20.兄弟、末っ子を得る

林シズ子。

孫から戦争体験を聞かれ、『人は皴の数だけ魅力が増えるけど、記憶は抜けるもんさ。正確な話が知りたいなら図書館に行きな』と答えた経験のある戦後生まれ、七十二歳だ。

孫にはその後、人に何かを聞く時は、まずは最低限の下調べをしなさいと、教育した。

戦中生まれと孫からは思われていた事はショックだったが、そこからは身も心も錆付かないように、人生を謳歌することを心がけ、若い時の気持ちのまま、充実した日々を送っている。

しかし体は心と別で、節々が痛んだり、筋肉が落ちてしまったり、うまく動かなくなったりする。


「アンタ、しっかり散歩してもらえて良かったねぇ」

体が衰えてきたことで、世話が大変になってきた、シベリアンハスキーのマロンにシズ子は話しかける。

沢山散歩して楽しかったらしい、マロンは大きく尻尾を振って、シズ子に応える。

マロンは元はシズ子の息子夫婦が孫に買い与えた犬だったのだが、転勤に伴い、連れて行けなくなったということで、ほぼ押し付けるように、この家に預けられた。


趣味の庭を荒らされても困るが、綱に繋ぎっぱなしも可哀想。

大型犬が満足するほどの散歩も中々大変。

そんなシズ子たちの救世主になったのが、店子である双子の兄弟だった。

朗らかで、重い荷物を持っていたりしたら、自然に手伝ってくれる、兄の禅一。

愛想の欠片もない態度なのに、困り事を話したら、いつの間にか解決してしまう、弟の譲。

顔の造りは結構似ているのに、雰囲気や体型から、全くの正反対に見える二人が、庭の端っこにドッグランを作ってくれた。

力仕事の得意な兄と、物作りが得意な弟の、息の合った作業だった。


大家と店子の関係を超えて、色々と助けてくれる兄弟を、シズ子は気に入っており、お礼に料理の差し入れ等しつつ、交流してきた。

そんな兄弟に今回新しい仲間が参入した。

シズ子に足を洗われるマロンを、緑の目を大きく広げ、じっと見つめている幼児だ。


虐待を受けていたらしく、その体は折れそうなほど細くて、見るだけで心が痛む。

某タイヤメーカーのイメージキャラクターのようにプクプクとして、関節が肉に埋没している年頃のはずなのに、どれほど酷い食環境だったのだろうと、涙が出そうだ。

しかし本人には悲壮感の欠片もなく、興味津々にシズ子とマロンを観察している。

綿毛のようにポワポワの黒髪、透き通るような真っ白な肌、紅潮した頬は、お人形さんのようだ。

お人形さんとは違って、その表情はとても生き生きしているが。


可哀想だけど、可愛い。

こんな子を甘やかしたいと思うのは、当然のことだろう。

「ふふふ、アーシャちゃん、おいで」

マロンを室内に戻したシズ子は、紅葉のようのな手をとる。

すると反対側の手でしっかりと禅一を掴む。

「あら、お兄ちゃんも一緒がいいのね〜〜〜」

すっかり禅一に懐いている様子に、シズ子の目尻は下がる。

シズ子にとって禅一も孫のようなものだ。

大きい孫と小さい孫が仲良くしているのは微笑ましくてたまらない。

「お邪魔します」

小さなアーシャと手を繋ぐために曲がっている背中を、更に曲げて、禅一は玄関に入る。

アーシャはまだご挨拶がわからないようで、それを不思議そうに見上げている。

「チビ、お・じゃ・ま・し・ま・す」

そんなアーシャに教育的指導をするのが、譲だ。

禅一に比べ口調などが大きく崩れているが、こういう節々の礼儀は、兄よりしっかりしている。

「アーシャ!」

