14.長男、知覚する(後)
「………………………」
材木を複雑に組んだアスレチックを楽しむでもなく、のんびり日向ぼっこするでもなく、毛繕いするでもなく、固まって震える毛だまり。
「パパ、おさるさんたち、うごかないね〜」
「どうしたんだろうね〜?」
そんな親子の会話が耳に入ってくる。
「…………………」
隣を行き過ぎる親子連れには、とばっちりを食らわせてしまって申し訳ない。
(そりゃそうだな。唐突に治るわけないな。アーシャと幸太君がたまたま耐性があっただけで、他の園児は逃げていたし。飼育小屋でも一匹が寄ってきてくれたからといって、他のウサギがすぐに寄ってきたりしなかったんだから、当然だよな。生物が皆、均一な動きをするわけじゃないんだ。アーシャが特殊なだけで、普通は平気じゃない。そうだよな)
何とか自分を取り戻そうと、頭の中で色々と理屈をこねくり回し、禅一はショックを和らげる。
(本気で治ったとか思っていたわけじゃないだろ。もしかして可能性があったりする?と思っただけで)
「……ゼン?」
頭の中でグルグルと考えていたら、禅一の胸板がノックされる。
ハッと我に帰った禅一は、キョトンとした顔で見上げてくるアーシャを見て、途端に申し訳ない気分になる。
「ごめんな、俺は動物から嫌われるタチみたいで」
口の端を引き攣らせながら、禅一は何とか笑う。
そしてゆっくりと後退する。
少し離れれば、サルたちをアーシャに見せてやれるかと思ったのだが、五メートル近く離れても、毛だまりたちは解散しない。
動物たちの檻と檻は隣接しておらず、ある程度距離があるので、禅一だけ離れて、アーシャを檻の近くに送り出せば、見せられるかと思ったが、それも無理そうだ。
更に下がって、姿が見えなくなると、ようやく、サルたちは元気に鳴き始める。
「アーシャ、すまん、俺にはやっぱり動物園は無理だったみたいだ」
禅一は深々とアーシャに頭を下げる。
流石に姿が見えなくなる距離まで、アーシャと離れるわけにはいかない。
幼児一人に動物園を回らせる選択肢はあり得ないので、禅一が撤退するなら、アーシャを巻き込むしかない。
アーシャは、あまり事情がわかっていない顔で、禅一を見上げている。
そんな彼女に、一体どうやって、『やっぱり無理』かを伝えようかと、禅一は考え込んでしまう。
「あ!」
すると、アーシャは手をパチンと打ち鳴らして、うにゃうにゃと何事か禅一に語りかけてくる。
「………?」
そして何故か、険しい山を見上げる登山家のような目で、禅一を見上げてくる。
よくわからない行動に、禅一は戸惑う。
「アーシャ?すまない。今日の所は遊園地に行こうか」
禅一は観覧車を指差してみるが、アーシャは全くそちらを見ようとしない。
彼女はフンと鼻息を荒く噴き出し、気合を入れるような仕草をしたかと思ったら、べったりと禅一に張り付く。
「???……アーシャ?」
元々不思議な行動が多い子だが、今は輪をかけて行動の意味が、わからない。
「???」
アーシャは何回か深呼吸を繰り返したかと思うと、急激に体を緊張させる。
「んぎぎぎぎぎぎぎぃぃぃ!」
そして何故か突然力み始める。
「アーシャ!?どうした!?トイレか!?」
慌てて聞くも、返事はない。
顔を真っ赤にして力んでいる。
禅一は慌てて周囲を確認する。
入場門の裏にトイレらしき建物がある。
「ぐぐぐぐぐぅぅぅぅ!!」
更にアーシャが力むので、慌てて禅一は門の方向に戻る。
「すぐにトイレに行くからな!」
禅一は焦る。
ピクニックの準備にかまけて、着替えを持ってくるのを忘れてしまった。
万が一漏らしてしまったら、アーシャが大変な目に遭ってしまう。
「………?」
