5.聖女、初めてのお留守番

ゼンとユズルが住んでいる家は、それ程、大きくはない。

一階に風呂、顔を洗う台のある部屋、用を足す部屋と、ご飯を食べたり調理をしたり寛ぐ大きな部屋があり、二階にはユズルとゼンの寝室が一部屋づつある。

二階は寝るとき以外使用しないので、普段過ごす部屋だけで考えれば農民が暮らす家くらいの大きさだ。

風呂などの設備がある分少し大きいし、部屋の造りは段違いに手が込んでいるが、空間的にはこぢんまりとしている。


(妙に空間が広すぎて、寂しい……ううん、心許ない……?)

それなのに、アーシャはそんな気分に陥っていた。

それはゼンとユズルという物理的にも精神的にも存在が大きい二人が家にいないせいかもしれない。

妙にがらんと感じる部屋の中で、アーシャは何となくシノザキにくっついた。

そして目の前に設置された『奇跡の鏡』に向かう。

「ユズゥ」

そう言って『奇跡の鏡』に語りかけると、

「あぁ?」

そこに映ったユズルが不機嫌そうな顔で応える。

(『どが』、繋がってる!)

アーシャは『くるま』に乗っていると思われるユズルの『どが』を見て、安心する。

空間的には広くてしょうがないが、ユズルがいる空間が『奇跡の鏡』で繋がっていると思うと寂しさは少し和らぐ。



今、何故『どが』でアーシャとユズルが繋がっているのかというと、時間は少しだけ遡る。



ゼン、ケーオネチャンが外出するとき、アーシャは笑顔で見送る事ができた。

何故なら家には、ユズルがいる。

ユズルと待っていたら、ゼンは絶対に帰ってくる。

そんな安心感があったから、アーシャはワガママも言わずに、ゼンたちを明るく見送ることができた。

しかしユズルまで外出する動きを始めてしまったので、アーシャは大いに動揺してしまった。

その結果、外への扉を開けたユズルの服の裾を掴んで、外出を妨害してしまったのだ。


「おい、チビ」

ユズルに怒ったように言われても、アーシャは中々手を放せない。

「アーシャちゃん、ユッキーいるよ〜〜」

シノザキも見送ってやれとばかりに説得してきたが、どうしても放せなかった。

放さないといけないと、頭ではわかっているのに、放せなかった。

そんなアーシャが固まってしまっていると、ユズルは大きなため息を吐いて、部屋の中に戻ってきてくれた。


戻ってきてくれた安心感と、外出を邪魔してしまった大きな罪悪感。

本来わがままなんか言える立場じゃないのだから、大丈夫だと伝えて外出してもうらうべきではないか。

そう思うのに、不安に押し潰されそうな自分もいて、服の裾を手放せずに、アーシャの心は大いに揺れた。

「チビ」

そんなアーシャにユズルは、いつぞや貸してくれた『奇跡の鏡』を差し出した。


ユズルの『奇跡の鏡』の見た目はアーシャの顔より少し大きいくらいの金属板なのだが、前に張られた硝子には色々なものが映り、以前は野菜や果物の名前を教えてもらった。

「!!!」

その『奇跡の鏡』を見て、アーシャは物凄く驚いた。

そこには今のアーシャが映し出されていたのだ。

但し、鏡のようにそのままのアーシャが映されているのではない。

少し違う、アーシャを俯瞰したような角度から『どが』が映し出されていたのだ。


「???」

アーシャが手をパタパタと動かすと、鏡に映った、俯瞰のアーシャも手を振る。

「???」

ますます不思議で鏡を覗き込むと、中のアーシャも『奇跡の鏡』を覗き込む。

(えっと……鏡の中の私が鏡を覗き込んでいて………えっと……???)

全く違う場所の『どが』は普通に見る事ができたのに、全く違う角度から見た、自分の現在の『どが』が出てくると、頭が混乱してしまう。

前を見ているのに俯瞰の自分が見えるのというのは妙な話だし、鏡に鏡を覗き込む自分の姿が映るというのも妙な話だ。


———バニタロー リカイ ムリ

思わず助けを求めるように、腕の中の『もちもち』を見るが、目と目の間から突き出た尻尾は、左右に揺れただけだった。 


「チビ」

そんなアーシャの頭を、ユズルがポンポンと叩く。

「ユズゥ…………んんん!?」

彼を振り仰いだら、彼の手に握られた小さな『奇跡の鏡』にもアーシャが映っているので、アーシャは大いに驚いてしまった。

ユズルの鏡に映ったアーシャは、目と口をまんまるにして、斜め上を見上げている。


(ええっと………これは私を横から見た絵に見えるから………んんん!?これは、ちょうどこの『奇跡の鏡』が本当に鏡だったら映るべき絵じゃない!?)

