7.聖女、お出かけする

「ぬふふふふふふ」

アーシャは時間をかけて書いた紙を前に、頬の緩みが止まらない。

そこにはこの国の言葉で、『アーシャ』と書かれている。

『ア』の次の真っ直ぐの棒は、シノザキが作ってくれた文字表になかったのだが、どうやら長音を示すための記号だという事が判明した。

文字の他に記号があるなんて、中々独創的な言語である。

この国の文字でアーシャの名前は、記号を含めたったの四文字で表現できる。


(やっと書けたわ!!)

アーシャはようやく書けた自分の名前に大きく頷く。

曲線を描くのに物凄く苦労したが、何とか見れる形になった。

何度も紙を回しながら書いたので、少々不恰好だが、シノザキが書いてくれた文字に近づいたと思う。

シノザキも物凄く褒めてくれた。


(早くゼンにも見せたいな〜〜〜)

ゼンは驚くだろうか。

もしかしたら褒めてくれるだろうか。

アーシャはゼンの反応を思って、胸を躍らせる。

不思議な事に、アーシャにはゼンが文字が書けたことを一緒に喜んでくれる確信がある。

拒絶される未来が全然見えないのだ。


文字の形を覚えると、家の至る所に『アーシャ』と書かれている物があることに気がついた。

アーシャの首から下がっている笛。

アーシャの服、ズボン、靴下。

『ほいくえん』に持っていく背負い袋。

その中に入っている手拭いやカップ。

全て記名してくれたのはゼンだ。

一つ一つ、どんな小さい物にも、アーシャの物であると示すように名前を書いてくれている。

それを見るだけで、アーシャの体には温かいものが満ちる。


『あちら』では衣服も錫杖も全ては教会からの借用物で、『自分の物』はなかった。

しかし今は、どんなに小さい物にもアーシャの物であるという証が書き込まれている。

(こんなに小さな所にまで私の名前を書いていてくれたんだ)

自身の笛を見て、アーシャは微笑む。

あの大きな体で、小さな物にせっせと記名しているゼンを思うと、自然と顔が緩む。


ゼンはそうするのが極々当たり前という様子で、アーシャを大事にしてくれる。

実戦で服に破れを作る度に、感謝が足りないとか、教会の備品だということを忘れるなとか、安全な所から嫌味ばかりを言ってきた教会の連中とは違う。

一緒に笑って、喜んでくれて、怖い時は真っ先に駆けつけてくれる。

———アシャ ヌシ スキ。バニタロー ヌシ スキ。イッショ

自分の名前を書かれた品々を見ていたアーシャに、バニタロが嬉しそうに語りかける。

(うん。一緒)

アーシャはバニタロの入った『もちもち』を抱きしめる。


(ゼン、早く帰ってこないかなぁ)

後で見せようと、大切に紙を懐に仕舞い込みながら、アーシャはそう思う。

すると、そんな思いに同意するようにアーシャの腹の虫が鳴く。

(…………条件反射かしら………)

食べ物とゼンを結びつけてしまっている自分が、とても卑しい気がして、アーシャは赤面しながら腹を押さえる。

そんなアーシャをシノザキが抱きしめて「わっかる〜〜〜!わっかる〜〜〜!」と繰り返す。


そしてシノザキは新しい紙を出してきて、また色々な絵を描く。

「に・わ・と・り」

「にあとい」

真っ赤な鶏冠トサカをもった鳥は間違いなく鶏だろう。

シノザキが書いた文字の下に、アーシャも読み方を書いていく。

「た・ま・ご」

「ちゃまも」

立派な鶏から産み落とされた丸、つまりは卵の絵にアーシャの顔は綻ぶ。

大好物だ。

シノザキは鶏から生まれた卵の横に、黄色い丸とそれを囲む白い丸を、ささっと描いてくれる。

それを見ると『しょーゆ』や『まよ』と一緒に食べた時の味が、脳裏をよぎって、アーシャの口の中にジワリと涎が滲む。


「ぶ・た」

「ぶちゃ?」

次に描かれた、丸々と太った四足歩行動物は、大きな耳が心なしか豚に似ている。

しかしアーシャが知っている豚は、もっと鼻や足が長く、もうちょっと見すぼらしい感じに痩せていた。

こんなにパツンパツンではない。

「ンゴっンゴっ!」

説明するように、シノザキは鼻の頭を人差し指で持ち上げて、息を吸い込みながら、独特の鳴き真似をする。

それはアーシャの知っている豚の鳴き声とそっくりだ。

「ぶちゃ!」

理解できたとばかりに、アーシャは大きく頷いた。

きっと食べる物が多いこの国だから、豚も丸々と太っているのだろう。

読みを書いた隣に小さく『(たぶん豚)』と付け加える。

シノザキはアーシャの注釈の横に、豚の丸焼きという、何とも豪快な料理の絵を描いている。

(豚を一頭食べてしまうなんて……ここは本当に豊かなのねぇ)

