16.末っ子、登園する
小さな眉をギュッと寄せて、全身で紙束を抱き込むようにして、チャイルドシートに収まるアーシャを見ていると、胸が締め付けられる。
「一応、書いてみたんだが、通じるかな……」
なんて言いながら、時間になればお迎えに行くことを説明したら、一度は理解して笑ってくれていたのだが、今のアーシャの顔色は冴えない。
(もうちょっと分かり易く書けたら良かったんだが……)
アーシャが抱きしめている紙束は、家にあるコピー用の再生紙に、禅一が四苦八苦して描いた説明図だ。
何回も書き直して、シンプルにまとめたお陰か、何とか説明が通じたようだが、不安を払拭するには至っていない。
「とっとと預けて来いよ」
保育園の駐車場につき、エンジンを切った譲はあっさりと言い放つ。
「ちょっと待っておいてくれ。送り出す前に、最後にもう一回説明して預けてくるから」
チャイルドシートからアーシャを出しながら、そう言う禅一に、バックミラー越しの譲は呆れたような視線を向ける。
「過保護にしてたってしょうがないだろ。こればっかりは慣れるしかないんだから」
「お互い慣れなきゃいけないのはわかってる。でも、アーシャは賢いんだ。ちゃんと説明したら、寂しかったり、悲しかったりするのも少なくなるだろ?」
呆れたように譲はため息一つついて、無言で手を振って、助手席に置いていた資料を広げる。
待つ姿勢を見せているから、好きにしろという事だろう。
譲はここが一番肝要と気を張っている。
朝も犬の散歩が終わってから、そのまま車で資料を読み込んでいた。
任せきりで申し訳ないと思うが、アーシャのケアも大切だ。
微かに震えているのに、アーシャは素直に禅一の手に引かれて歩く。
口を真一文字に結んで、俯きそうになる顔をあげて、小さな背中を必死に伸ばしている。
頑張ろうとしている姿がいじらしくて、胸が痛む。
「アーシャ」
禅一は門を入ってすぐの所にある、ひまわりの花を模した時計台に近づく。
そして禅一がしゃがんでも尚、低い位置にあるアーシャの顔をしっかりと見つめる。
「じゅう・い・ち・じ」
文字盤の見易い時計を指差して、禅一がそう言うと、アーシャは泣きそうな顔のまま何とか口を両端を上げて、笑顔を作って頷く。
アーシャは持っていた紙束を捲って、お迎えのページを禅一に見せる。
「じーいちじ。あとはいしょ」
わかっているとばかりに、力強く、そして自分に言い聞かせるように言うのが切ない。
「後は一緒」
ヨシヨシと禅一はクルンクルンと好きな方向に跳ねる癖っ毛を撫でる。
「……ふふ、中々やりますね、藤護さん」
「ぴっ!」
唐突に横から声がかかって、アーシャが跳ね上がる。
数瞬前まで誰もいなかった、禅一の隣に、保育士の峰子先生がしゃがみ込んでいる。
ずっと前からそこにしゃがんでいましたとでも言う顔で、優雅に微笑んでいるが、足元に土煙が漂っている。
すごいスピードで走り込んできたのだろう。
(つくづく只者じゃない先生だよなぁ)
保育士としては申し分ない、むしろ持て余しそうな身体能力に、禅一は感心してしまう。
「私もアーシャちゃんには説明こそが正しい対処法だったと、昨日反省しまして」
スッと峰子先生はカラー印刷された紙を禅一に示す。
「同じ物を用意していたんです」
そこにはすっかり世間でお馴染みになったフリー素材の絵を使って、禅一の描いた絵よりずっとわかり易い説明図が作成されている。
「凄いわかり易いですね。これは『そざいや』の?」
「ええ。私も絵を描くのは少し苦手でして……」
さりげない仲間認定を受けながら禅一は苦笑する。
