6.聖女、肉入りパンをいただく

頬に、胸に、腹に、腕に、足に、全身に感じる温もりにアーシャは安心しきっていた。

時々その温もりが離れようとするものだから、一生懸命に捕まえる。

夢うつつで捕まえた体温が自分を包んでくれることを感じて、再び深い眠りに落ちる。

(寂しくない)

(あったかい)

(怖くない)

(あったかい)

(安心)

そんな事を何度か繰り返してから、アーシャは目を開けた。


「んぁ……」

頬は温かいが、豪快に涎を垂らして寝ていたようで、布が顔に張り付いている。

ペッタリとくっついた布を剥がすと、途端に濡れた頬が冷たく感じてしまう。

なので布の濡れていない部分に顔を擦り付ける。

「アーシャ?」

半分眠ったような状態で、濡れていない温かさを楽しんでいたら、くっついていた布から、直に音の振動が伝わる。

「?」

アーシャはくっついていた布をしみじみと眺めてから、視線を上げる。

するとそこには読んでいたらしい本を横にずらして、アーシャを見ているゼンがいる。


どうやらアーシャはゼンの腹に張り付いたまま寝てしまったらしい、

ゼンはアーシャをお腹の上に乗せたまま、ベッドの上に座って本を読んでいたようだ。

腹の上で涎まで垂らして爆睡していたのに、ゼンから注がれる視線は優しい。

「………へへへ………」

嬉しくなってアーシャは手足に力を込めて、ゼンにしがみつく。

くっついていると、一人になってしまった絶望は、悪い夢だったように感じる。


ゼンがいなくなって、泣いて、赤ちゃんをお世話する少女や、コータと出会って、街を見て回った。

全ての記憶が悪いわけではないが、ゼンがいなくて、もう会えないのではないかと、不安でいっぱいだった。

きっと迎えに来てくれると思っていたが、怖くてたまらなかった。

(帰ってきてくれた)

布ごしに感じる体温と、力強い心臓の音に、アーシャはホッとする。

大きな手がそんなアーシャの背中をポンポンと叩く。


ゼンはアーシャを抱えたまま、移動を始める。

(太陽がかなり傾いている)

アーシャは随分と低くなった太陽に驚く。

最後に見た太陽はまだまだ高かった。

随分眠ってしまっていたようだ。

長い時間、アーシャに腹の上を提供していたであろうゼンは、見上げると、その視線に気がついて視線を下げ、真っ白な歯を見せて笑ってくれる。

俺の時間を潰しやがってとか、人の腹を寝床にしやがってとか、そんな感情は微塵も見えない。

「……へへへへへ」

温かな笑顔に、アーシャの頬も緩みっぱなしだ。


「アーシャ、て」

勝手知ったる水場に来て、ゼンはアーシャを踏み台の上に下ろそうとする。

手を洗うように言われているのだろう。

(そういえば外で寝ちゃったから手を洗ってないわ)

恥も外聞もなく泣き叫んで、そのまま疲れて眠ってしまった自分を思い出すと顔が熱を持つ。


「アーシャ?」

素直に手を洗おうと思ったのだが、アーシャの手はゼンから離れない。

離れたくないとワガママを言うように、力強くゼンにしがみついている。

「……………??」

アーシャは自分の体に驚きながら、力を込めて手を開く。

誰かに操られているとか、そう言うことではない。

(離れたくない。離れたくない)

しかし手を離した途端に、そんな気持ちが体の底から噴き出してくる。

心臓もゴトゴトと鳴り、泣きたい気分が押し寄せてくる。

アーシャは急いで手を洗って、もう一度ゼンにしがみつく。


「アーシャ?」

アーシャに飛びつかれたゼンは驚いている。

(離れたくない。離れたくない)

そう思ってしまう自分に戸惑いながら、アーシャは両手に力を込める。

ゼンの体温と離れてしまうと急に不安になってしまう。


ゼンは驚いた顔をしていたが、すぐに笑顔になって、抱き上げてくれる。

そして突然おかしな行動をとるアーシャの癖っ毛をかき回す。

「アーシャ、ぐじゅぐじゅ〜〜〜」

そしてしっかりとアーシャを抱きしめてから、水を入れたカップを口元に持ってくる。

アーシャが素直に水を口に含んで、口を濯ぐと、

「ペッ」

と、抱っこしたまま、磁器の上に顔を持っていって、水を吐き出させてくれる。

そしてもう一度、よくできましたとばかりに頭を撫でてくれる。


アーシャはゼンの胸に頬を当てると、心底安心する。

体温、心音、そして彼の神気に触れることで全身の力が抜ける。

(離れるのが怖い……?)

