2.末っ子、初登園する
「溜め息が鬱陶しい」
出来上たてのホットサンドを食べながら、譲は眉根に皺を寄せる。
「………だって、心配じゃないか」
パンにバターを塗りながら、禅一は嘆く。
「国家権力が自分達の威信をかけて守るって言ってんだ。それにあの乾先生がいるだろ?鉄壁の守りじゃねぇか」
「身体的な心配じゃなくって。本当にアーシャは俺がいないと不安そうなんだって」
「はいはい。子供なんて現金な生き物だから。親がいなけりゃいないで、上手いことやるんだよ。置いてったら、同年代のチビどもとコロコロ遊ぶって。大人しかいない環境より、よっぽど楽しいって」
譲は全く取り合ってくれない。
話はこれで終わりとばかりに、ヒラヒラと手を振られる。
「それより今日は分家の奴らとの初対面だからな。心配するなら、こっちを心配しろよ」
アーシャを保育所に預けたら、その足で分家に行く予定だ。
少し離れた場所に住んでいるので、迎えを寄越すという話で、アーシャを送ったら、そのまま待ち合わせの場所に行く。
「分家は会ってみないと、全然事情がわからないだろう?上手く分家を通じて奴等に接触できるように話を運ぶつもりだが……まずは相手の出方を見ないと」
そんな事を禅一が言うと、譲は意外そうな顔をする。
「へぇ、分家の奴らを半殺しにしてでも言う事を聞かせるつもりかと思ったんだけど」
「……譲の中で、俺はどういうイメージになってるんだよ……」
半眼になった禅一に、譲は小さく首を傾げる。
「人間社会に適応しているゴジラ?」
「………………」
禅一は思わず半眼になる。
ビルを踏み潰す超巨大怪獣は、そもそも人間社会に入れないだろう。
禅一の顔色など気にしない譲は、皿を流しに戻して、コートに腕を通す。
「ごっそさん。俺はマロ太郎の散歩に行ってくるから。チビの準備を頼んだぞ」
「マロンだぞ」
「マロマロ呼んでる奴が生意気に訂正してんじゃねぇよ」
トーストしただけの食パンは一枚だけしか食べないくせに、半分に切って間に具を挟むと、ペロリと三枚分を平らげた譲は、そんな軽口をたたきながら、大家の家へ向かう。
(こんなに食べるんなら、ホットサンドメーカーをもうちょっと頻繁に使えば良かったな)
切り落としたパンの耳をジップロックに詰めながら、禅一はそんな事を思う。
譲が趣味のリサイクルショップ巡りで、時々思いついたように買ってきた品の一つであるホットサンドメーカーは、長らく放ったらかしにしていた。
買ってきてから何度かは、面白くて使ったのだが、すぐに使わなくなってしまった。
珍しさがなくなると、使った後に一々鉄板を洗うのが面倒くさかったのと、譲はアーシャほどの反応がないので、ウケているとわからなかったのが原因だ。
禅一は貧乏舌というやつで、ある程度のものなら何でも美味しくて、トースト三枚とベーコンエッグで腹を満たそうと、ホットサンド三枚で腹を満たそうと、そう大差を感じないので、手間がかからない方を選択してしまった。
今回、アーシャが喜ぶかもと出してきたのだが、弟が意外と好きそうなので、もうちょっと有効活用したほうが良いのかもしれないと、認識を改める。
そんな事を考えながら、禅一は鼻歌混じりにホットサンドを作る。
具材は玉子、ハム、とろけるチーズ、そしてレタスの入った朝食に相応しい豪華セットと、『子供が好きなのはツナマヨだろ』との譲の助言に従った、ツナマヨとキャベツの千切りセットだ。
(何が『子供』が好きなんだよ)
