12.次男、戸惑う
兄の禅一は動物などの小さい生き物が好きだが、譲はそれほど好きではない。
禅一の体質の問題がなくても、動物を飼うなんて、とんでもないと思っている。
自分が生きていくだけでも大変なのに、他の生物の命にまで責任を持たされるなんて、まっぴらごめんだ。
やれブラッシングだ、散歩だ、シモの世話だと、好き好んで他の生物の召使になりたがる気が知れない。
耐毒性の高い人間という生物から見ると、他の動物たちは、あれはダメ、これはダメと、与えるものに色々と気をつけないといけないのも面倒臭い。
意思疎通ができないから、何をして欲しいのかがさっぱりわからないし、体調不良もこちらが気づいてやらなくてはいけないから、普段から観察しておかなくてはいけない。
果てしなく手間がかかるのに、こちらに何の利益もない。
子供も似たようなものだ。
話の通じなさ、行動の一貫性のなさ、危機察知能力のなさ。
およそ同種族と思えない、未知の生き物だ。
『この子の面倒を見られるのは俺ぐらいしかいないだろう』
などと兄が戯言を吐き出した時は倒れるかと思った。
禅一が引き受けてきた子供は、垢だらけの不潔な姿で、ほぼ骨に皮がついているような、いつ死んでもおかしくない状態だった。
しかもその子供は身元不明で、絶対子供なんかがいるはずのない所に転がっていたという怪しいオプションまでついてきた。
どう考えても、ただの学生の手には余る物件だった。
確かに、あの因習の村で、老害どもが騒いでいる中、全ての矢面に立って子供を守れるのは禅一くらいしかいなかった。
しかしそれでも見なかった事にするべきだと思っていた。
自分達に他人に割く時間の余裕はないし、普通の子供でも難しいのに、衰弱した子供の世話などできるはずがない。
『仕方なかった』『村でそうするべきと決まった』『リスクが大き過ぎた』
幸い、諦める理由はたくさんあった。
それなのに妙な所が頑固な禅一は絶対に頷かなかった。
禅一は粗品でもらった観葉植物や植物の種を、せっせと可愛がった挙句、枯らす。
そしてその後暫く落ち込む。
植物でさえ落ち込むのだから、子供なんて一生物のトラウマだ。
落ち込むと、禅一は人一倍鬱陶しい。
立ち直れなくなったら色々と不具合が生じるので、仕方なく、譲も協力する羽目になった。
まずは子供を育てる上で必要なもの、気をつけるべき事、手続きを調べる。
幸い今の時代、情報はどこからでも仕入れられる。
自分達の生活に子供を入れるなら、どんな用具が必要か、片っ端からピックアップして、買い集めた。
ガラス製のサイドテーブルは自分の部屋に片付けて、急勾配の階段を一人で上り下りしないようにゲートも設置した。
情報を集め、環境を整え、禅一に助言を与え、上手く育てるサポートができるように準備した。
そう。『サポート』だけする予定だったのだ。
譲自体は子供と関わる気はなかった。
子供の喜ぶ事などわからないし、言葉による意思疎通ができない生物は苦手なのだ。
日本語を習得している大人だって『話が通じない』と思う事がしばしばなのに、日本語すらわからない、常識もない子供なんて絶対無理だと考えていた。
それが実際はどうだろうか。
間違っても子供に懐かれるタイプではない譲にも、しっかりチビ助は慣れて、しっかり絡んでくる。
結構冷たい態度をとっているのに、全くへこたれない。
今も枯れ枝から小枝くらいに太くなった手足を伸ばして、譲の上にのっかっている。
「おい、チビ、どけっ」
険のある声でそう言ってもびくともしない。
胸の上で、腹ばいになって、面白いものを見ているような顔で譲を観察している。
(俺は隣の不思議生物じゃねぇぞ)
人の腹の上でくつろぎやがってと、譲は苦虫を噛み潰したような顔になる。
記憶が薄れないうちに、今日回った場所の情報を書き留めたメモや、スマホに入れたボイスメモの情報をまとめておきたいのに、この小さな厄介者のおかげで身動きが取れない。
子供ならさっさと飽きて、その辺を走り回っていれば良いのに、胸の上でニコニコと譲を観察している。
嫌がるように揺れても、ロデオでも楽しむような様子で、一向に胸の上から退かない。
忌々しい事に、ちょうど良い重みと、温かさで、長期滞在されたら、眠気が訪れてしまいそうだ。
「クソっ!禅!チビをどかせ!落とすぞ!」
台所で作業している禅一にそう言うも、
「アーシャは初めての保育園で頑張ったんだ。譲も労ってくれ」
と、諸悪の根源は振り向きもしない。
譲がアーシャを落とせないことを承知で、重石にしているのに、そんな事を抜け抜けと言われて腹が立つ。
(油断した!!)
