4.不思議ちゃん、現る(前)
人生を大きく変える一言というものは存在する。
『貴方、凄い才能だわ。私に力を貸してくれないかしら?』
憧れの女性が放った、そんな言葉だった。
涼やかな切長の目が、熱っぽく自分のノートを見つめた時、顔から火が出るような恥ずかしさと同時に、自分の世界が大きく変わる予感がした。
麗しく美しいと名付けられたのに、顔はのっぺりとした一重の典型的日本顔。
身長は小学生のうちに止まったのに、胸の成長は止まらず、洋服を押し上げてしまうので、外から見た体型はチビぽちゃ。
性格は内気で弱気。
小さくて、気弱で、発育が良いと、絡んでくるのが『イジり』が大好きな男子たちだ。
『名前負け』『ブサ美』『振り向きブス』『おっぱいお化け』
世の男性が皆、あの子たちのような存在だとは思わないが、いかんせん、力の弱い個体を攻撃することで優越感を満たしたがる層は一定数いて、麗美は高校くらいにはすっかり男性が苦手になってしまった。
そんな高校で出会ったのが二年先輩の
彼女は取り立てて派手な事をするわけではないのに、まるで上から見えないワイヤーで吊られているかのようにピンと背筋を伸ばして歩く姿は美しく、自信に満ち溢れていて、皆からの注目を受けていた。
キリリと結い上げられた、黒髪は広告モデルのように綺麗で、白磁のような肌に良く映えていた。
スレンダーな高身長で、全く群れない
自分と真逆な、校内の有名人を麗美は眩しい気持ちで見ていた。
地味で大人しいが、体の発育は良い。
そんな麗美にとって混み合う通学電車は地獄だった。
抵抗できない獲物には、容赦なく狼たちが近づいてきた。
露骨な痴漢、体を押し付けてくる者、何故かぶつかってくる者。
「失敬。気持ちの良い朝にハァハァと耳障りなの。貴方、ちょっと、社会的に死んでくれるかしら?」
抵抗のできない麗美から男を引き剥がした峰子は、女神のように美しかった。
彼女との接近で麗美の生活は大きく変わった。
「貴方、ちょっと外見をいじったほうが良いかも」
そう言って彼女は犯人からの逆恨みで狙われないようにするという名目で、麗美の外見を大きく変えた。
変わり者なのに交友関係は広い彼女の友人の手により、垢抜けた外見になった麗美は、一気に息がし易くなった。
変な人が近寄って来なくなったのだ。
「外見は最強の守りになるのよ。弱者ほど強者の皮を被るの。私も含めてね」
そう笑った彼女が麗美の一番の憧れになったのは言うまでもない。
そんな峰子は絵本の読み聞かせなど、意外なボランティアに精を出していた。
しかし強者の皮を被るまでもない剛の者である峰子は、最強の外見と鋼の内面が災いして、子供たちとの距離が詰められない事に悩んでいた。
そんな時に麗美のスケッチを見て、彼女は人生を変える一言を発したのだ。
『貴方、凄い才能だわ。私に力を貸してくれないかしら?』
何に対しても自信のなかった麗美に、その言葉は力を与えた。
一緒に紙芝居をして、子供たちに喜ばれる。
絵が得意で手先の器用な麗美はボランティアで活躍できたし、憧れの峰子にも沢山感謝してもらえた。
だから峰子が保育士を目指すと聞いたとき、自分も迷わず、保育士を目指した。
ボランティアでは上手くやれていたし、きっと自分は素晴らしい保育士になれると思っていた。
しかし現実はそれほど甘くなかった。
ボランティアで『外から来た人』状態で接するのと、日常的に保育者として接するのは天と地の差があった。
子供たちには遠慮がなくなり、親に近い対応を求められる。
『身内』になった洗礼は、ほぼ男性恐怖症だった麗美の心を折る出来事だった。
両手を使っているときに、服を捲り上げられる。
胸を触られる。
服の中を覗き込まれる。
最初は大人のような邪な心からではなく、安らぎや、単純な興味からのちょっかいだと思って、『こういうことはしちゃダメだよ』と諭していたのだが、一向に被害はやまない。
我慢に我慢を重ねて、根気強く、やってはいけない事だ、先生も触られたら嫌な気分になるのだと伝えたのだが、一部の子供は一向に態度が改まらなかった。
そのうち他の先生がいない時に触って逃げていったりするようになって、嫌悪感が抑えられなくなっていった。
そして、こんな事をされるのは麗美だけで、一緒に入った同期には被害は全くないという事が判明して、遂に心が折れてしまった。
保育対象を『気持ち悪い』と思ってしまったら、もう保育士失格だ。
「え〜〜〜大丈夫大丈夫。アタシもこのクソガキ一回くすぐり地獄でお漏らし体験させてやろうかと思う事なんてざらにあるし」
「喜多嶋先生、保育士も人なんです。そう思ってしまう事くらいありますよ。笑顔でゲロを片付けながらも、感染症の蔓延に心が震えるなんて事も良くありますよ。大丈夫。心で思っても表面が取り繕えていればいいんです」
「そうそう!『先生も出産早い方がいいですよ〜』なんて言ってくる天然マウンターにも『全方向にマウンティング取らないと生きていけない奴は、猿山でマウントポジション争奪戦でもやってろや!』って思いながらも、笑って対応できれば『良い先生』なんだから」