ツナマヨのサンドばかりを食べていった譲に、禅一は笑う。
中学あたりから、やたら大人ぶっているが、根は昔のままである。
ホットサンドを焼く傍ら、登園に過不足がないか、もう一度持ち物をチェックして、記名を確認する。
日本語の話せないアーシャは、当然平仮名すらわからないので、記名する意味があるのかと首を傾げつつの作業だったが、小さい子供の持ち物はすぐに混ざってしまうから、その時区別をするための物らしい。
(こう……手芸が得意なお母さんは、可愛らしいデザインのワッペンとかつけて、わかりやすくするんだろうな)
飾り気のない真っ黒なペンで書かれた、書道の如く力強い己の字に、禅一は何となく落ち込む。
せっかく可愛らしい品々を選んだのに、禅一の記名が台無しにしているような気がしてならない。
落ち込みつつ、用意を終えた禅一はアーシャを起こす。
幸せそうに禅一の上着を抱き込んで、丸まっているアーシャは猫のようだ。
「アーシャ?お・は・よ」
そう言って起こすと、アーシャはうつらうつらと目を開け、禅一を視界に収めた瞬間、嬉しくてたまらないという顔で笑う。
「……ゼン……おはよぉ」
朝から機嫌の良い子だ。
抱え上げれば嬉しそうに、ギュッと抱きついてくるし、何かする度に禅一の方を確認してはホッとしたように笑う。
最初の頃はそうでもなかったのだが、誘拐未遂にあったあたりから、アーシャは何度も禅一の所在を確認する。
譲がいるときは、譲にくっついている事もあるが、基本的には禅一にくっついて行動している。
体がくっついていない時は、数分に一度は必ず禅一の方を見る。
(何か……『後追い』と言われてるほどじゃないけど……不安になるんだよなぁ)
子供の『後追い』という現象を、ネットで調べて見たが、記事ほど激しいものではない。
トイレまで追いかけて来たり、姿が見えなくなったらぐずるという、赤ちゃん的な行動ではなく、程度を弁えているので、余計禅一は心配になってしまう。
発達の過程の行動と、どうしても思えないのだ。
「ふあぁぁぁぁぁ!!」
朝ご飯に素直に歓喜の声をあげている姿は、まんま子供で、微笑ましい。
しかしご飯を食べようと促すと、譲がいない事を気遣ったりする繊細さを持っている。
「あぁ、ユズルは……ごちそうさま」
通じないだろうなと思っての言葉にも、アーシャはウンウンと頷く。
「ユズゥ、ごちしゃーま」
子供にしてはちょっと物分かりが良すぎて、不安になってしまう。
頭を撫でると気持ちよさそうに目を細めて、
「へへへ、いたぁきましゅ!」
機嫌良く、いつも通りの勢いの良さで手を合わせる。
「んふ、んんんん!」
ホットサンドに噛み付いた途端、アーシャは目をキラキラさせる。
本当にアーシャはご飯を美味しそうに食べてくれる。
頬っぺたを押さえて、幸せそうに頭をブルブルと動かす姿なんて、見ているだけで微笑ましい。
なんて事ないご飯が、この子と一緒に食べると、物凄く美味しく感じるから不思議だ。
「みんにゅーにのーちゅ!!」
頬っぺたを盛り上げて、テカテカさせながら語りかけてくるから、可笑しくなって、禅一はついつい笑ってしまう。
「旨いな」
そう言うと、大きい目をクルンとさせて、
「うまーな!」
と、誇らしげに真似をする。
(こう見ると普通の子供なんだよなぁ)
小さな頬っぺたを満杯にして、『うまーな』と覚えたての単語を連呼して食べる姿はいかにも無邪気で、満ち足りて育った子供のようだ。
(あ、いや、一般家庭の子は、こんなにがっつかない……のか?)
