28.保育士、走る

早番だった麗美の退勤時刻は十五時だったのだが、今日は中々お昼寝に入ってくれない子がいて、事務仕事が片付かず、残業をする羽目になっていた。

(今日は珍しくすぐに帰ったな、峰子先輩)

いつもは自分の仕事がなくても居残り、何かと皆のフォローをして回り、保育園の主と化している峰子だが、珍しく十五時になると同時に姿を消した。

「あれ?」

そんなことを思っていたら、何故か職員室に峰子がいた。

気がついたら園長に何やら話しかけていたのだ。


「あれ?峰子先生?帰ってきたの?帽子なんて珍しいわね」

「しかもびっくりするくらい浮かれてるわ」

同じように事務作業をしていた先生たちが言葉を交わす。

峰子の表情は変わりにくいのだが、慣れている職員たちはわかっている。

少し弾むような軽い足取り。

あれは浮かれている時の歩き方だ。

(何か良いことがあったのね)

麗美は楽しそうな峰子の後ろ姿を微笑ましく見送り、苦手な表計算ソフトとの、にらめっこを再開した。

———その直後、職員室に轟音が響いた。




保育園に何者かが車で突っ込んできた。

事故ではなく故意で、倒された門から不審者たちが雪崩れ込んできた。

その情報はすぐさま職員たちのなかで共有された。

「全員お遊戯室へ!分散しないで!園長、警察への連絡を!各クラスの担任は残っている園児の点呼が終わり次第、保護者へ不審者が門で暴れているから安全が確保されるまで近辺に来ないように連絡を!他は安全確保のために動いて!」

次々と建物内に園児たちを入れながら、直前までウキウキだった峰子が指示を出す。

突然の異常事態に半分パニックを起こしていた職員たちは、明確な指示をもらって、何とか自分たちの職務を全うし始める。


突然車が突っ込んできて、一箇所に集められた子供たちは不穏な空気に怯えて泣き声をあげる。

「は〜〜〜い!みんな、先生の声が聞こえるかな〜?」

そんな中、古株の赤松や園長が中心になって、子供たちに語りかける。

他の先生たちは点呼を終わらせ、保護者たちへの注意喚起の連絡を始める。

「バリケード作ろう!パイプ椅子とテーブル出して!」

残業をしていた麗美を含めた三人の早番組は、お遊戯室の扉の前に椅子や机で即席のバリケードを作る。


「ねぇ、峰子先生が暴漢と戦ってる!」

その内の一人が外を見て声を上げる。

「流石峰子先生!!……あ!あの隣で戦ってるイケメンって、うちの園の父兄だよね!?」

「………え?なんか知らない女の子まで戦ってる!?」

つられて窓から外を見た、もう一人と麗美は声をあげる。

かなり体格の良い男たちにも一歩も引かずに、堂々と戦う峰子はとても格好良い。

その傍で全く見覚えのない、西洋人形のように着飾ったゴスロリ美少女が、倒れた暴漢たちの腕を拘束し、服を捲り上げて、その裾を縛るという独特の拘束方法で、腹から胸までをはだけさせた不気味なオブジェを作り出している。


「峰子先生が強いのは知ってたけど、あのお兄ちゃんも強〜〜〜い!」

他の二人は黄色い声を上げるが、麗美は半裸でゴミ袋を被ったような状態で蠢く男たちが気持ち悪くて目が離せない。

「あ、最後の人も捕まえたっぽい」

「あのゴスロリっ子、誰だろうね?」

「峰子先生の妹?確か一人いたよね?」

そんな話になって麗美は首を傾げる。

峰子の妹は、峰子と同じ『烏の濡れ羽色』と表現したくなる、美しい黒々とした髪で、服装もかなり大人しい子なので、遠目でも別人だ。


ゴスロリっ子がジタバタともがく女性を拘束した姿に、職員たちは安堵の息を漏らす。

疲れた様子のアーシャの兄が地面に転がり、パトカーが三台連なってやってきて、現場を塞ぐように停められる。

一時はどうなる事かと思ったが、無事事件は収束したようだ。


悪い人が捕まって、お巡りさんも来たと伝わると、不安で泣いていた子供達も、途端に窓際に寄ってくる。

制服を着たお巡りさんと、白と黒で回転灯のついたパトカーは、いつでも子供たちの憧れの的なのだ。

「おまわりさんだ〜〜〜!」

「ぱちょか〜〜〜!」

皆が歓声を上げる。


「バリケード撤去しなきゃ」

そんな子供たちの歓声を聞きながら、麗美たちは扉前の障害を元に戻し始めた。

そして唐突に始まった非日常から解放されて、微笑み合いながら「すごい事件だったね」なんて言い合っていた時だった。

「せんせーーーーー!!!」

「さだこーーー!!!」

「さだこせんせーーーーー!」

パトカーや警察官に喜んでいた子供たちの口から、悲鳴が上がった。


驚いて麗美が窓の外を確認したら、門から少し離れた先に、真っ黒な髪が広がっている。

最後に見た時、峰子は駐車場の方に向かっていた。

保護者への注意喚起をしに行くのだと思っていたのだが、その峰子が何故園庭に転がっているのか。

「なに……あれ………」

その答えはすぐに姿を現した。


ボサボサに乱れた髪、人間ではあり得ないようなどす赤黒く変色した肌の色、前のボタンが弾け飛び、スカートからはみ出たシャツ、破れたストッキングに包まれた、何も履いていない足。

