4.不思議ちゃん、現る(中)
問題が起きても、朝はいつも通りに仕事が押し寄せて来て、忙しい。
特に担当する年齢が低くなればなるほど、保育士の仕事は多くなる。
所定の場所に園児のリュックを入れて、タオルやコップを並べ、お着替えを個人用の棚に入れ、汚れ物用のビニールを用意する。
「あ〜〜〜、こら!」
そんな準備の合間にも子供たちは自由に動き回り、おむつ棚を荒らしたり、ゴミ箱に突撃して行ったりする。
「赤松先生、
「熱は?」
「お熱はないんですけど、いつもとぐずり方が違う感じで」
「ん〜〜〜、どれどれ……確かにちょっと泣き方が激しいかな……?」
「今日、お散歩日なんでちょっと気になってしまって」
「とりあえずは目立って悪い所はないから、気に留めておくくらいで良いよ。私も気をつけて見ておくから」
忙しい合間も麗美は、園児たちの様子を見守る。
普段は抱き上げてあやせばスッと泣き止む子が、グズグズと続ける事に、麗美は不安を感じる。
感覚が繊細過ぎて、些細な変化が気になってしまうタイプなのだ。
「アーシャちゃん、落ち着いたかなぁ。お散歩の準備もあるから、そろそろ、お迎えに行かないと………」
そう言いながら赤松は眉を顰める。
彼女の前をポテポテと歩く一歳さんの背中に、不吉なシミがあったのだ。
「おぉぉぉぉぉ……ブツが背中まで氾濫してきてる……お体洗濯案件だわ……」
近寄って匂いを確認した赤松はガックリと項垂れる。
どうやらオムツの内容物が、背中まで流れてきてしまったようだ。
汚れが広範囲になると、お尻ふきなどでは対応できない。
慌てて温水の出る流しへと赤松は子供を連れて行く。
こうなるとアーシャの対応は麗美がした方が良いだろう。
峰子も子供たちをトイレに連れて行ったりと、散歩前に色々とすべき事がある。
「ちょっと待っていてね」
そう言って、ぐずり続けている赤ちゃんをベビーサークル内に残し、麗美はアーシャを引き取りに向かう。
(うぅぅ、私なんかに言葉も通じない、虐待されてたかもしれない子の対応ができるのかな)
向かいながらも、麗美の心の中は不安でいっぱいである。
下駄箱に差し掛かると、問題の幼児は大人しく峰子に抱っこされている。
「峰子先生〜〜〜」
まだ顔は涙でぐちゃぐちゃだが、落ち着いた様子に安堵しながら、麗美は峰子に駆け寄る。
「アーシャちゃん、落ち着いたみたいですね」
「ええ、何とか」
「お任せしてしまってすみません」
「良いのよ。お兄さんと一緒の所を見て、すごく安定した子だと勘違いして、私が対応を誤ってしまったせいだから」
峰子の腕の中の幼児は、静かにハラハラと涙を流している。
先程の発狂していた様子が嘘のように大人しい。
手の甲で自分の涙や鼻水を拭いながら、声も上げずに小さな子供が泣く様子に、麗美の胸は締め付けられる。
こんなに静かに、打ちひしがれたように泣く子は見た事がない。
「麗美先生、アーシャちゃんをお願いできるかしら?大丈夫?」
この所の麗美の自信喪失に気がついている峰子は確認してくる。
今の貴方に、こんな状態の子を守れるか。
そう、強い眼差しで聞いてくる峰子に、麗美は力強く頷いた。
不安いっぱいだが、今やれるのは麗美だけだ。
すると峰子は微笑んで腕の中の少女を麗美に渡した。
「アーシャちゃん」
声をかけながら、麗美は小さな体を抱きしめる。
手に触れる体の骨っぽさや、軽さに声が出そうになるが、なんとか麗美は笑顔を取り繕う。
「じゃあ私は年中さんたちの用意のお手伝いをしてくるから」
そう言って峰子は、グラウンドでジョウロを振り回している園児目掛けて歩いていく。
恐らくこれから、寒い中水遊びに興じる園児に、恐怖の厳重注意が降るに違いない。
「あ………」
そんな峰子の後ろ姿を、緑の目が追う。
小さな枯れ木のような手が伸ばされかけて、ギュッと握り締められる。
ハラハラと涙を流しながらも、口をへの字にして噛み締めて、腕を胸に抱き締めるようにして、彼女は耐える。
今まで抱きしめてくれていた峰子がいなくなる事への不安。
そしてワガママを言えないとばかりに、その不安を飲み込む姿に、麗美の胸はますます痛む。
こんなに小さいのに、涙を流しているのに、それでも耐えてしまう子なのだ。
(ワガママが言えないようにされちゃったんだなぁ)
そんな子に一体どうやって接したら良いのか。
「え〜っと……行こうか」
悩みに悩んで、麗美の口から出たのは平凡な一言だけだった。
子供が喜ぶ言葉や、どうやったらご機嫌になってくれるかも良くわからない。
(……本当に才能ない……)
自分を見上げる涙に濡れた緑の目に、麗美は無力感に苛まれる。
麗美にできる事と言ったら、彼女の涙をハンドタオルで拭うくらいだ。
不安そうな顔に、麗美は下手くそな笑顔で応える。
「れ・み」
自分を抱っこしている相手が何者かわかっていた方が良いかなと、自身を指差して自己紹介してみたが、すぐに内心で失敗したなと思う。
相手はこんなに小さくて、使う言葉も違う。
突然名乗ってもわかるはずがない。
(あぁぁぁ〜ホントに才能ない!!)
