20.長男、ケーキを買う

「運転、代わるか?」

ぐったりとした弟を心配して禅一は声を掛けたが、さっさと乗れとばかりに、無言でシッシと手を振られる。

禅一の手には、譲の所見が書き込まれた地図がある。

地図には穢れの場所を示すバツ印が書き込んであるのだが、対処が終わった物には、バツの上に丸を書き込んでいる。

地図を広げて見ると、バツの総数に対して丸が付いている箇所は余りに少ない。


譲の顔色が冴えないのは、疲れもあるが、思っていた以上に自分が対処する場合、時間と労力がかかる事が分かったせいもある。

譲が『弱い』と言った、五段階評価のレベル2ぐらいまでの穢れは、二、三回拳を振るうくらいで何とかなったのだが、3ぐらいから結構激しく動き回っていた。

全く敵が見えない禅一には、譲が少し激しめなシャドウボクシングをしているように見えたのだが、反撃をされそうになったり、逃げられそうになって追いかけたりと、かなり苦戦したらしい。

しかも反撃された場合、外見ではわからないところにダメージを食らうらしい。

「大口叩いたけど、結構時間がかかりそうだ」

疲れた様子の譲の口からは、珍しく弱音に近い言葉が零れる。


「俺に『穢れ』が見えると良かったんだが」

禅一は申し訳ない気分になる。

全く霊感がない、いわゆる、零感レイかんな禅一には弱い穢れは見えない。

一般人でも見えてしまうような、ほぼ実態を持った強力な物なら見えるのだが、それ以外はさっぱりだ。

因みに氣も一般人が認知できるレベルにまで練り上がった物じゃないと見えないし、感じない。


強い力を持っている穢れは、禅一が近づいてきた時点で、這いずって身を隠すという。

その為、指定された場所に禅一が行っただけでは浄化できなかったのだ。

近くに譲がいて、右に行け左に行け、後ろを殴れと指示をもらわないと何もできなかった。

特定の場所から動けない弱い穢れであれば、禅一が歩き回るだけでいいのだが、消えたかどうかの確認は、結局譲が行かないと出来ない。

譲では数をこなせない、禅一も譲の『目』がないと、役に立たない。

活動初日で、別行動で並行して数を減らすことができないという、現実にぶち当たってしまった。


「はぁ〜〜〜、とりあえず、弱い奴を片っ端から禅に消させて、実績数を稼ぐか……奴らのテキトー調査でレベルが高い判定されてるヤツを潰していってドヤるか……」

信号待ちで譲はハンドルにもたれかかって悩む。

「分家の周りの危険度が高いヤツを放置してて良いのか?」

そう禅一が尋ねると、譲は首を傾げる。

「まぁ……一応は分家の連中が抑えてるみたいだったから被害は広がらないだろうし……」

そして譲はニタリと笑う。

「『誰』が何をやったのかわからないが、その『誰』を炙り出す前に、こっちが証拠を消してやる義理はねぇんじゃねぇ?」

「証拠?」

「そ。分家の周りだけ穢れが強くなっている事。そしてもらった資料にはその穢れが、弱くもなければ強くもない2とか3とかの微妙なレベルで登録されている事。明らかに誰かが何かをやった痕を、隠しているとしか思えねぇだろ」

譲は『誰か』を睨むような目つきをする。


今日の調査で分かったのは、分家の周り一キロほどは何も発生していない事、安全圏内を抜けた所から、急激に活性化した穢れが多発している事だった。

そしてこれらの事を地図に書き込んでいる時、譲は奇妙だと言い始めたのだ。

誰がどう見ても危ない物が、微妙な強さとして登録されている。

強力な物を封じ込める対策がとってあるにも関わらず、それが資料に反映されていないのはおかしいと言うのが譲の主張だ。

「まぁ……そうなのかな」

施された対策の強さも、穢れの強さもよくわからない禅一は曖昧に頷く。


「分家全体でやっているのか、分家のうちの誰かがやっているのか、誰かが分家を陥れるためにやっているのか。何をやっているかも含めて、はっきりさせるまで、分家周りは暫く放ったらかしとく」

トントンっとハンドルを叩きながら、譲はアクセルを踏む。

余りに敵の姿が見えてこない現状に、禅一は腕を組んで考える。


「一度、全体の事情を知っている武知さんに相談しないか?」

何もわからない、藤護側の事情すら把握していない二人だけで、原因追求には限界がある。

そう思っての提案だったが、譲は渋い顔をする。

「あのな、あのオッサンだって今はこちら側についてるけど、いつ、おかみの判断一つで俺らを裏切るかもしれないんだから、信頼しすぎんな。あいつら超トップダウン型の公僕なんだから」

譲は元来警戒心が強い。

他人に頼ることが嫌いで、全てを自分でやりたい完璧主義者でもある。

時々、これが悪い方に作用する場合がある。

「武知さんは藤護こちらに害を与えないと思うし、敵対するとは思えないんだがな……」

しかし禅一のその信頼には根拠がない。

禅一は『何となくこの人は大丈夫だ』と感じるのだが、絶対的に味方かと問われると自信を持ってそうだとは言えない。


しばし考えて、禅一はパンと両手を合わせる。

「五味さんを巻き込もう!」

武知の部下であり、感知能力に優れているらしいし、内部事情にも詳しい様子だ。

何より五味の情報漏洩率はすごい。

パニックを起こしたら、話したらいけない情報までバンバン漏らしてくれそうだし、譲の代わりに目になってもらう事も出来るだろう。

「……お前、時々、朗らかに鬼畜だよな……」

名案だと思ったのだが、譲はドン引きした顔をしている。


「五味さんはチビの警護にあたってんだろ?今のゴタゴタが片付かないと、引き離せねぇよ」

譲にそう言われて、名案だと思った禅一はため息を吐いた。

アーシャに手出しをさせないために、自分たちの実力を知らしめる。

そのための穢れの対処なのだ。

手段の為に、目的であるアーシャの安全を脅かす事はあってはならない。

アーシャの守りを手薄にする事はできない。

思考が振り出しに戻ってしまった。


「取り敢えずは弱いヤツを量産で消していくか、そこそこ強いヤツをめぐるかのどちらかって事か……」

沢山バツ印のついた地図を見て、禅一は考え込む。

弱い穢れは他の人間も清められるのだから、自分達は強い物を対処していく方が良いのだろうが、相手が出してきた資料と実際の現状がかけ離れているという問題もある。

色々考えて行動したほうが良さそうだ。




そうやって方針を話し合いながら、車は保育園に向かう。

時刻は十時五十五分。

ギリギリ十一時前に着けたことに禅一は安堵する。

アーシャは十一時に禅一が来ると信じているだろうから、一分でも不安な気持ちで待たせたくなかったのだ。

「………おい、門のとこ。小猿がしがみついてるぞ」

駐車場に車を停めながら、譲は呆れた声でそう言う。


「ゼンッ!!」

見れば、確かに動物園の小猿よろしく門に掴まっている小さな影がいる。

「アーシャ!」

そう言って禅一が手を振ると、小さな影は門扉に掴まって、今にも登り出しそうな勢いでピョンピョンと弾む。

「可愛い……!この可愛い小猿がうちの子なんて……!!」

「落ち着け。小猿は普通に悪口だぞ」

感動する禅一に、譲が冷たいツッコミを入れつつ、門にくっついているアーシャを落とさないように、扉を慎重に開ける。


門に乗ったまま一緒に開かれたアーシャは、ピョンと門から飛び降りると、緑の目をキラキラと輝かせて、禅一に突進してくる。

「ゼンッ!ゆずぅ!」

両手を広げて躊躇いもなく跳ぶのは、絶対に受け止めてもらえるという信頼の証だろう。

素早くしゃがんだ禅一は難なくアーシャを受け止めて、抱きしめる。


昨日のような大泣きはなかったが、少しだけ鼻を啜って、めり込もうとしているかのように、小さな手が力一杯、禅一にしがみついてくる。

グリグリと顔を押し付けてくる仕草は、『寂しかった』『会いたかった』と言われているようで、抱きしめ返す禅一の腕にも力が入る。

「アーシャちゃん、十分前から帰る準備をして待っていたんですよ」

感動の再会を果たした兄と妹の姿に、保育士の女性が微笑ましそうに目を細めている。


「準備を……?」

驚いてよく見れば、アーシャは既にコートをきちんと着込んで、リュックを背負って帰る準備が万端になっている。

「凄いんですよ!お帰りの準備を全部自分でやっちゃったんです!時間もわかっているみたいに、自分でトコトコお部屋に戻って、全部リュックに詰めちゃったんです!」

保育士の女性は顔を輝かせて、まるで我が事のように嬉しそうに語ってくれる。


お迎えをそんなに楽しみにしていてくれたのだと嬉しくなる反面、まだ保育園が辛いのだろうかと禅一は心配にもなってしまう。

「あ!園に馴染めていないとかそんな事はないですよ!」

微妙な心が表情に表れていたせいか、保育士の女性は慌てて両手を胸の前で振る。

「今日はお砂場でみんなと遊んで、うんていや鉄棒にも挑戦していたんですよ、アーシャちゃん」

「へぇ!頑張ったなぁ!」

嬉しそうに胸に張り付いているアーシャの頭を禅一は撫で回す。

「園のお兄ちゃんたちと一緒に、海賊ごっこもやってましたよ!わからないなりに一生懸命みんなについて行こうと頑張っていました!」

アーシャの様子を、女性は本当に嬉しそうに語ってくれる。

こんな人がアーシャを担当してくれている事に、禅一は心の底から安堵する。

どんなに大切に見守ってくれているのか、良くわかる。


チラシを巻いて作った剣を持って大騒ぎしている子供たちを見ながら、禅一は相合を崩す。

あの子供たちにアーシャが混ざって遊んでいたと考えると、微笑ましい。

(見たかったな〜〜〜)

などと禅一が呑気に思っていた時だった。


「そうそう、アーシャちゃん、とても歌が上手ですね!」

微笑む女性の口から爆弾が放たれた。

禅一は思わず、一歩下がったところで腕組みをしていた譲を振り返ってしまう。

(歌だって)

(歌だと!?)