濃ゆいベテラン勢は麗美にそう言ってくれたが、保育者に相応しくない自分が勤め続ける事に大きな抵抗があった。
「園長、しばらく彼女をねんね組の補助にしてみては?まだ保育士歴は一年未満ですが、麗美先生になら任せて問題ないと思います」
そう提案してくれたのは、先にこの保育園に就職していた、峰子だった。
彼女はまだ三年目のはずなのだが、既に園長の右腕・園の
「貴方が嫌だと思うのは、園児を『子供』ではなく一人の『人』として扱っているから、仕方ないことだと思うの。保育士だから我慢できて当然なんて話はないわ。これは職場をあげて『人』と『人』の問題を解決するために動くべき事で、一人で背負いこむ話ではないわ」
そう言って峰子は担当を変えるために尽力してくれた。
「麗美先生は子供たちの様子をとても良く観察しているわ。ベテランでも気がつかない子供の体調不良を見つけたり、怪我に気が付いたり。それはとても素晴らしい資質だと思うわ」
憧れの人にそこまで言ってもらえたのは嬉しいが、買いかぶりだと麗美は思っている。
多少手が器用で、絵が得意。
それで峰子の役に立てることが嬉しくて、彼女と同じ熱意を自分も持っていると勘違いしてしまっただけなのだ。
そもそも子供が好きというわけでもなかったのだ。
今は胸に執着を見せる『男性』という性にすら、気持ち悪いと感じてしまう。
どう考えても不適合だ。
そんな鬱々とした気持ちを抱えている中、更なる問題がやってくることになった。
言葉が通じない、虐待を受けていた疑いのある、無戸籍で、親ではない人が保護しているという特殊な家庭環境の子をねんね組で預かるという話が来たのだ。
極度の栄養失調状態で、戸籍がなく、言葉も通じないので、正確な年齢が分からない。
なのでまずは一番下のクラスに入れて、様子を見て上げていこうという話になったらしい。
(どうしよう……私にはとんでもなく荷が重いわ……)
麗美は突然決まった話に戸惑った。
「大丈夫大丈夫。何とかなるって。人種言語家庭環境みんな違っても、みんな子供!」
ねんね組の主担当である超ベテランの赤松は気楽な様子だったが、麗美は気が気ではない。
(しかも保護者役をしているのが十九歳の男の子だって……)
胸に視線がいくだけで、若くないお父さんですら、嫌悪感が込み上げるのに、同年代が園に来るかと思うと気が重い。
年齢が近い男性には特に強い苦手意識を感じる。
補助役なので、生活の様子を語るなどで接触を避けられないと思うと、気が重い。
暗い気持ちで朝のお迎えを始め、それでも何とか麗美は笑顔で子供たちを迎えに行く。
保育園の朝は戦争だ。
親はこれから仕事に向かうので時間をかけられないのだが、離れたがらなかったり、帰るとぐずったり、今日はこのオモチャを持っていくと抵抗したりと、子供たちは今日も自由だ。
ご機嫌の崩れが激しい子は、リアル・ハーメルンの笛吹きを自称する赤松が出て行ったり、かなりの力技を要する子供には、鋼鉄の対応をする峰子が出陣する。
「ゼーーーーーーッッン!!ユズーーーーーーーッッ!!」
そんな戦場に悲痛な悲鳴が響いた。
日本人の黒とは異なる、深い緑を溶かしたような黒髪を激しく揺らしながら、白い肌をさらに蒼白にする、痩せ細った幼児。
体の大きさは二歳児程度で、手足はびっくりするほど細い。
(『アーシャちゃん』だ)
一目で問題の子だと気がついた。
「アーシャちゃん!リュックのお片付けに行こっか!」
明るい声で赤松が語りかけて抱き上げようとするが、その小さな体の何処にそんな力があったのか。
『アーシャちゃん』は、おこりでも起こしたかのようにブルブルと震えながら、激しい抵抗を見せる。
「ゼン!ゼーーーーーンッ!!ズェェーーーーーーーーーン!!」
自身を傷つけかねないほど、小さな体で彼女は暴れる。
「赤松先生、交代します」
そのあまりの激しさに力技担当の峰子が駆けつけた。
「面目ない〜〜〜」
一切の説得を受け入れない拒絶っぷりに、世界最強の誘拐犯などとうそぶいていた赤松もお手上げだったようだ。
まさに発狂としか言えない状態に、周りの子供たちにも動揺が走る。
激しい子供は多いが、ここまで常軌を逸した様子を見せる子は珍しい。
何も見えてないように無感情に見開かれた緑の目と、子供のものとは思えない悲痛すぎる悲鳴が、アンバランスで心を抉る。
「虐待を受けているかもって聞いていたけど……これはよっぽど心に傷が残ってるのね」
赤松は自分の手を見ながら、悲しそうに呟いた。
「細くって……びっくりするほど硬い手だったわ……」
若く見えるが、実は古株の赤松は、口では何だかんだと文句を言ったりするが、とても愛情深い人だ。
麗美のように上手く対応できるかという不安より、なんとかしてあげたいと思う気持ちが強いのだろう。
「精一杯ケアして元気にして上げなくちゃね!」
すぐに暗い顔を引っ込めて、彼女は明るく笑った。
麗美も不安な気持ちを押し殺して、それに頷いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます