22.長兄、子守唄を聞く(後)

顔をケチャップだらけにして満足そうにしているアーシャを拭いてから、禅一は急須にティーバッグを投げ込む。

ティーバッグと言えば、紅茶を連想する人が多いと思うが、この家では緑茶だ。

家事の中心を担っている禅一が、お茶漬けに必要な緑茶はストックするが、使用目的がない紅茶は買ってこないからだ。

(まだちょっと熱いか?)

先程沸かした電気ケトルの蓋を開けて確認していると、譲が無言で用意していた湯呑みを禅一の方に押す。

禅一は笑って頷いて、ケトルのお湯を、一旦それら湯呑みに注ぐ。

湯の温度を下げるためだ。

高温で淹れた茶は渋みが強くなる。

禅一たちはそれでも別にいいが、子供には向かないと、譲も判断したのだろう。


禅一が湯呑みに入れた湯を急須に戻している間に、譲はいそいそと食べ終わった食器を片付けていく。

空いた卓の上が綺麗に拭かれ、ケーキの箱と、皿、フォークが並ぶまでが異様に早い。

無表情ながら楽しみにしているのが隠しきれない譲の様子に、笑いを噛み殺しながら、禅一はお茶を皆に配る。

「?」

アーシャは緑茶は初めて見るようで、クンクンと匂いを嗅いで、興味津々な様子で覗き込む。


「アーシャ、ケーキ」

色が気に入ったのか、匂いが気に入ったのか、鼻がお茶に触れそうな程に近づいていくアーシャの頭を、禅一はチョンチョンとつつく。

そして譲がいそいそと開けたケーキの箱をアーシャに示す。

すると『はぁ〜』と『わぁ〜』が混ざったような、ため息とも歓声ともつかない声をあげて、アーシャは目を見張る。

譲と篠崎も真剣な眼差しをケーキの箱に注いでいるが、順番を弁えているようで、手は出さない。


「ど・れ?」

選んでごらんと禅一はケーキを指差すが、アーシャは輝くような笑みで頷くだけで、手を出そうとはしない。

子供といえばケーキが大好物というイメージがあるが、何故選ぼうとしないのだろう、と、禅一は首を傾げる。

(そう言えば店でもらった試食用のクッキーは大切そうに宝物入れの上に飾っていたな。………もしかして食べ物として認識できていない?)

甘い物は各家庭で色々と方針があるだろうから、ケーキを食べた経験がないという子もいるかもしれないが、その存在すら知らないなんて事があるのだろうか。

「……………」

改めてアーシャが育った環境を思って、禅一は顔を曇らせる。


とりあえず、禅一は皿をアーシャの目の前に置いて、フォークを握らせる。

きっとこれだけで何かを食べるのだと理解するはずだ。

「ど・れ?」

それから譲と篠崎の熱い視線を受けているケーキの箱をアーシャの目の前まで引き寄せ、一つ指差すごとに皿を指差して、これからこれを食べるのだと示す。

「あぁ!」

するとパッとアーシャの顔に理解の光が灯る。

そして嬉しそうに、フォークを両手で握りしめながらケーキたちを見つめる。


「えにゃ!」

百面相をするように、ケーキ一つ一つを表情豊かに眺め、まるで出撃を命じる指揮官のように振りかぶってアーシャが指差したのは、どんなケーキ屋さんにも必ず置いてあるであろう、一番ベーシックにして一番人気と思われる、イチゴのショートケーキだった。

形を崩さないように気をつけながら持ち上げて、アーシャの皿にのせてやると、アーシャは頬を紅潮させながら歓声を上げる。


「せーので狙ってるやつを公開しない?」

「フルーツタルト」

「あ、ちょっ!お前な〜〜〜!」

「フルーツタルト」

「小学校の頃の成績表に、もっと協調性をって書かれるタイプだべ、お前……」

「篠崎だけには言われたくない」

アーシャには先に選ばせたが、篠崎には全く配慮する気がない譲は、さっさとタルトを自分の皿にのせる。

篠崎はノリの悪い譲に不満げだったが、それほど噛み付かなかったのは、狙う物が違ったからだろう。

嬉しそうにオペラを自分の皿に入れる。


因みに禅一はデフォルトで最後だ。

「俺用は?」

「抹茶モンブラン」

それ程甘い物が好きなわけでもないので、譲が『禅一用』と想定して買ってきたケーキを皿に入れる。

店内で一番甘さが控えめで、食べやすそうなやつだ。

「ん?」

そんな禅一のケーキに熱視線を注ぐ者がいる。

透明フィルムを取り除いたショートケーキを前にしたアーシャだ。


「あ〜ん」

食べたい、と言うより、謎の物体を観察するような眼差しだが、禅一は抹茶モンブランのクリームを掬って、アーシャに差し出してみる。

「……………………」

アーシャは目をまん丸にして、フォークの上にのったクリームを更に観察する。

動物の動画で似たようなシーンを見た事がある。

初めての食べ物を警戒するように上下左右から観察し、クンクンと匂いを嗅いで、無害と判断したらパクッと食べるのだ。

(ちょっと犬っぽい)

そんな様子に禅一の頬は緩む。


「!!!」

フォークを口の中に迎え入れた瞬間、アーシャは大きく目を剥く。

そして一人だけ時間が停止したように固まり、そっとフォークを引き抜いても、微動だにしない。

ゆっくり五秒数えるくらいの間、瞬きすら忘れたように固まり、その後、下顎だけが円を描くように動く。

下顎以外は相変わらず微動だにしない、はっきり言って、かなり怖い動きだ。


「………アーシャ?」

禅一は恐る恐る声をかけてみるが、反応はない。

激しく下顎だけ駆動させたかと思ったら、ゴクンと口の中のものを嚥下して、何故か天使の降臨を待つ人のように、天に向かって両腕を上げる。

「………アーシャ?アーシャ?」

そのまま目を瞑って、プルプル震え始めたので、流石に怖くなって、禅一はアーシャの肩を揺する。


「ゼン!!」

突如、アーシャはカッと目を見開いて、両手で力強く禅一の手を握る。

「おいしーな!にーみぃ、おいしーな!!」

「あ……お、おう………?」

カッと目を見開き、幼児とは思えない迫力を漂わせるアーシャに禅一は圧倒されてしまう。

こんなに気迫のこもった『美味しい』を聞いたのは人生初かもしれない。


「あ〜ん?」

そんなに喜ぶなら、まだ食べるだろうかと、禅一はまた抹茶クリームを掬って差し出す。

禅一はお付き合いで食べている程度なので、アーシャが欲しがるなら全部あげてしまっていい。

しかしアーシャは、この上なく真剣な顔で首を振る。

「???」

そしてグイグイと禅一の肘を押して、彼の口にフォークを持っていこうとする。

疑問符だらけで禅一がクリームを口に入れると、アーシャは目を輝かせて、禅一を見つめる。

「おいしーな!?」

そう聞いてくる、アーシャの顔の嬉しそうなことと言ったら。


(美味しかったから、俺にも食べるように言ったのか)

アーシャの嬉しそうな顔につられたのか、その純粋な心に嬉しくなかったのか。

「美味しい!」

自分でも良くわからないが、気が付いたら、禅一もそう言って、笑ってしまっていた。

「おいしー!!」

嬉しくて仕方ないという様子で、アーシャは椅子の上で体を弾ませている。

譲への労い、篠崎への礼、ついでにアーシャにも美味しいケーキを食べさせたい。

そんな『ついで』だったが、こんなに喜ばれたら嬉しくないはずがない。


「んん?」

そんな禅一の目の前に、フォークに大盛りにされたケーキが差し出される。

差し出したのは、顔をキラキラと輝かせたアーシャだ。

「ゼン、あ〜ん!」

アーシャのケーキはアーシャが食べてほしい。

しかしこんなに嬉しそうに差し出された『お返し』を拒否できる大人がいるだろうか。

禅一は素直に『お返し』を口の中に迎え入れる。

「美味しい!」

アーシャから差し出されたケーキは、特段美味しいと思っていなかったはずなのに、甘く禅一の口に溶ける。

「へへへへ」

そんな禅一にアーシャは嬉しそうに口をへにゃりと開いて笑う。


「…………篠崎、俺を睨むなよ」

幸せな光景をフォークを咥えて、恨みがましい目で睨んでいるのは篠崎だ。

ケーキ交換会に加われなかったのは、早々にオペラを頬張ってしまった自分自身のせいだと自覚してほしい。

「俺もビスクドールにアーンして欲しかった……」

「またの機会にチャレンジしてくれ。それから、うちの子は人形じゃないからな」

「……生きたビスクドール」

「呪いの人形みたいに言うんじゃない」

篠崎はヤケを起こしたように、女子食べを放棄して、大口を開けてケーキを食べる。


自分のショートケーキを食べたアーシャは天井を殴ろうとするかのように、拳を突き上げる。

「おいしーーーーーーー!!」

雄叫びをあげるアーシャは、ボクシングの勝利者のようだ。

人形なんてとんでもない。

元気過ぎるお子様だ。

(外食に行けるのはまだまだ先だな)

微笑ましく見守りながらも、そう思う禅一だった。


「次、俺はティラミスな」

我関せずの姿勢で、一人ケーキを楽しそうに味わっていた譲は、いそいそとおかわりをする。

「あ、俺はラズベリーっぽいやつ!」

篠崎は慌てて宣言する。

「じゃ、アーシャのおやつはプリンか。ちょうど良いな」

「プリンじゃなくて、プリン・ア・ラ・モード、な」

可愛らしい小さな器に生クリームや果物と一緒に盛られたプリンを見て、禅一が言うと、譲が訂正する。

甘物にはうるさいやつだ。


「そういえば、篠崎、手頃な木刀みたいなやつを持っていたりしないか?」

オペラの最後の一口を美味しそうに食べた篠崎はキョトンとする。

「何?遂に闇討ちしたいピとかできちゃったとか?」

「『ピ』ってそう言う使い方じゃないだろ」

「大体『ピ』って何なんだ?ピープルとか?その辺りの略か?」

篠崎がボケて、譲がツッコミ、禅一も話にのっかる。

「んじゃ何用途?攻撃力低めなクソ長竹定規とかならあるよ」

そこで話は逸れていきそうな流れを見せたが、最初に話を狂わせた篠崎が流れを元に戻す。


「あ、それでいい。棒状のものを持っておきたいだけだから。明日あたり貸してもらえないか?」

禅一がそう応じると、篠崎は疑うような視線を彼に向ける。

「え、何、その『後ろから棒状のもので殴られた』事案を起こしそうな使用用途」

突然『木刀みたいなやつ』を貸してくれと言われること自体稀だから、疑われるのも仕方ない。

「祝詞……なんて言うんだ、神楽?みたいなのをやろうと思ってて。その時、通常は刀を持つんだが、うちにはそれの代替えになるようなものがなくてな。無手でやるのも格好がつかないからさ。篠崎の家は鉄の棒とかパイプとか転がっているから手頃なものがあるかなと思ってな」

何とか分かり易く説明しようとすると、ケーキのおかわりをしながら、篠崎は首を傾げる。


「神楽?どっかで奉納すんの?」

神楽って何だと言われても仕方ないと思っての説明だったが、意外にも篠崎もわかっている様子だ。

「奉納はしないんだが……その真似事をしようと思って」

少し歯切れ悪く禅一が答えると、赤いケーキにフォークを突き立てながら、篠崎はもう一度首を傾げる。

「神楽に竹定規って、おかしいんじゃない?家に懐剣があるから貸したげよっか?」

「懐剣?」

「うん。従兄弟のお姉ちゃんが結婚する時に、お前が打ってやれって言われて作ったんだけど、返却されてきちゃったんだよね〜」

あははと篠崎は笑うが、禅一は笑えない。

結婚の際に身につける懐剣が戻されると言うことは、それはつまり……

「あ、お姉ちゃんは離婚してないから」

禅一の考えを篠崎は否定する。


「良く分かんないんだけどさ『強過ぎる』って返されたんだよ。あ、刀自体は全然悪くないし、フルで俺が作ったから品良く可愛いよ?でも嫁ぎ先で嫁いびりしようとした姑さんが突然倒れたり、空き巣に入った奴が精神崩壊したりってのを、守りが強過ぎるからだって、俺の刀のせいにされてさぁ。俺が本家の人にしごかれて一生懸命仕上げたのに、結局本家の人が打った懐剣が採用されちゃって。俺の懐剣は、さすが俺って感じで、超絶可愛くって、フォルムが……」

