3.聖女、飽食を知る(前)

人間は長く緊張状態を維持できない。

そしてどんな境遇にも順応してしまえる生き物だ。

(ふっ……慣れてしまえば、こっちのものよ)

度々感じていた恐怖に、見事に打ち勝ったアーシャは、窓の外を流れる景色を見ながら、一人ニヤリと微笑んだ。

まだゼンの手という命綱は必須だが、彼女は見事に『くるま』を克服した。


もう冷や汗は出ないし、体に入っていた無用な力もなくなった。

それどころか目を開けて周りの風景を楽しむ余裕まで出てきた。

ドドドドドっと体に伝わる『くるま』の心音に、こころよさすら感じる。

まだ急に速くなったりするのは怖いが、よく見れば、周りの『くるま』たちは整然と並んで走っていて、危うさがない。


(すごく遠くまで移動しているはずなのに街が途切れない)

アーシャの緊張が解けるほどの時間、『くるま』は走っている。

『くるま』の速さを考えると、既に城壁の一つも見えていないとおかしいのだが、街も道もどこまでも続いている。


『くるま』の前面の窓には、延々と整備された道が見えているし、左右の窓から時折見える小道も、全てが黒い石で舗装されている。

(道を一本通すのも国を上げての一大事業になるのに、大きな道を何本も作って……あんなに小さな道も綺麗に舗装するなんて……恐るべし、神の国)

どんな小さな道にも陽光が差していて、寝そべる酔っぱらいや物乞い一人おらず、怪しい雰囲気が全くないのも凄い。


(スラムもなければ、城壁もない。よっぽど豊かで安全なのかな……なのに歩いている人も少ないのは何でだろ?こんなに建物があるのに無人の街みたい)

何処を見ても完璧に同じように舗装されている道とは逆に、道の両側には、色も形も素材も古さもそれぞれ全く違う建物たちが並んでいる。

建物は色々あるが、アーシャの知っているような『あばら屋』は一軒もなく、豊かな暮らしをしているであろう事が窺える。

それならば道を人々が賑やかに往来していそうなのに、殆ど人を見かけないのだ。

(……人はいないのに、人型の瘴気がいる……)

その代わりのように、時々人の形をした瘴気が蹲っていたりするから怖い。

無生物で自然発生するはずの瘴気が、人の形を模していると、意思があるように見えてしまい、言い知れぬ不安を感じて、アーシャはギュッとゼンの手を握りしめる。


「どーした?」

アーシャの不安を感じ取ったのか、繋いでいない方の手で、ゼンはヨシヨシと頭を撫でてくれる。

それだけでアーシャはホッとしてしまう。

「アーシャ、こーじょー」

そう言って、ゼンは楽しそうに、彼の方の窓を指差す。

「こーじょ?」

アーシャは彼の指の先を見る。

「…………。………!…………!?」

そして自分の理解の範疇に収まらない建物に、目を見開いた。


最初はやたらと巨大な筒が目立つ建物だと思った。

巨大な筒は柵かと思うほど何本も並行して走っているが、それにしては肩車しても届かないほど高い所にある。

そして縦にだけではなく、横にも何本も並んでいる。

しかもその沢山の筒は、巨大な建物の色々な所に、複雑に分岐して繋がっているのだ。

(あの巨大な建物は……もしや王宮!?……筒はそれぞれの宮を繋いでいるのかしら!?)

その不可解な建物を、アーシャはもっとじっくり見ようとするが、やがて道の両側に高い壁ができて、遮られてしまう。


アーシャは固定された椅子から必死に伸び上がって、建物を振り返ると、何本もの巨大な煙突が聳え立っているのが見えた。

煙突の数は富の象徴だ。

あれ程の煙突をつけられるなんて並の貴族ではあり得ない。

(凄い煙突の数!!しかも巨大!!あれは王宮に違いないわ!!)

アーシャは確信と共にウンウンと頷く。

王族には良い記憶が全くない。

絶対あそこには近づかないでおこうとアーシャは決意する。


「アーシャ、は・し」

遠ざかる煙突を見ながら決心するアーシャの肩を、チョンチョンとゼンが突く。

「……………!」

アーシャは前に向き直って、再び、言葉を失った。


まるで天上に続くかのような、急勾配の道を、『くるま』が頑張っている音を響かせて登る。

真っ青な空に吸い込まれそうな道に、アーシャは息を呑んだ。

このまま本当に空に飛び立つのではないかと思ってしまったのだ。


更に『くるま』が進むにつれ、天を貫くが如き、巨大な鉄柱が目の前に出現した。

「ふぁ〜!」

その巨大な鉄柱から沢山の綱が張られ、巨大な吊り橋のようだと、アーシャは目を見張る。

実際は『くるま』が二台行き違えるような、巨大な道が吊り橋で持ち上げられるはずないので、違うと思うが、中々圧巻の飾りだ。

「…………………!!!!!!」

『圧巻の飾り』だと思ったのだ。

「あひゃ………あわわ、ふぉぉぉぉぉぉおおおお!???」

道の両側を覆っていた高い壁が消えて、視界が開けが瞬間、アーシャは叫びまくっていた。


右手前には小さくなった市街地、左手には巨大な河川と、それに連なる更に巨大な湖。

本当にこれが吊り橋だったという衝撃や、船で渡る程巨大な河川を地面を走る乗り物で渡っている衝撃、先程走っていた街より遥か高い位置を走っている衝撃、果ての見えない巨大な湖への衝撃。

