3.聖女、捨てられる?(中)
いくら入口を見つめていても待ち人はやってこない。
それを受け入れられずに泣き続けるアーシャを、ミネコセンセイはずっと抱き締めてくれていた。
抱き締めたままでも、彼女はたくさんの子供たちを受け入れ、挨拶をして、子供たちを部屋に導いていく。
彼女は幼子たちの世話という仕事があるのだ。
(……これ以上は迷惑になっちゃうわ……)
いくら
涙が止まる気配はなかったが、誰かに縋り付いていなくては耐えられないという状態は脱した。
「みにぇこしぇんしぇい」
アーシャはトントンとミネコセンセイの胸を叩いて、下ろしてほしい事を身振りで伝える。
(ここで座って待たせてもらおう)
邪魔にならない場所で、気が済むまで静かにゼンたちを待たせてもらおう。
そう思っての行動だったのだが、あまり通じなかったようだ。
ミネコセンセイはジッとアーシャの顔を見た後に、ホッと顔を緩ませて、労わるようにポンポンとアーシャの背中を叩いてくれるだけで、下ろしてくれる気配がない。
「みねこせんせ〜〜〜」
そこにパタパタと明るい髪色の少女が早足で近づいてくる。
ミネコセンセイとその少女は何やら話し合いを始めたので、アーシャはその間に涙と鼻水を手の甲で拭う。
しかし拭ったはたから、涙がこぼれ落ちて頬を濡らす。
ミネコセンセイが抱き上げてくれているのに、どこかスカスカとして頼りない気分になる。
(ゼンの神気にずっと守られていたんだ)
いつもいつも、ゼンがそばにいる時はアーシャを守るように、超重量級の神気が流れていた。
最初の頃はゼンから溢れ出る力の奔流に驚いていたが、いつの間にかそれに慣れ、包まれるのが当たり前になっていた自分に気がつく。
「アーシャちゃん」
そんな事を考えていたら、アーシャの体はふわりと浮いて、少女の腕に移っていた。
ミネコセンセイと比べると随分小さいが、少女の腕は意外と力強くアーシャを抱き止める。
驚いてアーシャはミネコセンセイと少女を交互に見る。
ミネコセンセイはそんなアーシャの頭を優しく撫でてから、踵を返して、外に出て行ってしまった。
「あ………」
顔見知りだったミネコセンセイまでいなくなって、アーシャは心細くなり、引き止めたくなったが、手を伸ばす前に自制して、拳を握る。
「え〜っと……いこーか」
そんなアーシャに、少女が気まずげに声をかける。
アーシャが見上げると、少女は困惑顔の中に、何とか笑みを浮かべる。
そしてゴソゴソと服を探ったかと思ったら、柔らかい布を出して、涙と鼻水だらけの顔を拭いてくれる。
「れ・み」
そして拭き終わったら、自身の顔を指差しながら彼女はそう言う。
きっと彼女の名前だろう。
アーシャは大きく頷く。
「りぇみ、アーシャ」
そして自分も胸に手を当てて、名乗る。
するとレミは驚いたように目を見開く。
「?」
なぜ驚いたのかがわからないアーシャは首を傾げる。
レミは何でもないと言うように、首を振ってから、建物の中の方へ移動する。
「あ、あの、私、あしょこに、いたくて……」
アーシャは入口を指差して訴えてみるが、レミは「うんうん」と生返事を返すばかりで、止まってはくれない。
そして建物内のある一室に入っていく。
「………………」
アーシャはその部屋の中を見て、目を丸くした。
そこはとても不思議な部屋だった。
高い位置にある窓からは
椅子も卓もびっくりするくらい小さくて、ゼンが座ったらお尻が半分以上はみ出そうだし、卓の下に足が入りそうにない。
壁には色鮮やかな紙がたくさん貼ってある。
(兎の獣人と………犬……?かしら?犬にしては丸いような……?)
とても器用に、獣人たちが楽しそうに遊んでいる風景を、紙で作っているのだ。
流石紙を愛する神の国。
紙の加工技術が素晴らしい。
見ているだけで、獣人たちの楽しい様子がこちらにも伝わってきて、微笑んでしまう。
「はい!ここが慮願襖叫閲麺箕桁養註府戻濡〜」
何事か言って、レミはアーシャを部屋に下ろす。
「わっ!」
何気なく床に足をつけたアーシャは驚いてしまう。
見た目は完全に木張りの床なのに、木ではあり得ない柔らかさで、アーシャの足を受け入れたのだ。
「…………」
アーシャは目を皿のようにして、床を見つめる。
「………あっ!」
しゃがみ込んで、アーシャは床に触れる。
「木じゃない!!」
ツルツルな紙に、木の板の絵が書いてあるだけなのだ。
床を押してみると、紙の下には何か柔らかい物が敷き詰めてあるようで、指がぐぐっと入り込む。
(何でわざわざ柔らかい物の上に紙を貼って、こんなに精巧な絵まで描いているのかしら……?何らかのトラップ……?)