篠崎はケーキを頬張りながら、自分の打った刀の美しさなどを続いて語り始める。

それを聞き流しながら、禅一は譲を見る。

「懐剣って持ち歩いて大丈夫か?銃刀法ってサバイバルナイフとかも引っかかるんじゃなかったか?」

「あ〜〜〜、確か持ち歩きには登録証的な何かが必要だった気がするけど……」

全くその辺りに関わりなく生きているので、禅一にも譲にもフワッとした知識しかない。


「あ、銃砲刀剣類登録証はあるよ〜〜〜」

そんな二人の会話に、一人で自分の刀について語っていた篠崎が、あっさりと答えを出す。

「でもそれはお前の登録証だろ?」

譲が聞くと、お茶を啜りながら、篠崎は手を振る。

「アレ、所有者名とか書いてないし」

本人はケロッとしているが、禅一は呆れてしまう。

「あのなぁ……大体、刃物をそんなに無防備に人に貸したら……」

「あ、だいじょぶ、だいじょぶ。何か施工ミスしたみたいで鞘から刀が抜けないんだって」

禅一の注意を篠崎は笑い飛ばすが、割と笑い事ではない気がする。

仮にも職人の端くれなのに、抜けない刀を作ってしまったのは痛恨のミスなのではないだろうか。


「抜いて確認しなかったのか?」

「俺が作った時はちゃんと抜けてたもん」

禅一が確認すると、篠崎はかわいこぶった語尾で答える。

言っている内容が、引き渡し後の家に欠陥が見つかっても知らないと言い張る悪質な施工業者のようなので、ちっとも可愛くないが。

「今は?」

「さぁ?」

「さぁって………」

「だって懐剣袋の房紐を超絶可愛い形に巻いたから外したくないんだもん〜〜〜」

篠崎はくねっとシナを作って上目遣いになるが、

「あ、貸すけど房紐外さないでね。今が一番可愛いから」

すぐに男声に戻って、真顔で付け加える。


「ん〜〜〜」

竹定規と袋に入りっぱなしの懐剣。

どちらが良いかと言われると、懐剣の方が格好がつく気がする。

「あ、そうそう!可愛いといえば、アーシャちゃんのお洋服案を作ってきたんだよね〜〜〜!」

篠崎が指差した方向を見て、禅一と譲は無言になる。

床に広げられた篠崎の荷物の中で、一際目立つ紙の束。

少なく見積もっても五十枚は積み重なっているはずだ。

「あれだけの量を、もしかして昨日のうちに書いたのか?」

禅一が口を引き攣らせながら聞くと、うっとりとした顔で、篠崎は頷く。

「アーシャちゃんに会ってからインスピレーションが止まらなくって〜〜〜」

そう言う篠崎の目の下には濃ゆい隈ができている。

徹夜してまで何をやっているのだろうか。


「ふはぁぁぁぁ〜〜〜〜」

男三人がくだらない会話をしている間も、アーシャは美味しくケーキを食べていたらしく、鼻の頭にクリームをつけて、満足そうにお茶を飲んでいる。

どうやら渋みで飲めないと言うことはないようだ。

禅一が見ていることに気がついたアーシャは満足げに大きく頷いて見せる。

『美味しかった』という事だろう。

禅一も頷き返しながら、鼻のクリームを拭き取る。


顔を拭いていたら、アーシャの視線が箱の中のプリンに吸い付く。

「食・べ・る?」

まだ入るだろうかと思ったら、流石に無理なようで、アーシャは小さく首を振った。

しかし食べたい気持ちは強いらしく、目が釘付けだ。

「『アーシャの』」

そう言ってから、禅一はケーキの箱を閉めて、冷蔵庫に戻す。

お昼寝の後に食べたらちょうど良いだろう。



アーシャはお茶を飲みながらも、目が少しトロンとしてきている。

「却下」

「はぁぁぁ〜〜〜この良さが分かんないの?死ぬの?三途の川を泳ぎたい系男子なの?クロール・平泳ぎができないように足を括り付けて、バタフライ一択で泳がせるよ?」

「阿呆。いつ転ぶかもわからないガキにスカートなんか履かせてたら、膝を守るモンがねぇだろ」

「この白のハイソックスを合わせたら膝も守れるっしょ〜〜〜!?」

「レース類は気楽に洗濯できないから却下」

デザイン画のほとんどを譲に却下されまくっている篠崎も、元気だが、顔色が良くない。


「ふむ」

どうやら二人揃ってお昼寝させた方が良さそうだと、禅一は判断する。

甘い糖分たっぷりの状態で眠ったら、歯に悪い影響がありそうなので、禅一は急いでアーシャの歯磨きを始める。

「篠崎、少し寝ろ。顔色が悪いぞ」

「ダメダメ!これから採寸して、パターン作るんだから!アーシャちゃんの髪もキレイにしなくっちゃ!」

篠崎にも声をかけるが、脳内麻薬でも出ているのか、目を爛々とさせて、まだまだ活動を続けるつもりらしい。


これは実力行使しかなさそうだ。

アーシャに口を濯がせてから、禅一は有無を言わさず、篠崎の首を掴まえて立ち上がらせる。

「ぐえっ!おい、禅!!」

篠崎は抵抗しようとするが、それを許す禅一ではない。

ソファーまで引きずっていって、足を払って、ソファーの上に転がす。

そして止めとばかりに篠崎の上にアーシャをのせる。

篠崎はアーシャを払っては起き上がれないだろう。

禅一はソファー近くにある、譲のごろ寝用の毛布を手に取る。


「んん???」

アーシャは篠崎の上にのせられて、ビックリした顔をしたが、寝転んで良いよと手で示すと、あっさり頷いて転がってしまう。

(人見知りしない子で助かるな)