アーシャの国では庶民は一生見ることができない豪華料理だが、こっちの国では一般的な料理のようで、感心してしまう。


「う・し」

「うし?」

次にシノザキが書いたのは、頭に小さな角がある四足歩行の動物だ。

白い体に、黒いインクをこぼしたような不思議な柄がある。

「ぅんむぉぉぉ〜〜〜」

何だろうと思っていると、シノザキがまた鳴き声の真似をしてくれる。

そして特徴的な顎を回すような噛み方も真似るので、何となくわかってしまった。

「んぉぉぉぉ〜〜〜」

可愛らしい顔のシノザキが、全く躊躇なく顔を歪めて真似するので、おかしくなってアーシャも牛の真似をして、笑ってしまう。


アーシャの知っている牛は茶色や黒っぽい長毛で、角ももっと長かった。

農耕や運搬の担い手である牛は、村で共同で世話をしたり、領主から借用したりする。

病気や寿命で死んでしまったら、もちろん食べるが、基本的にはとても大切な労働力だ。

しかしこの国では牛は食べ物として認識されているようだ。

シノザキは牛の横に、美味しそうな肉の塊と、フォークとナイフを描く。

(牛って美味しいのかしら……)

アーシャはゴクっと唾を飲む。

彼女の国では牛は珍味で、食べたことのある庶民は少ない。


そんな事をして過ごしていたら、金属の擦れあう、扉の鍵が開く音がする。

「!」

アーシャは飛び上がって、扉に駆け寄る。

「……ゆずぅ!」

扉はすぐに開いて、先ほどまで鏡越しに喋っていたユズルが姿を現す。

アーシャは期待を込めて、ユズルの背後も見たが、残念なことに、小山のような姿は見えない。


「ゆずっち〜〜〜!お〜〜〜そ〜〜〜い〜〜〜〜!おなかへ〜た〜〜〜!」

不機嫌そうな顔をしてたユズルはシノザキの訴えに、更に眉間に皺を増やす。

「うるせぇ!」

そして、とんでもない事に、レディの顔を鷲掴みにしてしまう。

「ユズゥ!!」

流石にそれはいただけないと止めようとしたアーシャだったが、向かっていった所を捕まえられ、小脇に抱えられてしまう。


「おわっ、あわっ」

相変わらず、ユズルの持ち方は安定しない。

アーシャは短い足をバタつかせてバランスを取る。

今回はバニタロを持っているので中々大変だ。


ユズルはアーシャの錫杖と網のようなものを拾い、アーシャを一旦下ろす。

「ユズゥ???」

網には取手のベルトのようなものが付いていて、アーシャはそれを肩から斜めにかけられる。

ユズルは返事をせず、淡々とアーシャの手からバニタロを取って、それをベルトの先についている網の中に入れる。

「わぁ!」

網はバニタロが入るために作られたかのような、球体に近い形をしている。

これだったら両手が自由になって、かつ、ちゃんとバニタロの姿が確認できる。

しかもバニタロだけではなく、錫杖を収める用のホルスターまで付いている。

とても機能的だ。

錫杖も入れてくれるユズルを見ながら、アーシャは目を輝かせた。


「かわいー!!」

そう言ったシノザキは、鏡を差し出して、アーシャを映してくれる。

「わぁぁぁ!」

鏡に映った姿を見て、アーシャは歓声を上げる。

網で作られた荷袋は、ベルトとの境目に、レースの花や、色とりどりの硝子玉が縫い付けてある。

それらの飾りは、シノザキがくれた錫杖と色が合わせてあって、バニタロと錫杖が入ると凄く映える。


アーシャは嬉しくて、くるくると鏡に映る方向を変えて、網袋の姿を愛でる。

サイズ的にアーシャのために用意してくれたと思われる。

「ユズゥ!ユズゥ!!『あいがとー』!」

体の中の血が舞い上がるような感覚と共に、アーシャは浮き足だって弾んでしまう。

そのままアーシャはユズルの周りを跳ね回りながら、礼を言う。


「イ・ズ・ミ、イ・ズ・ミ」

礼を言われたユズルは、物凄くしょっぱそうな顔になって、網袋を指差しながら繰り返す。

「…………?」

アーシャはちょっと考えこむ。

ここでイズミの名前が出てくるということは、もしかしてこの網袋の贈り主はイズミなのだろうか。

「イジミ?」

確認するように網袋のベルトを持って揺らすと、ユズルは頷く。


(イズミ……!!こんなに愛らしい袋を無償でくれるなんて………聖人か!?)