初めての自分の状態にアーシャは戸惑いを隠せない。

今や、世界で一番安心できる場所である、ゼンが住んでいる家。

その室内にいるのに、ゼンと離れた途端不安が込み上げてくる。

不可解な自分の心理が理解できず、アーシャの頭の中は疑問符だらけだ。


ゼンはアーシャが離れたくないと思っている事をわかっているかのように、ずっと抱っこし続けてくれている。

片手で朝食の残りを取り出して、保存用の硝子を剥いで、小さな箱の中に入れる。

「わぁ……!」

丸い部品を回すとジジジと音を立てて、箱の中の赤い光が輝く。

神の国は何でもかんでもすぐに光る。

(これはあそこの丸いのを回すと光る箱なんだ)

そのお手軽さは凄い。

蝋燭も油も必要がない、火とは異なる光は凄く使い勝手が良い。

風呂のように水が沢山の場所でも、消える事なく、煌々と周囲を照らす。

何で食べ物を照らしているのかは、よくわからないが、きっと何か意味があるのだろう。


(すっかり慣れてきたもんね)

アーシャは一人、誇らしい気分になる。

神の国の光は、必ずどこかに連動する物があって、例えば、家の天井は階段近くの板を押し込むと輝く。

入り口、階段、お風呂、水場、ゼンの部屋。

それら全ての光を、アーシャもその気になれば灯す事ができる。

身長的な問題で足台が必須なのだが。


「う〜〜〜ん」

アーシャを抱っこしたままのゼンは食べ物の入った箱を見て、唸る。

箱から冷たい風が流れてきてアーシャの頬を撫でる。

神の国では冷たい場所に食べ物を保存するから、物が腐ってしまったりすることがないようだ。

アーシャたちの国では、食糧が乏しくなる冬に入る前に家畜をシメて、干したり、塩漬けにしたりするが、それでも冬が終わるまで安全に食べられる肉なんてない。

腐った肉にあたって死ぬ人間なんて珍しくないし、絶対に安全な食べ物なんてない。

しかし神の国はこの冷たい箱に肉を保存しているので、腐ったりカビたりすることもなく、シメたてのように鮮やかな色をしている。

(凄いなぁ)

片手でガザガサと箱の中を漁るゼンを見ながら、アーシャは改めて感心してしまう。


埃っぽさのない清潔な住居。

指先一つでつけられる灯り。

安全な食べ物を保存する箱。

気持ちの良い寝床。

美味しいご飯。

ここには何でもある。

ここにいられてアーシャは幸せだ。

(でも、多分、本当に必要なのは違う)

アーシャは自分を抱き上げてくれているゼンに力を込めてしがみつく。


孤児院も綺麗だった。

灯りもあったし、人々もアーシャを苦しめたりせず、優しかった。

でもゼンがいなかった。

(良い子にする。体が大きくなったら、きっともっとできることも増えていく)

ゴブリンだったら大きくなるかどうか微妙なところだったが、今のアーシャには成長するかもしれないという希望がある。

(料理とか洗濯とか掃除とか……他にも、色々とできるようになったら、きっとずっと一緒にいてくれる)

薄汚れた農奴の子供に過ぎないアーシャは、神殿で差別を受ける対象だったが、自身の能力を磨いて自分の居場所を作ってきた。

癒せば、実りを与えれば、清めれば、人々はアーシャを受け入れてくれた。

やってできないことはないし、やらねば存在できなくなる。


しがみつくアーシャの背中はポンポンと叩かれる。

「だいじょーぶ、だいじょーぶ」

ゼンはのんびり語りかけてきて、お日様のような笑顔を見せてくれる。

彼はアーシャが小汚いゴブリンで、食べて排泄する事しかできないうちから、ずっとこうやって笑いかけてくれた。

「…………」

ハフッとアーシャは息を吐いて、ゼンの胸にもたれる。

彼は今までの人とは違う。

何かを与えるから、アーシャを大切にするわけではない。

そう知っているはずなのに、信じきれない自分が歯痒い。

『もしかして』をなくせる要因が少しでも多く欲しいと願ってしまう。


(どうしちゃったんだろう)

