3.聖女、捨てられる?(後)
糸紡ぎにかける前の羊毛のように、フワフワと膨らんでいる真っ黒な髪。
ふっくらとはしていないが、頬には薄紅色が差す、きめの細かい白い肌。
光を受けて輝く、神の国では珍しい緑の瞳。
「……………」
目の前には骨張って腹の出たゴブリン……ではなく、痩せっぽちな子供がいた。
アーシャは呆然とその子供を見つめていた。
それはレミが排泄に連れて行ってくれた後の出来事だった。
特にもよおしたわけではなかったのだが、レミは親切に手を引いて排泄場所まで連れて行ってくれたので、素直に用を足した。
そして排泄後は必ず手を洗う神の国の慣例に従い、手を洗おうとした時のことだ。
(凄い、全ての物が小さいんだわ)
アーシャは踏み台がなくても手が届く手洗い場に感動しながら近づき、その前面に貼られた鏡に気がついたのだ。
神の国の鏡はあまりに鮮明に像を映すので、初めは小窓の向こうに、痩せ細った子供がいるのかと思った。
(あら、珍しい!神の国は黒い瞳の人ばかりだったけど、やっぱり色んな瞳の色があるのね)
相手が興味深そうにじっと見つめてくるので、アーシャは嬉しくなって笑った。
すると相手も何とも人懐っこい笑みを浮かべる。
同じ瞳の色の友達が出来たら、何となく嬉しい。
そう思って、手を振ろうとして……相手があまりに自分と同じタイミングで動くことに気がついた。
「…………」
そして振り返って確認して、小窓には自分の背後の風景がそのまま写し取られているのだと、小窓ではなく鏡なのだと理解できた。
ペシャリと自分の頭を叩けば、鏡の中の子供も頭を叩く。
頬を引っ張れば、やはり鏡の中の子供も頬を引っ張る。
アーシャは驚きのあまり声を出せなかった。
あの日、浴室で見たゴブリンじゃない。
ベッタリと皮膚に張り付いた頭髪、真っ黒な肌、骨張って飛び出した頬と鼻、膨れた腹に、枯れ木のような手足の魔物が、確かに鏡に映っていたはずなのに、今、目の前に映っているのは、多少痩せ過ぎているだけの人間の子供だ。
(え?あれ?ゴブリンは?……待って。これは『私』だよね?……うん、凄く小さいけど、『私』だ。と……言う事は……えっと、どういう事?)
死んで神の国に召され、新しいゴブリン生を得た。
そう思い込んでいたアーシャは頭を抱える。
レミが呆然とするアーシャの手をとって、洗い方を説明してくれているのだが、アーシャはろくに反応ができない。
(ゴブリンがいつの間にか、人間の子供になってて、それが『私』の容姿にそっくりで……?)
ゴブリンになったと思った時も驚いたが、自分がそのまま縮んで、子供の姿になっていることにも驚いてしまう。
時間の流れとは一定であるはずで、進んでも戻ることはない。
年はとっても、若返るなんて、常識ではまずあり得ない。
『まぁ、奥様最近若返ったんじゃないの!?』とか言うレベルではない。
骨格まで縮んで幼児に戻ってしまっている。
『小さな頃の姿しか取り寄せられなかったけど、次はもう少し君を大きくできると思う』
グルグルと混乱して色々なことが頭を横切る中、アーシャはそんな言葉を思い出した。
(あれは……そうだ。夢。夢の中で出会った人が言っていた)
恐るべき『漆黒』と対峙した後、見た夢だ。
現実味のある夢だったが、絶対に夢ではないという確信がなかったので、話半分に捉えていた。
しかしこの姿を見た今、急激にあれは単なる夢ではなく、人在らざるものとの対話だったのではないかとの、疑いが浮かび上がる。
(あの人は何って言ってたっけ……?何か……受肉させて……取り寄せる……とかだったような……と、いう事は、私の体の大半は元の国にあるという事?死んで生まれ変わったんじゃなくて、少しづつこちらに移動中ということ?)
