4.弟妹、イチゴを狩りまくる(前)
大体の人間の正月休みが明けた、地方都市の平日午前中。
出歩いているのは、未だ冬休み中の大学生と人生の余暇を楽しんでいるご老人くらいなのではないだろうかと思ってしまうほど、街は静寂に満ちている。
バスや電車などの公共交通機関が廃れている地方では、一人一台マイカーを持っているような状態なので、路上を歩く人は元々それ程多くない。
平日なので交通量が少なく、車は殆ど止まることなく快調に走り続ける。
これと言った雑音がなく、エンジンの振動が体を心地良く揺らし、燦々と暖かな陽光が降り注ぐ。
チャイルドシートに座りながらも、コアラのようにしっかりと禅一の腕に掴まるアーシャの体温も、子供特有でポカポカして、眠気を誘う。
まだ少し体に疲れを感じていた禅一は、ついついウトウトと微睡んでしまう。
「綺麗になったのは四分の三ってとこだな」
譲から話しかけられ、目を閉じかけていた禅一は慌てて目をこじ開ける。
「結構まだ残っているんだな」
運転しながら市内の様子を確認していた譲は頷く。
「どうかな。空気自体が綺麗になっているから、二、三日放置したら、更に浄化が進むかもしれねぇ。まぁ、きっちり残っている奴もいるから、保育園が再開してから対応に回るか」
ふんふんと禅一は頷く。
穢れが存在した場所を回り終わったのか、譲は海沿いのバイパスへ車の進路を変える。
ずっと車を怖がっていたアーシャも、市内のドライブで緊張が解れたらしく、最初は薄目で見ていた窓の外を、今は楽しそうに見ている。
しかし小さな彼女には怖さを感じるポイントが沢山あるようで、時々しがみついてきて、禅一の腕に圧力が加わる。
「どうした?」
そう言って声をかけながら、余っている方の手で頭を撫でると、アーシャはホッとした顔になって、もっと撫でてくれとばかりに擦り寄ってくる。
小動物のような、愛らしい仕草に禅一の目尻が下がる。
沿岸部に近付くと工場地帯に差し掛かる。
「アーシャ、こうじょう」
道々で禅一は色々な建物の名前をアーシャに教えていく。
「こーじょ?」
窓の外を覗き込んだアーシャは工場を見て、目と口を大きく開ける。
巨大な建物に驚いたのだろう。
工場地帯を過ぎると、高架橋化されているバイパスに車は登っていく。
「アーシャ、は・し」
大きな塔がある、巨大な吊り橋とも言える
よく見かける、下から支える形の桁橋ではないので、喜ぶかなと思ったのだが、アーシャの反応は思った以上だった。
「あひゃ………あわわ、ふぉぉぉぉぉぉおおおお!???」
大興奮で頬を真っ赤にして、忙しく右を見たり左を見たり、吊っている部分を見上げたりと、大忙しだ。
「う・み」
と、更に教えると、
「うみ!?うみ!うみ!うみぃいいいい!」
興奮故か、復唱も物凄い勢いになってしまっている。
「耳がいてぇ」
譲は不機嫌そうに言うが、禅一は無邪気に楽しむ姿に頬が緩みっぱなしだ。
車に乗る時間が長くなると退屈してしまうのではないかと心配していたが、アーシャは常に目をキラキラとさせて周りの景色を眺める。
「こうばん」
「こぉばっ!」
「ガソリンスタンド」
「がしょりーすたど!」
「コンビニ」
「こびにぃ」
建物の名前を教えると、元気よく復唱してくれるので、禅一も楽しくて、次々に教えていく。
アーシャは特に海が好きなようで、海が見えるたびに目を輝かせて見ている。
「なぁ、昼ごはんは道の駅行くって言ってただろ?」
「あぁ」
「あそこ、砂浜に降りられる階段あったよな?昼飯の前にちょっとだけ砂浜で遊んでも良いか?」
「はぁぁ?冬の海だぞ?ただでさえ寒ぃのに、海風でチビが冷え切るぞ」
ついつい海を間近で見せてやりたくなった禅一に、譲は渋い顔をする。
「寒くないように気をつけるからさ」
「あのなぁ……万が一、波を被ったりした時の事考えろよ。あそこは波が荒いから、遊泳禁止になってるんだぞ。あそこに下りるのはシーズン時の潮干狩り客とサーファーくらいだ」
潮干狩り客は下りるのにと、禅一が少し不満に思っていたら、ルームミラー越しに譲に睨まれてしまう。
「あのな。日本海を泳いで渡れそうなお前とチビは違うの!今日は上から見るだけだ!」
これは波に近寄らないと言っても、砂浜に下りる許可は出そうにない。
「じゃあ、俺だけ下りて、貝殻集めてくるくらいは良いだろ?」
せめて綺麗な貝とかを見せてやりたい。