兄弟は視線だけで会話を交わす。

詳しく聞けとばかりに顎をしゃくる譲に、禅一は頷く。


「えっと……どんな感じに歌っていました?」

「ちょっとグズリが強い子がいたんですけど、子守唄みたいな感じの優しい歌で。思わず私たちまで聞き入ってしまうくらい素敵な曲でしたよ」

女性の返答に、兄弟はホッとした顔で頷き合う。

譲も許容範囲だったらしく、納得したように、うんうんと頷いている。

「それからあの木の辺りで、クルクル踊りながら歌っていたんですけど、踊りは可愛いし、歌は上手だしで、みんな聞き入ってましたよ!」

瞬間、ホッとしていた譲の顔が鬼瓦のようになり、禅一も固まる。


「えっと……踊りながら歌って……何か起こりました?」

変な質問だが、これ以外に聞きようがない。

「………?あ、お歌があんまりにも上手だから、みんなにもみくちゃにされてました。みんなアーシャちゃんに色んな歌を歌ってもらいたいって、一生懸命歌を教えてましたよ」

女性は不思議そうな顔をしたが、すぐにニコニコと笑って語ってくれる。

「そ……そうですか」

ひとまず何も異常事態は起こっていないようで、禅一は安心に胸を撫で下ろす。


「ち〜〜〜〜びぃぃぃぃ!」

しかしじっと園庭を見ていた譲は、アーシャの頬を摘み上げる。

「ゆ、譲!」

教育的指導を慌てて禅一は止める。

「あの、アーシャは……何処でも歌って踊ってしまう事があるんで、外では迷惑にならないように、家でしかやらないように言い聞かせていて」

そして何とか苦しい言い訳を捻り出す。

「あら、そうなんですか?でも園では突然踊り出す子も歌い出す子も珍しくないから止めなくて大丈夫ですよ」

女性保育士はおっとりと笑う。



『このまま何事も注意しないのはあり得ない!』と言う顔をしている譲の背中を押して、先生に挨拶をしながら禅一は車に戻る。

アーシャのお帰りの準備を完璧で、取りに戻るものが何もなかったのが良かった。

「禅!そのチビには良く言い聞かせないと、絶対すぐにまたやらかすぞ!」

自分たちの手の届かない所でのアーシャの所業に、譲は危機感を募らせている。

「まぁ、何もなかったみたいだし。アーシャだって歌ったり踊ったりしたい時もあるさ」

チャイルドシートにアーシャを乗せながら、呑気な事を言った禅一に、譲の鋭い視線が突き刺さる。


「そのチビがわけもなく踊ったり歌ったりした事なんかねぇだろうがよ!」

「でも今回は……」

「絶対やってる。朝に様子がおかしかった木が元に戻ってる」

譲は不機嫌この上ない顔でそう言う。

「木………?」

禅一は一度保育園を振り返り、園庭で目立つ桜の木を見る。

しかし禅一の目には変哲のない木にしか見えない。

歳月を経た立派な巨木がそこにあるだけだ。


チャイルドシートにアーシャ乗せた禅一は、素早く反対側のドアから後部座席に入り、アーシャの手を握る。

まだ車が怖いらしいアーシャは禅一の手を両手で包み込む。

「へへへ、『じーいちじ。あとわいしょ』」