ますますアーシャの混乱に拍車がかかる。

そんな彼女の隣に、ユズルはしゃがみ、大小の『奇跡の鏡』を並べて見せた。

アーシャの前の大きな鏡にはユズルが映り、ユズルが持っている小さな鏡にはアーシャが映っている。


(もしかしてお互いに映るべき絵を入れ替える事が出来るのかしら……??)

それを見てアーシャの頭脳は一つの答えを弾き出した。

大きな鏡に映るはずの絵が小さな鏡に映り、小さな鏡に映るはずの絵が大きな鏡に映る。

そう考えると納得がいった。


アーシャが落ち着くのを待っていたように、ユズルは小さい方の鏡を持ったまま立ち上がる。

するとアーシャの大きな鏡の中で、ユズルの背景が動く。

ユズルが歩き始めると、画面が揺れ、ユズル以外の物が後に流れていく。


アーシャが呆けたように鏡を見つめていると、ユズルは靴を履いて、扉の外に出た。

慌ててアーシャはそちらを見たが、現実のユズルも扉の外に出ている最中で、追いかけるか迷っているうちに、その背中は扉で遮られて消えた。

「ユズゥ……」

アーシャは途端に寂しくなって呟く。

『なんだ』

小さな呟きに返事が返ってくると思わなくて、アーシャは飛び上がった。


「ユズゥ!!」

何と返事をしたのは鏡の中のユズルだ。

いつもの不機嫌そうな顔でアーシャを見ている。

『きこえてる』

声がうるさかったようで、眉の間に寄る皺の数が増えている。

「あ、あ、え〜〜〜」

『どが』で繋がっている事に驚くと同時に、何か喋らないととアーシャは焦る。


言葉に詰まるアーシャを、ユズルはジッと止まって待っているわけじゃない。

ユズルの背景はどんどん変わっていって、家の外にある『くるま』に乗り込んでいる事がわかる。

そして画像がカクカクと動いて、彼の鏡が『くるま』の中に固定された事が伝わってくる。

少し遠くなった彼は、座席に体を預けて、『くるま』を起動させる。

低い『くるま』の音が一瞬入って、すぐに消える。


「ユズゥ」

音が切れたのでは心配になって声をかけると、画面の中のユズルはアーシャの方をチラッと見て、

「あぁ?」

と面倒くさそうに答えた。

どうやら『くるま』の声だけが聞こえなくなったようだ。

「えっと……『いてりゃーさい』」

鏡を繋げてくれているから安心してシノザキと二人でお留守番できそうだとか、『どが』を繋げてくれて有難うとか、色々と伝えたかったが、言葉にするのは難しいので、アーシャはそれだけ言った。

シノザキがゼンやイズミ、ケーオネチャンを送り出す時に言っていた挨拶だ。

「…………あぁ」

『くるま』を動かし始めたユズルは、そっぽを向いて生返事という、何ともつれない様子だったが、アーシャは自分の声に返事がくるだけで大満足だった。




そんなこんなで、アーシャはシノザキと遊び、寂しくなったら、『奇跡の鏡』を覗き込んでユズルに声をかけるようになった。

遠く離れても繋がっているというのは、不思議な状態だが、アーシャはユズルの声を聞くたびに安心できる。

ユズルは『くるま』で何か用事を済ませに回っているようで、時々鏡面からいなくなってしまうが、シノザキと数を数えながら待つと、そう長くない間に帰ってくる。


(ふふふ、この国の数は完全に理解したわ!!)