そんな指導に、アーシャは口をへの字にして、猛然と抗議する。

『チビ』呼びが、よっぽど嫌なのか、顎の下に梅干しのような皺まで作って、渋い顔をするのが可笑しい。

元が愛らしい顔つきなだけに、落差が酷いのだが、不思議とそれすら可愛い。


そんな全力の抗議を無言で無視しまうのが譲だ。

「お・じゃ・ま・し・ま・す」

さあ言え!とばかりに、折れそうな頭を容赦なく揺らしている。

「おじゃまましゅ……?」

アーシャは口の中で転がすように小さく呟く。

すると譲は小さな頭を押して、お辞儀させ、満足そうな顔をする。


ご挨拶はこれで終わったかと思ったのだが、アーシャはキリリとした顔でシズ子を見上げる。

「おじゃまましゅ!」

胸を張ってそう言ったかと思ったら、ガニ股びらきの姿勢から、勢い良く頭を下げる。

そして頭を上げると、『できたぞ!』と言わんばかりの見事なドヤ顔を決める。

舌ったらずで、高い声が可愛い。

不恰好なお辞儀が可愛い。

自信満々な顔が可愛い。

「んまぁぁぁ!かぁぁぁわぁぁぁいぃぃぃ!!」

あまりの可愛さにシズ子は小さな体を抱きしめる。

孫や我が子の幼い頃が重なり、可愛さは倍増する。

「うひゅ」

撫でると恥ずかしそうに笑うのが、また可愛い。


玄関に上がったら、靴を並べる兄弟を、横にちょこんと座って覗き込んでいるのも可愛い。

あまり覗き込みすぎて、たたきに落っこちそうだ。

「シズ子さん?何か、怪鳥の断末魔のような声がしたけど……」

シズ子が可愛い三兄弟を観察していたら、ぎっくり腰で横になっていたはずの、彼女の夫・道夫がやってきた。

ど失礼な事を言っているが、妻の大きな声を聞いて、心配して出てきたのだろう。

「誰が怪鳥よ!もう!動いたら治りが遅くなるわよ!」

腰に響くのか、全く上げられない足を引き摺るようにして歩いているので、シズ子は慌てて支えに行く。


「禅一君、譲君、いらっしゃい。おや?その子は……」

道夫も見慣れない子供の存在にすぐに気がつく。

「アーシャちゃんって言うんですって。ちょっと、その、虐待?を受けていたみたいで。禅ちゃんたちが引き取ったんですって」

幼児の痩せぎすな姿に、道夫は少し顔を曇らせる。

しかし興味津々という顔で見上げる、無邪気な様子に、すぐに顔を緩ませる。

「ようこそ、アーシャちゃっっ!!」

そしてその頭を撫でようとして、しゃがんだ時に痛みが走ったらしく、体を引き攣らせる。

「腰を曲げたらダメじゃないのさ、道夫さん!」

シズ子は慌てて支えようとするが、

「だ、大丈夫……大丈夫……」

と、妻を気遣い、一人で立て直そうとする。


腰を撫でることしかできないシズ子の隣に、譲が入ってくる。

「みっちー、掴まれ」

そして道夫を力強く支えてくれる。

(んまぁぁぁ、力強いわねぇ。流石隠れマッチョ)

譲は線は細いが、体幹がブレない。

まるで男性バレリーナのような体つきだと、常々、シズ子は思っている。

全く懐かない、気まぐれな猫のような譲は、ご近所のマダムに『ポケットに飴ちゃんをねじ込みたい系男子』などと言われており、人気が高い。


因みに禅一の方は、道で会ったら爽やかに挨拶をして、困っていたら率先して助けてくれるので、『孫に欲しい系男子』として人気だ。

譲が気位の高い猫なら、禅一は人懐っこい大型犬だ。

構い倒したい奥様は多いのだが、何故か壁を感じるらしく、大家特権で気楽に声をかけられるシズ子は、とても羨ましがられている。


(ホントに性格も良いし、眼福だし、最高の兄弟だわ〜)

