャを優しく抱え上げて、建物を指し示す。
「おに、おに、おにきゅ?」
脳の暴走により、勝手に咀嚼するように動いてしまう口で、苦労しながら真似して聞き返すと、ゼンはニコニコと笑いながら頷く。
そしていつもよりも弾むような歩き方で建物へ向かう。
「???」
ゼンも、イズミも、シノザキも。
珍しい事にユズルまで浮き足立っている。
狂喜乱舞している訳ではないけど、一緒にいると幸せな気分がお裾分けされるような、不思議な空気だ。
(ここは……こう、現地の人々も嬉しくなる場所なのかな?すっごく美味しい匂いがするし!)
アーシャもつられて、謎の期待感に胸を膨らませる。
この建物から芳しい香りは湧いてくるのだから、扉の中はさぞ凄い匂いなのだろうと思ったが、建物に通じる扉を開けても特に香りは強くならない。
「?」
クンクンと思い切り鼻から空気を吸い込んでも、外より匂いが濃くなった感じはしない。
むしろ薄くなったような気さえする。
建物の中はとても落ち着いた雰囲気で、飴色になった歴史を感じる調度品が並び、通路に沿うように沢山の小部屋がある。
各部屋を仕切るのは硝子の扉で、目隠しをするように、上半分に洒落た木の装飾が施されている。
目隠しで上の方は見えないが、どうやら小部屋にはテーブルと椅子があり、皆、食事をしているようだ。
かちゃかちゃと食器の音らしきものも聞こえる。
(ここ、お金持ちの家じゃなくて、食事をする所だ!!)
そう確信した瞬間、アーシャのお腹が、待っていましたとばかりに大声で空腹を訴え始める。
アーシャの腹の虫の大きさに、彼女を抱っこしているゼンも驚いて目を見開く。
「あっ、あっ、あっ……!」
元々お腹が空いた状態で、物凄く美味しい匂いを沢山嗅いだアーシャの胃は、完全に戦闘モードになってしまっていて、その
鳴いている辺りを必死に押すが、複雑に奏でられている音に無駄な強弱がついてしまい、更に音が目立ってしまう。
———アシャ イブクロ ゲンキ タクサン タベル オオキク ナル
音よ吸い込まれろとばかりに、胃に押し付けたバニタロは、良い事だと褒めるような口調で言うが、アーシャは消えてしまいたい。
アーシャが額を押し付ける形になっている、ゼンの懐に入っている『かたな』も、喋ることはないが、『しっかり食べろよ!』とでも激励するように、パリパリと明るい光を放つ。
「だいじょーぶ、だいじょーぶ」
恥ずかしくて懐に潜り込むように丸くなるアーシャの背中を、ゼンは優しく撫でてくれる。
最悪な事に、ゼンのそんな言葉に、アーシャの腹の虫がギュルル!と元気に返事してしまう。
(全身くまなく食い意地が張っている自分が恥ずかしい………!!)
この国では食欲があったり、よく食べることは良い事とされているようなのだが、アーシャの国では食べる事に執着する事は、卑しい事だとされていたので、中々顔から熱が引かない。
「おぉ!きたかい!」
そうこうしていたら、初めて聞く声が聞こえてきた。
顔を上げると、建物の一番奥とおぼしき部屋の前に、アーシャたちは来ていた。
足元には飴色に磨き上げられた大きな木の板があって、硝子の扉が開けられた先に、この国で時々見かける草で編んだ敷物が敷き詰められた部屋がある。
そこに顔に大きな刃物の傷痕があるお爺さんが立っている。
親しさを感じる声色だったので、もしかしたら誰かの身内なのかもしれない。
にこやかに皆を迎え入れようとしていたお爺さんは、アーシャを見た途端、目を見張る。
(うぅ……恥ずかしい)
初対面の人を前にしても、腹の虫が鳴き止んでくれなくて、アーシャは羞恥のせいで体温が上がり、汗が滲むのを感じる。
「いや、かわいーねぇ!」
恥ずかしさのあまり、更にゼンの懐にめり込んでいっていたアーシャに、そんな声がかけられる。
(この国の『かわいーな』の意味がわからなくなっちゃう!!)