そんな事を何回も繰り返したお陰で、アーシャはこの国の『数』を覚える事ができた。

この遠隔お留守番で得た、とても大きな実りだ。


一目で上質とわかる、驚くべき薄さと白さをもった紙を、シノザキは沢山持ってきてくれて、惜しげもなくアーシャにも分けてくれる。

シノザキは絵を描くのがとても好きな様子で、色々な物の絵を描く。

犬や猫、線が少ないのにアーシャやゼンたちだとわかる特徴を捉えた人物画、果ては次に作るつもりの神具らしき物のデザインまで書いて見せてくれた。


数を数えるときは、紙に数字を書き出して、それを指差しながら一緒に声を出してくれる。

これが凄くわかりやすかった。

視覚と聴覚の二方から与えられる情報は、飢えた時のスープのように、体に染み入ってくる。


結果、数字の形こそは全く別だが、数え方や桁の上がり方はアーシャの国と全く同じだという事が判明した。

「『いち』、『にー』、『さん』、『しー』、『ごー』、『ろく』、『なーな』、『はち』、『くー』、『じゅー』」

紙に書かれた数字を指で辿りながらアーシャが数えてみせると、シノザキは手放しで褒めてくれる。

桁上がりしてからの数え方も法則を見出したら、とても簡単だった。

十から十九までは桁上がりした事を示す『じゅー』と他の数字を組み合わせる。

二十からは桁上がりした数を『じゅー』の前につければ良い。

(むふふふ、完璧!!)

アーシャはシノザキの賞賛に照れながらも、頬の緩みが止まらない。


(書く!これは重要な意思伝達方法だわ!)

新たなる活路を見出して、アーシャは張り切った。

文字を全部覚えれば、きっとできる事の枠は大きく広がる。

『かたな』に名前をつけてもらう事も、きっとできるようになる。

そう確信して、アーシャは数字の次に、スペルを教えてくれとシノザキにせがむ事にした。


シノザキの書いてくれた絵を指差すと、シノザキは「いーぬ!」と言って教えてくれる。

その後にアーシャが「いーぬ!」と真似て復唱ながら、紙に何か書くフリをしたら、シノザキはすぐに文字で書いて欲しいのだと、すぐに気がついてくれた。

(やっぱり、あの妙な曲線が文字だったのね)

絵の下に次々に記入していかれる文字を見て、そう確信するとともに、アーシャは不安になってしまった。

アーシャの国の文字には曲線があまりない。

多くの文字は折れ曲がった直線を組み合わせた形になっており、曲線は丸や半円くらいで、こちらの国のように、少し潰れた感じの妙な形の曲線なんかない。


「『い』」

この文字は中々簡単だ。

少し折れ曲がった直線と、小さな直線だけで構成されている。

「『ぬ』………『ぬ』……『ぬ』………?」

しかしもう一文字が強敵だ。

二本の線から構成されていて、一本目はまっすぐなのだが、二本目がぐるぐると紙の上を回る。

何度も真似しようとペンを走らせるが、中々うまくいかない。


(何か………こごえてるみたい)

シノザキの書いたお手本をじっと見ながら書くのだが、線がカクカクとしてしまって、シノザキの『ぬ』が柔らかに風に靡く布だとしたら、アーシャの『ぬ』は寒風の中で凍りついてしまった布のようだ。

———アシャ ヘタ

自分でもそう思っていたが、バニタロにまで突っ込まれてしまう。

(は……初めてだからこんなものよ!これがきっと一番難しい文字なのよ!)

それでもアーシャはめげない。

これさえ克服すればなんとかなるのだ。


「ねーこ」

そんなアーシャの前で、シノザキは声に出しながら、猫の下にも綴りを書いてくれる。

「…………………」

それを見たアーシャは思わず沈黙してしまった。

『ぬ』と同等、いや、それより難しそうだ。

「『ね』……『ね』………ねぇぇぇ?」

実際難しかった。

先ほどはガチガチになりながらも何となく似た形に仕上がったが、今度は全く歯が立たなかった。

(何……この複雑な文字は……!!)