シズ子は夫を支えて、テーブルに着かせてくれる兄弟を惚れ惚れと眺める。

更にここに、可愛がるためだけに存在するかのような、小さな末っ子が追加されるなんて、夢のようだ。

座布団の上に、ちょこんと座っているだけで可愛い。

二重に座布団を重ねて、ようやく顔がテーブルの上に出るサイズ感も堪らない。


アーシャは禅一と譲が介助する道夫が気になるらしく、緑の目でじっと彼らを見ている。

そして何を思ったのか、大きく頷いてから、座布団からピョンと飛び降りる。

危ない事をしないだろうかとシズ子が見守っていたら、小さなその子は、道夫の隣にしゃがみ込んだ。

「!」

道夫は腰が痛いのだと、小さいながらに理解したらしく、彼女は労わるように、そこを撫で始めたのだ。

心配そうな顔で、治れとでも言いたげに、せっせと小さな手を上下させている。


「んまぁぁぁぁ!んまぁぁぁぁ!」

これを愛でずにいられようか。

健気な幼児を、シズ子は抱きしめて、頬擦りをして、撫でまくる。

「んふふ」

人見知りも全くないらしく、くすぐったそうに笑って、ペタンとくっついてくるから、可愛さの臨界点を突破する。

デロデロに溶けて、蒸発してしまいそうだ。


そうこうしていたら、きゅきゅきゅきゅきゅ〜〜〜っと、体の割に大きな音が鳴り響く。

「!!!!」

その瞬間、シズ子の腕の中のアーシャはビクッと反応し、お腹を押さえる。

「んまぁ!うふふふふ」

大きな腹の虫にシズ子も驚いたが、真っ赤になってグイグイとお腹を押している姿を見ていたら、また可愛がりたいスイッチが入る。

「すぐご飯にしようね」

もっと抱きしめたくなったが、そこはぐっと我慢して、シズ子はいそいそとご飯の準備を始める。


「配膳、手伝う?」

いつもなら禅一が手伝いを申し出てくるのだが、珍しく譲がシズ子の後についてくる。

見れば禅一は、アーシャを座布団に戻して、頭を撫でている。

どうやら末っ子のお世話係は長男なので、次男がその代わりを果たそうとしているらしい。

「あらまぁ、うふふふ、じゃあ、お鍋をお願いしようかねぇ」

愛想の欠片もないし、敬老精神など皆無に見えるが、禅一がやらないときは、自分がやろうとするのが、なんとも微笑ましい。


「お、圧力鍋」

「今日はゆっくり煮込んでる時間がなかったから、久々に出してみたんだよ」

温め直すために、圧力をかけない状態で、コンロに置いた圧力鍋に、譲は興味津々な様子だ。

シズ子の圧力鍋は、かなり年季の入った旧式で、蓋にゴツいロックのかかるタイプだ。

圧力の切り替えスイッチなど、譲はしげしげと観察している。

「興味があるのかい?」

炊き込みご飯をお茶碗につぎながら、シズ子が聞くと、譲は小さく頷く。

「買おうって言ってんだけど、禅は洗うのが面倒で絶対使わなくなるって反対するんだよ」

不貞腐れた顔の譲に、シズ子はひっそりと笑う。

一見、兄弟の力関係は、譲の方が強そうなのだが、意外と禅一の意見も尊重されているらしい。


「んじゃそれ、あげようか?」

「はぁ!?」

そう提案すると、驚かれてしまう。

「息子たちがいなくなったから、こんなに大きなヤツは出番がすっかりなくなってね。最近は片手鍋くらいのサイズが出てるらしいから、買い替えようと思っていたんだ」

「いや、でも……壊れてないのに買い替える意味なんかねぇだろ」

素直に『欲しい』と言わないが、喋りながら、譲の視線はチラチラと圧力鍋に注がれている。

可笑しくなってシズ子は笑う。

「あはは!鍋が壊れるのを待ってたら、お迎えが来るまでに買い替えらんないわよ!」

シズ子がケタケタと笑うと、譲は渋い顔になる。

「……年寄りのデスジョーク、反応に困るんだけど……」

寄る年波を笑い飛ばす自虐ネタは、まだまだ若い彼には刺激が強いらしい。


「代わりに新しい圧力鍋を選ぶの手伝っておくれよ。軽くて扱い易いやつが欲しいんだけど、最近は品が多いからさ。譲ちゃんはそういう学校に行っているし、得意だろ?」

「鍋買うのに機械工学なんて関係ねぇだろ。……でも、まぁ、そういうの選ぶの、嫌いじゃねぇからな」

シズ子はお盆に色々と用意しながら、密やかに笑う。

体が大きくても、やっぱり子供は可愛いものだ。



「さぁ〜〜〜!シズ子さん特製のおでんだよぉ!」

そう言ってシズ子が配膳を始めると、小さい方の子供は、キラッキラに目を輝かせる。

グウグウとお腹が鳴りまくっているのに、お茶碗を目の前に置いても、食べ出さない所が素晴らしい。

目から食べ物を吸い込んでしまいそうな勢いで見ているが、涎を垂らしながらしっかりと我慢している。

(ちゃんと我慢してるのが、また可愛いじゃないか)