アーシャの解釈では、こんな卑しい子供は『かわいーな』に入らないはずだ。
そんな事を思っている間に、アーシャの靴は脱がされて、磨き上げられた飴色の板の上に下ろされる。
隠れる場所がなくなってしまったアーシャは右往左往してしまうが、すぐにゼンも靴を脱いで上がってきてくれたので、その足に飛びつく。
「アーシャ、こ・ん・に・ち・わ」
そんなアーシャの頭を撫でながら、ゼンはお爺さんへの挨拶を促す。
「こっ、こんいちゃ!!」
せめて礼儀だけは守ろうと、アーシャは鳴り続ける腹の虫に負けない音量で、老人に向かって声を上げる。
「おぉ、おぉ」
そんなアーシャに老人は目尻を下げて笑ってくれる。
「……………あ」
正面から老人の顔を見たアーシャは思わず、呟いてしまう。
(この人の左目……見えていない?弱くなっている?何か入っている?)
老人の左目に違和感を覚えたのだ。
眼球は綺麗な形をしているが、何かがおかしい。
何かが欠けていて、代わりに何かが入っている。
根拠がある訳ではないが、何となくそう感じる。
「じゃまじゃま」
ゼンの足に掴まったまま、ジッと老人を見つめていたら、アーシャはヒョイっと後ろから来たユズルに持ち上げられる。
小脇に担がれた場合、巻き付くと安定するという知見を得たが、今度は両脇を持ってぶら下げるものだから、またしても安定しない。
(せめて、持ち方を統一してくれたらっっ)
ジタバタと空中を歩くように足を動かして、アーシャはバランスをとる。
「ひょっ!?」
ユズルはそんなアーシャを椅子の上に着陸させる。
「おぉぉぉぉ〜〜〜」
座らされた椅子を確認してアーシャは声を上げる。
両側に手すりがついていて、お尻の下には程よい硬さのクッションが敷かれていて、小さな玉座のようだ。
皆はただのクッションに座っているのに、アーシャだけ特別待遇で申し訳なくなるくらい良い椅子だ。
「?」
椅子に感動していたアーシャは、目の前の卓に視線を移して、首を傾げる。
暗赤色に黒い模様が入った、石か木か良くわからない材質の長い卓には、中央に二つ、丸い穴が空いている。
何だろうと伸び上がって見ると、まん丸な金属の輪っかの中に、金属で作った籠のような物が置いてある。
(
卓の真ん中に、こんな穴は邪魔なだけに感じる。
何かその下に重要な物が置いてあるのだろうか。
「アーシャ、アーシャ」
金属の籠の下を確認しようと、更に伸び上がろうとしたら、横に座ったゼンに止められてしまった。
一番奥にイズミ、その隣にゼン、アーシャ、と続き、卓の反対側にユズル、シノザキ、老人が並んでいる。
正面に座った老人はアーシャと目が合うと、穏やかに微笑みかけてきてくれる。
(やっぱりなんか違うなぁ〜)
そう思いながら、彼の左目をアーシャはしみじみと見つめる。
「しつれーします」
そんな所に盆を持った女性が部屋に入ってくる。
女性はそれぞれの席を周り、湯気を上げる持ち手のないカップを置いて回る。
(給仕さん?)
給仕がつくような食事会に出た経験が少ないアーシャは、俄かに緊張してしまう。
(えっと……置いてもらったら……お礼を言うのかな?頭を下げるのかな?)
