16.聖女、『どが』を体感する(中)
アーシャは落下の感覚に目を閉じる。
(お礼を言ったり、依頼するだけして飛ばしたり、ちょっと身勝手過ぎないかしら!?)
多少の憤りを覚えつつ、地面とぶつかる瞬間に備えてアーシャは身を固くする。
「……………?」
しかしいつまでも衝突はやってこなかった。
それどころか、いつの間にか落下の感覚までなくなっている。
そっと目を開くと、アーシャはフワフワと浮きながら、見慣れない建物を見下ろしていた。
———コレ 『バニタロー』 キオク
そんな思念が伝わってきたかと思ったら、フワフワと体は下に舞い降りる。
バニタロが大いなる力から切り離された存在であること。
そして切り離されたのは、役目を与えられたためである事が、言葉ではなく、感覚から直接伝わってくる。
バニタロが切り離されたのは、誤った器に入ってしまった『ミタマ』の回収の為。
因みに『ミタマ』は尊き
『ニギミタマ』もさっぱり分からないが、バニタロの感覚から、神様の力の一部のような物なのだと感じ取れる。
知識が勝手に滲み込んでくる感覚は、物凄く奇妙だが、便利でもある。
バニタロは風に乗るように動いて、壁を突き抜けて建物の中に入っていく。
アーシャの視点は、過去のバニタロに従って動く。
(『どが』っぽい!)
アーシャは不謹慎ながらワクワクしてしまう。
『どが』もこのような術を用いて、誰かが見た映像から作ったりも出来るのかもしれない。
木の壁をすり抜ける不思議な感覚に、アーシャが胸を躍らせていると、やがて異様な圧迫感が体に加わり始める。
(何……この容赦無く、問答無用で叩き潰すような、圧倒的な力は……)
アーシャは不安を感じるが、バニタロはこの力を知っているようで、臆することなく壁を奥へ奥へとすり抜けていく。
そしてある扉の前に辿り着いた。
「うぅぅぅ……ぅぅあ”あ”」
その中から聞こえる、押し殺した獣の唸り声のような音に、アーシャは警戒するが、バニタロは動揺する事なく扉をすり抜けて中に入る。
「!!!!」
そこに入ったアーシャは驚愕した。
大きな硝子が嵌め込まれた窓がある部屋の中央には、ポツンと床に寝具が敷いてある。
そこには小さな男の子がいた。
彼は寝具で寝るのではなく、その上でのたうち回っていた。
体のどこかに不具合があることが一目瞭然で、苦悶に身を捩り、身体中から汗を吹き出しながら、シーツを噛んで耐えている。
「大丈夫!?」
アーシャは慌てて手を伸ばそうとするが、ここに彼女の手はない。
彼女はあくまでも『どが』のように映像を見ているだけの、部外者なのだ。
子供は見たところまだ五歳くらいだろうか。
ふっくらとした小さな手を握りしめて、苦しんでいるのに、アーシャは傍観する事しか出来ない。
脂汗が出るほど痛くて堪らない様子なのに、その子は必死に声を押し殺して耐えている。
(これは一体……)
ほんのりと見える、優しい色合いの、薄い神気を、その子は纏っているのだが、それを内側から圧倒的な輝きを持った神気が押し割って、漏れ出そうとしている。
漏れ出す光と比べたら、彼の色はあまりに弱く儚い。
自分の神気を裂かれた部分は、耐え難い苦痛を伴うようで、男の子は強い光が漏れる所を両手で押さえて、痛みに身を捩っている。
(こんなの……
アーシャは何もできない自分に絶望しながら少年を見る。
彼は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら耐えているが、光の裂け目は至る所にどんどん広がっている。
飲み込まれるのは時間の問題だ。
(この強い……怖い程に濃い神気は一体……)
アーシャがこの国に来た時の地にあった、原初の神殿で感じた神気と同等……いや、それ以上に濃くて眩い。
畏れを感じずにいられない強さだ。
やはり誤った器は遠くなく壊れる。
そう感じるバニタロの感情が流れてきて、アーシャはハッとする。
そしてバニタロの知識も一緒に染み込んでくる。
今代になって、ようやく力の及ぶ範囲に、『ミタマ』を受け入れられる、稀有な器が誕生したというのに、別の器に『ミタマ』を授けてしまった。
呼び寄せたはずの器に、よく似た紛い物が現れたせいだ。
その辺りの器であれば、『ミタマ』の巨大な力を浴びただけでも壊れるはずなのに、この紛い物は『ミタマ』を受け入れても、すぐに壊れなかったため、『ミタマ』を回収できないまま、持ち帰られてしまった。
しかし所詮は紛い物、長持ちはしない。
(何て……事なの……)
染み込んできた知識と、この時のバニタロの動じなさに、アーシャは驚いてしまう。
このバニタロは、あくまでも大いなる意志の一部で、個体としての意識がない。
遅かれ早かれ壊れるのだから、苦しみを長引かせる事はない。
憐れみの心で、早目に壊して楽にしてやらねばと考えている。
(これは……人間より遥かに高次元にいる者………神か、神に等しい者の考え……?)