情報をまとめようとしていたら、無言でソファーの前に毛布が広げられた。
いつもだったら禅一がやりそうなことは想像がつくのに、疲れのせいか、その意図を読み取る事ができなかった。
グッと肩を掴まれて、バランスを崩したと思った瞬間には、足を払われて、床に敷かれた毛布の上を転がっていた。
譲を転がすと同時に、禅一は下の毛布を掴み、譲を高速で手巻き寿司にしやがったのだ。
暴れようとしたら、用意していたもう一枚の毛布も巻き付けられ、ソファーに担ぎ上げられた。
そして仕上げとばかりに生きた重石をのせられたのだ。
「人をペットでも観察するような顔で見てんじゃねぇぞ」
譲は鼻に皺を寄せて威嚇するが、この重石は余裕の微笑みである。
やがて『ふぅ、やれやれ』とでも言いそうな顔で、重石はポンポンと譲の胸を定間隔で叩き始めた。
「〜〜〜〜くぉら、クソガキ、誰を寝かしつけしようとしてやがる」
子供のおままごと遊びが始まってしまった。
しかも今の譲のポジションは、寝かされる人形役ではないか。
のしのような姿にされた上に、屈辱の配役である。
「くそぉぉぉ、禅、この野郎、後で覚えていろよ」
「悪役の捨て台詞そのままじゃないか。頭が回っていない証拠だな。早く一眠りしろ」
そんな会話を無視してチビは子守唄を歌い始める。
この状態で眠ってしまったら、赤ん坊に寝かしつけられた大人になってしまうではないか。
譲が不機嫌に睨んでも、チビはお構いなしで、歌い続ける。
何に腹が立つかといえば、ポンポンと胸の上を叩く感触も、その歌の耳触りも、非常に心地良いということだ。
危機によって昂っていた脳が、強制休眠させられる感覚に、譲は奥歯を噛み締める。
「………いや、おかしいだろ、これ」
そして急速に脳の機能が休眠に切り替わっていく状態に呟く。
生命の危機で興奮状態だった体から、どんどん緊張が抜けていく。
歌が始まる直前まで、とても寝る状態ではなかったのに、だ。
「ちょっと、禅、これ、やめさせろ。これ、絶対なんかおかしい」
考えよう、考えようともがくのに、急激に無理やりリラックスさせられていく。
「アーシャは子守唄も上手だな〜」
禅一には全く影響がないようで、呑気なことを言っている。
このまま寝るのは不味いような気がするのに、抵抗ができない。
(このチビ、底が知れねぇ……)
津波のような穢れを食い止める結界を張り、氣を大地から呼び起こし、植物を育て、人の怪我を治し、活力を注ぎ、禅一の力を抑える。
その能力の多さは、今までだけで、もうお腹いっぱいだ。
この上、歌っただけで、相手の状態に介入できるなんてとんでもない。
(これは何だ……何の能力か知らねぇけど……)
人前で歌わないように注意しないといけない。
そう思うのに、全身がソファーに沈み込み、譲の意識は溶けてしまった。
そこからは一瞬だったのか、長い時間経ったのかわからない。
気がつけば耳元からではなく、少し離れた所から澄んだ歌声が響いていた。
錫杖がシャランシャランとなる音と、子供特有の筋肉が足りていない、ドタドタという足音が、その歌声の合間を縫って届く。
(寒気が消えてる)
寒気どころか、体から何か湧き上がってきそうなほどの熱量を感じる。
そのまま微睡んでいたい心地よさだったが、譲は意地でそれを振り切る。
(あんのクソガキ……!!)