移動しながら、禅一は首を傾げる。
アーシャは軽く触れているだけなのに、何かが体の中に食い込んでくる感覚がする。
「???」
それは皮膚の表面から、神経を伝わってくる感覚ではない。
確かに何かが体に食い込んできていると察知できるのに、触覚や痛覚ではない。
今までに感じたことのない感覚だ。
『自分の領域に何かが入り込んでいる』
触れられているとか、内臓を抉られているとかではないのに、何かが侵食してきている事だけが察知できる。
神経を介さず、脳が直接感知するとでも表現すればいいのか。
上手く言い表すことのできない。
入り込んできている物は、不快ではないのに、何故か鳥肌が立つ。
「プハッ!!………はぁっ、はぁっ、はぁっ!」
不思議な感覚を辿ろうとしたところで、アーシャが脱力して、激しい呼吸を始める。
思わず漏らしたかと、確認してしまったが、幸い、何かが出てきた様子はない。
フルマラソン後のランナーのように、アーシャは喘ぐように息を吸う。
額にも汗が噴き出している。
「アーシャ?大丈夫か?ちょっと落ち着こうか?」
どう見ても、これは腹痛ではないと判断した禅一は、入場門近くのベンチに戻る。
先程入場したのに、さっさと戻ってきた禅一たちを係員たちが、心配そうに見ている。
それに頭を下げて、禅一はアーシャをベンチに下ろす。
とにかく落ち着かせようと、自身が背負っていたリュックから、禅一は水筒を取り出す。
(もうちょっと冷まして入れれば良かったな)
体が冷えた時に飲ませようと思っていたので、コップの中のほうじ茶はまだ湯気を上げている。
フウフウと吹いて冷まして、水筒のコップを差し出すと、大切そうに、小さな両手が受け取る。
(今日はピクニックもやめた方がいいかもな)
そんな事を思いながら、禅一はゆっくりとお茶を飲むアーシャを見守る。
白い肌が血の気を失って、紙のようになっていたのだが、お茶を飲むに従い、少しだけ赤みが戻ってくる。
呼吸も落ち着いたようだ。
しかし急に、引き付けのように、硬直してしまった事が気になる。
「体調も悪いみたいだから、今日は帰ろうか」
禅一はアーシャの膝をポンポンと叩く。
残念ではあるが、ピクニックごっこなら家の庭でもできる。
外で食べるだけでも楽しいだろう。
「あっ……」
心の中で家への撤退を決めた禅一だったが、お茶を飲み終わったアーシャは、ベンチから勢いをつけて、元気よく飛び降りた。
そしてガニ股を忙しく動かして、門と反対方向に移動する。
「ふ」
その様子に、禅一の頬は思わず緩む。
不自然なほど左右に揺れて走る姿は、全力疾走するペンギンだ。
無意味に上下している短い腕も、ペンギンの動きにそっくりだ。
「ゼン!ゼン!」
息を切らしてぐったりしていた先程までと、打って変わって、元気に手を振る姿に、禅一は少し安心する。
何を始めるのかと思ったら、アーシャは白い石で、アスファルトの上に絵を書き出した。
(……ヒトデ……いや、何か周りに線を書き始めたから……星か?)
一見、臭いが発散されている、歪な形のヒトデだが、子供の画力だ。
ヒトデの周りの線は、匂いではなく光線を示しているのだろうと、禅一は予想する。
(……串刺しの小さいヒトデ……)
その隣に描かれたのは、尻に串を刺されて、元気のなさそうなヒトデだ。
どうもアーシャの画力は禅一と似たり寄ったりのようだ。
子供である分、アーシャにはまだ伸びしろがあるが。
書き上げたアーシャはキラキラと顔を輝かせている。
どうやら彼女的には、大変上手に描けたようだ。
「にーみぃ、ゼン」
アーシャは大きい方のヒトデを指差してから、禅一を指差す。
どうやら、この大きい、臭いの強そうなヒトデは禅一らしい。
