15.聖女、時計を学ぶ
トントンと木の階段を上る音で、アーシャの意識は浮上する。
それと同時にフワフワで滑らかな毛布と、気持ちの良いシーツの感覚がする。
気持ち良い温かさと、いい匂いに包まれている事に、覚醒する前から幸せを感じる。
「アーシャ、おはよ」
そうして優しいゼンの声で目を覚ます。
「……じぇん……おはよ」
手を伸ばせば、ゼンは当然のように抱き上げてくれる。
そんな彼にしっかりと抱きついて、その温もりと質量に安心する。
アーシャの朝は、神の国に来てから、ずっと幸せに満ち溢れている。
『また朝が来てしまった』なんて思ったことは一度もない。
全く早起きできなくなっていて、惰眠を貪っているが、ここにそれを咎める人はいない。
清らかな水で顔を洗って、花の香りのする布で顔を拭くだけで、『よくできました』とばかりに頭を撫でてもらえる。
卓の上からは美味しい匂いが漂っていて、当然のように朝食を勧められる。
朝のお勤め一つせずに、こんなに甘やかされてしまう環境に慣れたら、後が怖いな、等と考えてしまって、アーシャは首を振る。
ゼンたちがいない『後』なんて縁起でもない。
(別々なんて、ないない!)
アーシャはブンブンと首を振って悪い考えを吹き飛ばす。
わがままと言われても、迷惑と言われても、離れる事はもう無理だ。
考えられない。
アーシャはゼンと繋いだ手に力を込める。
(早くお役立ちにならないと!)
そんな事を思うアーシャの視界の端に、何か嫌な物が引っかかる。
「?」
何だろうと、そちらを振り向き、
「ひっ!」
アーシャは小さく悲鳴を上げた。
ソファーの上に置かれた、これからアーシャが着ると思われる服。
その隣に並べて置いてある、背負い袋。
それを見てアーシャの血の気が引く。
昨日はあんなに可愛らしい袋を背負えたことが嬉しくてたまらなかったのに、それを背負って連れて行かれたのは―――孤児院だった。
(ま……まさか、まさか……!?)
あの背負い袋が、服と一緒に揃えてあると言うことは、またあそこに連れていかれるのかもしれない。
そして今度こそ帰れないかもしれない。
「アーシャ?」
ソファーの方を向いて動かなくなったアーシャに、ゼンは首を傾げる。
「……ゼン……」
荷袋を指差すも、声が続かない。
神の国の言葉がわからないし、わかっても『今日こそ捨てられますか?』なんて聞く勇気はない。
何かを伝えたくて、伝えるのは怖くて、アーシャは口を開けては閉める。
「あぁ……」
しかしゼンは何か察したようで、困った顔になってしまう。
あまり見ない表情に、アーシャの不安は膨れ上がり、繋いだ手に更に力を込める。
「あ〜〜〜〜〜」
ゴホンゴホンと乾咳をして、気まずそうな顔をして、ゼンはソファーに座り、アーシャを抱き上げて膝にのせる。
そして背負い袋の下に置いてあった紙の束を取り出す。
「瑠磁、輩毅礎唐胴表競祇、靭蝶力かな……」
ゼンにしては珍しく、口の中に音がこもるような、はっりしない発音で何事か呟く。
いつもの彼と違いすぎる行動に、アーシャの心臓は不安そうに鼓動を大きくする。
カサカサと音を立てて、半分に折ってあった質の良い紙が開かれる。
アーシャは一つ深呼吸してから、自分に見せるように広げられた紙を、覗き込む。
「…………………………」
そして首を傾げて止まった。
三角の下に四角が書いてあり、その四角の中に大中小三つの……メイスで潰されたグールのような物が描かれている。
手足に鋭い五本の爪がついていて、目だけが妙に生々しく描かれていて、とても禍々しい。
そしてその絵の斜め上に、カビが生えたような丸が書いてある。
「え〜っと……これ、アーシャ。これ、ユズル。これ、おれ」
小さいものから順にグールを指差しながら、ゼンが説明する。
「……………」
その説明にゴクリとアーシャは唾を飲む。
(まさか……これは人間!?)
確かに鋭い爪と歪に曲がった手足を気にしなければ、人間に見える。
どこを見ているかわからない目も、かなり異様な気配がするが、形的には人間のものだ。
「アーシャ、ゆずぅ、ゼン?」
正直解釈が間違っているのではないかと八割疑いながら、指さし確認してみたが、
「そー!そー!」
パッと明るい顔になったゼンは大きく頷く。
「…………」
まさかの力強い肯定にアーシャは暫し無言になってしまう。
確かにグールたちの目を見ると、大中サイズは黒で、小サイズは緑で描かれている。
(これが人間……!!)