そして嬉しくてたまらないと言う様子で、禅一の手に頬擦りする。

こんなに自分と一緒にいられるだけで喜んでくれる存在がいると思うと、禅一の胸には温かいものが満ちる。

「後は一緒」

そう言って深く頷く。


車が動きだすと、アーシャはギュッと目を瞑り、命綱とでも言う勢いで、全身を使って禅一の手に掴まる。

「あそこの桜の木は特別製なんだ」

その様子をルームミラー越しに見ていた譲は、不機嫌な声で切り出す。

「特別製?」

「そー。正しい方法で長年祀られて、神格を得てる」

「……神格」

よくわからないが、ふむふむと禅一は頷く。

そんな禅一に、ルームミラー越しの冷たい視線が注がれる。


「初めてチビを連れて来た時、ブランコから落ちそうになったガキがいただろう」

「あぁ、幸太君か?見てたのか?」

「ちょうど外に出てたんだ」

ため息を一つ挟んでから譲は語り始めた。

「あの時、チビとガキがぶつかる直前に、ブランコの軌道がズレただろう?」

そう言われて、禅一は首を捻る。

確かに間に合わないと思ったのに何故か間に合った記憶がある。


「それ、あの桜がやったんだよ。人間によって神格を得た物は大体が人間に好意的な存在になるし、人のことわりに沿った意志を持つ。あそこの桜は特に子供に手厚い。子供を守ろうと動いてる。多分、子供達に沢山拝まれてきたんだろ」

「あぁ……だから『土地も中々良い』って言ってたのか」

禅一は今更になって、以前譲が言っていたことが理解できた。

子供たちを守る桜のある土地だから『良い』と言ったのだ。


「それが今朝に見たら、桜の存在が感じられなくなってたんだ。前に見た時から少し弱ってる感じはしたんだが、こんなに急激に消えるはずがないと思ってたら……突然何事もなかったように復活してた」

譲はトントンとハンドルを指で叩く。

「弱っていたのが、朝に急に消えて、さっき復活した?」

禅一はわかったようなわからないような状態だ。


「弱って消えかけたのは何か別の原因があると思うけど、急に元気になったのは十中八九チビの仕業だろ」

「まぁ……そう、なのかな……」

アーシャは小松菜を超成長させた実績がある。

植物関連ならあり得ると思うが、見えざる存在の話はいまいち禅一にはピンとこない。



わからない事が多すぎてスッキリしない。

そんな事を考えていたら、車が停車する。

「ほら、着いたぞ」

そこは車は六台停まれる広めの駐車場だ。

帰りに頑張ったアーシャへのご褒美と、昨日、個性的過ぎる錫杖をくれた篠崎へのお礼の品を買いたいからと、ケーキ屋に寄る事を事前にお願いしていたのだ。


譲はケーキになんて興味がないと言う顔で運転席で腕組みをしている。

「譲も一緒にケーキを選んでくれないか?アーシャが自分で選べなかった時、俺じゃよくわからんからさ」

「あぁ?」

「頼むよ。アーシャに美味しいやつを買ってやりたいんだ」

声をかけると嫌そうな返事をするが、嫌そうな声とは裏腹に、あっさりと譲は立ち上がる。

(素直じゃないからなぁ)

心の中だけで、禅一はひっそりと笑う。


甘党であることを譲は隠したがる。

ここのケーキも大好きなのに、自分では滅多に買いに行かない。

甘物屋は女性客が多いし、甘党だと知れると、女性からのお誘いや貢物が増えるからだろう。

気の毒に思って、時々、禅一がケーキを買っていくのだが、禅一と譲の『美味しそう』は全くベクトルが違う。

禅一が選ぶケーキはそれほど譲の好みではないのだ。

今回はアーシャと篠崎にかこつけて、オーバーワーク気味の譲をねぎらうつもりでここに来たのだ。

『アーシャのため』という大義名分は譲にとって必要な物だろう。


チャイルドシートに座っていたアーシャはいつの間にか、涎を垂らして眠っている。

「……アーシャ?アーシャ?」

寝かせてやりたいが、アーシャにも美味しいケーキを選ばせてやりたい。

そんな気持ちで、抱き上げて、軽く揺らしてみると、アーシャは薄らと目を開ける。

かなり眠いようで、目はくっついて開いてを繰り返す。

「アーシャ、ケーキ」

そんなアーシャにケーキ屋を指差して示す。


「……ん」

アーシャはしばらく眠たそうに目をゴシゴシと擦っていたが、小さな庭を横切って、ケーキ屋の前にくると、パッチリと目を開けた。

「ふわぁぁぁ〜〜〜」

そして顔を輝かせて店内を覗き込む。

店の外から既にショーケースに目が釘付けになっている。

「凄いな。食らいつきが今までと違う」

「ケーキはガキのご馳走だからな」

俺は違うとでも言いたげな発言をする譲がおかしい。


店内はまだ平日の午前中ということもあり、客がいなかった。

「いらっしゃいませ!」

棚を拭いていた老店主が、振り返って、爽やかな笑顔で迎えてくれる。

禅一たちは軽く頭を下げたが、ショーケースに夢中なアーシャは声をかけられても、微動だにせず、色とりどりのケーキたちを見つめている。


「は……はふぁぁぁぁ」

恍惚とした表情のアーシャに、よくケーキが見えるように、禅一は中腰になる。

ともすれば、輝くエフェクトが見えそうな勢いで、アーシャは必死にケーキを見つめ続ける。

苺のショートケーキを見てはため息を吐き、オペラを見ては祈るように手を組み、スライスしたレモンののったレモンケーキを見ては悶え、可愛い器のプリンアラモードを見てはうっとりとする。