しかし足を置いたら下に落ちるわけでもない、少々驚く程度のトラップに何の意味があるのだろう。
手間ひまかけて精巧な木の板の絵を描く意味が全く分からない。
不思議に思いながら、アーシャが顔を上げると、レミが腰くらいまである木の柵の中に入って行く所だった。
(木の………牢屋?)
その柵は部屋の一部を囲んでいるのだが、その中にいる二人の赤ちゃんが、出してくれと叫ぶ囚人のように、柵に掴まり揺らしている。
一人は真顔で、一人は大泣きだ。
レミは大泣きしている方の赤ちゃんを抱き上げて、あやす。
抱き上げられなかった方の赤ちゃんは、まるで腕の筋肉を鍛えているかのように、黙々と柵を揺すっている。
一定のリズムを守って揺れるとは、中々職人気質な赤ちゃんのようだ。
(でもちょっと寂しそう)
顔も頑固な職人のようだが、目が微かに潤んでいる。
アーシャはそんな職人赤ちゃんに近づく。
ゼンがしてくれるように頭を撫でようと思ったのだが、柵の中に手を入れる事に、アーシャは躊躇する。
(うっ……すごく良い体型だわ)
背丈はアーシャの方が少し高いが、質量的には大負けしている。
柵に入れた手を引っ張られたりしたら、抵抗出来なさそうだ。
(ご……ごめんね、でもそばにいるからね)
アーシャは柵を握る小さな手を撫でた。
「ふぁぁぁ〜」
瞬間、絶品の触り心地がして、アーシャは震えた。
骨につけられる最大まで肉をつけたような、ぷくぷくとした手は、触れただけで天国だった。
柔らかいのに、弾力があって、しっとりとした肌は指に吸い付くようだ。
こんな気持ちのいい物、触った事がない。
アーシャは小さな手の甲をスリスリと何度も撫でる。
「ほぉあぁぁぁ〜あなあな〜」
普通なら、骨が浮き出てくるはずの指の付け根が、逆に引っ込んで穴になっているのが、何とも心をときめかせる。
関節は肉がつきにくいのだろうか。
関節の穴を指で辿るだけで幸せになれる気がする。
(こんなに丸々とした、赤ちゃん、初めて見たわ。幸福を連れてくる天使のようだわ)
アーシャはうっとりと赤ちゃんを見つめる。
(ゼンとユズルが早く迎えに来てくれますように……)
あまりに福々しくて、ご利益がありそうなので、アーシャは願をかけてみたりする。
神の国の赤ちゃんは匂いも独特で、甘酸っぱい匂いがする。
その肌はノミやシラミに噛まれた事すらなさそうに、まっさらで輝かんばかりだ。
綺麗で、いい匂いで、丸々と太っていて、幸福の象徴のようだ。
調子に乗ったアーシャはプクプクの腕まで撫でたりして楽しむ。
「んーーーー」
そんな時、急に赤ちゃんが唸り始めた。
腕や手にもギュッと力が入る。
「???」
好き勝手に触っていたアーシャは、びっくりして赤ちゃんを見守る。
赤ちゃんは真っ赤になる程、少しの間力んでから、急に力を抜いて、やり切った顔になる。
「だ、だいじょう………あ」
アーシャは赤ちゃんに声をかけようとして、異臭に気がつく。
そして思い至る。
(力んだ後に異臭となれば……おむつ!!)
左右を見回すがおむつの布らしきものは無い。
(ど、ど、どうしよう、どうしよう)
赤ちゃんの世話などやったことがないアーシャは慌てる。
部屋の中を見回すが、赤ちゃんの他は、ヨチヨチ歩いたり、転がっている幼児ばかりだ。
唯一大きなレミは、激しくぐずる赤ちゃんをあやしている真っ最中だ。
(おむつがある所がわかれば、私にも交換できるかも!?)
実際の交換はしたことがないが、やっているのを見た事はある。
アーシャはおむつの場所を聞きだそうと腹を決めて、赤ちゃんを抱っこするレミに手を振る。
「りぇみ、りぇみ!」
そんなアーシャに気がついたレミは、困ったなと言う顔になる。
「蘭港索独、アーシャ挺桓侮。滋、艮嘆垣覇篤察垣核から」
赤ちゃんで手が塞がっている事を示すレミに、アーシャも赤ちゃんの下半身を指差す。
「?」
首を傾げるレミに、アーシャは赤ちゃんのお尻付近で手を開閉して、中から出てきた物がある事を、一生懸命表現してみる。
「あ!」
するとレミは思い至ったらしく、泣いている子を抱えたまま、パタパタと棚へ走り寄っていく。
何とか伝わった様子に、アーシャはホッとする。
(待っててね。おむつさえ来たら頑張るからね)
お尻が気持ち悪いと思うのだが、赤ちゃんは事が済んだら、再び脱獄しようと柵を揺すり始める。
「は〜い!韮削較装窮〜〜〜」
そこにレミが忙しく戻ってくる。
「………?」
アーシャはレミが持ってきた物に、首を傾げる。
どう見ても、アーシャが履かせてもらっている、足を通すだけでお腹周りに固定される下着だ。
(神の国の赤ちゃんはおむつを履かないのかしら……?)
少なくとも長い布を何重にも巻いたりはしないようだ。
(と、いう事は、赤ちゃんのおしっこは垂れ流し……?こんなに清潔を好む国なのに?)
アーシャが驚いているうちに、レミは泣いている子を隣に下ろして、脱獄挑戦中の赤ちゃんのズボンを脱がし始める。
「……………」
とても手慣れた様子で、アーシャの出る幕などなさそうだ。
「はいはーい」
レミは作業しながら、そっくり返って泣く赤ちゃんのお腹もポンポンと叩く。
一人二役は大変そうだ。
アーシャは泣いている方の赤ちゃんに近付く。
神の国のおむつ事情はわからないが、泣いている赤ちゃんのお腹をさするくらいならアーシャにもできる。
「んしょ」
木の柵から手を突っ込んで、アーシャは赤ちゃんのお腹を撫でる。
「……あ……」
そして触ってみて、お腹の辺りに滞りがある事に気がつく。
どんな人でも体の中を巡っている力があるのだが、これがお腹の辺りで渦を巻いている。
(これは気持ち悪いわ)
泣きたくなる気分もわかる。
「…………」
アーシャはキョロキョロと周りを見回す。
小さな子供たちは思い思いに動いているし、レミは排泄物の処理に忙しい。
(これは治癒じゃないもんね。ちょっと流れを正常化するだけだもん)
アーシャはそっと力が滞っている部分を手でなぞる。
貴族たちは魔力を、神官や聖女は神気を使うが、それ以外の人間は何の力もないただの肉の塊である。
そんな教えがまことしやかに、人の国では流れていた。
しかし外に出せないだけで、誰しも体内で力を巡らせている。
何の力もない生物など、この世には存在しない。
誰も信じてはくれなかったが、アーシャには触れることで、その流れを感じられる。
自分の力を同調させれば、より深い所まで流れを探ることもできる。
そして、その滞りを治すことで病を消す事もできた。
(誰もわからないんだから。治したってわからないよね)
滞りが大きいと自分の力を注ぎ込んで治したりもするが、赤ちゃんは小さな渦ができているだけなので、力を正しい方向に導いてやるだけで良い。
何度か丁寧に撫でながら、滞りを取っていくと、顔を真っ赤にして泣いていた赤ちゃんの声が段々と静かになっていく。
滞りが消えても、赤ちゃんは完全には泣き止まない。
不快な余韻が残っているのだろう。
(大丈夫、大丈夫)
アーシャは柔らかなお腹を撫でながら、子守唄を歌う。
するとヒックヒックと言っていた赤ちゃんがジッとアーシャを見つめる。
(可愛いなぁ……)
産毛がそのまま伸びたような、頼りない髪の毛も、涙に濡れて黒く輝く瞳も、ちょっと潰れた鼻も、薔薇色の頬と唇も、首が全く見えない福々としたお肉も、全部が可愛らしい。
こちらに興味が湧いたのか、コロンと転がって近づいてくる姿なんか、見ているだけで癒される。
すっかり油断して、アーシャは赤ちゃん観察に夢中になっていた。
「んぶ」
質量的に掴まれたら負けるなと思っていたことも、すっかり忘れていた。
「へっ!?」
そんなアーシャの髪を赤ちゃんは鷲掴みにしたのだ。
「あ、いちゃ、いちゃいっ、いちゃいっ!」
赤ちゃんに力の制御など期待はできない。
アーシャの気ままにはねる髪が気になったのか、赤ちゃんはそれを引き寄せようとする。
しかしアーシャと赤ちゃんの間には柵があるのだ。
顔が柵に張り付いても、尚、引っ張るものだから、頭からプチプチと髪の毛が旅立つ音が聞こえてくる。
「いちゃい、いちゃいよぉ!」
アーシャは何とかやめてもらおうと声をあげるが、そんな物で赤ちゃんが止まるはずもない。
「こらっ!めっ!」
髪の根本を押さえて、必死に髪の旅立ちを妨害していたら、そんな声と共に、髪が自由になった。
「アーシャちゃん、劃亘槌!?」
どうやらレミが止めてくれたらしい。
安否を尋ねられているようだったので、アーシャはヒリヒリする頭皮を撫でながら頷いた。
恐るべき襲撃者はアーシャの抜けた髪の毛を振り回しながら、キャタキャタと笑っている。
(赤ちゃん……可愛いけど、ゴブリンには危険……)
全くの悪気のない、突然の暴力で大変な目に遭ってしまう。
(可愛いけど怖い……お家に帰りたい……)
大きい体に守ってもらえる安息地を思ってアーシャは涙ぐむのだった。
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