シズ子も、夫の道夫も炊き込みご飯を一生懸命見ているアーシャに、表情が溶ける。

「うくっ!」

「んふっっ!」

おでん用の皿を置いたら、不思議そうな顔をして、触って中身が空であることを確認し始めるから、夫婦揃って耐えきれずに吹き出してしまう。


「さ、さぁもう食べよう」

笑った事を誤魔化すように道夫が、そう声をかける。

「アーシャ、い・た・だ・き・ま・す」

しっかりお兄ちゃんしている禅一がそう言って手を合わせて見せると、

「いたぁきましゅ!」

小さな手を勢い良く打ち鳴らしながら、アーシャは嬉々として、そう言う。


「まぁぁ、ちゃんといただきますできるのねぇ」

「えらいねぇ。お兄ちゃんたちが、しっかり教えてあげてるんだね」

シズ子は道夫と笑い合う。

禅一は改めて『いただきます』と二人に向かって手を合わせ、譲はそっぽを向いたまま、それでもきちんと『いただきます』と手を合わせる。

お祖母さんが育ての親だと言っていたが、しっかり教えられているらしい二人は、箸づかいも綺麗だ。


一方、まだ箸が使えないアーシャは、嬉しそうにスプーンを咥える。

「ん〜〜〜!」

そして緑の目を大きく見開いて、輝かせる。

首をすくめて、ブンブンと振り回す。

その笑顔が、雄弁に『美味しい』と語っている。

「うぃにぃあぅ!にーみぃ、うぃにぃあぅ!!」

アーシャはブンブンとスプーンを振り回しながら、一生懸命、禅一に感動を伝えている。

そんなアーシャに禅一は微笑んで頷き返す。

見ていて微笑ましいったらない。


一通り騒いで、みんなに見つめられている事に気がついたら、恥ずかしそうにご飯を食べ始めるのにも、頬の緩みが止まらない。

「さぁさぁ、こちらもお食べ〜〜〜」

更に笑顔が見たいと思うのは当然のことだ。

シズ子が圧力鍋の蓋を開いたら、

「ふぁぁぁぁぁ〜〜〜」

と、アーシャは幸せそうな声をあげる。


「アーシャちゃん、シズ子さんの大根は美味しいから。これは絶対食べたほうがいい」

そんな事を言って、道夫がアーシャの皿にたっぷりと具をのせる。

「んふふ」

夫の言葉にシズ子は頬を紅潮させる。

この年代の男性としては珍しく、道夫は妻を褒めまくる夫だ。


大根、玉子、スジ、こんにゃくと、おでんとしてはメジャーなメンツが入った皿を、アーシャは不思議そうに見ている。

「???」

どうやら、こんにゃくを怪しんでいるようで、スプーンで慎重につついている。

真剣な顔で、プルンプルンと動くこんにゃくを検分している姿も可愛い。

驚くほど表情豊かな子だ。


「アーシャ、はい」

そんなアーシャに禅一がフォークを手渡す。

小さな手は、それを素直に受け取って、こんにゃくに突き立てる。

「ふぉ!!」

そして弾力の強いこんにゃくに、フォークがあっさりと刺さった事に、驚きの声をあげる。


アーシャはフォークで持ち上げたこんにゃくを、『なんか怖いなぁ〜』と言う顔で見つめ、その角を少しだけ齧る。

「んふっ」

もうこの時点で道夫は肩が震えている。

恐る恐る齧っている顔が面白すぎるのは仕方ないが、笑い過ぎである。

しかし呆れ顔で道夫を見ていられたシズ子も、すぐに笑うことになった。

眉を寄せて警戒しながら、もぐもぐとしていたアーシャが、『ピコーン!』とでも音が出そうな勢いで目を見開いたかと思うと、物凄い速さで咀嚼し始めたのだ。

「んぷぷっ!!」

顔は固まっているのに、口だけは高速で動く。

これはもう顔芸と言って良いのではないだろうか。

ハムスターとかが、こういう食べ方をしているのを見た事がある。

(いや、アレは頬袋に入れてるだけだったかしら)

そんな事を思いながら、シズ子は笑う。

ハフハフ言いながら夢中でこんにゃくを食べる姿は、見ていて癒される。


忙しく箸を動かしているわけではないのに、一口一口が大きくて、気持ち良く食べる禅一と、一見綺麗に食べているのに、流れるような箸捌きで、実は結構忙しく食べている譲も、もちろん見ていて楽しい。