そんな気持ちで聞いたら、
「禅に関しては寒中水泳したいと言っても止めねぇよ。濡れたら絶対車には乗せないから走って帰ってこい」
あっさりとOKが出た。
車内のアーシャにはコアラになる相手が必要なので、絶対濡れられないなと思いながら、禅一は貝を喜ぶ姿を思い描いて一人笑う。
そんなバカな会話をしている間に、車はいちご狩りのできる観光農園へと到着した。
かなり大規模にやっているようで、駐車場はとても広々としているが、平日である今日は閑散としている。
手を引いて農作物の直販所兼いちご狩りの受付である建物に向かう最中も、アーシャは海を伸びあがって見ようとしている。
よっぽど気になるらしい。
「海も後で見ような」
海を指差しながら、できるだけゆっくりと禅一がそう言うと、アーシャはパァッと表情を明るくして、力強く頷く。
その力強さに、今すぐ行きたいと駄々をこねるのではないかと思ったが、海とは反対方向の、禅一が導く方向へアーシャは素直に従って歩く。
聞き分けが良いのは助かるが、もっとわがままを言って大人を困らせても良いのにと、アーシャの柔らかな髪を掻き回すように、禅一は撫でる。
平日ということもあり、店内は混み合ってはいない。
休日はいちご狩りのお客で溢れているのだろうが、今日は新鮮な野菜を買いに来ている主婦層の人間が多いようだ。
「わぁ!」
無骨な棚に所狭しと並べられた農家直販の新鮮な野菜たちを見て、アーシャは嬉しそうな声をあげる。
肉には負けるが、野菜も好きなようだ。
てててっとアーシャは白菜が入ったカゴに走り寄る。
「かべつ」
そして自信満々な様子で宣言する。
「んふっ」
野菜に走り寄る幼児に、優しい視線を送っていたご婦人が、アーシャの宣言と同時に小さく空気を震わせた。
(わかる……!)
禅一は咄嗟に腹筋に力を入れたから噴き出さずに済んだが、危なかった。
顎をちょっと上を向け、正に『鼻高々』な様子で、白菜をキャベツと言ったのも、キャベツの発音が『かべつ』なのも、中々腹筋に負荷をかけてくれた。
「フフフ」
アーシャは顎に手を当て、満足そうに笑いながら数歩進み、次は白ネギの前で立ち止まる。
「めぎ」
そしてこれまた『自分賢い!』とでも言うような顔で宣言する。
「ふひっ」
第一波の『かべつ』を乗り越えた老婦人が噴き出した。
(………惜しい……NとMが違ったか)
近いようで遠い。
これは軽いジャブだったので禅一の腹筋は震えない。
ニコニコと満足そうに野菜の名前を当てていく幼児に、周りの子育て終了世代の視線が吸い寄せられていく。
「だぁこん」
皆の注目を受けつつ、アーシャはかなり正解に近い答えを述べた。
大根を当てられたことで、皆、微笑ましそうにアーシャを見守っている。
噴き出すご婦人もいない。
舌足らずな言葉で、自分の知識をご披露したい、愛らしい幼児は次のカゴに歩み……カッと目を見開いた。
鼻に皺を寄せ、唇を捲り上げ、噛み締めた歯を剥き出し、顎に梅干しのような皺が浮き出る。
「んん"っ!!」
「んふっ」
少女漫画から唐突に昭和の香りのする劇画に移行したような幼児の顔芸に、それだけで数人の唇が震える。
「……………うに…………」
唇を震わせるだけで持ち堪えたご婦人たちに、追撃が加えられれた。
今までの愛らしい子供特有の高い声が、一転してどん底までテンションが落ちて、発されたのが何故かの『うに』。
彼女の目の前にあるものは、土つきの新鮮なゴボウだ。
唐突に農産物の中に海産物が紛れ込んでいるはずはない。
「ふひっ」
「んぷっ!!」
何人かは咳払いで誤魔化せるような状態で踏みとどまったが、それ以外は口を押さえて痙攣している。
ここまで冷めた顔でなんとか持ち堪えていた譲は、ここで噴き出してしまってリタイヤだ。
後ろを向いて肩を震わせている。
禅一も堅固たる腹筋がないと危なかった。
笑ったら可哀想だと思ったのか、気遣いができるご婦人は後ろを向いて痙攣し、声を出さないように必死で堪えている。
その様子を見た他の客が『何だ何だ』とばかりに寄ってくる。
そしてご新規さんたちは、通常状態に戻った、一見天使のように愛らしい、緑の瞳の幼児に目尻を下げる。
皆、新たなる腹筋崩壊の犠牲者になるかもしれないのに、呑気なものだ。
一歩後ろに下がって、ゴボウと距離をあけたアーシャは棚上のカゴを指差す。
「かぶ」
キリリとした顔で、今度は正解を言い当てた。
