26.次男、戦う(後)

家でゆっくり休んで体力を回復させる。

そんな予定じゃなかったか?と譲は自分に問いかけていた。


「アーシャちゃんが保育園に行きたがっているようなんです」

そう言って峰子が指差した先では、コートを身につけ、何も入っていないリュックを背負い、デコ錫杖を持ったアーシャが玄関扉に張り付いていた。

禅一の後を追いたいのかとも思ったが、それなら空のリュックを背負っている意味がわからない。

「もしかしたら桜さんに何らかの異変があったのかもしれません。安全に配慮して、散歩がてら行って来ても良いでしょうか?」

アーシャが桜の木を復活させた奇跡を見たせいか、峰子はアーシャの行動に何らかの意味を見出しているようだが、

(絶対何にも考えてないから)

普段の食べ物一番の食欲魔神っぷりを見ている譲には全くそうとは思えなかった。


保育園まで徒歩で往復しても、かかるのは三十分程度。

他人がいる部屋ではどうせ寛げないし、眠るなんて到底無理だ。

他人にチビ助を預けてしまう事もできない。

それならば少し散歩して、リラックスして考えをまとめ、ついでに桜の状態をしっかりと確認してみるのも良いだろう。

保育園は人の目も多いし、危険はないだろう。


そう考えて、譲も一緒に保育園に行ってみることにした。

「何なんだよその格好!!」

「隠密行動です。今は保育士としてではなく、一介の市民として行動しているのですが、見た方は誤解されるかもしれませんので」

「そんな防護服のなり損ないみたいな姿の奴と一緒に歩かねぇぞ!」

「落ち着いてください。防護服は白、今の私は黒一色です。白要素がありません」

「モノクロ反転してるだけだろうが!変装したいなら帽子を貸すから!これ被れば良いだろ!?」

しかしフードを引き絞って被る峰子の姿に、決断を秒で後悔した。

変質者と紙一重の格好の奴と連れ立つなんて、リラックスどころではない。


「いえ、保護者の方から何かしていただくのは。私はこの格好で十分満足していますので」

「俺が満足してねぇの!」

しばらくそんな不毛なやり取りを続けたが、譲が持っているニットキャスケットを、アーシャがうっとりとした目で観察し始めたら、あっさりと峰子は折れてしまった。

「かわいーな!」

帽子姿を見たアーシャに、嬉しそうにパチパチと拍手された峰子は、下唇を噛み締める。

「んんん!!!」

そして歓喜の声を押し殺したと思われる、奇妙な唸り声を上げながら、アーシャを抱きしめていた。



悪い人ではない。

むしろ子供やその保護者には良い人なのだが、とにかく行動が独特過ぎる。

「私はちょっと園長に事情を話してきますね」

保育園について、門扉のリーダーに職員カードをかざしながら、峰子は言う。

「事情って?」

「………譲さんが桜フェチで、桜さんが花芽をつけない原因を探りに来たという線でどうでしょう」

「普通に忘れ物をして取りに来たと言うことにしてください」

ゴリゴリとMPせいしんが削られていく。

そんな状態なので、家でゆっくりしている予定だったのに、俺は何をしているんだと、譲は自分に問うてしまう。




譲は園庭の端の桜を見上げる。

今にも涸れそうだった力が多少復活しているが、完全復活とはとても言い難い。

(いくらチビでもあっさり神霊を治せたりはしないだろうし、こんな人目があるところで行動させるなんてできないからな)

そんな事を思っている譲の腕の中で、ビクンとアーシャの体が跳ねる。

そして不安そうに譲に身を寄せながら、何かを気にしている。


「どうした?」

車にもそうだが、チビ助は何でもない物にも怯えてしまう。

からかうように鼻を掴むと、途端に眉毛が吊り上がる。

「ふぐぅ!!」

『譲!!』と名前を叫んでいるようだが、元々舌ったらずな上に、鼻まで摘まれているから、原型を留めていない。

手近な所を攻撃するのではなく、譲の鼻を摘み返そうとジタバタと短い手を動かすのが可笑しい。


そんな事をしていたら、圧倒的な存在感がこちらに向かってくるのを感じた。

なんと、桜の木の根元に収まっていたはずの、桜の神霊がふらりふらりと近づいて来たのだ。

「………っ」

神とは目を合わせるな。

神に触れるな。

神からは速やかに離れろ。

そう教え込まれていた譲は咄嗟に目を伏せたが、しっかりと見てしまった。


白銀の下げ髪。

樹皮を思わせるゴツゴツとした肌。

顔は無毛で、額の上の方にぽってりとした、墨で書かれた眉がある。

真っ白な着物に、深緑の下地に桜の刺繍がされた打ち掛けを腰に巻く、腰巻姿だ。

(こんなに人間っぽい姿だったとは……)

