14.長男、知覚する(前)
『明日は近所の動物園でも連れて行ってやれば?』
弟のそんな一言に、禅一の心は大きく揺れ動いていた。
禅一が最後にちゃんと動物園に行ったのは、小学校四年生の遠足だ。
今でこそ、動物から避けられまくる禅一だが、小さい頃は動物から嫌われる事はなかった。
それが七歳を過ぎた辺りから、段々と避けられ始めた。
最初は飼育小屋のウサギに微妙に避けられるが、キャベツを出せば寄ってきてくれる程度だった。
それが年を経る毎に、どんどん悪化していき、近所の野良猫が姿を現さなくなり、毎日挨拶をしていた犬が尻尾を巻いて寄ってこなくなり、飼育小屋のアヒルから威嚇の舞を受けるようになり、やがて全ての生き物が寄ってこなくなってしまった。
小学校五年の遠足は、ちょうどアヒルの威嚇を受けるようになった頃だった。
全校生徒の中で、禅一だけがアヒルに猛烈に威嚇されるので、悪戯をしているのではないかと、先生たちに疑いをかけられ、厳重注意を受けてたりしていた。
『禅一は動物に何かしている』
そんな共通認識ができてしまってからの、動物園だったので、散々だった。
まず禅一を目にした小型の動物たちは、警戒・威嚇して鳴きまくる。
そして禅一が近くに行くと、檻の隅に逃げて、震える。
大型草食動物・肉食動物は普通だったのだが、それ以外は全部そんな感じだった。
飼育員たちは動物らの様子に、首を傾げていた。
そんな中、餌やり体験ができる山羊のコーナーで、遂に問題が起きてしまった。
突然大興奮した山羊たちが、激しく走り始め、飼育員さんの静止も聞かず、遂には一頭が金網に思い切り激突して、倒れてしまったのだ。
それまでは全く問題なかった動物たちが、小学生たちが来た途端、異常行動を取る。
当然、動物園側は小学生たちが何かしたのではないかと疑った。
そして疑われた側の小学校の教師たちが疑ったのは、禅一だった。
何もしていない、と、主張しても、丁度、禅一が訪れた時に、山羊の大暴れが始まった事により、黒判定を受けてしまった。
『何もしていないのに、こんな事になるはずがないだろう』
そう言って叱られ、禅一は無理やり頭を下げさせられて、途中で強制帰宅させられてしまった。
そんな事件があったから、次の年は、破れかけのオブラートに包んで『遠足への参加は辞退してほしい』と学校側から告げられ、その時は祖母の健康状態が悪かった事もあり、禅一は参加しなかった。
中学高校は環境が変わり過ぎて、動物園どころじゃなかった。
大学生になって、近所に動物園があるのだからと行ってみたのだが、やはり隠れて出てこないか、隠れる場所がなくて震える背中しか見れなかった。
何だか申し訳ない気分になって、すぐ退園したのは言うまでもない。
それ以来動物園には寄り付かないようにしていた。
腰の位置より小さな生物には避けられる。
もうこれは『体質だから仕方ない』と割り切るしかなかった。
無理に近づいても何も良いことはないと、外国の国立公園のライブカメラなどを、寂しく眺めて、満足するしかなかった。
そこに現れたのが、アーシャだ。
腰どころか、脛くらいのサイズしかない。
それなのに禅一に怯える様子は全くない。
むしろ物凄く懐いてくれる。
日中は家の中でもカルガモの子供のようについてまわり、料理中などで動きがない時も足元にいて、時々遠慮がちに足に寄り添ったりしてくれる。
夜も小さくて短い指で、しっかりと禅一を握って眠る。
小さい生物に好かれたことのない禅一には、可愛くてたまらないし、
(もしかして体質改善したんじゃ?)