自分も脇目も振らずに食べ物を口の中に詰め込む方だったので、一般の子供が良く分からなくて、禅一は首を傾げる。
インスタントのコーンスープすら、アーシャにかかると、物凄い美味しい物のように見える。
「んふ〜〜〜!」
アーシャは満足な顔で、コーンスープの髭をつけて、幸せそうに息を吐く。
こんなに美味しそうに飲んでもらえたら、格安コーンスープも本望だろう。
アーシャは満足そうにスープを飲み干し、丸くなったお腹をすりすりと撫でながら、皿に残ったパンを見つめる。
「むむむ……」
まだ食べたいけど、入るかどうかが微妙とでも言うように、真剣な顔でパンを見回しているのが、おかしい。
(譲オススメのツナマヨだしな。小さく切ってやるか)
そう思って禅一がパンを手に調理台に向かうと、後ろで「あ、あぁ〜……」と、何とも物悲しい声が上がる。
あまりに素直な反応で、禅一は笑ってしまう。
「はい、どうぞ」
「ふぁっ!」
パンを四つ切りにして皿を戻すと、また顔を輝かせ、キラキラと目を潤ませる。
「どうぞ?」
再度進めると
「〜〜〜!!ゼン、うぇいにぃぃやぁあ!!」
ロケットのように椅子から飛び出してきて、激し目のハグをされる。
禅一には腹筋という鎧があるから良かったが、一般のご家庭のお父さんなら悶絶する元気の良さだ。
ツナマヨはとても美味しかったらしく、アーシャは大騒ぎだ。
(本当に子供は好きなんだな)
激しく揺れながら、うにゅうにゅと叫びながら食べる姿に、禅一は感心する。
欲張りすぎたハムスターのような顔になりながら、アーシャは夢中で食べていたが、胃の容量的に半分を食べるのが限界だったようだ。
「帰ってから、また食べると良い」
未練そうなアーシャに、禅一はストップをかける
食べ残しのホットサンドを保存したり、アーシャのパンかすだらけの顔を拭いたり、お着替えをさせていると、譲が犬の散歩から帰ってきた。
「まだ準備できてないのかよ」
チラッと譲は時計を確認する。
まだまだ余裕のある時間だが、几帳面な譲はちょっとでも余裕を持って行動したいらしい。
靴を履いたまま、玄関からブーブー文句を言う譲を制しながら、禅一はアーシャのリュックを、彼女に見せる。
「アーシャ、の」
『あーしゃ』と書いてある部分を指差しながら禅一は言う。
外国名なのでカタカナの方が良いのではないかと思ったが、記名は平仮名が基本ということで、平仮名だ。
「あー・し・や」
名前の記述だけでも、わかっていた方が良いかと思って、平仮名を何度か辿って教えるがアーシャは不思議そうな顔をするばかりだ。
「あ〜〜〜、多分、それが自分の名前ってわかるのは無理じゃね?外国語表記じゃ文字数から違うだろうし」
日本語で聞いたままを書けば、長音符も入れて四文字だが、元は何文字で表すかすらわからない。
譲にそう言われて、禅一も諦める。
もっと日本語に馴染んでから教えるのが良さそうだ。
「……………!!」
アーシャはリュックを背負わせると、ぱぁぁっと顔を輝かせる。
何度も、背負ったリュックを、嬉しそうに振り向いて確認する。
背負っているのだから、振り向いても見えないと思うのだが、アーシャはぴょんぴょんと二、三歩歩いては、背中を確認する。
「行くぞ!」
さっさと玄関から出る譲についていって、外に出たところで、アーシャはリュックを見せつけるようにポーズをとって見せる。
本当に嬉しそうだ。
「……………」
はち切れそうな笑顔を見て、禅一は声を詰まらせてしまう。
すると、振り向いた譲が、自分の両頬を掴んで引き上げて見せる。
『笑え、不安そうな顔をするな』との指示だろう。
いつも不機嫌顔の譲はこういう時に便利だなと思いながら、禅一は何とか笑顔を顔に貼り付ける。
アーシャは弾んで、リュックの中の荷物を揺らす音を楽しんだり、二、三歩先まで進んでポーズを取って振り返ったりと、とても楽しそうだ。
お散歩にでも出ていると思っているのが伝わる。
禅一と手を繋いで、子供にしては妙に音階のしっかりした歌を歌ったりして、とても浮かれている。
スキップというより、どこかの原住民族舞踏のステップのようなものを踏んだりと、大通りに出るまで、アーシャはテンションが高いままだった。
大通りに出て、禅一が抱き上げてからも、走る車たちを恐々と観察しながらも、アーシャは楽しそうだった。