図太さが売りのはずなのに、気を抜くと不安になってしまう自分に、アーシャは戸惑う。

ウンウンと考えているうちに、ゼンはパタパタと移動して、椅子に座る。

「アーシャ、あ〜ん」

アーシャも自分の椅子におろされるのだろうと思っていたら、そのままゼンの膝の上にのせられて、朝食べた具入りパンを口元に持ってこられた。

アーシャがびっくりして、ゼンを見上げると彼は凄く楽しそうに笑っている。

「ん?」

「……『アーシャの』」

「そー。アーシャの!」

当たり!とばかりに頷く彼は『アーシャの』が、どんなに彼女の支えになったかなんて、知る由もない。

「アーシャ、あ〜ん!」

嬉しそうに、重ねて勧められて、アーシャは具入りパンに齧り付く。


「んふっ!」

朝ぶりだが、朝より美味しい気がする。

薄茶色のペーストと野菜の水分を吸って、パンがしっとりしているせいだろうか。

幸せを口いっぱいに頬張っているアーシャを、ゼンはニコニコと見守っている。

彼は何も食べずに、アーシャがパンを飲み込んだら、再びパンを目の前に差し出してくれる。

「ん?」

じっと見上げていたら、ゼンは首を傾げる。

「えっと……『ゼンの』?」

ゼンは食べるものが無いのかと聞きたかったのだが、彼には通じなかったようだ。

不思議そうな顔で首を傾げたままだ。

「あ〜ん」

そしてよくわからないけど、アーシャへの給餌を継続する事にしたらしい。

ニカっと笑ってパンを口に近づけられる。


アーシャは再び口いっぱいに幸せを頬張りながら考える。

噛む度に旨味が出てくる不思議なペースト、シャキシャキとした野菜の感触と、それらをしっとりと包み込みながらも外側はサクサクと素晴らしい歯応えを提供してくれるパンは、幸せの詰め合わせだ。

これは一人だけで味わうなんて勿体無い。

アーシャは手を伸ばして、皿の上に残った四分の一切れを手に取る。

そしてそれをゼンの口元に持っていく。

「ん?」

アーシャが食べるのを、嬉しそうに見守っていたゼンはキョトンとする。

「『ゼンの』!」

食べて欲しくてそう伝えると、ゼンの目は大きく見開かれる。

「『ゼンの』!」

もう一度伝えると、何故か、その目がじんわりと潤む。

「へっ、あ、ぜ、ゼンっ」

上手く伝わらなかっただろうかとアーシャが焦ると、カパっと大きな口が開いて、手に持ったパンを齧りとる。


もぐもぐとしながら、ゼンは膝の上のアーシャを力強く抱きしめる。

抱きしめながら、ゴシゴシと頭を猛烈に撫でられる。

「おいしーな!」

そして彼はそう言って目を潤ませながら笑う。

よっぽど美味しかったようだ。

「えへへ!」

アーシャは大きく頷く。

そして目の前に差し出された食べかけのパンの、最後のかけらを口に入れる。

「おいふぃーな!」

完全なるマナー違反だが、アーシャはもぐもぐとしながら、そう言ってしまう。

端っこで具は少ない所なのに、その一口が最高に美味しくて、そう言わざるを得なかった。


ゼンはたったの二口でパンを平らげてしまう。

胃は少し物足りないが、二人で食べられたことで、心は大満足だ。

そう思った所で、部屋に『チーン』という不思議な音が響く。

「お」

何かの合図だったらしく、ゼンはアーシャを抱えて立ち上がる。

そして先程パンを照らしていた小さい箱の下の、大きな箱の扉を開ける。

「あちちっ」

大きな箱の中心には、ちょこんと白い箱が置いてある。

ゼンはそれを持って、再び卓に戻る。


「?」

白い箱からは湯気が漏れている。

火を使った様子もないのに、凄く熱されているようだ。

アーシャが恐々と眺めている前で、箱の蓋が取られる。

「ふぁっ!」

途端に湯気が広がって、アーシャはびっくりしてしまう。

「あれ?劣料蕃岳鎖鎚筑たか?」

ゼンは大きな手を扇子のようにして、箱の中をあおぐ。


流れてきた湯気に、アーシャは思わずクンクンと鼻を鳴らしてしまう。

(お肉の匂い……!!)