こねて作った土人形が苦しそうにしているので、土に還してやる。
目の前で苦しんでいる少年に対して、それくらいの心持ちなのだ。
フッとバニタロが息吹を吹きかけると、少年は苦痛に歪んだ顔を上げる。
「うぅ……」
そして彼は小さな体を起こして、ヨロヨロと歩き始める。
「あっ、あっ、きゃっ!!」
部屋に一つだけある硝子の窓を開け、少年は身を乗り出したので、アーシャは息を呑んだのだが、彼はそのまま外に転がり落ちた。
アーシャは受け止めようと手を伸ばそうとしたが、『どが』の中に腕を突っ込むことはできない。
「うっ……ぐっ……」
小さな膝や肘から血が出ている。
受け止めてあげることも、癒しをかけてやれない自身に、アーシャは歯噛みする。
そんなアーシャにお構いなしで、バニタロは少年を導くようにフワフワと飛ぶ。
痛みのせいか、げっそりとやつれているが、健康的に焼けた手足を持った少年は、痛みに呻きながらバニタロの後を追う。
彼の目はバニタロの方を見ていないのに、正確にバニタロの後ろをついて走り出す。
何も履いていない柔らかな足の裏が小石に抉られても、熱された地面に焼かれても、彼は何かに取り憑かれたように走る。
アーシャはどんどん傷を増やす少年に何もしてやれずに、手をこまねいて見ている事しかできない。
最初は傷つく姿に心を痛め、こんな所を走らせるバニタロに憤りを覚えたが、ふと既視感に囚われる。
黒く塗り固められた道を超え、
いや、その姿を体感した。
(これは………今朝見た夢………!?)
この少年が通っている道や、草で手足を切りながら進む姿に覚えがある。
(え!?じゃあゼン!?この子はゼン!?)
アーシャは改めて少年を見つめる。
短く切り揃えた黒髪に、今は光を失っている黒い目、そしてまだまだ小さな体。
共通点は色ぐらいしかないが、そう思って見るとどこかしら面影があるような気がする。
先程まで体を突き破りそうな光に必死に抗っていた、小さなゼンの、淡い神気が蛍の光のように解け始めている。
抵抗を止めた事で、彼の神気がどんどん薄くなり、強い光に支配され始めている。
このまま
バニタロは間違った器が苦痛から解放される事と、『ミタマ』を次こそ正しい器に導ける事に安堵している。
『どが』を見ている状態のアーシャには何の手出しもできない。
(早く!早く!早く!!ゼンが消えてしまう!!)
あの夢の通りになるのなら、この後すぐに助けが訪れる。
何もできないアーシャには、それが早く来ることを願う事しかできない。
幼いゼンはアーシャの願いなど知ることもなく、虚ろな目でバニタロの後を追う。
やがて水音と共に、周囲の神気が濃さを増していく。
夢と同じだ。
(川……の神気と、『ミタマ』の神気が似てる……?)
幼いゼンの体を食い破ろうとしている神気と似た気配が、水の流れから漂ってくる。
これらをキツく編み上げたら、丁度、同じような輝きになるだろう。
そう思ったアーシャに、『流れに身を浸せば、外側と内側から清められ、器は人界から解き放たれる』と、とんでもない知識が染み込んでくる。
「ゼン!行っちゃだめ!ゼン!」
自分は傍観者にしかなれないと分かっていながらも、アーシャは叫んでしまう。
当然、そんな叫びは届くことはなく、幼いゼンは手足から血を流しながら、フラフラとバニタロの導きに従って歩き続ける。
夢の中ではあんなに美しく見えた川が、恐ろしい物に見える。
「ゼンっっっっ!!」
そんな時、絶叫に近い声を上げて、老女がゼンに向かって走ってくる。
血相を変えて、殆ど真っ白になった髪を振り乱し、よほど急いだのか彼女の足にも履き物がなく、血が滲んでいる。
「…………ばーちゃん…………?」
それと同時に儚く宙に解けていっていたゼンの神気が止まる。
バニタロはそれを見て、憐れに思う。
このままこちらの世界に取り込まれてしまえば、苦痛は消えたはずなのに、再び『ミタマ』に抵抗を始めた幼い体は痛みに苛まれる。
憐れな。
苦しみもがいた末に、人界で肉塊に成り果てるより、今、解き放たれた方が良かったのに。
そんな、人間の価値観とは異なる感想をバニタロは持っている。
祖母と思われる老女に抱きしめられたゼンは苦痛に身を捩りながらも、周囲に解けた、自分の薄い神気をかき集めて、貼り付けていく。
それは想像を絶する苦痛を彼に与えるようだ。
しかし呻きながら彼は現世に留まる。
諦めた方がきっと楽なのに、歯を食いしばって彼は耐える。
そんな彼に沢山の大人と、彼と同じくらいの大きさの少女が歩み寄っていく。
夢で見た時は気が付かなかったが、彼女とゼンの神気は驚くほどよく似ている。
ほぼ同一と言ってもいいだろう。
(妹……なのかな?)
泣きじゃくる女の子の頭を撫でると、ゼンの神気が更に薄い膜を伸ばしていき、それに従い、彼は痛みに身を捩る。
(回復が遅い聖女が傷を治すときは、肉が繋がる痛みでのたうちまわるらしいから……それに似た状態なのかもしれない)
パックリと裂けて存在しなくなった所に、薄皮が張り、肉が戻り、痛みを感じる回路が繋がる。
回復の場合は治る一方で、しばらく耐えたら良いが、ゼンの神気は裂けては修復しての繰り返しで、痛みに際限がない。
その苦しみは想像を絶する。
諦めたら楽になれるのに。
悠久の時を過ごす存在には、その足掻きが理解できないようで、バニタロは不思議に思っている。
苦しんで涙を流し、震え、悶え、それでも諦めない姿を、バニタロは憐れみ半分興味半分で見守っている。
ゼンの祖母と思われる女性と、白い上着にスカートのような履き物という揃いの服を着た大人たちは、彼を木でできた家に運び込む。
どうやらそこは小さな神殿のようだ。
祀ることで、ゼンの中に入ったものを落ち着かせ、少しでも彼への負担を減らそうとしているらしい。
しかしそんな人間たちの働きを、バニタロは憐れみの目で見つめる。
『ミタマ』は人の手に負える存在ではないという確信が彼の中にあるのだ。
『ごめんねぇ……ごめんねぇ……』
老婦人は泣きながら窓もない部屋にゼンを寝かせる。
『祖母ちゃんたちを置いて行かんで。ごめんね、痛いのに、ごめんね、頑張らせてしまって』
名残惜しそうに祖母はゼンを抱きしめてから、部屋から外に出る。
そしてゼンが夢遊病のように出ていってしまわないように、部屋の外から閂がかけられる。
『どうぞ、どうぞ、私の孫をお助けください。こんなに小さいのに……身代わりが要るなら私がなります。どうか……』
祖母は部屋から出た後も、床に額をすりつけて、請い願う。