このような場合のマナーがいまいちわからないので、周りをしっかりと観察する。
ユズルやイズミは無言で頭を下げ、シノザキとゼンと老人は小さく何事か言っている。
どちらが正しいかわからないので、どちらもやってしまった方が良いのだろうか。
「?」
マナーを守れるだろうかと胸を高鳴らせて、自分の分が置かれるのを待っていたら、アーシャの所にだけ、しっかりと持ち手のついたカップが置かれる。
「???」
しかも中を見てみたら、自分だけお茶ではなく、氷が浮かんだ水が入っている。
氷はアーシャにとって珍しい物なので、嬉しいは嬉しいが、お茶が貰えないのはちょっと寂しい。
「あ、あいがとぉ!」
思わずガッカリしてしまったが、女性が立ち上がる前に慌てて礼を言って、頭を勢い良く下げる。
「ふふ」
そんなアーシャに女性は蕩けるような優しい笑みを見せて頷いてくれる。
「ひおお薗盆鍛佼湛働で、ご淵双釆特さい。梓幻乃発探処架屍鵜凡伝ので、歌馨神賜倭憲澗修和冷端衷いよう、おきお詞層寵律導琵」
そして彼女は優しい微笑みのまま、何事か言って、卓の下を覗き込む。
「?」
何だろうと一緒にアーシャも卓の下を見るが、卓の下は黒々とした太くて大きな支柱があるだけだ。
何故これを見たのだろうと、不思議に思った次の瞬間、ボンッという音が鳴ってアーシャは飛び上がる。
「ふふぉ!??」
慌てて伸び上がって周りを見回すと、先ほどの卓の穴から火が出ている。
「!!!!!」
あまりの光景にアーシャは椅子から腰を浮かせた。
火だ。
火がついた。
草の敷物がある室内で、火がついた。
アーシャはほぼ無意識に自分の手元にあったカップを掴んだ。
消さなくてはいけない、と、考えた訳ではない。
室内で突如上がった火に対する条件反射のようなものだ。
「っっと!」
水をかけようと手を振る寸前で、ゼンがアーシャのカップを押さえた。
考える前に動いたアーシャの動きを制したのだから、恐るべき速さだ。
押さえられてから、アーシャはハッと我に帰る。
そして苦笑しているゼンの顔を見る。
「あ……あぁ……」
この国で火は驚く程簡単に制御できると知っていたのに、至近距離に突然火が現れたせいで驚いて、水をぶちまける所だった。
謝らなくてはいけないのに、火を見たせいか、興奮状態になってしまった脳から、単語を引き出せない。
「いーこ、いーこ。だいじょーぶ、だいじょーぶ」
そんなアーシャを落ち着かせるように、ゼンは優しく背中を撫でながら、椅子ごと抱きしめてくれる。
アーシャは申し訳なくて顔が上げられない。
周囲からは呆れたり怒ったりするような声がなく、皆が楽しそうに笑ってくれている事だけが救いだ。
落ち着いたアーシャがおずおずと顔を上げると、ゼンは相変わらず太陽のように笑っている。
彼はアーシャの頭を優しく撫でてから、白い紙をアーシャに見せてくる。
「?」
不思議な形の紙だ。
長方形の上の方が細くなっており、上下に一対の細い紙の帯がくっついている。
(呪術用の首を切られた人形を思い出すわ……)
邪教と言われた一団が用いた呪いの木片人形がアーシャの脳裏を過ぎる。
「え・ぷ・ろ・ん」
そう言って、ちょっと不吉な形に見えた紙を、ゼンはアーシャの体に纏わせる。
「!」
首の後ろでカサカサと紙の帯を結ぶ音がする。
身につけてみて、その紙の正体を理解したアーシャは衝撃を受ける。
(紙のエプロン!!)
この国が紙をこよなく愛していることは知っていたが、まさか作業をするための衣服を紙で作るとは思わなかった。
少し動き回っただけで破れてしまいそうだし、水仕事なんてしようものなら一発で駄目になりかねない。
(これは一番紙で作っちゃダメな物なんじゃ……)
便利な物や、素晴らしい物が多いこの国だが、正直これは失敗だと思う。
アーシャは少し動いただけで破れそうなエプロンを、手で触って、カサカサ言わせながら複雑な顔をする。
(破らない自信がない……)
そんな情けない気分で、アーシャがゼンを見上げると、彼は大きな紙のエプロンに頭を通している所だった。
大人用は最初から首を通す部分が輪っかになっていて、腰で結ぶ紐がない。
(これはエプロンというより紙のジャボ……!!)
それは貴族の男性が首からつけているレースの胸飾りに形状が似ている。
この状態で外に出て、大きなジャボが豪快に風にはためく姿を想像して、アーシャは思わず笑ってしまう。
見れば、ゼンだけではなく、目の前の老人とシノザキも身につけている。
(んふふ、みんな即席貴族みたい!)
大きすぎる紙の胸飾りにアーシャはおかしくなってしまう。
(ユズルもつけたら面白いのに)
そう思って、じっと対角線上にいるユズルを見つめたが、彼は冷たい視線をこちらに送ってきてから、そっぽを向いてしまった。
どうやら着ける気はないらしい。
そんな様子までおかしくなってしまって、アーシャは、呑気に笑う。
ここから怒涛の展開が始まるなど、彼女は知る由もなかった。
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