よく食べる若人を見るのは気持ちが良いものだ。

「シズ子さん、大根旨いです」

なんて可愛い事を言ってくれる禅一と、

「炊き込みご飯、もう一杯食っていい?」

食べる量で、美味しいことを示している譲。

「ん〜〜〜〜!」

ここに満面の笑みで、ほっぺたを押さえて、左右に揺れる末っ子が追加されるなんて、長い人生で徳を積み重ねてきたお陰だろうか。


いつもは盛んに禅一や譲に話しかける道夫も、表情をコロコロ変えながら、忙しく楽しそうにご飯を食べる幼児に、目尻が垂れっぱなしだ。

全てのパーツが小さくて頼りないのに、元気いっぱいに揺れたり、忙しく口を動かしたりと、見ているだけで楽しくなってしまう。


「あ、アーシャ、待って」

禅一は自分のご飯を食べながらも、妹の様子をよく見ている。

串に刺したスジに噛みつこうとしているアーシャの手から、串をとって、肉を外してやる。

しかし禅一の気遣いは、アーシャに全く伝わっていないようで、外された串を不思議そうに見ている。

「喉を刺したら危ないから」

そう言いながら、禅一はアーシャの頭を撫でるが、日本語は全然わからないらしく、首を傾げっぱなしだ。


アーシャは前方で、串にそのまま噛み付いている譲を見て、納得できない顔をしている。

「ふふふ」

自分だけ串から外して食べるのが不思議でならない様子なので、シズ子は自分も牛スジを器に取り、串を外す。

そして、緑の大きな目の視線を感じながら、箸でスジを口に運ぶ。

シズ子を見つめるその目は、キラキラと輝いている


アーシャはピシッと背を伸ばしたかと思うと、フォークで上品にスジ肉を掬い、口に運ぶ。

「んふっ」

どうやらシズ子の真似をしているらしいアーシャに、道夫が再び笑っている。

「っくっ……」

思いの外、肉が硬くて、噛めなかったらしく、アーシャのおすまし顔があっという間に情けない顔になって、モッチャモッチャと噛み始めるので、シズ子も笑ってしまう。


「か、硬いスジがあったみたいだね。吐き出させるかい?」

シズ子が半分笑いながら、テッシュの箱を禅一に渡そうとするが、彼は首を傾げる。

「いや。美味しいみたいですよ。喜んで噛んでるみたいなんで、もうちょっと見守っておきます」

情けない顔が、また幸せそうな顔になっている。

本当に表情豊かな子供だ。


「可愛いわねぇ」

シズ子が呟くと、道夫が大きく頷く。

「いや、最初はすごく痩せているから心配していたけど、こんなによく食べるなら、安心だ」

牛スジを口に入れては元気にバイブレーションしている姿に、道夫は笑い声をこぼす。

「俺はあんまり手の込んだ料理は作れないんですけど、何でも美味しそうに食べてくれるんで、もっと練習して、色々作ってやりたいって思います」

まだ折れそうな細さのアーシャを見ながら、禅一は言う。

多分、思っていることはシズ子と同じなのだろう。

(こんなに美味しそうに食べる子を飢えさせるなんて、とんだ鬼がいたもんだよ)

こんなに幸せそうにご飯を食べる子を飢えさせるなんて、とんでもない。