と希望を抱いてしまう。
保育園では相変わらず子供に逃げ散らかされてしまったが、害がないとわかると、受け入れてくれる子もいたので、尚更期待してしまう。
全く理由もわからずに、段々と動物に嫌われていった時のように、段々と元に戻っているのではないか。
『アホなくらい氣が垂れ流されてる』
と、譲に指摘は受けているが、禅一の目には自分の『氣』なんか見えないし、感じ取ることもできない。
物凄い量が出てると言われても、全く実感がない。
なので、ついつい淡い期待を抱いてしまうのだ。
「くぁべちゅ」
「それはキャベツじゃなくて、レタスだな」
マヨネーズ付きのレタスを、幸せそうに頬張るアーシャに返事をしつつ、禅一は自分の心がフワフワと浮かれている事を自覚する。
本日のアーシャも絶好調で、バターを塗っただけの食パンを食べては、ゴールを決めたサッカー選手のように両手を突き上げ、イチゴを食べては「みぃにぃぃぃぃになぁ!」と叫びつつ、椅子の上でイナバウアーを決めていた。
「コレ、一人で連れてって大丈夫か?」
表情筋が死滅した顔で、譲が聞いてくるが、
「これだけ元気なんだから大丈夫だ」
禅一はフワフワと的外れな返事をして、外出準備を整えた。
早起きして作ったお弁当。
少し冷ましたほうじ茶の入った水筒。
デザートの入った保冷袋。
お手拭き。
ピクニックシートはなかったので、譲の作業用のブルーシートを借り受けた。
こんなにワクワクと準備をしたのは、いつぶりだろう。
完全に浮き足立って、禅一は出発した。
(落ち着け。アーシャが行きたがったら行くだけで、基本的にはピクニックだ)
期待のあまり駆け出しそうになる足を、禅一は何度も制する。
しかし動物園の緑が見えだすと、どうにも心が逸る。
(外から見ると、本当に森だな。ここの動物園は行動展示に方針を切り替えているらしいからな)
小さいながら、動物たちの育成環境に近い森を再現し、園内部は緑豊かな森に小道が走る形で、ストレスの少ない状態で動物たちを展示しているのだと、無駄に調べた知識が、禅一の頭の中を巡る。
自然な状態で、気ままに鳴いているサルや、鳥の声を聞くだけで胸が高鳴る。
(以前は入口近辺で帰ったけど、今回は最後まで見れるかもしれない)
アーシャの希望に沿おうと思いながら、禅一の妄想は止まらない。
(最初の展示はハヌマンラングール。白っぽい毛で真っ黒な肌が可愛いんだよな)
気を抜いたら、ついつい動物園を見て回る夢想を始めてしまう。
何回も見直したせいで園内マップだけは、しっかりと頭の中に入ってしまっている。
「ゼン」
ウキウキと禅一が、動物園の併設されている、公園に入ろうとすると、不安そうな顔でアーシャが服を引っ張る。
初めての場所だから怖いのかもしれない。
腕の中で小さくなっているアーシャを、不安から守るように、禅一はアーシャを抱えた手に力を入れる。
そして余っている方の手で、芝生公園や人工湖がある方向を指差す。
「アーシャ、こ・う・え・ん」
公園という言葉だけは知っているのかもしれない。
「こーえん?」
アーシャはその言葉に伸び上がる。
「はぁぁぁ」
そして緑の目を輝かせて、キョロキョロと周りを見回す。
冬でも青々とした常緑樹の葉っぱを見上げたり、そのままの形で道に落ちている椿を不思議そうに見たり。
アーシャはグルングルンと首を回して、表情豊かに景色を楽しんでいる。
ただ公園で歩き回るだけでも、彼女は十分に満足しそうだ。
動物園までは望まないかもしれない。
「あ、アーシャ」
そんなアーシャに禅一は緊張しつつ声をかける。
何故か喉が乾燥して張り付くので、禅一は軽く咳払いをする。
(公平に……公平に……)
「え〜っと、こ・う・え・ん」
まず、第一の選択肢である公園を、禅一は指し示す。
「こーえん」
アーシャは大きく頷いて、繰り返す。
「ゆ・う・え・ん・ち」
禅一は少し体を動かして、大きな観覧車がよく見えるようにして、第二の選択肢である、遊園地を示す。
「ゆーちえん」
ちょっとした文字列変換が起きているが、アーシャは再び繰り返す。
緑の目はキラキラと、観覧車を映している。
(小さい子はやっぱり遊園地か……!)
そんな焦りから、注意を引くために大きな声を出そうとした喉を、咳払いでいなして、
「ど・う・ぶ・つ・え・ん」
なんとか通常の音量とテンションで、動物園の入り口を、禅一は指し示す。
「どーつえん」
しかしアーシャが復唱した時に、
「ど・う・ぶ・つ・え・ん!」
うっかり強調してしまい、禅一はもう一度空咳をして、誤魔化す。
「公園、遊園地、動物園」
禅一は改めて選択肢を示して、どうしたい?と、首を傾げて見せる。
「ん〜〜〜」
どこに行きたいか聞かれたと理解した様子のアーシャは、真剣な顔で三方向を見る。
(公平に……公平に……)
禅一は自分に言い聞かせる。
動物園は近いのだから、いざとなったら、一人で来たって良いのだ。
別に全然選ばれなくて良い。
そう思い込もうとするのに、心の奥底では願ってしまう。
禅一の心を見透かしたように、アーシャが笑う。
「ん」
そして真っ直ぐに動物園の門を指差してくれた。
「そうか!動物園か!」
その瞬間、抑えられなかった喜びが、噴き出してしまう。
滅茶苦茶にアーシャの頭を撫でつつ、待っていましたとばかりに、瞬時に入場を済ませてしまう。
「ふへへ」
へにゃりと笑みを浮かべるアーシャと笑い合うと、恐れる物は何もないような気分になる―――。
が、そんな禅一を待ち受けていたのは、震える白い毛だまりだった。
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