「……ゼン……」
彼女の声が心細そうなものになったのは、大通りをしばらく抱っこして歩き、保育園が見えて来てからだった。
登園時間らしく、自転車や自動車、そして徒歩で、次々と親子が保育園に来ている。
最初はそれを見て不可解そうな顔をしていた。
しかし入る時は親子連れ、出てくるのは大人だけという事に気がついたのか、保育園の前に着く頃には、顔がすっかり曇っていた。
禅一たちが保育園に向かっていると理解したらしいアーシャは、ギュッと禅一に掴まる手に力を込める。
『離れたくない』
『怖い』
そう、言外に訴えられている気がして、禅一の胸は痛む。
禅一に張り付いた小さな胸が、物凄い速さで打っているのが伝わる。
母親が多い中、十代の禅一たち兄弟は目立つ。
周りの保護者からの、興味津々な視線から逃れるように、アーシャは禅一の胸に張り付く。
昼寝用の布団などを運んでいる譲も、ちょっと居心地が悪そうな顔をしている。
「あ!おはようございます!!」
そんな時、玄関から元気の良い女性の声がする。
小柄な明るい色のボブヘアで、それほど禅一たちと歳が離れている気がしない外見だが、可愛らしいエプロンを身につけているので、保育士の先生であることがわかる。
「おはようございます」
「……はよーございます」
禅一と譲が頭を下げると、女性はニコッと明るく笑う。
「アーシャちゃん!おはよう!」
そして明るく、フジツボの如く禅一にこびりついているアーシャに話しかける。
「………?おはよ……?」
覗き込まれたアーシャは驚いた顔をしながらも、何とか挨拶を返す。
「先生、アーシャちゃんに会えるの楽しみにしてたんだ〜〜〜!」
そして匠の技とでも言えば良いのか。
スルッとアーシャの脇の下に手を滑り込ませたかと思うと、次の瞬間には禅一に張り付いていたアーシャが回収されてしまった。
「今日から一緒だね!まずはお靴を入れる場所から教えよっかな!」
日本語が通じない事は伝えているが、明るい保育士の女性は、怒涛の勢いでアーシャに話しかける。
アーシャはすっかりその勢いに呑まれて、ポカンとなっている。
「首の笛は危ないわね」
「あっ」
その背後から、一切気配を感じさせず現れた黒い影……乾峰子先生が、以前と同じようにアーシャの首に下がっている笛を掠め取る。
そしてその笛を禅一の首にかける。
不安いっぱいの顔で、アーシャが禅一を振り返る。
「は〜〜〜い、アーシャちゃん、お靴をちゃんと脱げるかな〜〜〜?」
そのアーシャにボブカットの保育士が話しかける。
大きな身振りで、大袈裟に伝える彼女に、再び、アーシャの注目は奪われる。
「わ!えらい!!ちゃんと脱げたね!!」
大きく拍手をされて、アーシャは戸惑いながら、少しはにかむ。
「お荷物置き場に案内しますね」
峰子先生は小さな声で、アーシャが行く方向と別の方向を示す。
「あ、アーシャに……」
後で迎えに来るとも何とも言っていないので、禅一がアーシャに声をかけようとすると、峰子先生は素早くそれを遮る。
「シッ!初登園はいかに親が気配を消すかにかかっています!」
「え?あ?は、はい?」
まるで忍びの者のような事を言う先生に戸惑いながら、禅一と譲は顔を見合わせてから、そっと彼女の後に従う。
「心配は要りません。彼女はぐずる園児たちを巧みに園内に引き摺り込むスペシャリスト・赤松先生です。明るい演出と、テンション高めなマシンガントークで、親と引き離されたことに気が付かせず、保育室に子供を導きます」
クックックと笑う彼女はまるで子供売買を行う悪人だが、歴とした保育園の先生である。
「アーシャちゃんの靴箱のマークは何かな〜〜〜?あ!サクランボ!サクランボマークだね!」
ニコニコと笑う女性に視線が釘付けで、アーシャは禅一たちの移動に気がついていない。
「最初のお別れが涙涙になったら、アーシャちゃんも辛いですから。私たちにお任せください」
自分の首にかけられた、アーシャの笛を握りながら、後ろ髪を引かれる思いだった禅一は頷く。
そして用意していた荷物を預け、書類の記入をしてから保育園を後にするのだった。
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