形を持たない、力の塊のような『神』は知っているが、こんなに人間に近い姿を見たのは初めてだ。

それだけ人に近しい神だということだろうか。


「えに。わにゅいにぃみゅあいぬぅいあ」

視線を落とした譲は、目を見開く。

腕に抱えているアーシャは真っ直ぐに桜の神霊を見て、なんと話しかけているのだ。

神霊の方も何か話しているようなのだが、ノイズにノイズを合成したような、羽根虫の大群でも飛んでいるかのような音で、何を言っているかわからない。


「………………」

「意思疎通ができているようですね」

固唾を飲んで、ちびっ子と神の対話を聞いていた譲の隣で、いつの間に戻って来たのか、峰子は感心したように呟く。

「アンタは……聞こえているのか?」

「いえ。全く。気配がそこに来ているなとわかるくらいで、音はおろか、姿も殆ど見えません。譲さんは?」

「俺はの方はかなり良いんだが、はそれほど……『これ』はチビが見ても大丈夫なのか?」

神霊との対話を遮って良いのかわからない譲に、峰子は事もなげに頷く。

「私も小さい頃は話していましたし、保育園の子も何人かは見えているようですので大丈夫ですよ。桜さんは子供にはとても優しい方ですので、譲さんも大丈夫だと思いますよ」

「子供って………俺は法律的には成人してんだけど」

そう言いつつ、譲はそっと視線を上げる。


「………?」

『優しい』と言われた神霊だが、かなり厳しい顔をして、門の向こうを睨んでいる。

それが先程アーシャが怯えたように見ていた方向だと言う事に思い至ったのは直ぐだった。

「!!」

不思議に思って譲も同じ方向を見た時、ようやく彼は異変に気がついた。

保育園の前を走る幹線道路の向こうから、異常な速度で走る車のエンジン音が響く。

次いで迫ってくる、どす黒い気配。


「何やら、起こっているようですね」

譲の顔を見ていた峰子は拳を鳴らす。

彼女は帽子を脱いで、譲の頭に返して、前に出る。

その背中に、帽子から出て来た黒絹のような髪が、風に流されて広がる。

神霊はそんな峰子を止めるように動くが、彼女は振り向くことすらせずに、怖いもの知らずにも、シッシッと手を振る。


回転数が上がりすぎた車のエンジン音が近くなり、その姿を肉眼が捉える。

誘拐などでよく話題に上がる、ワンボックスタイプのワゴン車だ。

普通車と比べたら存在感のある、巨大な車が猛スピードで、車線を無視して、ミシンのようにジグザグに車の間を走り抜け、こちらに向かって来ている。


「みんな!教室に入りなさい!」

峰子は素早く、園児たちを道路に面した園庭から引き離す。

遊んでいる途中の園児たちが驚いた顔をしながらも、その指示に従って動き出そうとした時。

急激な方向変換に耐えかねたような、タイヤのスリップ音が響き、園児たちの悲鳴の中、ワゴン車がスピードを緩める事なく、保育園の門柱に突っ込んだ。


門柱をへし折り、門扉を変形させ、それでも車はアクセルをふかす。

そのまま車ごと保育園に突入するつもりらしい。

「チッ」

峰子は短く舌打ちしながら、走り出したかと思ったら、折れて飛んだ門扉の一部を拾い、フロントガラスに叩きつける。

門扉との衝突の衝撃でヒビが入っていたフロントガラスは、峰子の一撃で、更にヒビの範囲が広がる。

蜘蛛の巣の様な紋様が一面に張って、最早前が見えない状態だ。


峰子は鉄の塊を再び持ち上げ、そのフロントガラスに更なる一撃を加える。

「ぎゃっ!!」

峰子が振りかぶった門扉の一部はフロントガラスを突き破り、運転手の顔面を抉る。

「総入れ歯になりたくなければアクセルから足を離すことね、下衆ゲス

鼻血やら何やらを噴きながら仰反のけぞる運転手に、峰子は容赦がない。

突っ込んだ棒の根元をぐりぐりと押して、命令している。


アクセルから運転手の足が離れたらしく、車の突進が止まる。

それと同時に、ワゴン車の助手席とスライドドアが開き、そこからゾロゾロと目が血走った男女が出てくる。

「おいおい……何人出てくるんだよ……」

助手席から出てきた筋肉太りのスキンヘッドの男が幅をとって全員は見えないが、数が多いことだけはわかる。