しっかりと沢山食べさせてあげなくてはいけない。


アーシャは大人たちの視線に気づく事なく、夢中で大根を食べている。

「はふ、はふ、はふ」

熱そうに、でも幸せそうに大根を食べる姿は、守ってやらねばと思わせる。

禅一も譲も法律の改正で成人と認めらる年齢になっているが、シズ子には今まで通り十代は未成年という感覚が抜けない。

そして子供たちだけでは、子供を守ることはできないだろうと思う。

(これはマダム会で報告して、不審者を近づけないようにしないと)

人生の余暇を楽しんでいるマダム会には、十分に時間のある面々が揃っている。

徘徊と紙一重になる年齢層も含まれているが、『何となく散歩』が不自然ではない年代にしかできない守り方がある。


「ふはぁ〜!!」

テカテカと満足そうに顔を輝かせながら、アーシャは満足そうな息を吐く。

「あ、道夫さん!今度はアタシよ!アタシだって食べさせたいんだから!」

デレデレと笑いながら、またアーシャの器を受け取ろうとしている道夫を、シズ子は遮る。

(子供といえば竹輪よ!竹輪の嫌いな子はいないわ!多分!)

孫たちに絶大な人気を誇っていたのは、煮込んだ後に放り込むだけの竹輪だった。

(一番手間ひまかかってる大根が一番のオススメではあるんだけど)

下茹でなどの処理に時間のかかる大根を押したいのだが、独特の味や匂いがあるので、子供の好き嫌いは分かれる。


そんな事を考えながら、おでんを注いでいたシズ子を、キラキラとした目でアーシャが見上げる。

「ん?」

シズ子が小さく首を傾げると、アーシャは小さな両手で一つの大きな丸を作る。

それは丁度輪切りにした大根くらいのサイズの円だ。

「…………」

もしかしてと大根を掴み上げると、パァァァっと小さな顔一杯に喜びが広がる。

「っふ、あははははは!」

可愛くて、面白い。

辛いことがあった分、幸せになってほしい子だ。


半分に切っているとはいえ、竹輪を二つに、大根三つは多いかなと思ったが、アーシャは大喜びで食べてしまった。

「こんなに食べるんだから、すぐに大きくなるよぉ」

そう言って撫でると、嬉しそうに擦り寄ってくるから、また可愛い。

道夫の腰の事も帰る時まで心配していたし、優しい子だ。


「可愛い子だったね」

「ええ。ふふふ、あんなに美味しそうに食べてくれたら、また作りたくなっちゃうよ」

「あんまり干渉し過ぎたら駄目だよ」

「わかってるわよ。でも勝手に、見守るくらいなら許されるでしょ?最近は変な奴も多いんだから」

「確かに、変質者は怖いね。……ちょっと碁会所と庭づくり同好会に顔を出しておくか」

男性諸君も加わり、町内パトロールははかどりそうだ。

「その前に腰を治さないと!あの子、すごく心配してたじゃない」

「いやぁ〜、あんなに心配されたら頑張って治さないとね」

新しいご近所さんのお陰で、張りのある生活が戻ってきそうだ。

老夫婦は微笑み合った。

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