誰がどう見てもケーキに夢中だ。

アーシャのそんな様子に、店主の目尻の皺が深くなる。


「……めいににぃ……」

ため息を吐いて、ガラスが真っ白に曇って初めて、アーシャは自分がガラスに張り付いていることに気がついたらしく、慌ててガラスを拭き始める。

自分の指紋をゴシゴシと袖で拭くアーシャに、店主も朗らかな笑い声をあげる。

「可愛いねぇ!外人さんかい?お目々がオリーブみたいだねぇ〜」

そう言って、店主は『ご試食用』のクッキーが入ったカゴをアーシャに差し出す。


可愛らしいクッキーを、うっとりとアーシャは見つめるが、手は出さない。

「どうぞ」

そう言ってもアーシャはキョトンとして首を傾げている。

どうやら貰えるとは毛ほども考えていないらしい。


仕方ないので禅一が一枚とってアーシャに渡すと、彼女はびっくりした顔で、禅一と店主を交互に見つめる。

そして貰えると言うことを理解した途端、パァァっと目を見開いて、顔を輝かせる。

手の中の小さなクッキーを、この世で一つの宝物のように手で包んで、アーシャは満開の笑みを見せる。

試食用のクッキーで大喜びのアーシャに、店主の目尻は下がりっぱなしだ。


アーシャはそんな店主に、何か物言いたげに口をハクハクと動かす。

何か伝えたい。

でも伝える言葉がない。

そんな思いが見てとれる。

「アーシャ、あ・り・が・と・う」

店主を手で示しながら、禅一は頭を下げて見せる。

「あいがとぉ!!」

するとアーシャはすぐに禅一の意図を汲んで、大きな声でお礼の言葉を店主に送る。

「可愛いねぇ、可愛いねぇ!!」

店主はもう溶けてしまうのではないかと思うほど、デロデロに顔が緩んでいる。

彼に撫でてもらったアーシャもご機嫌で、ニコニコと笑う。


そんな微笑ましい光景をガン無視で、ショーケースを見つめ続けているのは譲だ。

確か前に来たのは半年以上前だから、無心でケーキ選定を行っているに違いない。

弟の様子も微笑ましく見守っていたら、禅一の気配に気がついて、譲は殊更眉間に皺を寄せる。

「チビ」

そして俺は別にケーキなんか見ていないとでもいう、涼しい顔でショーケースを指差す。


「?」

アーシャは選べと言う譲の身振りがわからないらしく首を傾げている。

「一種類づつ選ばせるしかねぇのかよ……」

譲は面倒臭そうに小声で漏らす。

「チビ、これは?」

一番上の棚の左から譲は指差す。

ベーシックながら長く愛される苺のショートケーキに、アーシャは深く頷く。

「これは?」

その次を指差すと、再びアーシャは深く頷く。

「これは?」

その次も同じく、アーシャは深く頷く。


最初は店主もケーキを出そうとしていたが、全種類にアーシャが頷くのを見てから、動きを止める。

「ち〜〜〜〜〜びぃぃぃぃぃ」

譲は全肯定の構えのアーシャの両頬を潰して、タコのような顔にしてしまうが、まるで分かりませんと言う顔で彼女は不思議そうにしている。

「譲、譲」

禅一は苦笑して弟たちの交流に割り込む。


「アーシャは多分ケーキとかわからないんだ。悪いけど、何か美味しそうなやつを譲が選んでくれないか?家で選ばせるから……そうだな、七個くらい頼む」

譲は深々と、見せつけるようにため息を吐いて、ショーケースに向き合う。

『頼まれたから仕方ない』風を装っているが、自分で選べるとなると目の輝きが違う。

「あ、俺の分は甘さ控えめそうなやつを一つ頼む」

「へいへい」

面倒臭そうな空気を演出しながら、譲は実にキビキビとケーキを選ぶ。


(多少はねぎらいになったかな)

禅一がそんな事を思っていたら、腕の中のアーシャが何かに反応した。

「わぁ!」

切れ目と折り目のついた厚紙を、箱に組み上げる工程が面白かったらしい。

子供は本当に何に喜ぶかわからない。

こんな事にも目を輝かせる事ができる感性が、何とも無邪気で可愛らしい。


興奮したアーシャを抱き直しながら、禅一はポケットから財布を取り出す。

「譲」

そう言って渡すと、心得た譲が、手の塞がっている禅一に代わってお会計を済ませる。

「はい、ありがとう」

店主は一瞬、アーシャに視線を向けたが、小さ過ぎて、持たせるのは危険と判断したらしく、ケーキは譲に渡される。


「へへへ」

アーシャはケーキの箱を持つ譲を見て、貰ったクッキーを両手で包んで嬉しそうに笑う。

「あいがとぉ!!」

そして店主に向かって大きく手を振る。

元気の良い、混じりっ気なしの素直な感謝に、店主が相合が更に崩れたのは言うまでもない。

早く食べて笑うところが見たい。

クッキーを大切そうに持っているアーシャを抱えて、禅一は車へ急いだ。


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