アーシャはこんなに親切な魔法使いを知らない。

瀕死だったので仕方なく死なない程度に治癒しても魔力が下がったと怒鳴り込まれたり、瘴気を完全浄化しかできないアーシャを口汚く罵ってきたりするイメージが強かったので、出会いたての何の役にも立たない子供に、こんな素敵な贈り物をくれる魔法使いのイズミは輝いて見える。


(後でお礼言わなくっちゃ!)

———バニタロー ズット アシャ イッショ

バニタロも嬉しそうである。

これを機にバニタロもイズミと仲良くして欲しいものである。

———アイツ ベチョベチョ ムリ

しかしアーシャの内心を読んだように、『もちもち』の眉間から生えた尻尾が揺れる。


そんな事をやっている間に、またユズルはアーシャを持ち上げる。

「あわわ、うぬぬぬ」

そして勢いよく歩き出すので、アーシャはバランスを取るのが大変である。

重さは同じなのだから、ゼンのように尻をしっかりと支える形で持ってほしいと思うのだが、ユズルは小脇に挟むスタイルを貫きたい様子だ。

「んも〜〜〜!ゆずっち!」

自身も可愛らしい手提げを手に、追いかけてきたシノザキが文句を言うが、ユズルはお構いなしだ。

一旦入り口の段差に座らせ、アーシャに靴を履かせたら、また荷物のようにアーシャを運び始める。


(家を出るの?)

靴を履かされたアーシャは不安に身を縮める。

(ゼン、帰ってきてない)

離れて結構時間が経った事もあって、アーシャはゼンの不在に不安が広がる。

ユズルと一緒にいたら大丈夫だと知っているのに、家でゼンを待っていたい気持ちになってしまう。

(寂しいとか……不安とか……何でこんなに感じるんだろ)

行きたくないなんて我儘は言わないが、言いたくなってしまっている自分に、アーシャは驚いてしまう。

これでは外見だけではなく、中身まで子供になってしまっているじゃないか。

アーシャは表現できない不安に、胸の笛を握る。


譲に小脇に抱えられる時は、体を伸ばしてバランスを取るより、ダンゴ虫のようにユズルの腕に巻き付いた方が安定するらしい。

不安からユズルの腕に巻き付いたアーシャは、そんなどうでも良い発見をする。

「…………はぁ〜〜〜」

そんなアーシャを腕から引っ剥がして、『くるま』の座席に座らせ、ユズルは大きなため息をこぼす。

「いまからゼン懇牽掩肴尭升だよ!ゼン!」

そして何事か言いながら、アーシャの豆のような鼻を人差し指で押し上げる。


「………ゼン?」

「ゼン」

心細い中に、一筋の光が差したような気分で尋ねると、ユズルは大きく頷いて応える。

言葉が通じないので、単語だけのやり取りだが、それでゼンの所に移動するのだと、確信が芽生える。

———ヌシ マッテル

網の中のバニタロも嬉しそうに、そう言う。


「じゃじゃじゃ〜〜〜ん、ユッキーがいるよ〜〜〜」

いつの間にか可愛らしい、お出かけ用のボンネットの帽子を被ったシノザキが、いつもゼンが座る席に座って、アーシャの手を握ってくれる。

(ユッキーの手、ちょっとゼンと似てる)

シノザキの爪は短いが、薄紅に染められているので、手の甲までをレースに隠していると貴婦人のようだ。

しかし触れると手の皮は剣を握る人のような感触で、ゼンに似ている。

いや、ゼンより硬いくらいだ。

(……とか思ったら、失礼よね)

アーシャは微笑んでシノザキの手を握り返した。


「ん〜〜〜〜〜きゃわわ〜〜〜〜〜!!」

「うるせぇ!!」

突如として嬉しそうに遠吠えを始めたシノザキと、ユズルの怒号を乗せながら、『くるま』は出発した。


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