心の中で叫ぶ麗美に、小さな頭がしっかりと縦に揺れた。
そして小さな手が胸を押さえる。
「りぇみ、アーシャ」
「……………!!」
麗美は驚きで、頭を小さくのけ反らせてしまう。
(え!?自己紹介が返ってきた!?………こっちの名前を理解して、ちゃんと名乗り返したの!?本当に!?天才!?)
二歳児なんて『お名前は?』と聞いたらダンゴムシをプレゼントされるとか、そんな支離滅裂なお年頃なのだ。
まだまだ意思疎通自体が難しいので、ちゃんとお名前を答えられた子は、手放しで褒めて良いくらいだ。
(……そういえば、栄養失調のせいで成長していないだけで、何歳かわからないって……いや、でも、相手の名前だけ聞いて、名乗り返すって年中さん……いや、年長さんでもできるかしら?)
麗美は一人頭を悩ませながら、受け持ちの部屋へ急ぐ。
明らかに日本語ではない言語が胸のあたりで呟かれているが、混乱して生返事しか返せない。
麗美は考え込みながら、乳幼児用の部屋に入る。
腕の中の子供は、まだ頼りない表情をしているが、初めての場所に怯えるでもなく、じっと周りを観察している。
(この子は何か違うような気がする)
周りを見るにもキョロキョロと視線を彷徨わせるのではなく、きちんと対象を一つ一つ確認するように見ている。
子供の見方ではない。
「ふふ」
小さな笑い声に、麗美は目を見開いた。
保育室の壁には沢山の飾りつけがされている。
その中に色画用紙で作った、ウサギとクマが焚き火で焼き芋をしている絵があるのだが、それを見て腕の中の子は笑ったのだ。
笑ったお陰で、目に溜まっていた涙が零れ落ちる。
「……………」
乳幼児にとって絵は色と形がはっきりしている事だけが重要で、上手いとか下手とか、絵の内容は全く意味がないのだと思っていたが、沢山の飾りがある中、麗美の絵を見つめて、彼女は笑顔になった。
(ちょっと……いや、かなり嬉しいかも)
麗美はじんわりと胸に広がる熱を感じる。
いざ保育園に勤め始めると、手先が器用な事も、絵が上手な事も大きなポテンシャルにはならなくて、子供たちに振り回される日々。
いつの間にか自分は無価値な頃に戻っていて、向いていなかった、やっぱりダメなんだと、根こそぎ自信がなくなって、自分を肯定できなくなった麗美は拾い上げられた気がした。
「はい!ここがねんねさんたちのクラスだよ〜」
舞い上がった気分のまま、声をかけたら、妙にテンションが高い声が出てしまって、麗美は一人頬を染める。
「わっ!」
落ち着いているので下ろしたら、柔らかい床にびっくりしたらしいアーシャは、四つん這いになって、グイグイと床を押している。
三歳未満の乳幼児たち『ねんね組』の部屋だけは特別にクッション性の高い床材が使われているので、柔らかくて驚いたのだろう。
何がそんなに面白いのかわからないが、アーシャは職人のような顔で床を見つめて、調べている。
すっかり涙が止まった姿を見て、麗美は安心して、ベビーサークルの中で泣いている赤ちゃんのお世話に向かう。
(やっぱり何かいつもと違う)
麗美は抱き上げた赤ん坊をあやしながら、眉を寄せる。
ただ単に御機嫌斜めな日なのかもしれないが、心配は心配だ。
「どこが痛いか、お口で言えたら良いんだけどね〜」
そう言いながら、レミはぐずり続ける赤ちゃんの背中を撫でる。
「りぇみ、りぇみ!」
何とか機嫌を回復させようとしていたら、可愛いらしい声が呼びかけてくる。
(んんん!!)
ポワポワの黒いヒヨコが、ブンブンと両手を自分に向かって振る姿は中々破壊力がある。
しっかりと名前を覚えてくれているのも、すごく嬉しい。
「ごめんね、アーシャちゃん。今、赤ちゃん泣いてるから」
しかし職務を放り投げてはいけない。
「?」
しかし両手を振り回していたのは、抱っこして欲しいとか、構ってほしいという合図ではなかったようだ。
アーシャは物凄い勢いで、もう一人の赤ちゃんのお尻を指差し始めた。
麗美が何だろうと見ていると、次は赤ちゃんのお尻の後ろで手を開閉させ、何かが出てきたと具体的にわかるジェスチャーを始めた。
「あ!」
そうなると彼女が何を伝えたいのかというのがわかって、麗美は棚にオムツを取りに向かう。
(やっぱりちょっと賢すぎない!?)