———ヌシ ズット クルシイ
『今』のバニタロがアーシャに語りかけてくる。
『この時』のバニタロと違って、バニタロの声は悲しそうだ。
見たくないとばかりに、時が早回しになる。
ゼンは何もない部屋で、一人ぼっちで苦しみに耐えている。
時々様子を見に来る、神官らしき人々に食べ物や排泄の介助を受けながら、痛みで満足に眠ることすらできずに、ひたすら耐え続ける。
『ばーちゃん、じょーちゃん……さびしいよぉ……いたいよぉ……』
小声で、誰にも届かないとわかっているのに鼻を啜りながら呟く姿に、胸が締め付けられる。
内部から彼を食い破ろうとしている力と、彼の神気の攻防は一進一退で、膜を張っては破られてを繰り返している。
祖母たちは何度も足繁く通ってきていたが、彼らが来ると、ゼンが痛みを押し殺して平気なふりをしようと無理をするので、ただでさえ少ない体力を削らないようにと、長い時間は会えない。
一日一回だけの少ない時間の触れ合いで、ゼンは破れかけた自分の神気を補う。
そして破られる痛みに泣きながら、ずっと会いに来てくれるのを待つ。
痛みに悶えながら一ヶ月。
寂しさに泣きながら一ヶ月。
弱りながらも、落ち着き始めて一ヶ月。
三ヶ月もの間、苦しみながら、それでも彼は生き続けた。
そして遂に彼の神気が破れる事がなくなり始めた。
まだ触れればすぐ破れる、卵の薄皮のような状態だが、大きな進歩だ。
痛みに苛まれずに体を休められるようになり、少しづつ体調を戻していくのに更に一ヶ月。
何とか自力で動けるようになり、ようやく家族に会えたゼンは嬉しそうだった。
その姿をバニタロは信じられない気持ちで見ている。
紛い物だったはずの器が、体の中に『ミタマ』を収めてしまったのだ。
彼は毎日ゼンのそばにいて、漏れ出る神気を浴びながら、見守っていた。
初めは早めに苦しみの生から解放してやるのが慈悲だと思っていた。
しかしこの少年は死の淵を覚束ない足取りで歩きながら生き延び、遂に生還してしまった。
季節は青々と茂っていた草たちが、黄色く枯れてしまうまで巡ってしまったが、彼は自分の家に、何を失う事なく帰った。
やっと祖母の胸に帰ることができて、年相応に声を張り上げて泣く彼の姿に、バニタロには存在しなかったはずの『心』が震える。
ずっとそばでゼンを見守っていたバニタロは、最早大いなる力の一部ではなく、『バニタロ』になり始めているのだ。
完全にゼンの神気の膜が出来上がり、『ミタマ』の回収の必要性がなくなっても、バニタロは彼から離れず、見守る。
ゼンは小っちゃい頃からゼンだ。
妹と祖母を凄く大切にしていて、嬉しい事や楽しい事は彼らと分け合おうとして、大変な事は全力で助けようとする。
少々お調子者で、山のようなカエルを見せようと持ち帰って、家の中で籠を倒してしまって大騒動を巻き起こしてしまったり、果実を収穫しようとして木に登って墜落してしまったりと、毎日のように騒動を起こしているが、彼の周りには笑顔が絶えない。
飛ばし飛ばし見せてくれる『どが』の中のゼンは、いつも楽しそうに笑っている。
この時のバニタロも健やかに成長する彼の姿に安堵を感じている。
まだまだ甘えたい盛りで、家では祖母の周りをウロチョロしまくっている彼が、季節を二つ超えるほどの長い孤独に耐えた事を思って、これからはせめて彼が平穏であれと願わずにいられない。
家に入ると胡散臭そうにバニタロを睨む妹がいるので、彼は少し離れた所からゼンを見守り続ける。
成長したら彼には果たすべき使命がある。
それまでは幸せであれと願ってバニタロは見守る。
しかし、じわりじわりと彼の周りでは異変が起こり始めた。
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