衝撃の情報が多過ぎて、もう、どう処理していいのかわからない。

右を見て小さく見える街に驚いて、上を見て巨大な吊り橋に驚いて、左を見て巨大な水の流れに驚く。


「う・み」

巨大な湖を指差して、教えてくれるゼンに、馬鹿みたいに何度も頷いてしまう。

「うみ!?うみ!うみ!うみぃいいいい!」

叫ばないと、感情が氾濫してしまいそうだった。


『くるま』はどんどん進むのに、その湖は途切れない。

視界いっぱい水、水、水だ。

(この国が水を自由に使いまくれる理由がわかったわ!)

こんな巨大な水瓶があったら、それは水が尽きることなんてないだろう。


やがて巨大な吊り橋が終わっても、太陽を反射して眩しく輝く湖の姿は確認できる。

道は登ったり降ったり、山のような所を通ったりするのだが、視界が開けると、そこには絶対に湖がある。

(一体……どれだけ広いの!?)

アーシャには想像もつかない広さだ。


(城壁がなくて、ずっと街で、走っても走ってもずっと尽きない湖があって……)

全てが自分の常識と違う。

ここはやはりアーシャが全然知らない国なのだと、改めて実感する。

興奮しっぱなしでいる事はできないので、自分の座席に身を委ねてゆっくりと座るが、目は外の景色に釘付けだ。

その間も窓は色々な景色をアーシャに見せてくれる。

大きな川があって、山があって、街があって、通る景色が次々と表情を変えるのも凄い。

どこまでも続く荒野のように、目印も変わり映えもなくて、自分が今何処を走っているのかわからなくなるなんて場所、この国にはないのだろうか。


「こー・ば・ん」

「が・そ・り・ん・す・た・ん・ど」

「こ・ん・び・に」

ゼンは目に見えるものを色々と教えてくれる。

きっと意味がある建物なのだろうと、アーシャは復唱しながら、一生懸命目に焼き付ける。

そんな事をしていたら、『くるま』は速度を落とし、すれ違いができない程、細い小道に入っていく。


「はぁぁぁ……」

小道は湖に向かっているようで、窓一面に見える輝く水面に、アーシャは思わず息を吐き出す。

複雑な形に波打つ水面に、乱反射される光は、驚くほど美しい。

「えっ」

そのまま湖に向かうのかと思ったら、直前で『くるま』は曲がって、大きな広場に出る。

(『すーぱー』?)

その広場は『くるま』を停める為の場所のようで、その先に建物が見える。

建物は年季の入った木造で、以前見た『すーぱー』より少しうらびれているが、構成が何となく似ている。


『くるま』は建物に近い場所に停まって、疲れたように、唸るのを止める。

(凄く長く乗せてくれて有難う。ゆっくり休んでね)

座席から下ろしてもらったアーシャは、沢山走ったせいで、まだ熱い『くるま』の体を撫でて労う。


「アーシャ」

そんなアーシャの顔の前に、ゼンの手が差し出される。

「…………へへへ」

当然のように差し出される手に、アーシャはニヤけてしまう。

こうやって自然に手を繋ぐ姿を、他の人が見たらどう思うだろうか。

(今の繋ぎ方!すっごく自然だったわ!私たち、仲の良い家族に見えたりするのかしら?)

そんな事を思ってムフフとアーシャは上機嫌に笑う。


アーシャの手を引くゼンと、斜め後ろを歩くユズルは建物に向かう。

(お買い物も楽しそうだけど、大きな湖ももっとしっかり見たかったなぁ)

ちょっと心残りで、湖の方を見ていたら、大きな手がアーシャの頭を撫でる。

「う襖傑あ喉質熱諸うな」

アーシャが見上げると、ゼンはニカっと笑って、湖の方を指差す。

(綺麗だねって言ってるのかな)