音だけで何かやっていることはわかる。
意識が完全に浮上する直前、冷えて疲労していた身体が急激に楽になっていくのを感じた。
これはもう絶対に何かやっている。
確信を持って譲が目を開くと、その眼前ではデコ錫杖を持ったチビ助が歌いながら、独特な足の運びで回転している。
一体どうやっているのか、錫杖に氣を引っ掛け、巧みに渦を作っている。
歌いながらクルクルと回転する能天気な様子に、譲の額に青筋が走る。
力を使うなと言った時、あんなに凹んでいたのに、子供というものは鶏と一緒ですぐに記憶が抜けるのか。
これから譲の監視下ではない、保育園で長い時間を過ごすようになるのに、こんなに自由にやられたら、どこから情報が漏れるかわかったものではない。
「こら……チビ……」
「ぴっ!!」
譲が声をかけると、漫画のようにチビが飛び上がる。
それと同時に、彼女が浮き上がらせ、渦を作っていた氣が部屋中に散らばる。
「あっ……!わ、わ……」
チビは錫杖を構えて、もう一度氣を掬い上げようとするが、そんな事を許す譲ではない。
「何、やってんだぁ?」
怒りを隠さずにそう言うと、構えた錫杖がカタカタと揺れて、場違いな涼やかな音を立てる。
「あ………う………」
イタズラが見つかったチビ助は大いに怯えている。
壊れたブリキ人形のような動きで首だけを上げて、譲と目があったら小さく飛び上がる。
どうやらこれが『やってはいけない事』であるとは認識しているらしい。
重石がなくなった譲は遠慮なく体を揺すって、毛布の呪縛から腕を解放し、目を見開いているチビの両頬を掴む。
顔を潰されたチビは、タコのような顔で、あうあうと言葉にならない声を出している。
「力は使うな、っつったよなぁ?」
そのタコ顔を引き寄せ、眼底の奥まで覗き込むようにしながら、譲は言う。
絶対にその力が他人の目に触れないようにしなくてはいけない。
徹底的に叱って、少しの悪戯心も親切心も出てこないようにしなくては、この子供に未来はない。
安心して他所に預ける事ができない。
しかしそうは言っても言葉が通じないから厄介だ。
固まって、目を大きく見開いているが、驚いているだけなのか、反省しているのか全くわからない。
毛布で念入りに包まれていた譲は、体を大きく動かして、それを引き剥がす。
そうしながら部屋をぐるっと見たら、禅一の姿がない。
(禅一がいなくて、俺が寝ているからバレないと思ったのか……)
子供の浅知恵だ。
目撃者がいなくても、やった事は残る。
誰かが関連性に気がついて調べたりしたら、すぐに存在を嗅ぎつけられる。
「………っ!!」
完全に毛布から解放され、どう説教してやろうかと思っていたら、固まっていたチビは頭を抱えて丸くなる。
防御姿勢だ。
その姿にギョッとして譲は止まる。
どう見ても殴られ慣れている子供の動作だ。
「……………」
今までどれだけ怒った大人に殴られてきたのだろうかと、仏心が顔を出しかけるが、譲はぐっとそれを堪える。
怖くない、殴ったりしないと慰めるのは容易い事だが、それではこの子の今後は守られない。
しっかりとダメなことはダメだと伝えないといけない。
(えぇっと……子供を叱るときは、目を見て、感情的にならない。叱る理由を明確にする。……クソ、言葉さえ通じれば簡単なのに)
読み漁った情報を頭の中で反芻しながら、譲は大きくため息を吐く。
「おい、チビ」
そして腕で頭を固定し、首筋を組んだ手で守るという、妙に堂に入った防御姿勢をとっている黒毛玉を持ち上げる。
「ダメ!わかるか?ダメ!」
そしてギュッと瞑られていた緑の目が開いたら、真っ直ぐにそれを見つめながら、ゆっくりと伝える。
「危ないんだ。わかるか?あ・ぶ・な・い。誰が見てなくてもダメだ!ダメ!」
目を見て、感情を抑え……きれずに、強めになるが、しっかりと叱る。
しかしぶら下げたチビは呆然とした顔で譲を見つめるばかりで全く通じている気がしない。
「〜〜〜〜〜。チビ!聞いてるか!?あれはとにかくダメ!危ないんだ!ダメなんだぞ!」
苛々としながら譲が続けていたら、ポカンとしたアホ面から、急にボタボタと水が溢れ出す。
「うわっ!」
譲は驚いて声をあげる。
それは『泣く』というレベルではなかった。
壊れた蛇口のようだ。
ポカンとした顔のまま、目から次から次に水分が溢れてくる。
水道から直接涙腺に水を引いてきたのではないかと言う勢いで、流れ落ちる涙に、譲は固まる。
(泣いた!)