三人で悪魔になろうとのお誘いを受けているのではないかと思うほどの邪悪な人間像だ。
「い・え」
グールな三人が入っている三角をのせた四角を、指でグルグルと示しながら、ゼンは説明する。
「いえ?」
アーシャが首を傾げると、ゼンはぐるっと室内を指差す。
「いえ」
どうやらこの住まいを『いえ』と言うらしい。
それならこの絵は、ここに住んでいる三人を描いているのだろう。
ウンウンと頷くアーシャに、ゼンはグールたちの斜め上に書かれた、カビが生えたような丸をチョンチョンと叩いて示す。
「と・け・い」
そう言った後にゼンは部屋の上の方を指差す。
その先には大きな円盤が掛けてある。
盤の中は十二等分に分けてあり、区切り線の横に記号が書いてあり、中心から二本の棒が伸びている。
「あ!」
じっくりと観察してから、アーシャは大きく口を開いた。
区切り方が違うが、アーシャはこれに似た物を見た事がある。
円盤を等間隔に区切り、時を知らせる『時計』だ。
アーシャの知っている時計と同じく、中心から伸びている二本の棒の長さは異なっている。
構造と考え方が同じなら、短針は一日を掛けて一周し、長針は一時間をかけて一周するはずだ。
(神の国は一日を十二に分けているのね!)
文字盤を数えてアーシャは発見する。
アーシャの国では二十四に分けていたので、一時間の感覚は大きく違いそうだ。
(神の国の時計も、文字盤は数字なのかしら?)
アーシャは十二本の区切り線の上に書かれた記号をじっと見つめる。
数字を覚えれば、理解できる幅もグッと広がるはずだ。
「アーシャ、いま。な・な・じ・さん・じっぷん」
ゼンが時計を指差して、何かを教えてくれる。
そして今度はトントンと手に持っていた紙を指差す。
「あ、おなじ!!」
実物を見た後だったら、ゼンが何を書いているのか理解できた。
絵の中の、カビが生えた丸い物は、時計だ。
みっちりと書いてある文字盤で気がつかなかったが、きちんと短針と長針も書き込んである。
見比べると、ゼンが書いている時計が、今の時間を示していることがわかる。
よく見るとグールが手にくっつけているのは、邪な武器ではなく、いつも食事に使う二本の棒やフォークである事がわかる。
きっとこの絵は、その時間に何をしているか表しているのだ。
理解すると同時に、アーシャは首を傾げる。
(………神の国の時計ってどこが始まりなんだろう?)
アーシャの国の時計は一番上から開始して一日をかけて一周する。
なので、アーシャの国と同じ読み方をするなら、今の時計が指し示す時刻は一日を半分以上すぎた、昼過ぎぐらいの時間を示していることになる。
(……どう見ても朝だもんね)
アーシャは太陽の位置を確認する。
同じ時計だが読み方は大きく違いそうだ。
そんな事を考えている間も、ゼンの説明は続く。
紙を捲ると、三角に四角がくっついた『いえ』から三匹のグールたちが出て、大きな三角と四角の『いえ』の前に並んでいる。
時刻は次の時間に移っている。
ゼンは一生懸命説明してくれているが、やっぱり神の国の言葉は全然わからない。
しかし言っている内容は、何となく予想がつく。
(時計が次の目盛りに移る時には、孤児院に連れて行かれるんだ)
恐らく、大きい『いえ』は孤児院を示しているのだろう。
説明しながらゼンは紙を捲る。
次の紙には一番小さくて目が緑のグールだけが大きな『いえ』に残って、大中のグールが去っていく絵が描かれている。
「……………っ」
置いていかれるのだとわかった途端、早くもじわりと視界が滲んでしまって、アーシャは唇を噛み締める。
「アーシャ、アーシャ」
そんなアーシャに慌てたようにゼンが紙を捲る。
すると二匹の大きなグールが、小さなグールを迎えに来る絵が現れる。
斜め上に描かれている時計は、アーシャの国で言うなら、もう少しで一日が終わろうとする時刻を示している。
「じゅー・いち・じ」
ゼンは文字盤に二本の線が引いてある所をトントンと叩く。
「じーいちじ?」
アーシャが確認すると、
「じゅーいちじ!」
ゼンはブンブンと大きく頷く。
「あと・わ・い・しょ」
そして紙の隅に書いてある、大中小のグールが一緒に孤児院から揃って帰っている絵を指差す。
「じーいちじ。あとわいしょ」
アーシャも一緒に帰っているグールを指差して言ってみる。
「そー!じゅーいちじ!あとわいっしょ!」
ゼンはそう言いながら、ニカっと笑って、アーシャの頭をゴシゴシと擦るように撫でる。
神の国の時計を読むことはできないが、この絵と同じ時刻を指した時、ゼンたちはアーシャを迎えに来てくれるのだろう。
「…………じーいちじ。あとわいしょ」
アーシャはゼンが用意してくれた紙の束を抱きしめる。