「あの……ほとんどの絵は『そざいや』なのに、何で俺だけコレなんです?」
同じ作者のほのぼのとしたタッチの素材で作られている絵の中、強烈な違和感を発する存在を禅一は指差す。
「アーシャちゃんがお兄さんと認識できるように、イメージが近いものを持ってきました」
良い仕事した!という爽やかな笑顔を見せる峰子先生に禅一はガックリと肩を落とす。
指の先にいるのは、筋肉の塊のようなアメコミヒーローだ。
鍛えてはいるが、こんなに凄い体つきではないし、服装にこだわりはないが、パンイチでうろついたことはなし、ガンマ線を浴びて変身する体質になった覚えもない。
(しかも緑色だし……)
峰子先生のイメージ上では、自分はコレらしい。
(乾先生だけの偏ったイメージでありますように……)
そう願いながらも、数いる絵の中の人物で、その緑色が自分を示していると、自らも理解してしまっているのが悲しい。
(前もって説明しておいて良かった)
禅一は安堵する。
下手すると、十一時に緑色の筋肉質な何かに連れ去られるとアーシャが誤解してしまう所だった。
「アーシャちゃん、おはようございます」
「みにぇこしぇんしぇい、おはよーごじゃあす」
安堵する禅一の隣では、しっかりとご挨拶のできたアーシャに峰子先生が悶えている。
謎の迫力がある峰子先生は、子供の屈託ないご挨拶に弱いようだ。
「お兄ちゃんに『行ってきます』しましょうか」
すぐに体勢を立て直した峰子先生はアーシャの小さな手を握る。
別れの時を察知したアーシャは、無意識にか、首から下げた笛をギュッと握り締める。
まるで持っていかないでと言っているように見えて、それを引き取っていかないといけないとわかっているのに、禅一は躊躇ってしまう。
「アーシャ、笛を……」
それでもそのままにはできないので、持っていこうと手を伸ばすと、峰子先生が手を上げて静止する。
峰子先生はアーシャが背負ったリュックを外し、一番手前のポケットを開ける。
そしてトントンとアーシャの笛を握る手と開いたリュックのポケットを、人差し指で交互に叩く。
「ここに入れてください」
最初はわからないようで首を傾げいてたアーシャだったが、すぐに得心がいったようで、顔を輝かせる。
そして自分で首から外した笛を折りたたんで、ポケットに入れる。
これで正しい?と尋ねるように先生を見上げて、力強く頷いてもらうと、アーシャは泣きそうな笑顔で、リュックを抱きしめた。
「良いんですか?」
「首から下げているのが問題なんです。リュックの中に入れておくなら大丈夫ですよ」
禅一が尋ねると、峰子先生はニヤリと笑う。
規定以外の物を持ち込むのは推奨されていないので、アーシャの心の健康の為に目を瞑ってくれるのだろう。
「アーシャちゃん、『行ってきます』」
峰子先生が促すように言うと、アーシャの顎に梅干しのような皺が現れる。
「……ゼン……いてきあしゅ」
いよいよ別れの時が来たと悟ったようで、紙とリュックを抱きしめて、無理やり作った不恰好な笑みをアーシャは浮かべる。
目には溢れんばかりの涙が溜まっている。
(……連れて帰ってやりたい……)
そう思ってしまうのは仕方ないだろう。
「アーシャ、行ってらっしゃい」
精一杯我慢している小さな体を抱きしめると、ポニョポニョの頬っぺたがペタンとくっついてくるので、その温かさが切なくて、禅一はフワフワの黒い髪を掻き回す。
今度は涙を溢れさせながらも、アーシャはひまわりのような笑顔で笑う。
そして峰子先生に手を引かれて建物の中に消えていく。
(早く終わらせて迎えに行くからな!)