一発で人の名前を覚える。
自分の言葉が相手に通じないことを理解している。
最初から身振りで事情を伝えようとしている。
他の子の排泄に気がついて、それに対処できる人に伝える事ができる。
そんな行動に疑問を感じてしまう。
「は〜い!オムツだよ〜〜〜」
しかし今は異臭を放つオムツの対処だ。
不機嫌で泣いている子は危なくない場所に下ろし、麗美は手早くオムツの交換を始める。
抱っこしても泣いていた赤ちゃんは、下ろされて益々激しく泣く。
「はいはーい」
「ちょっとだけ待ってね〜」
合間にあやしながら作業するが、オムツを替える最中もスクワットを止めない赤ちゃんのお陰で、中々スムーズに進まない。
「んしょ」
すると可愛らしい声と一緒に、小さな手が泣き叫ぶ赤ちゃんに伸ばされる。
一瞬、赤ちゃんにイタズラをされるのではないかと、ギョッとしたが、小さな手は優しく赤ちゃんのお腹を撫でる。
木製のベビーサークルに頬をめり込ませながら、丁寧に丁寧にアーシャは赤ちゃんを撫でる。
「………………」
イタズラをする気が全くない上に、泣いてる子の面倒を見ようとしてくれている。
麗美はホッとすると同時に、赤ちゃんを撫でる腕が、赤ちゃんのそれよりずっと痩せ細っていることに気がつく。
どれだけのネグレクトを受けていたのかと、心が痛む。
それと同時に、手をかけられて育てられていないはずなのに、こんなに他の子を気遣える子供がいるのだと、感動にも似た感情が込み上げる。
「ふぇ〜〜〜みぃんにぃ〜〜〜みゅえい〜えぃ〜にゃ〜〜〜〜」
安心して作業していたら、何とも不思議な歌が聞こえてきた。
言語も違うし、音階も独特だが、それが子守唄であることは何となくわかる。
子供の少し調子が外れていたり、勢いが良すぎたりする歌声ではない。
透き通った優しい響きで、思わず聞き惚れてしまう綺麗な歌声だ。
(……なんか癒される……)
それはまるでヒーリングミュージックのようで、激しいスクワットでオムツ替えを妨害していた赤ちゃんも、聞き惚れるように動きを止める。
お陰でスムーズに汚物を処理できるようになった。
「……凄い……」
手を洗って帰ってきた麗美は目を見開いた。
泣き続けていた赤ちゃんが、すっかりご機嫌になっている。
手足をパタパタと動かして楽しそうだ。
そんな赤ちゃんを、床に伏せながらアーシャは愛おしそうに撫でている。
(野生の保育士……!!)
大きい子が率先して小さい子の面倒を見ることはあるが、中々上手くいくことはない。
生まれて片手分も年を経ていない子供同士だから、上手くいくことの方が稀なのだ。
麗美が感動して見ていると、赤ちゃんは嬉しそうにコロコロと柵に向かって転がる。
「んぶ」
そして次の瞬間、フワフワの黒髪を鷲掴みにした。
自分の面倒を見てくれた不思議な生き物に興味が出て、口に入れて確認したくなったようだ。
赤ちゃんにとって、興味のあるものを口に入れて確認するのは、当たり前の動作なのだが、引っ張られた方はそうではない。
「み、みひゃ、みひゃちぃっ、みひゃちぃめっ!」
突然の暴挙に悲鳴をあげている。
「みひゃちぃめ、みひゃちぃめぅにぃ!」
容赦のない力に引っ張られ、ベビーサークルに顔をめり込ませながらも、小さな手は赤ちゃんを払ったりはしなかった。
引っ張られる髪を守るように、必死に頭を押さえている。
「こらっ!めっ!」
慌てて麗美は赤ちゃんの手の甲を撫でる。
そして力が緩んだら黒い髪の毛を手から引き抜く。
「アーシャちゃん、大丈夫!?」
声をかけると、目に沢山の涙を溜めながらも、アーシャは力強く頷いた。
そして怯えるようにベビーサークルから離れる。
小さくなって、せっせと自分の頭を撫でているのが何とも可哀想だ。
可哀想なのだが……
(何で可愛いと思っちゃうのぉぉぉぉ!?)
ちんまりと小さくなって、涙を堪えつつ、真っ黒な頭を混ぜっ返している姿は、可哀想なのに、微笑みを誘うほど可愛い。
子供に振り回されっぱなしで、自信をへし折られ、子供を可愛いと思えなくなってしまった自分はもう保育士失格だ。
そう思っていたのに、再び子供が可愛いと感じることができた。
しかし素直にそれを喜ぶことができない状況に、麗美は内心頭を抱える。
「アーシャちゃん、ヨシヨシ」
「めんねぃむぃ〜」
頭を撫でて慰めると、涙目で『酷い目に遭った』とでも言いたげに、疲れ顔で呟くのがまた可愛い。
(仕事に疲れたおじさんみたいな顔しているのに可愛い……何でなの、可愛い……!?)
突然体内に発生したバグに、麗美は内心で叫びまくってしまうのだった。
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