混乱しながらも、アーシャはあの日の夢を思い出そうとする。
しかし夢の内容は既に所々朧になっている。
(まずい……アレが本当のことなら……色々と重要なことを言われた気がする)
ゼンは神の血を引いているとか、二人の王の話とか、そしてアーシャが果たすべき使命も聞いた。
かなり忘れてしまっているので、今覚えている事だけでも書き出して、保存しておかなくてはいけない。
そんな事を夢中になって考えているアーシャは、レミに手を引かれるままに歩く。
夢の内容を少しでも思い出そうとしている間に、真新しい帽子を被せられ、靴をはかされる。
そして手際良く鉄柵に囲われた荷車に入れられた。
「…………出荷?」
他人事のように呟いて、自分の置かれた状況を認識したアーシャは青くなった。
アーシャがぼんやりしている間に、流れるように入れられたのは、可愛らしい薄紅色を塗られているが、等間隔に並んだ鉄の柵がついた荷車だった。
慌てて柵を押したり引いたりしても、びくともしない。
色と大きさが違うが、これにそっくりな、天井がない牢屋に車輪がついたような形の荷車に、競りにかけられる子豚や鶏が乗っているのを見た事がある。
(じ、じ、人身売買!?市場に行くの!?売られちゃう!?)
鉄の柵の中には次々とアーシャくらいの子供が乗せられていく。
アーシャは慌てて柵を登って、脱出を試みる。
柵は低く、胸のちょっと上くらいまでしかないので、両腕で柵の縁にしがみついて、アーシャは足をジタバタと動かす。
「こーら!」
ツルツルと滑る柵を何回も蹴りながら登り、お尻が浮いてきて脱出なるかという直前で、アーシャは両脇を掴まれて、抱え上げられる。
そして柵の中に戻されてしまう。
朝に見た髪の短い女性だ。
「櫓越癖から、だーめ!」
無慈悲にアーシャを柵の中に戻した女性は、アーシャの頬をつついた後に笑った。
とてもチャーミングな笑顔だが、今のアーシャには恐怖だった。
「堕悔政錐道邑提謂〜〜〜!」
レミがもう一人の子供を柵の中に入れて、五人の子供が乗った所で、女性は荷車を押し始める。
荷車は明らかに建物の外に向かって動き出す。
「ゼ……ゼン……」
アーシャは慌てて、もう一度柵を登り始める。
ここ以外に行ってしまったら、アーシャの場所がゼンにわからなくなってしまう。
ゼンが迎えに来られなくなってしまう。
二度と会えなくなってしまう。
「だーめ!」
しかし今度はお尻が浮き出す前に柵から引き離されそうになる。
「う〜〜〜!!」
しかし渾身の力でアーシャは柵にしがみつく。
「は〜な〜し〜て〜!!ヤダヤダ!!ゼンのとこおにかえりゅ〜〜〜!!」
柵から剥がそうとする女性対、柵にしがみつきながら脱出を試みるアーシャ。
アーシャは必死に叫びながら抵抗するが、小さな体では、やはりままならない。
「やだ!い〜〜〜や〜〜〜〜!!ゼン!ゼンッ!!ゼンンンッ!!」
彼が来てくれる笛はアーシャの首元にない。
懸命に名前を呼んでも、応えてくれる低い声は聞こえない。
突然やってきた危機に、再びアーシャの目は潤む。
小さな体では勝てない、大人の力に、それでも争う。
ここから離れてしまってはいけない。
アーシャは夢の人にもゼンを守る約束をした。
そして何より自分自身が彼の元に戻りたい。
「あーさ!!」
そんなアーシャの手を力強く掴む者が現れた。
アーシャは涙で曇る視界を開けるために、何回も瞬きする。
「……こーた……」
それは以前この孤児院に来た際に出会った少年だった。
コータは爪先立ちでアーシャに手を伸ばしてくれている。
小さいけど、力強い手だ。
「お允瀕覆代盃汝ぜ!あーさ!吟辞陰播轡青からな!」
何やら熱く語りかけてくれるコータの背中に、以前来た時に木の下でぐったりしていた老女が、寄りかかるようにして立っている。
今にもこと切れそうな様子で、老女は弱々しく微笑む。
『そんなにお泣きでないよ、小さき器。みんなちゃんとここに帰ってくる。ただの散歩だ』
そして驚いたことに、彼女はアーシャにわかる言葉で、そう言ってくれたのだ。
アーシャは目を見開く。
「しゃんぽ?」
そして聞き直すと、老女はしっかりと頷いた。
「あーさ!お遡慎い倭激倦棲膜蘭乏やるよ!せんせー!いい展巣!?」
爪先立ちでプルプルとアーシャの手を掴んだままで、コータは荷車を押す女性に何事か言う。
女性は少し困った顔で笑った後に、コータを抱き上げる。
「あ」
コータという支えが無くなった老女は地面に倒れてしまう。