決意を新たに禅一は踵を返す。
張り切りが体から迸って、登園中の親子が謎の威圧感にギョッとされていることには気がつかない。
「譲?」
駐車場まで戻って、禅一は少しだけ目を見張る。
他の保護者と触れ合いたくないであろう譲が車の外に出て、園庭を眺めていたのだ。
禅一の見送りに時間がかかり過ぎて、苛ついて出てきたという感じではない。
目が悪い人間が遠くの物を見ようとしている時のように、目を眇めて、ジッと桜の木あたりを見つめている。
「どうかしたのか?」
聞いてみると、譲は小さく肩を上下に動かす。
「いや、見えるべき物が見えねぇなと思って」
それだけ答えると、譲はさっさと車に入れとばかりに軽く手を振って、自身も運転席に滑り込む。
禅一も振り返って、譲が見ていた辺りを見てみるが、風景に何か過不足を感じたりはしない。
「?」
不思議に思ったが、説明する気がなさそうなので、それ以上は突っ込まない。
「まずどこから向かう?」
「本当は昨日調べていた所を強さ毎に見て回りたかったんだけど、昨日の仮定の裏付けが取りたい。分家の近くから順に、まだ見ていない所を確認して対応していこう」
禅一が聞くと、注意深く車をバックさせながら譲が答える。
「俺がどれくらいまで対応できるか確認しながらやっていくから、最初はちょっと離れていてくれ。ヤバそうだったら呼ぶから」
地図はもう完璧に頭に入っているらしく、譲はスムーズに発進する。
助手席に移った禅一は色々と書き込まれた地図を眺める。
「あのさ、ずっと疑問だったんだけど『対応』って、どうやって対応するつもりなんだ?」
昨日、『厄介な奴』を一つ消したと言われた禅一は、ずっと疑問だったことを聞いた。
禅一がやったことといえば、走り回って、指定された場所で何回かジャンプしただけだ。
何かやった実感が全くない。
「氣を拳に集めてぶん殴る」
譲の回答はとても明快で、とても物理的だった。
「……………」
意外な答えに禅一は無言で、まじまじと譲の顔を見つめてしまう。
「何か文句あっか?」
ジロリと視線を送られて、禅一はポリポリと口の横を掻く。
「いや、こう、思っていた除霊とか、お祓いとかとすごく違うな、と思って」
禅一の答えを、譲は鼻で笑う。
「呪文唱えたり祈祷したり?」
「そうそう。何かお札貼ったりとか、護摩とか焚いたり」
禅一の頭の中には、霊能力者などがサイキックバトルを繰り広げるイメージが流れている。
「禅、お前はそんなことできるか?」
口の端を歪めながら、譲は尋ねる。
少し考えて、禅一は苦笑する。
「……できないな」
禅一は祝詞はいくつか覚えているが、それは村である数々の儀式に使う用だ。
悪霊を調伏しろと言われても、思いつくのは、確かに拳でぶん殴るくらいだ。
禅一以上に家業に関わっていない譲に、何か特別な手法がとれるはずがない。
「俺は手に氣を集めるとか、よく分からないんだが……」
かなり濃くなった氣であれば、陽炎のように見える事もあるのだが、自身の氣はほとんど見えない。
辛うじて大祓の時に、祝詞によって活性化してた氣が見えるくらいだ。
とても自分の中の氣を移動させるなんて芸当ができる気はしない。
「禅は俺が全身のをかき集めたくらいの量を垂れ流しているから大丈夫だ。集めたりする必要なし。アロマディフューザーになった気分で、型でもやってろ」
「あろまでふゅーざー」
「匂いを撒き散らす装置だよ。散布機」
オシャレなものに精通していない禅一の頭には、農薬の散布機しか浮かんでこない。
穢れという害虫に、氣という農薬を散布するイメージで行けば良いのだろうかと、禅一は首を傾げる。
「どうしてもの時は、大祓の時の祝詞をやれ。ちょっと使い所おかしくて意味が通じないけど、アレはメチャクチャ強力に下に干渉するからな」
「祝詞の時の舞は?」
「意味のある動きみたいだから、一応やった方が良いだろうな」
ふむふむと頷きながらも、やっている自分を思い描いて、禅一は微妙な気分になる。
(練習用の木刀でも持ってきておけば良かったなぁ)
どこかで拾える時に木の枝でも拾っておこう。
そんな事を考えながら、禅一たちは最初の目的地に乗り込むのだった。
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