「にーみぃ、ゆんにゃ」
次にアーシャは小さい方のヒトデを指差してから、遠くに見えるサルの檻を指差す。
(成る程、これは串じゃなくて、尻尾だったのか)
禅一は納得する。
「ゼン、ぶわぁぁぁぁ!!」
アーシャは大きいヒトデから出ている線を、内側から外側に向かって、辿る。
(臭いが出ているという事か……?いや、勢いが臭いじゃないな)
不思議に思っていると、アーシャは次にサルと思われる、小さなヒトデを指差す。
「ゆんにゃ、まーいんみぁぁぁぁ!」
「んぷっ!」
頭を抱えて、ツイストを始めたアーシャに、禅一は噴き出してしまう。
口の両端を思いっきり下げ、顎に梅干しを作り、深刻そうな顔をしているので、サルが怯えているのを表現しているのかもしれないが、演技も絵に負けず、得意ではない様子だ。
しかし一生懸命に、わかりにくい演技をしているのが、何とも可愛らしい。
「めめみんぬ?」
突然、演技をやめて真剣に問いかけてくるのも、ずるい。
変化が面白過ぎる。
禅一は決壊しそうな腹筋と口元を押さえながら、何とか頷く。
(臭いじゃなくて、俺の氣の話をしているんだな)
笑い出したい中、必死に冷静さを保ちながら、禅一は考える。
度々不思議なことを起こすアーシャだ。
譲と同じように、氣が見えていても、何ら不思議ではない。
垂れ流しの禅一の氣が、動物に悪影響を与えている事を、アーシャも理解しているらしい。
「ゼン、きぃにむぅんねーにゃ」
アーシャの方は演技が再開されている。
短い手足を大の字に広げたかと思ったら、説明しながら、ギュッと縮こまる。
幼い顔を仁王像のように、力ませるから、再び禅一の腹筋はピクピクと動き始める。
アーシャは真面目そのもので、顔の力を抜いたかと思ったら、地面に書いたヒトデ禅一の周りの線を、外側から内側に向けて、なぞっていく。
(氣を……内側に向けるということか?)
何となく、彼女が言いたい事が、わかる気がする。
何とか笑いを我慢しながら、理解に努める禅一に、次はトントンと地面のヒトデサルをアーシャは指し示す。
「ゆんにゃ、あっぽむんみ!」
そして突然、大きく弾みながら、ニコニコ顔でバンザイをする。
そのままガニ股の足を交互に上げながら、全開の笑顔で奇妙なダンスを始めるから、遂に禅一の腹筋が崩壊した。
「ん……ふっ……ぐっ!」
何かを真剣に説明してくれているのだから、笑ってはならないと思うのに、痙攣を始めた禅一の腹筋は止まらない。
「ゆんにゃ、みぃきゅうな」
そんな状態で、アーシャはトドメとばかりに、新たな絵を描き始める。
臭わなくなった大ヒトデが、元気になった小ヒトデと手を取り合っている。
仲良くできている事を表現しているのだろうが、腹筋が痙攣している禅一には、この絵すら、更なる笑いの起爆剤だ。
「めめみんぬ?」
大事業をやりきったような、満足した顔でアーシャが問いかけてくるが、禅一は返事ができない。
笑っているのを隠そうと、両手で顔を覆うが、腹筋の痙攣が止まらない。
早く、笑いをおさめて、アクションを返そうと焦るのに、一度入った笑いのスイッチが中々切れない。
「ゼン?」
返事ができない禅一に、不安そうな声がかかる。
小さな手が、呼吸困難になりつつある禅一の背中を、遠慮がちに撫でる。
返事ができない禅一を、心配してくれているらしい。
(あぁ、もう!)
なんて愉快で、不恰好で、真っ直ぐな子なのか。
「わっ!」
抱き上げられたアーシャは驚いて声をあげる。
禅一は、まだまだ骨張った体を抱きしめて、好きな方向にはねる真っ黒な綿毛のような髪を、混ぜっかえす。
(何でこんなに可愛い生命体が存在するんだ!!)