思わず手を伸ばそうとしたアーシャに、心配ないとばかりに彼女は手を振る。
「あーさ!お蝦揺にー鹸災固将堕濯箪磨住からな!」
荷台の中に着地したコータは、真っ白な歯を奥歯まで見せて笑う。
そして、ギュッと握られた手は、少々力が強すぎるぐらいだったが、温かだった。
アーシャは大粒の涙を落とす。
そんなアーシャの顔をコータはグイグイと袖で拭いてくれる。
「…………」
心細くてたまらなかった。
ゼンが迎えに来てくれると信じているつもりだが、それでも不安でたまらなかった。
アーシャは自分の手を包んでいる力強い手を握り返す。
こんなに小さい子に頼ってしまって恥ずかしいという気持ちがないわけではないが、今はこの暖かい手が頼りの綱のような気持ちがした。
「あーさ、にー煉宣鯖娼いろいろ基朽耐鍋逐晦からな!」
繋いでいない方の手でコータは胸を叩く。
頼ってくれとでも言っているようだ。
アーシャはコータに笑ってから、老女をふりかえる。
「…………?」
そこに辛そうに臥していたはずの姿は既に無くなっていた。
動けそうになさそうだったのに、大丈夫だろうかと周りを見回すが、最初からいなかったかのようにどこにもいない。
(お婆様……意外と俊敏なのかしら……)
かなり弱っていたように見えたのにと、アーシャは不思議に思う。
「はーい、遷禍崎まーす」
女性が荷車を動かす。
また少し出荷されてしまわないか不安になったが、それに応えるように、コータがアーシャの手を握る。
そして色々な物を指差して教えてくれる。
「じ・て・ん・しゃ!」
「じてんしゃ」
「あれ、し・ん・ごー!」
「しんごー」
「ま・ん・しょ・ん」
「まんそん」
アーシャは言葉を教えてくれるコータに深く感謝しながら、復唱していった。
荷車の後ろには、先ほど木製の檻から逃れんと頑張っていた赤ちゃんたちを乗せた乳母車が続く。
(……神の国の乳母車って……凄い大きさ)
大きな乳母車は、内部を四つのスペースに仕切って、四人が同時に乗れる構造だ。
そんなに巨大な乳母車をアーシャは見たことが無い。
乳母車を押すレミは、対比で余計に小さく見える。
外見にそぐわず、力持ちらしいレミは軽々と、巨大な乳母車を操作している。
その乳母車の後ろに、少し大きな子供たちが、長いロープをしっかりと握って歩いている。
不思議な光景だ。
平坦で開けた綺麗な道なのに、そのロープから手を離すと遭難するとでも言うように、子供たちはしっかりロープを掴み、ロープから離れた子は、すぐに大人が飛んで行って、ロープを再び握らせる。
(迷子……になんて、こんな開けた場所でならないわよねぇ?)
そんな疑問はあるが、ロープに連なって歩く子供たちの様子は、まるで水鳥の雛の行進で、見ていて楽しい。
最初は『くるま』を怖いと感じていたのだが、小さな子供たちが胸を張って歩いている事もあり、そのうち慣れてきた。
隣のコウタも色々と熱心に教えてくれ、次第にアーシャの肩の力は抜ける。
肩の力が抜けたら、神の国の街並みが面白くなってきた。
全てが見たことがない物だらけで、輝いて見える。
途中屋根付きの立派な通りにも入った。
(市場……?)
果物を並べた店、野菜を並べた店と、ポツンポツンと店があって、アーシャの知っている市場に似ているのだが、いかんせん活気がない。
人が少なくて、歩いているのは年を召した老人が多い。
神の国らしく、すれ違う人々はニコニコと微笑みかけてくれて、時々手を振ってくれる人までいた。
嬉しそうに手を振りかえすコウタや他の子供に混ざって、アーシャも手を振り返してみたのだが、何だかとても楽しかった。
目がなくなるほど顔を皺くちゃにした笑顔で応えてもらえて、それを隣のコウタと喜び合って、戦勝パレードで何万もの人々に手を振りかえした時より、ずっと楽しかった。
(市場の中に……神殿?)
神の街は本当に独特で、屋根付きの通りの両側に並ぶ建物が切れて、突然赤い柵が見えたと思ったら、なんと市場の中に唐突に森が現れ、更にその中に神気が湧き上がる場所があるのだ。
信じられるだろうか。
市場の真っ只中に、前触れもなく、当たり前のような顔をして神殿が唐突に建っているのだ。
(あ、『あそこ』に似てる)
神殿と思われる建物を見て、アーシャはゼンと出会った場所を思い出す。
あそこのように神気が渦巻くような事はないが、建物の雰囲気が似ている。
(え!?神具を売ってる!?)
また信じられない事に、履き物を沢山並べた店の隣に、当たり前のような顔で神具を並べている店があるのだ。
貴重な神具を守る衛兵の姿すらなく、その扉も開きっぱなしで、いつ盗人が入ってもおかしくない状態に、アーシャは驚く。
(この混沌を誰かに解説してほしい!!)
不思議な神の国なんだから、これが当たり前なのか。
それとも、この屋根付きの通りに何か深い意味があるのか。
アーシャには皆目見当つかない。
「コータ」
神具を指差して、聞いてみたが、
「う〜ん……おはかやさん?」
コータも良くわからない様子だった。
街中に突然神聖な物があるかと思ったら、それだけではない。
何でもないような道に時々瘴気が立ち込めていたりもするのだ。
(街中に唐突に瘴気が湧くなんてあるのかしら……)
一見他の建物と全然変わらないのに、瘴気に覆われている建物があったりして、中々に危険だ。
瘴気は見つけ次第祓ったほうが良いのだが、土地の力が弱すぎて神具などの補助なしでは立ち向かえないし、目立つことをして良いのかもわからないので、アーシャは何もしなかったが、数の多さに、不安になってしまう。
不思議なことや、不安な事はあったが、街を見て回るのは楽しかった。
半分以上わからないが、コータが一生懸命に、身振り手振りで解説してくれるのも面白かった。
それでも本当に元の孤児院に帰れるのか、不安がしこりのように胸に残っていたので、孤児院に戻ってこれた時は、座り込んでしまうほど安堵した。
大きな子供たちは孤児院に帰ってきたら、慣れた様子で手を洗いにいく。
コータもアーシャの頭をガシガシとかき回した後に、意気揚々と手洗い場に走っていく。
座り込んだアーシャも手を洗おうと、ノロノロと立ち上がる。
沢山泣いたし、色々見て回ったので、少しくたびれてしまった。
(……ゼンの所で眠りたいな……)
眠気を感じたら、いよいよゼンが恋しくなってしまう。
疲れているが、一人ぼっちで目は瞑りたくない。
すごく怖い夢を見そうだし、寝ている間に怖いことが起こってしまいそうだ。
「アーシャ!」
(遂に幻聴が……)
アーシャはトボトボと歩く。
「アーシャ?」
「……………」
二度目の呼びかけで、アーシャは目を見開いた。
(幻聴じゃない!?)
そして高速で声の方向を振り向く。
「………………………っ!!」
そこに立っていたのは、お日様を背負って、屈託なく笑う、待ち侘びていた人だ。
アーシャは目を見開いたまま、その姿を見つめる。
「アーシャ?」
大きな体を屈めて、両手を広げ、アーシャが帰る場所を示す彼は首を傾げる。
すっかり緩くなった涙腺が、その姿をあっという間に滲ませてしまう。
「…………ゼンッッッ!!」
アーシャは土煙をあげて走り、広げられた腕の中に飛び込んだ。
いや、飛びついた。
両手両足でしがみついて、張り付く。
「ゼン!ゼン!ゼン〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!」
もう名前を呼ぶ以外何も言えない。
涙が噴き出して、あっという間に彼の胸元を濡らす。
大きな手がアーシャの背中を摩り、丸太のような腕がアーシャの体を支える。
それが嬉しくて、アーシャはワンワンと声をあげて泣く。
もう引き離されないようにしっかりとしがみついて、声を張り上げて泣く。
悲しいわけではないのに、涙は次々と溢れるし、狂ったように声を張り上げてしまう。
嗚咽が止まらない。
それをうるさがるわけでもなく、ゼンはしっかりとアーシャを抱きしめてくれる。
(寂しかったよ)
(不安だったよ)
(怖かったよ)
(迎えに来てくれるって思っていたよ)
(ちゃんと待っていたよ)
色々伝えたいのに、アーシャの口から出てくるのは、意味をなさない泣き声だけだった。
そんなアーシャの首にゼンは笛を戻す。
チャリンと首元で小さく音を上げた笛をアーシャは握りしめる。
これで、いつでもゼンはアーシャのそばに来てくれる。
圧倒的な安心感を噛み締めながら、アーシャは涙を流し続けた。
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