そして願をかけるように、強く目を閉じて、手に力を込めた。
アーシャが目を開いて笑いかけると、ゼンはほっとした顔で、膝の彼女を抱き上げる。
「アーシャ、ご・は・ん」
そして良い匂いのする卓へ向かう。
「ふあぁぁぁ〜〜〜!」
迎えに来てもらえる確約を抱きしめたアーシャは、卓の上を見て、歓喜の声を上げる。
卓の上には『こめ』と黄土色のスープ、清水をまとってキラキラと瑞々しく輝く生の野菜、昨日も食べた甘酸っぱい赤い果実、そして燦然と輝く白と黄色の玉子様に、その下に敷かれた二枚もの肉が並べられている。
真っ黒だけど美味しい『しょーゆ』と、生の野菜にかけると物凄く美味しくなる『まよ』も並べられている。
既に食べたことがある組み合わせだから、平常心を保っていられるかと言えば、全くそんな事はない。
既に全部美味しい事を知っているので、どれから食べればいいのか迷ってしまう。
元々美味しいのに『しょーゆ』でその力を増す玉子、そんな玉子と一緒に食べる事で最強の破壊力を得る肉、神の国でその美味しさを知った生の野菜と『まよ』の共演、そして昨日味わったばかりの甘酸っぱい赤い果物。
美味しいスープと、数々の実力者たちと一緒に味わうことで、その破壊力を体感できる『こめ』も忘れてはいけない。
「アーシャ」
うっとりと、この世で一番贅沢な『何から食べよう』という悩みに浸っていたアーシャの口元に、『まよ』がたっぷりとついた生野菜が運ばれる。
食べ始めないアーシャを心配して、ゼンがご飯を勧めてくれたのだ。
「いたぁきましゅ!」
パチンと両手を鳴らしてから、アーシャは差し出された野菜に飛びつく。
「んふ〜〜〜!」
相変わらず、この『まよ』の濃厚さと、生野菜のシャキシャキとした歯応え、後口をさっぱりとさせてくれる瑞々しさの三位一体の攻撃は凄い。
じゅわわっと染み出す唾液の感覚を頬を押さえ、左右に揺れることで、叫び出したい気持ちを昇華させる。
「…………」
ゴクンと飲み込みながら、アーシャはホッとしているゼンを見つめた。
顔の後に、ジッと何ものっていない彼の膝に視線を送る。
(……お膝……)
アーシャは子供の姿になったが、子供ではない。
花も恥じらう十五歳だ。
まさかそんな良い歳になっているくせに、『お膝にのりたい』なんて甘ったれたことは口に出せない。
(……でも……でも、これからまた離れなきゃいけないんだから、ちょっとくらい……)
アーシャは浮かんだ甘えを首を振って追い払う。
どうも自分が子供の姿になったと認識してから、姿に心が引っ張られている。
(ダメダメ!頑張れ私の
なけなしの大人精神でアーシャは踏みとどまる。
そんなアーシャの頭に小さく噴き出す音が降り注ぐ。
何だろうと思った次の瞬間、アーシャはズボッと椅子から引き抜いて収穫される。
そして温かい膝にポスンと軟着陸する。
「アーシャ、あ〜ん」
見上げればニコニコと相合を崩すゼンがいる。
「……えへへへへへ」
多分、アーシャの顔はゼン以上に崩れているだろう。
幸せな気分で差し出してもらった赤い果物に齧り付き、温かい背もたれに体を預けた。
朝からとびっきり甘やかされて、アーシャの不安はゆっくりと溶けていく。
『じーいちじ。あとわいしょ』
呪文のように何度も心の中で繰り返しながら、温かくて美味しいご飯を食べて、アーシャの心とお腹は膨れていく。
しかし一欠片だけ残った不安が、アーシャの器に一口分の『こめ』を残させる。
「ゼン、『これ』、『アーシャの』」
余計な手間をかけさせてしまうと分かっているのに、そう言わずにはいられなかった。
不思議そうに首を傾げたゼンだったが、
「『これ』、『アーシャの』」
そう言って、何度も食べ物を保存する箱を指差したら、得心がいったように頷いてくれた。
「これ、アーシャの、な」
ゼンはそう言って、食べ物を保存する柔らかい硝子をアーシャの器に張ってくれて、一緒に保存しに行ってくれた。
(『じーいちじ。あとわいしょ』。ちゃんと保存してくれたから、帰ってこられる。絶対に帰ってこられる)
そう心の中で何回も呟きながら、アーシャは服を着替え荷袋を背負う。
「おせー!」
覚悟を決めて外に出たら、『くるま』に乗って、何かの紙を眺めていたユズルが機嫌悪そうに強い口調で言う。
今日は歩きではなく『くるま』で行くらしい。
「う……」
苦手な『くるま』に、顔に力が入ってしまうが、アーシャは心の中で呪文を唱える。
(『じーいちじ。あとわいしょ』)
ゼンのくれた紙を握りしめて、アーシャは専用の座席で丸くなった。
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