「ほりぇんしょ」
ほうれん草が言えたことは素晴らしいが、残念ながらアーシャが指差すそれは、小松菜であった。
子供にそのあたりの判別は難しい。
そしてアーシャはゴボウの隣のニンジンのカゴを指差す。
「にんしん」
自信満々な顔での回答だったが濁点が足りなかった。
ここでギャラリーの中の数人が、小さく噴き出す。
『うんうん、全部わかったぞ』とでも言うように満足そう頷きながら、アーシャは一歩踏み出し、再び、ゴボウのカゴを覗き込む。
「うくっ」
ギャラリーの一人が噴き出した。
今度は目を眇め、口を真一文字に結び、詐欺師を見極めようとするような真顔になったのだ。
再び顎に梅干しのような皺が浮かび、元が可愛いだけに、変顔のギャップが酷い。
「……………うに…………」
そして再び、今までの愛らしい声が嘘だったかのような、どん底テンションでの『うに』宣言だ。
何で、何で、ゴボウがウニになるのか。
誰かに嘘をふきこまれたのか、それとも彼女の国の言葉でゴボウはウニと言うのか。
そもそも何でそんなにゴボウにだけ、あんなにしょっぱい表情になるのか。
色々言いたいことはあるが、禅一の腹筋の我慢も最早ここまでだった。
子供の間違いを笑ってはいけない。
そう考えて必死に口と鼻を押さえて堪えようとするが、たっぷりと笑いを溜め込んでから決壊した腹筋が止まらない。
せめて声は出さないようにと必死に堪えるのだが、堪えようとすればするほど笑いの衝動が大きくなってしまう。
「禅か!?チビにウニなんて教えたのは!」
小声で真っ赤になりながら聞いてくる譲の台詞ですら、何故か笑いが増幅されて禅一の腹筋は痙攣しまくる。
違う違うと首を振ることしかできない。
「おい、行くぞ!」
押し殺した笑いの中、これ以上見せ物になっては堪らないと、譲は急いで移動し始める。
イミテーションを見分けようとする鑑定士の如き顔でゴボウを見つめていたアーシャは、突然背中を押されて驚いているし、禅一も自身の腹筋を鎮めるのに精一杯で中々上手く歩けない。
さっさと動かない二人に業を煮やした譲は、一人脱出して受付カウンターへ行ってしまう。
「ご予約の藤護様ですね。大人二名、三歳未満のお子様一名ですね」
「はい」
「合計で四千二百円です」
そして譲はさっさと受付を済ませてしまう。
会計は禅一もちになっているので、彼は腹筋を引くつかせながらも、何とか料金の支払いに駆けつける。
今回の行楽はアーシャのためでもあるが、何も見えない感じないの禅一が役に立たないので、かなり気苦労をかけた譲への労いも兼ねているのだ。
「お子様は無料ですが、一応シールをお願いします。こちらはヘタ入れです」
受付の若い男性が、三枚のシールと通常の三分の一くらいの大きさのビニール袋を差し出す。
料金を支払いながらも、まだニヤけている禅一の代わりに、譲がそれらを受け取る。
「ほら、チビにも貼ってやれ」
そう言いながら、シールを二枚渡される。
小学生が喜びそうな、可愛いイチゴの絵と日付が入っているシールを、おしゃれな格好の譲が貼っている事に、笑いが再燃しそうになりながらも、禅一はアーシャの肩にシールを貼る。
「ほぁっっ!!!」
不思議そうにシールを貼る禅一を見ていたアーシャは、自分の肩のシールに気がついて、それを引っ張り始める。
「だ〜め」
一度剥いでしまったら、服にくっつかなくなってしまう。
無料枠の子供なので厳密にチェックなどされないだろうが、一応規則は規則だ。
その手を止めたら嫌がられるかと思ったが、アーシャは剥がしてはいけないのだと、すぐに納得したようで、シールに触らなくなる。
(ちょっと素直すぎるのがなぁ……)
大人としては大助かりだが、子供としてこれは健全な状態なのかと禅一は内心、首を傾げてしまう。
アーシャはぴょんぴょんと弾むように歩き、時々左右に飛んだりして、とても陰のようなものは感じないが、親ではなく、元々は縁もゆかりもない、半人前の学生が育てているので、その変化は注意深く見なくてはいけない。
(心を開いてきてくれているのは感じるんだが……もっとワガママが言えるような空気を作るにはどうしたら良いんだろうなぁ)
今度育児のプロである『若奥の会』メンバーや、保育士の峰子に聞いてみようと禅一は考えるのだった。
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