恥も外聞もなく、持てる力を全て注ぎ込んで、懸命に何かを伝えてくるのが、可愛い。
そして持てる力の全てを振り絞った結果が、散々なのが、愛しい。
『駄目な子ほど可愛い』
その言葉を生み出した奴は天才だ。
これほど的確な表現はないと禅一は思う。
「あ!」
突然の抱っこに、うにゃうにゃと騒いでいたアーシャは、何か思いついたように、そう言って、再び、ペタンと禅一の腹にくっつく。
「………?」
突然瞑想でも始めるように、目を閉じたアーシャに、禅一は首を傾げる。
「お?」
するとアーシャを起点に、禅一の体を『何か』が取り囲む。
目には見えないし、圧力も感じないが、ただの空気とは異なるものだ。
温度もなく、肌自体には熱いとも寒いとも感じないのに、何故か脳は暖かいと感じる。
物理的には全く暖かくないのに、不思議な感覚だ。
『何か』の心地良さが、暖かいと感じられるのかもしれない。
「ふんぬぅぅぅぅ〜〜〜」
目を瞑っていたアーシャは、突然、力み始める。
先程と同じだ。
「………?」
アーシャが踏ん張り出したのと同時に、正体不明の負荷が禅一にかかり始める。
(これ、さっきの感覚に似ている)
肌は何も感じないのに、『何か』が禅一を押している。
「ぬおぉぉぉぉぉ〜〜〜」
アーシャが力を込めると、正体不明の圧力は、その強さを増す。
先程も感じた『自分の領域に何かが入り込んでいる』力だ。
血液が体の中を巡るのを、普段は知覚できないように、譲から散々垂れ流していると言われてきた『氣』を、禅一は知覚できなかった。
(もしかして『コレ』が氣なのか)
禅一は目を見張る。
長距離走った時に、血液の流れを感じるように、アーシャの何らかの力によって押され、揺り動かされ、禅一は自分の中にある物を感じる事ができたのだ。
「なるほど……」
『氣』を知覚すると同時に、禅一はアーシャが何を伝えようとしていたのかを理解した。
アーシャは禅一が垂れ流す『氣』が動物たちを威圧して、怯えると伝えてきた。
その次の動作は、それを出さないようにしろと言っていたのだろう。
禅一が『氣』を垂れ流す事が、周囲への威圧になると、譲も言っていた。
しかし見えないし、感じることもできない『氣』を、出せとか引っ込めろと言われても、土台無理だと思っていた。
体臭を出せとか引っ込めろと言われても、できないのと同じだ。
(コレならわかる)
禅一は目を閉じる。
そして自分を包む『何か』を受け入れるように、自分の中の物を動かせないか、試みる。
筋肉を動かすのではない。
アーシャの力を受け入れるイメージを描き、自分の中の何かを、内へ、内へ招き入れる。
「う〜ん?……こうか?」
上手くいっているかどうかは、わからないが、アーシャが作っている、体を覆う『何か』が体にどんどんと近寄ってきている気がする。
やがて体に何かが入り込み、肌が泡立つ。
(ああ、コレ、『気持ちが良い』んだな)
脳が直接感じるような、通常の快感とは少し違う。
体全体を肌が泡立つ感覚が走り抜けていってしまうと、暖かい力が体に張り付く。
今まで全く『氣』の存在がわからなかったので、上手くいっているかどうかわからないが、村での祭りの後に強く感じる内臓の痛みが、どんどん小さくなっていく。
明確に、ではないが、体の中に何かが満ちていく感覚がある。
「…………どうだ?」
禅一は目を開いて、アーシャに尋ねる。
すると、アーシャは禅一の足元を見る。
「ふんぬっ!」
そして彼女が力むと、右足周辺に力がかかる。
(上手くできていない箇所があったか)
禅一は『何か』を感じる辺りに集中する。
すると足に再び『何か』が張り付く。
「どう?」
もう一度禅一が尋ねると、アーシャは満面の笑みで頷いてくれた。
「そうか」
上手くできた事に安堵して、禅一も笑うと、
「ふんぬっ!」
カッとアーシャは仁王の顔になって、力を込める。
今度は背中の辺りに力がかかる。
「あぁ……難しいな」
慣れていないせいもあるのだろうが、少し気を抜くと、『氣』が垂れ流しになるようだ。
「ゼン!ういにゃぎ!」
アーシャが動物園の中を指差す。
行こうと言われているようだ。
(いや、でも、これ、維持が難しい……)
迷う禅一の服を、アーシャが引っ張る。
まるで馬を手綱で動かそうとしているような動作だ。
「ういにゃぎ!」
そう言うアーシャの緑の目は、太陽の光を受けて、キラキラと輝いている。
頬骨が目立たなくなってきた、ほっぺたも紅潮している。
禅一が動物園に入れる事を、アーシャは喜んでくれているような気がする。
「………うん、行こうか」
そう言って、ベンチに置きっぱなしにしていた水筒とリュックをとって、禅一は歩き出した。
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