アーシャが上に寝転がった篠崎は嬉しそうだ。

「やだ!アーシャちゃん、ユッキーとねんねしたいの!?いやぁぁぁかわいぃぃぃ〜〜〜!今度オソロのルームウェア買いに行こうね♡ウサちゃんみたいなのが良いかな?あ、プリンセス系も良いよね〜〜〜」

寝そうなテンションではないが、起き上がらないからこれで良いかと、禅一は毛布をかける。

譲もそうだが、上にアーシャをのせると動かなくなるから助かる。


「お」

「げっ」

アーシャは寝そべると、まるで篠崎を寝かしつけるように、異国の子守唄を歌い始める。

子供が大人を寝かしつけるように、トントンと篠崎を叩いているのがおかしい。

可愛らしい声と、優しい旋律に禅一の顔は緩むが、譲は慌てて耳を塞いでいる。

「?」

音痴では間違ってもない。

とても柔らかで透き通っていて、この幼さで繊細な音程を外さないのは凄いと思う。

(普通の子守唄だよな?)

年不相応に上手い事以外、特に変わった事はない。

ヒーリングミュージックのように安らぐが、それだけだ。


「…………?」

しかしここぞとばかりにアーシャに色々と話しかけていた篠崎は、大きな欠伸を漏らしたかと思ったら、ウトウトと目を瞑り始める。

とても眠れるようなテンションではなかったのに、瞬きの回数が増え、一回の瞬きが長くなり、そして三分も経たないうちに、目が開かなくなった。

目が閉まってからも、可愛いヘッドドレスがどうとか、オソロで遊びに行こうとか、妄言を吐いていたのは流石篠崎という所だが、それもすぐに寝息に変わった。


篠崎が眠ると、それに誘われるように、アーシャの頭も下がって行ってしまう。

やはり彼女も慣れない環境で疲れていたのだろう。

彼女が篠崎にそうしたように、禅一もアーシャの背中を優しく叩く。

やがてアーシャからも健康的な寝息が漏れ始める。

「おやすみ」

そう言って、禅一はアーシャの背中を最後に撫でる。


そんなアーシャと禅一を怪訝な顔で譲は覗き込んでいる。

「変な顔をしてどうした?」

「いや……おかしいだろ。あんだけ睡眠不足ハイになってた奴が、歌い出した途端、コロリだぜ?」

譲の言葉に禅一は首を捻る。

「まぁ……確かに突然眠り始めたな、とは思ったけど……篠崎も徹夜してたみたいだからな。疲れていたんだろう」

奇妙なくらいにあっさり寝たが、それが絶対にアーシャの力によるものかと聞かれたらそうとは言い切れない。


「何か確信があるのか?」

禅一が聞くと、譲は渋い顔をする。

「それが……全然何も視えなかった」

『目』には自信を持っている譲は眉間に皺を寄せる。

「ん〜…………。俺も聞いたけど別に何もなかったしなぁ……多分、ちょうど良い感じの歌なんじゃないか?1/fゆらぎとか、歌にも現れるって聞いたことあるし。究極のヒーリングミュージックなんだろ」

禅一はそうまとめるが、譲は納得しきれていない様子だ。


「疲れてる奴にだけ効くんじゃないか?現に俺は何とも……」

禅一が言いかけた時、机の上に置いたままのスマホがブブブと揺れ始める。

「……珍しいな。着信だ」

禅一はテーブルに向かいながら譲を振り返る。

「すまん、アーシャが落ちないか……」

『見ていてくれ』とまで言う必要は無かった。

うつ伏せで寝ていたアーシャは、さっさと譲によって回収されている。

二階のベッドに寝かせるつもりなのだろう。

口うるさいし、懐疑的なことを言うが、しっかり面倒は見てくれているのだ。


「五味さんからか……何か起きたかな」

着信名を見て、首を傾げながら禅一は電話をとった。

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