「チビ!中に入って隠れとけ!」

そう言って、忙しく園児たちの避難をさせている保育士たちに向けて、アーシャの背中を押す。


全く躊躇わずに、車の窓を叩き割り、運転手を無力化した峰子だが、彼女の体は太いとはとても言えない、スレンダー体型だ。

いくら彼女が強かろうと、圧倒的な体重差は戦う上で不利になる。

神代かみしろ……神代を捕まえろ!!」

「早く捕まえろ!手遅れに……手遅れになるぞ!!」

倒れた門から必死の形相をした奴らが雪崩こむ。

「ぎゃ!」

いや、雪崩れ込もうとして、見えない壁に弾かれて、先頭の助手席から出てきた巨体の男が尻餅をつき、後ろに続こうとしていた人間ごとひっくり返る。


「桜さん、スティ!!」

それを見た峰子が怒鳴る。

譲が驚いて振り向けば、先程まで、ヨボヨボしながらも一応立っていた神霊が、地面に蹲っている。

どうやら死力を尽くして園内に敵が入るのを拒んでいるようだ。

———コドモ………コドモたち……

激しいノイズの様な声の中、それだけは聞き取れた。

どうやら子供に優しいと言うのは本当なようだ。

しかし見る見るうちに弱っていっている。

氣の枯渇の影響だろう。


「乾先生!デブどもは俺が引き受ける!子供たちを優先して避難させろ!子供たちに危険がある限り神霊は力を使うぞ!」

そう言ったら、ピクっと峰子は反応する。

彼女の顔に迷いがよぎったのは一瞬だった。

「子供たちを避難させたら戻ります!」

そう言いながら、峰子は即時、他の保育士たちと一緒に子供の回収に走り出す。


譲は峰子の判断を待たずに走り出していた。

薙ぎ倒された門扉の直前で地面を蹴り、正面飛びの要領で、足を揃えて倒れた門を飛び超え、体を起こそうとしていた男の顔面目がけて、両足を突き出す。

「重量級はお呼びじゃねぇんだよ!!」

顔面に足を叩き込まれた男は、大きく仰け反りながら、再び倒れる。

譲は無慈悲に、その顔の上に着地して、そのまま踏みつけながら腰を落とし、男の顔を足場にもう一度ジャンプして地面に着地する。

譲が跳んだ軌跡を追うように男の鼻血が飛び、その傍に譲の帽子が落ちる。


着地と同時に譲は体を捻り、大男の二度目の転倒を避けて、体勢を立て直そうとしていた男の足を払う。

そのまま体を回転しながら立ち上がり、よろけた男の顔に肘を撃ち込もうとした。

が、男は顔の前で腕を交差させて、それを防ぎながら後ろに倒れる。

その男をもう一人が受け止めて、支えてしまう。

「チッ!」

最初に顔を踏みつけた奴は無力化できたようだが、それ以外に大したダメージを与えられなかった。


峰子によって無力化された運転席の男と、顔を踏まれてのびたスキンヘッドの大男。

それ以外に残っているのは体格の良い男が三名と、その背後に女が一名。

三人の男には見覚えがある。

分家で炙り出した奴等だ。

顔面を踏まれて伸びている奴も、昨日までスポーツ刈りだった頭を、何故か丸めてはいるが、よく見れば、昨日禅一に睨まれて青くなっていた男だ。

全員が高次元災害対策警備会社の社員なら、体術をそれなりにやっているから、四対一では厳しい。


(いや……車の中に、もう一人……気配がある)

譲が感じたどす黒い気配が車の中で蠢いている。

(『一人』なら、まだマシか)

どうか車の中のモノが人であってくれと譲は願う。

人間を四人相手にしながら、それ以外も相手になんてできるはずがない。


「お前ら、小学生の老人ホーム慰問程度しかニュースがないこの田舎で事件を起こして、明日の一面を飾る覚悟はできてんのか?」

対話で警察が駆けつけてくれるまでの時間を稼ごうと、譲は襲撃者たちに話しかける。

「うるさい!うるさい!俺たちはもうこれしか助かる道がないんだ!」

「早く!神代を寄越せ!」

「手遅れになる!早く!依代よりしろが要るんだ!!」

しかし男たちは口から唾を垂れ流す程、興奮して、話にならない。


(何だ……コイツら、全員穢れが絡まってやがる)

車の中から流れ出してくる濃厚な気配に注意を持っていかれて、気がついていなかったが、倒れた大男も含めて全員薄い黒い靄がかかっている。

(でもそれ程強いか?)