そう思ってアーシャは頷く。

アーシャの背の高さから見ると、全く湖は見えないが、背の高いゼンには、あの美しい光景が見えているのだろう。


頭をくしゃくしゃと撫でてくれたゼンに導かれて、アーシャは建物の中に入る。

「わぁ!」

入り口から並べられている数々の野菜に、アーシャは目を見開く。

簡単な造りの木の棚に大きな籠が並べられ、その中に巨大な野菜たちが無造作に、山盛りで入っている。

以前にゼンが連れて行ってくれた、処理できないほどの物品が整然と並んでいた『すーぱー』とは、ちょっと趣が違うが、これはこれで圧巻だ。

並んでいる野菜は、どれも実際には見たことがないのだが、ユズルが貸してくれた『奇跡の鏡』で、アーシャはその名前を学習している。

死角はない。


「『かべつ』」

奇跡の鏡で見たそれより、随分上に間延びしているが、間違いない。

鼻高々でアーシャは一人で頷く。

「『めぎ』」

思っていたよりかなり大きいし、全体が緑色の筒のような形だったはずなのに、これは根っこの白い部分が目立つ。

きっと個体差があるのだろう。

「『だぁこん』」

人参くらいの大きさと思っていたが、実際は凄く大きい。

今のアーシャの大きさだと、二本を運搬するのが限界だ。

「……………根っこ…………」

覚えた野菜の名前を発表しながら歩いていたのだが、四番目の籠に見覚えのある強敵が入っていた。


掘り出したてと思わしき、泥だらけの木の根っこが束ねられて、野菜みたいな顔をして、みっちりと籠に入っている。

「………………」

アーシャは周りのカゴを確認する。

「『かぶ』、『ほりぇんしょ』、『にんしん』」

他の籠にはカブ、葉物野菜、人参と、確かに野菜が入っている。

「……………根っこ…………」

しかしその中に野菜ヅラして木の根っこが混ざっている。


(やっぱり神の国は木の根っこを食べるの……!?こんなに豊かで食べ物に溢れているのに、何で木の根っこなんて掘り出して食べるの!?)

現実を受け入れられなくてアーシャは渋い顔になる。


商品として並んでいるのだから、神の国で木の根っこはちゃんとした食べ物として認識されている。

ゼンも食材と一緒に置いていたので、それは間違いない。

しかし受け入れ辛い事実だ。

アーシャにとって根っこは根っこであって、食べ物ではないのだ。


「おい、いくぞ!」

受け入れ難い真実とアーシャが戦っていたら、何故か頬を赤く染めたユズルにグイグイと背中を押される。

「?」

突然何だろうと、手を繋いでいるゼンを見上げると、口を押さえて顔を真っ赤にしている。

笑うのを我慢しているようなのだが、周りを見ても、これと言って面白い物はない。

「???」

それなのに周りにはゼンと同じように笑いを堪えている人が沢山いる。

アーシャから見えない、高い位置に面白いものがあるのかと伸び上がって周りを見たが、これと言って面白い物はない。


嫌そうな顔をしたユズルは、セカセカと歩いてその場を離れ、素朴な木の卓の中に立っている人に向かって話しかけ始める。

(何か買っているの?)

そうは思ったが、ユズルもゼンも手には何も持っていない。

「???」

しかしいつぞやも見た金銀の預り証と思われる紙を、ゼンは卓の中の人に手渡す。

物品を買う代わりに、金銭を払うはずなのに奇妙な事もあるものだ。


じっと観察していたら、卓の中の人が三枚の紙らしき物と、ペラペラの硝子をユズルに手渡す。

「???」

紙はアーシャの手の平よりも小さいし、ペラペラの硝子もそんなに大きくない。

(ちっちゃい……失礼だけど、買うような価値がある物なのかなぁ?)

アーシャは一人首を傾げる。


ユズルは小さな紙を一枚取って、残りをゼンに渡す。

懐疑的に見ていたアーシャの目の前に、ゼンがしゃがみ込む。

(あ、可愛い!)

近くに来たことで、それをしっかりと見ることができた、アーシャは思わず微笑む。

ただの紙と思っていたら、その紙はツルツルとした光沢を持っており、表面にとても可愛らしい苺の絵が描いてある。

苺の周りには神の国の言葉と思われる字が、描かれているのだが、これもまた可愛い。


「!?」

ゼンは二枚の紙を持っていたので、てっきり一枚をアーシャにくれるのかと思って、両手を出して受け取り準備をしていたのだが、ゼンは一枚の紙を二つに割いてしまった。

破いたのではない。

まるで野菜の皮を剥ぐように、一枚を剥いで二枚にしてしまったのだ。

「!??」

そして驚くアーシャの肩に、剥いだうちの一枚を押し付けてきた。


一度ギュッと手を押し付けてゼンの手は、アーシャの肩から離れる。

「ほぁっっ!!!」

これは何の儀式なのだろうかと、訝しげに見守っていたアーシャは声を上げた。

何と紙がピッタリと服に張り付いたのだ。


アーシャは驚いて、肩の紙を引っ張るが、紙はびくともしない。

既に服の一部となってしまっている。

(そんな……ただの紙が服の柄に早変わりしてしまうなんて……!!)

更にグイグイと引っ張り、剥がれない事を確認しつつ、アーシャは驚愕する。

無価値などと、とんでもない。

確かにこれはお金を出して買う価値のある紙だ。


「だーめ」

紙を引っ張るアーシャを、優しく押さえて、ゼンは首を振る。

どうやらあまり触るといけないもののようだ。

(確かに……価値があるものをベタベタ触ってはいけないわ)

アーシャは納得しながら、胸を張る。

こんな素敵なものを服に着けている自分が少し誇らしい。

(貴族たちの宝石自慢合戦をやる気持ちが少し理解できるわ。……自慢しちゃいたい)

アーシャは再び差し出されたゼンの手に掴まって、上機嫌で歩き出す。


これから訪れる場所にいる人たち全員が、この紙を貼り付けているなど、この時のアーシャには想像もできていなかった。


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