その姿だけでも異様なのに、門の後ろから現れた女は、手を熊手のように開き、異常に背中を曲げ、立ち上がった熊のように左右に揺れながら歩き、更に異様さを際立てる。

ヨタヨタと手足どころか、足同士の動きすら合っていない。

右足と左足を同時に出そうとしてよろけたり、右足ばかりを動かしたり。

保育園児が動かすマリオネットでも、こんなに酷い動きはしないだろう。


「あの人の……服とか手って……血じゃない?」

ただでさえ異様な様子なのに、職員の一人が更に恐ろしいことに気がついてしまった。

確かに、頭、顔、シャツ、腕を汚している茶色い液体は、酸化した血液のように見える。

「ねえ……あのお腹……何か、動いてるよね……?」

しかも乱れたシャツの下で何かが、蠢いている。

絶対人間の腹筋ではありえない、内側で何匹もの蛇がのたうち回っているような動きだ。


異常な動きで女は峰子に近づいて行く。

麗美は息を呑んで、思わず片付けていたパイプ椅子を持つ手に力が入る。

しかしすぐに異様な女を、警官たちが取り囲み、地面に転がっていたアーシャの兄が慌てたように立ち上がり、倒れた峰子に駆け寄る。

それを見て、ホッと胸を撫で下ろしたが、それも一瞬だった。


「………は?」

麗美を含めて皆が信じられないものを見て、そんな呟きを漏らした。

女を取り押さえようと近付いた警官が、まるで車に撥ねられたかのように吹っ飛んだのだ。

まるでワイヤーアクションのように警官は飛んで、二、三回と地面でリバウンドして、ビクンビクンと痙攣する。

「え……あ……?」

女は近づいた警官に向かって威嚇するように手を振っただけだ。

触れたようにすら見えなかった。

それなのに警官が吹っ飛んだ意味が分からなくて、固唾を呑んで見守っていた職員たちにも動揺が広がる。


一人、二人、三人と飛ばされて、包囲網が消えると、女は再び歩き始める。

峰子はどこかを痛めたのか蹲っており、その前にアーシャの兄が立ち塞がる。

しかし肉厚な警官に比べて、彼はあまりにも細身に見えた。

「峰子先輩……!!」

麗美は思わず、片付けていたパイプ椅子を抱きしめて、扉に駆け寄る。

「ちょっと!麗美!あんたが行っても無駄だって!」

そんな麗美を同期の同僚が止める。

「でもっっ!!」

それでも麗美が扉を開けようとした時、窓の外を見ていた人々から悲鳴のような声が漏れた。


「園児が!!」

「あーさ!」

「点呼したのに!?」

「あーさちゃん!!」

口々に叫ぶ声を聞きながら、皆が見ている方を見た麗美は身体中の血が地面に向かって落ちた。


ズルズルと動く女、蹲る峰子、その峰子を守るように立つ兄。

そこに小さな影が走り寄って行っているのだ。

「アーシャちゃんっっっ!!!」

麗美の口から悲鳴のような声が飛び出した。

ちょっとガニ股気味で左右に大きく揺れながら走る姿は、間違いない。

午前中までの時短預かりで、既にこの場にいないはずのアーシャだ。

いないはずだから、点呼から漏れてしまったのだ。


もう麗美に迷うという選択肢はなかった。

一瞬で引いた血が、体の中で沸騰したように駆け巡る。

扉を開けて、悲鳴なのか雄叫びなのか自分でもわからない声を上げながら走り出す。

お遊戯室は一番建物の奥にあるので、本来は廊下を歩き、下駄箱から外に出る。

しかし麗美は一番近い職員室に突進し、そこの掃き出し窓から、室内履きのまま外に駆け出る。


ガチャガチャと胸に抱えた椅子を鳴らしながら、懸命に走っても間に合わない。

女のどこを見ているかわからなかった目が、ゴロリと動いて、アーシャを捉える。

「あぁぁあああぁぁぁあああ」

アーシャを見た女の叫びは、歓喜の雄叫びに聞こえた。

女は方向転換し、峰子の方から、アーシャの方へ体を向ける。

「チビ!!」

「アーシャちゃん!!」

近くにいた兄もアーシャが至近距離に来るまで気がついていなかったようで、慌てて走り出すが、間に合わない。


「とあっ!」

緊迫した場面に、何とも可愛らしい掛け声が響き、アーシャは手に持っていた魔法の杖のような物を振る。

体格の差は歴然で、女の腰よりも頭の位置が低いのに、アーシャの動きには怯えはなかった。

振り下ろされる手を頭を下げて回避しながら、真っ直ぐに女を見ながら、その脇腹を杖で殴る。

しかし子供の力で振り回された杖の威力なんてたかが知れている。

手加減なしで子供たちに叩かれたりもする保育士だから知っている。

この恐ろしい女を止めるほどのダメージなんて与えられない。