禅一が横を歩いたくらいで吹き飛ぶような薄い物だ。

その辺りの祓い屋でも十分対応できるはずだから、この道の専門家とも言える高次元災害対策警備会社の人間が祓えないはずがない。

対話もできないほど、焦るような代物ではない。


掴みかかってくる男の手を弾き飛ばし、譲を避けて壊れた門から園内に入ろうとする男の足を払い、蹴りつけようとしてきた足を転がってかわす。

「早く、早く!はやく入れなさいよぉぉぉぉ!!」

一番後ろにいた女が、男たちの合間を縫って保育園内に飛び込もうとするが、神霊の見えない壁に阻まれて、凡そ正常な人間の声とは思えない雄叫びのような声をあげる。

「………っ!!」

その姿を見て、譲はギョッとする。


女の目は血走っていて、眼球が出るのではないかと思うほど、見開かれている。

そして他の男たちと同じように黒い靄に包まれているのだが、その腹の辺りに真っ黒な『何か』が憑いている。

じっと視ようとしたが、殴りかかってくる男たちの相手もしなくてはいけない。

拳を避けて、殴り返し、蹴りを捌き、軸足を蹴り飛ばして転ばせ、走り出そうとする男を掴む。

禅一と一緒にそこそこ鍛えているとはいえ、三対一ではジリジリと押されてしまう。

そうこうしているうちに、女から吐き出される黒い物が、園内への侵入を阻んでいた神霊の壁に食い込み、やがてノイズ音を上げながら消し去る。


「しまっ………」

女の保育園への侵入を許してしまった譲は息を呑んだ。

しかし次の瞬間、色彩豊かな物が視界の隅を走り抜け、

「バーーーースト!!」

女が後ろに飛んだ。

譲は男に掴み掛かられながら、飛んできた女の襟首を掴み、更に後ろに突き飛ばす。

「は………あ……あぁぁぁぁぁ!?」

そして譲は振り返って声を上げた。


「おまたSE⭐︎攻撃は無差別!男女平等に!ジェンダーレスマンだよ!」

そう言いながら、製図入れのような筒を手に持った、フリフリのロリータファッションの、一見女。

顔には大きなマスクをつけ、ヘッドドレスをやたら前のめりに着けているが、こんな奴他にいない。

というか、他にいて欲しくない。

「可愛い姿に見惚れちゃうのはわかるけど、後ろがガラ空きだZO⭐︎」

そんな事を言いながら、譲に殴りかかって来ていた男に向かって、筒を振る。

筒は何が入っているのかやたら重そうな音がしている。


「しのざきーーーーーーー!!お前、何でここにいるんだ!!」

「ジェンダーレスマンです!」

「うるせぇ!訳わかんない事言ってんじゃねぇ!無性別ジェンダーレスなのかマンなのかはっきりしろ!」

「生物学的に男ですが、ぶっちゃけどっちでもいいなって思ってる!フワッとした性別の俺が好き!!」

「やっぱり篠崎じゃねぇか!!」

「秒でバレた!!」

そんな事を言い合いながらも、突然現れた篠崎のおかげで、四対二になってかなり楽になった。

殴りかかってくる奴、中に入ろうとする奴、それぞれを対応しなくてはいけなかったのだが、譲が討ち漏らしたら、篠崎がブンブンと筒を振り回して追い返してくれる。


「荒事はそんなに得意じゃないんだって〜〜〜」

男にヘッドドレスごと髪を掴まれた篠崎は、凶器としか言いようがないブーツで男を蹴り飛ばす。

「禅について行ったんじゃないのか!?」

譲も相手を殴り飛ばしながら話しかける。

「詳しい話は後でヨロ〜〜〜っ」

篠崎は武器有りでも苦戦しているようで、必死だ。

髪を掴まれたままで、もがきにもがいて、何とか男を自分から引き剥がしたが、髪はボロボロで、ヘッドドレスも取れてしまっている。


「髪型がっ!」

叫び声を上げた篠崎は、目を釣り上げる。

「お〜〜の〜〜れ〜〜!!保育園に突っ込んじゃうような悪い子は、市民団体に代わってお仕置きよぉぉぉ!」

そんな事を言いながら、持っていた筒のチャックを開ける。

「バールのようなモノ〜〜〜」

未来から来た青色の猫型ロボットのような口調で、篠崎は得物を取り出す。

「『のような』じゃなくてバールだろ」