読み漁った育児サイトの情報が脳裏を駆け巡るが、有用な情報が出てこない。
(泣いた!)
何回も意味のない現状確認をしてしまう。
泣いた子供なんて、どうやったらいいのかわからない。
いつも一緒だった禅一は泣いてもすぐに自動復旧する奴だったし、女子が泣いて詰め寄ってくるのは恐怖しかなかったので、逃げ回っていた。
人をなぐさめた経験など、譲にはない。
(あ!)
走馬灯のように今までの経験が頭を回る中、一つ有用な記憶が出てきた。
禅一だ。
禅一はチビを高く掲げて笑顔にしていた。
俗に言う『高い高い』だ。
「………………」
ブンブンと譲はチビ助を上下にシェイクする。
「………………」
しかし何回やっても効果は出ない。
涙を流しながら、不思議そうな顔をされてしまうだけだ。
(効果ねぇ〜〜〜〜!!)
譲はソファーに座り、膝の上にチビを置いて、顔を拭いてみるが、次から次に水分は生成されているので、際限がない。
蛇口を閉めないことには、拭いても意味がないのだ。
「あ〜〜〜、泣くな!泣くな!」
撫でてなぐさめるにしても、どこを撫でれば効果的かわからない。
頭を撫でても、頬を振動させても、背中をさすっても、決壊したダムからは水が溢れ続ける。
「禅の野郎、どこに行ったんだよ」
思わず泣き言が口からこぼれる。
やっぱり子供はわからない。
意思の疎通のできない生物は譲の手に余る。
こんな生き物を可愛がれる禅一の気持ちがわからない。
「ユズゥ、みぃにゅいんない……えいにぃ」
そう思っていた譲に、意思疎通のできない生き物は、涙を流しながらも笑った。
「お………おぅ?」
何か話しかけられているが、反応の仕方が全くわからない。
泣いているのに、嬉しそうに笑う意味も全くわからない。
譲は再び固まるが、チビはお構いなしに、鳩尾に突撃してくる。
攻撃かと思ったが、力一杯しがみついて、顔をゴリゴリと押し付けている様子を見ると、どうやらそうでもないらしい。
「?????」
どうしたら良いのかわからずに、両手を上に上げたまま、譲はしばらく考える。
腹にこびり付いた温もりはどう考えても、親愛とか信頼とかそんな物がこもっている気がする。
(あんなにビビって、怒られて、泣いて……何で急に?そんなワケあるか?)
本当に子供は意味がわからない。
こんな事で流されず、もっとしっかり注意しなくてはいけないのだが、そんな気を霧散させてしまうなんて、卑怯すぎる生き物だ。
「…………」
譲は大いに戸惑いながら、撫で過ぎて綿菓子のように膨れ上がってしまった黒髪をそっと整える。
すると腹に取り憑いた生物の拘束が強くなる。
まるでもっと撫でてくれと言っているかのようだ。
(………子供って本当意味わかんねぇ……)
嫌がられないか、泣き出さないか、恐る恐る譲はチビを撫でる。
言葉は通じないし、行動に一貫性がないし、やたら手間はかかるし。
(だから子供には関わりたくねぇんだよ)
それなのに急に懐かれたら、どうしたら良いのか全くわからない。
譲は腹にくっついた温もりを感じながら、天を仰いだ。
「良かった。篠崎の家の鍵が見つからなくって時間がかかってしまって心配していたんだが、仲良くやってたんだな」
程なくして帰ってきた禅一は、そんなお気楽な感想を口にしてしまったため、大いに譲に怒られたのは言うまでもない。
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