書き上がったのは、文字として全く成立しなさそうな、歪な物だった。


この字は書けるようになるまで、きっと恐ろしい時間を要する。

そんな予感に慄然としていたアーシャの目の前に、更なる強敵が舞い降りた。

「あーしゃ」

シノザキはアーシャの似顔絵の下にも文字を書く。

この文字が最強に複雑な形だった。


(これ、やっぱり私の名前を示す文字だったんだ)

そう悟ると同時に、自分の名前をこの国の文字で書くためには、大きな困難が立ちはだかる事を理解した。

「『あ』………『あ』………………『あ』………………」

お手本を見ながら書いても、全く違う形になってしまう。

これは物凄い強敵だ。


しかし簡単に戦意喪失しない事がアーシャの強みでもある。

元の国でもほぼ独学で語学は身につけた。

やればできないことはない。

頑張ればきっと習得できる。

そう信じて、アーシャは黙々と自分の名前を書く練習を始めた。


紙に齧り付くような勢いで練習を始めたアーシャの隣で、シノザキも何やら書き始める。

鼻歌混じりに、インクを補充することなく、ずっと色が出続ける不思議なペンを動かす。

アーシャが黙々と『あ』を練習しているうちに、彼女は何かを描き終わり、ハサミを動かして、何やら工作を始める。


そして集中して練習をして、何とか自分の名前が見れる形になった気がし始めた頃。

「じゃじゃじゃ〜〜〜〜ん!!」

そう言ってシノザキが見せてきた紙には、色とりどりの美しい枠に囲まれた、アーシャの『あ』を始めとした文字が書かれていた。


何枚も貼り合わせたのか、しっかりとした厚みのある紙をアーシャは呆然と見つめる。

「あいうえおひょ〜!」

そう言いながらシノザキは文字を指差しはじめる。

「あー、いー、うー、えー、おー、かー、きー、くー……… 」

親切にも一つ一つの文字の音を教えてくれているようだ。


どうやらこの国の文字は一つの音に対して、一つの文字があるらしい。

(……すっごく………多い………)

よって文字の数が半端なく多い。

アーシャの国の倍はある。


(まさか……組み合わせで音を表現するんじゃなくて、一つ一つの音を表現する文字があるなんて……)

その事実に目眩を覚える。

(いや!でも逆に考えたら、文字は多いけど、音はコレだけ覚えたら全部の言葉が話せるわけよ!うちの国よりずっと音は少ないわ!)

アーシャは己を鼓舞する。

覚える文字の形は多いが、コレを覚えたら文が書けるのだ。


あまりの文字の多さに挫けそうになりながらも、アーシャは何とか食らいついていこうと心を決める。

「じゃじゃ〜〜〜ん!」

するとそう言いながら、シノザキは文字が並んだ紙をひっくり返す。

紙の裏には何個かの絵と文字が書いてある。


シノザキは紙の左上に書いてある、何枚かの器にのった食べ物の絵をトントンと指し示す。

「ご・は・ん!」

そう言って、読みながら、彼女は文字をなぞる。

その後に何かを食べる仕草をする。

どうやら『ごはん』とは、ある特定の料理を指す言葉ではなく、食べ物もしくは食事を指す単語だったらしい。

「ごあん」

アーシャも復唱しながら、大きく頷く。


「と・い・れ!」

次にシノザキが指差したのは、用を足すための椅子の絵だ。

「といりぇ!」

アーシャも元気に復唱する。

この言葉を覚えておけば、いつもの恥ずかしいジェスチャーをして尿意を知らせる必要がなくなる。


「ね・る!」

次はベッドで眠るアーシャの絵が描かれている。

「にぇりゅ!」

これも眠くなった時に使える。


こうやって、シノザキは次々と有用な単語を教えてくれる。

結果、アーシャは『ごはん』『といれ』『ねる』『ふろ』『みず』『いえ』『ほいくえん』などの単語を覚える事ができた。

(ここは『いえ』、で、社交場は『ほいくえん』。飲み物は『みず』)

アーシャはシノザキが書いてくれた紙を、大切に抱きしめる。

これらは生活をする上で、物凄く重要になる言葉だ。


(ちょっと文字が多すぎるけど……頑張ろう!私はやればできる子のはずよ!)

アーシャは張り切って、発音を教えてもらいながら、文字の下に自分の国の綴りで音を書き込んでいく。

文字が読めるようになれば、本が読める様になる。

そうすればバニタロに教えてもらいながら、自分でこの国の言葉を勉強できるだろう。


———アシャ ガンバル

隣のバニタロの応援が、微かに同情を含んだような音であることにアーシャは気が付かない。

この国の文字は三種類あり、『ひらがな』と『かたかな』は数に限りがあるが、『かんじ』はこの国の人間ですら全て覚えられないほど、無数にある。

そんな恐ろしい事実を彼女は知らずに、頑張るのであった。



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