可愛らしくデコってあっても、凶悪さが隠せない凶器に男たちの腰が引ける。


「篠崎さん、ストップ。武器はまずいです。前衛と後衛を交代です」

そこに園児たちの避難を終えたらしい峰子が走り込んでくる。

と、同時に譲に組み付いていた男のボディに痛烈な一撃を加える。

「あ、謎のクールビューティ!」

そう言えば篠崎と峰子はお互いに自己紹介などはしていない。

「ふっ!!」

自分の一撃で大きく後ろにバランスを崩した男の、肩あたりの服を掴み、峰子は足を払いながら、投げ飛ばす。

「自己紹介が遅れました。乾峰子。明るく楽しく安全な保育園生活をサポートする保育士です。……適当にコレの上着でも脱がして、縛っておいてください」

倒れた男を地面に押し付けながら、峰子は篠崎に指示を出す。

「サポート……力づくで安全確保に動く、が、正しい感じ?」

篠崎は峰子に代わり、男の上に乗りながら、その上着を脱がして押さえつけながら、何とか拘束する。


「篠崎!もう一匹飛ばすぞ!」

峰子が一人の男を蹴り飛ばし、突っ込んでくる女にぶつけているうちに、譲は一番小柄だった男を背負い投げにして、篠崎の方向に落とす。

「ちょっと!処理が追いつかないって!!」

篠崎はせっかく出したバールを使う暇もなく、次なる男に飛びのる。

「あ!こら!動くんじゃねぇ!茶巾蒸しみたいにしてやるぞ!」

腕を腰から拝借したベルトで拘束したのだが、なおも激しく抵抗する男に怒って、男の服の裾を持ち上げ、頭上で結んでしまう。

「んぷっ!!!」

服の裾を捲り上げられ頭上で結ばれた姿は、まさしく茶巾蒸しを作っている時のような間抜けな姿で、譲は思わず噴き出してしまう。


そしてハッと気がつく。

縛り上げ地面に転がされた二人からはあの黒い靄が晴れている。

顔に飛んできた拳を右腕で弾きながら避け、殴って来た相手を見ると、こちらも靄がなくなっている。

「あぁぁ、うぐっ、うぇっ」

先程峰子が蹴り飛ばした男に巻き込まれて倒れた女だけが、黒い靄に包まれて、悶えている。


「篠崎さん!茶巾蒸し追加!」

譲に殴りかかった男の背中を蹴り飛ばしてバランスを崩し、堪えようとした足を引っ掛けて地面に倒し、峰子はホールドの姿勢に入る。

しっかりと関節を決められた逃げられない男の腕を篠崎が拘束し、更に服を捲り上げて頭上で結び、二つ目の茶巾蒸しを作る。


一方、譲は女から目が離せずにいた。

「おえっ、おげっ、ぐえぇぇ!!」

涎を撒き散らし、血走った目はあり得ないぐらい上を見ている状態になって、ほぼ白目状態だ。

女が押さえている腹からは黒い蛇のような物がはみ出て、もがいている。

峰子にもそれが見えているようで、柳美を跳ね上げている。

「早くぅ……うつさ、ないとぉぉぉぉ」

女がフラフラと立ち上がったので、峰子は一応それを取り押さえようと手を伸ばす。

するとその手に女の腹から猛然と黒い蛇が伸びる。

「っっ!!」

峰子は慌てて手を引いたが、黒い蛇は思わぬ速さで彼女の手に絡みついた。


手を振って、絡み付く黒い塊を離そうとする峰子に、女が迫る。

「うつさ、ないど、うづざないどぉぉ!」

「寄るんじゃねぇっ!」

譲は咄嗟に峰子を背に庇いながら、掌底で女を突き飛ばす。


「…………っく!!」

峰子は黒い塊が取り憑いた右手を押さえて、目を瞑る。

そして大きく息を吸うと同時に、彼女の体の中の氣が右手に向かって動かされる。

黒い塊は峰子の体に潜り込もうと蠢いているが、峰子はそれに全力で抵抗して、氣で押し返そうとしているようだ。

しかし驚く速さで、彼女の氣が蒸発するように消えていく。

これではすぐに峰子は食われる。


「クソが!」

無駄かもしれないが、何もしないわけにはいかない。

譲は右腕に身体中の氣を動かし、力を込めて、峰子の体の中に入ろうと蠢く黒い塊を叩き落とす。

「っっぐっ!!!」

黒い塊に自分の氣が触れた瞬間、身体中の氣が、体温と一緒にごっそり引き抜かれる感覚がする。