アーシャが叩き飛ばされてしまうであろう、最悪の場面を想像して、麗美は大きく息を呑む。


「あぁぁあがああぁぁぁああがあぁぁぁ!!!」

しかし信じられない事に女の口からは絶叫が響いた。

警察官すら吹っ飛ばした女が、子供の一撃で、身を捩るほど苦しんでいる。

苦しみに耐えかねた手足が、まるでそれぞれの方法で痛みに耐えるかのように振り回される。

「ふんっ!」

ぶつかりそうになる手足に怯える事なく、更にアーシャは杖を振るう。

杖は女の手よりも随分前の空間を通過して、完全なる空振りに見えたのだが、彼女に向かって振り回されていた手が打ち上げられ、女はたたらを踏む。


「アーシャちゃん!!」

女がアーシャの方に大きく傾いたので、巻き込まれると思ったのだが、

「クソチビ!!」

アーシャの兄がその小さな体に飛びついて、抱き込むようにしながら転がり、女から距離をとる。

「うがあぁぁああああ!」

その二人に怒ったような雄叫びを上げながら、体勢を立て直した女が追う。


追わせてはならない。

自分が何とかしなくてはいけない。

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

ペチンとすら人を叩いたことがない麗美は、悲鳴をあげながら、パイプ椅子を振りかぶった。

とても目を開けたまま振り切れなかった。

「ひぃぃぃぃぃぃぃ!!」

目を瞑りながら振った手に、強い振動が伝わり、パイプ椅子の金属特有の軋む音が耳を刺すので、喉からは自然と悲鳴が出続ける。

それでも麗美は手を振り切った。


目を開けたら、女が地面に倒れていた。

「はぁっはぁっはぁっはぁっ!!」

大した運動をしたわけでもないのに、荒い呼吸が止まらない。

手もガクガクと震えて、そのまま椅子を取り落としてしまった。

初めての事に混乱したかのように、涙まで噴き出す始末だ。


倒れた女を押さえ込もうと警官たちが走り寄って来て、ようやく恐怖の時間は終わったと思った。

しかし警官たちは、ぎょっとして立ち止まる。

「ひっ………ふっ………ひぃ………」

女を見た麗美も、腰が抜けて、その場に座り込んでしまう。


倒れた女は動き出したのだが、それは人間の動きから、かけ離れ過ぎていた。

右足が地面に対して垂直に立てられ、立ちあがろうとしているのに、左足は何故か倒れたまま体を引き摺るように激しく動いている。

まるで出来損ないの二足歩行ロボットだ。

やがて足から順に逆再生をしているかのように、グラグラと女は立ち上がる。


麗美は震えながらも落とした椅子を引き寄せ、それを支えに立ちあがろうとする。

しかしガチャンとパイプ椅子が音を立てたら、女の顔がグググっと回され、白目が真っ赤に充血した目が麗美を捉える。

「う……うぁ……ふっ………」

睨まれた麗美の口は、意味のある言葉を吐き出せない。

「麗美……逃げ……なさい」

背後からヨロヨロと峰子が立ち上がり、麗美の方へ来ようとしている。


とても動ける顔色ではない峰子。

そして園児を守るように抱きしめている父兄。

「に……逃げ……逃げられる、わけ、ないじゃないですか〜〜〜」

立ち上がれなくても、麗美は椅子を握る。

無謀でも滅茶苦茶振り回してやる。

そんな覚悟を麗美が決めた時だった。


「ゼンッッ!!」


声に色があるなら、その声はきっと金色に光り輝いていただろう。

こんな絶望的な場に響いたのに、その声は明るく、希望に染まっていた。

その声に応えるように、ゴンッガンッと金属を叩くような音が響く。

麗美が驚いて顔を上げた時、漆黒の影が空を飛んでいた。

「おがっっっ!!!!」

それがアーシャのもう一人の兄で、彼は保育園前でバリケードのように停まっていたパトカーと、犯人たちが乗って来た車の上を足場に跳んだのだと気がついた時には、女が吹っ飛んでいた。


真っ黒なジャンパーが翻り、土煙をあげながら、彼は着地する。

「……化け物かと思って手加減なしで蹴ったが……人間だったか……」

そう言いながら立ち上がった彼の背中は、何者も寄せ付けない巨大で堅固な砦のようだった。

普段の謎の威圧感が、この場にいる麗美たち全てを守る、この上なく頼りになる物に感じる。

たった一人現れただけなのに、もう安全だと、思えてしまう程だ。


「人間卒業間近だから問題ねぇよ」

麗美と同じように感じたのだろう。

アーシャを固く抱きしめていた彼の弟が、地面に座り込んで呟いた。

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