物凄く芳しい匂いがしたのだ。

まるで出来立ての肉料理があるような匂いだ。

今、パンを食べたばかりなのに、涎がわいてくる。


白い箱の中には、玉を半分にした形の、パンのような物が三個鎮座している。

『パンのような物』と言ったのは、パンかどうかがよくわからなかったのだ。

真っ白で焦げ目一つないし、テカテカと表面が輝いている。

半球の上側には皺が入っていて、引き絞ったドレスのような形をしている。

ゼンは手であおぎながら、ポンポンと何度もその上を叩いて、熱さを確認している。


アーシャも興味が出て、その白いパンのようなものを指先で突いてみる。

「!」

熱い事は予想ができていたが、その弾力に驚いてしまった。

表面はツルツルしていて、指を押し返す力はパンとは思えないほどだ。

(プルンップルン!!)

癖になりそうな感触だ。

「まって、まって」

目を輝かせて、もう一度つついてみようとするアーシャを慌ててゼンが止める。


彼は更に頑張ってあおぐ。

そして最後に手に持って確認してから頷く。

白パンの下には何故か紙がくっついていて、ゼンはそれを剥がす。

「はい」

そうしてから白いパンらしき物をアーシャに渡してくれる。

「ふわぁぁぁ〜〜〜」

その素晴らしい触り心地に、アーシャは魅了される。

「プワップワ!!」

暖かくて、指が吸い付くようにしっとりしていて、弾力があって、凄く気持ち良い。

アーシャが興奮気味に報告すると、ゼンは嬉しそうに頷いてくれる。


ゼンも箱から一個を手に取って、それに噛み付く。

「んふっ」

そして熱そうにハフハフとしている。

どうやら内部はかなり熱いようだ。

アーシャも気をつけながら、魅惑の弾力に口をつける。

(ハップハプ!)

唇にあたる感触まで素晴らしい。

(お布団かじってるみたい!)

熱さに気をつけて歯を立てると、弾力があるのに、ふわふわで柔らかい。

それは神の国の寝具のようだ。


「んんん!!」

それ程熱くないと、安心して咀嚼そしゃくした時、アーシャは目を見開いた。

(これも具入りパン!!しかも……これは間違いない!!豚だ!!!)

アーシャの大好きなご馳走、豚の味だ。

しっかり味つけされていて美味しい。

「んふぁぁぁぁ〜〜〜!」

ほんのりと甘いフカフカのパンに肉汁が染み込んで、あまりに美味しすぎて、ゼンの足の上なのに、思わずアーシャは弾んでしまった。


「ハフッハフッ!」

中に入っている肉は物凄く熱い。

まるで今まで中から火で炙っていたかのように熱い。

「おいふぃぃ〜〜〜!」

しかしその熱さも含めて美味しすぎて、口が止まらない。

ゼンと一緒にハフハフと口の中に空気を送りながら、アーシャは夢中で肉入りパンを頬張る。

お肉は柔らかい所とプリプリした所が混ざっているようで、時々肉の塊が奥歯にあたる。

「ん!」

しかも見た目は肉しか入っていないようなのに、時々肉ではあり得ない、シャクシャクとした、何とも爽快な歯応えもする。

(このサクサクは何だろ。硬いキノコ?何かの茎?)

初めての食感だが、心地よい。


あっという間に一個丸ごと平らげてアーシャは満足のため息を吐く。

「……………」

もうお腹はかなり満足しているが、もう何口か食べたい。

そんなアーシャの気持ちを察したかのように、半分にされた肉入りパンが、目の前に差し出される。

「へへへ」

先程までの不安な気持ちが嘘のように消えてしまって、アーシャは頬の緩みを止められない。

「おいしーな」

「おいしーな!」

ゼンとアーシャは顔を見合わせて笑う。


(大丈夫、大丈夫。迎えにきてくれたんだもん。これからはきっと一緒にいられる)

弾力がありながら柔らかいパンの甘みと、肉汁の溢れる具を楽しみながら、アーシャはゼンに体を預けた。

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