手を振ると、何とか黒い塊はボトリと足元に落ちる。

「下がれ!」

額に脂汗を浮かべる峰子を突き飛ばすようにしながら、譲も下がる。


地面に落ちた黒い塊は、塩をかけられたナメクジのように、苦しそうに体を捩る。

(これは……俺には無理だ)

何とかしたいが、少し触れただけで、ごっそりと体温が下がってしまった。

譲は峰子を背に後退するしかない。

苦しみながらも黒い塊はにじり寄ってくるし、先程突き飛ばした女も立ち上がる。

食い止めなくてはいけない。

しかし食い止める術がない。


そんな時だった。

目の前にホワホワと白く輝く空気が流れてきたのだ。

「!?」

後退を続けていた譲は目を見張る。

にじり寄って来ていた黒い影が、動きを止められる。

白く輝くような靄がホワリと、その黒い塊を包んだのだ。

黒い塊は白い輝きに包まれて、安堵するかのように丸くなる。

「「………!」」

譲と峰子は同時に息を呑んだ。

二人ともその空気が流れて来た方を見たのだ。


桜の木の根元で、小さな人影が動いている。

シャンシャンと手に持った錫杖を鳴らしながら、目を閉じ、一心不乱に円を描くように動いている。

いや、時々飛んだり腕を動かしたりしているので、もしかしたら踊っているのかもしれない。

激しく争っていたので聞こえていなかったが、細々と歌声も聴こえる。

「いつの間に……」

「回収したはずなのに……!?」

建物中に避難していると思っていた二人は、その姿に愕然とする。


黒い癖っ毛を揺らしながら、懸命にアーシャが円を描きながら、歌を紡いでいる。

彼女が腕を振るたびに微かな輝きが生まれ、歌声に導かれるように光が集まり、燐光がホワホワと譲たちの方に流れてくる。

力強い彼女の歩みに反して、生まれてくる光は仄かで、勢いが無い。

この辺りの氣が枯渇しているせいかもしれない。

しかし彼女は額に汗を浮かべながらも歩みを止めない。


「うずざ、ないど、くわ、くわれ、ぐわれる」

アーシャの方に気を取られていた譲は、その声に急いで振り向く。

小さな光に包まれた黒い塊は、安堵するように丸くなっていたのに、女が近づくと、また苦しそうに蠢き始める。

仄かな光も女に吸い込まれるように消えていく。


何とか女を遠ざけないといけない。

しかし触れることができない。

「え、キモい。ナニ、この人。イっちゃってる感ハンパない」

そんな峰子と譲を追い越して、女を羽交締めにした勇者がいる。

嫌そうな顔をした篠崎だ。

「バッ………」

馬鹿と言おうとして譲は止まる。

女の中の黒い塊は篠崎の方に行こうとするどころか、逃れようとするように、もがいている。


「……武知さんの言っていたことは本当ですね」

「……だな」

呆然としながら譲は頷く。

男たちは無力化したし、真っ黒なものが取り憑いている女も篠崎がいれば暴れることはできない。

白い靄に包まれた黒い塊は再び落ち着きを取り戻し、ゆっくりと薄くなっている。

当面の危機は回避した。

そう思って譲は大きく息を吐いた。


本来なら家でゆっくりと体力を回復させるはずだったのに、ごっそりと失って、体のあちこちが痛い。

カクンと膝が折れ、譲は尻餅をつく。

体温が下がって、かなり疲労している。

「はぁ……くそ……」

そう言って立ちあがろうとするが、体がもう無理だと悲鳴を上げている。

「犯人を確保してもらうまで園に近づかないように保護者を誘導してきます。お兄さんは休憩していてください」

取り憑かれかけた峰子も顔色が良くないが、職務を全うしようと、駐車場へ向かう。

「悪りぃ、少し、休む」

遠くに聞こえるサイレンの音を聞きながら、譲は地面に転がった。



次から次に起こった緊急事態で、彼は失念していた。

ワゴン車の中に残っている、最も警戒すべき、存在を。


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