13.聖女、神の力に挑む(前)
アーシャは本日も絶好調に役立たずの穀潰しを極めている。
『今日こそは』と思っていたのに、起きた時には、空っぽになったゼンの服だけを握り締めていて、外では洗濯物は風を受けて気持ちよさそうに泳いでおり、卓には湯気をあげる素敵なご飯が並んでいた。
本日の朝ご飯は、昨日と同じ、玉子と二枚の肉を組み合わせた豪華な皿に、水滴がついて、いかにも新鮮な様子の緑の葉物野菜『かべつ』。
そして周囲と表面に美味しそうなおこげのある、バターの黄金色に染まった、平たい白パンだった。
サクッと軽い歯応えに次いで、ジュワッと塩っけのきいたバターが口の中に溢れる、あの幸せな感覚は、思い出すだけで涎が湧いてくる。
神の世界のパンはフワフワで甘くて柔らかいのかと思いっていたら、今日食べたパンはサクサクとしており、噛み締めるとバターの塩味の中から、仄かな甘味が顔を出し、それが更にバターの味を引き立ててくれるという、素晴らしさだった。
思わず一口ごとに「ふおぉぉぉぉ!」と奇声を発してしまったほどだ。
真っ黒な岩石のようで、スープや水でふやかしながら食べることが必須な、人の世のパンとは、何から何までが違う。
肉も、玉子も、生野菜も、パンも、それだけで頭が破裂しそうなご馳走なのに、今日はそれだけではなかった。
「い・ち・ご」
アーシャはその言葉を呟いて、幸せな気分を味わう。
名前を呟くだけで、感じた匂いや味が戻ってくるような心持ちだ。
昨日、お腹の中に入れられなかった、魅惑の果物は、今日の食卓に最初からのっていた。
恐らく、お腹がいっぱいにならないうちに食べなさいという事だろうと、軽い気持ちで、パンの後に食べたのだが……これがとんでもなかった。
緑色のヘタを持って顔に近づけた時に、鼻腔をくすぐった、爽やかでありながら、花のように濃くて甘い香り。
一口齧ったら、プツンと張りのある柔らかな皮が弾け、中から待っていましたとばかりに果汁が口の中に雪崩れ込んできた。
その甘さたるや、アーシャの想像を遥かに超え、思わず、大きく体を反って「あまぁぁぁぁぁい!」と叫んでしまう程だった。
喉に張り付くような、純然たる砂糖の甘さではない。
濃厚な香りと、仄かな酸っぱさを含んだ、爽やかでありながら、しっかりと甘い。
初めての味だった。
蕩けるほど甘いのに、口に残ることがなく、後口はスッキリと、尾を引かない。
(似てるような気がしたけど、苺とは違ったわ)
食べていたのは聖女に祭り上げられる前なので、記憶は朧げだが、アーシャの知る苺は、八割の酸っぱさの中から、二割の甘さを探すような果物だった。
それでも甘い物自体が貴重だったので、一生懸命探して食べていたが、『いちご』は次元が違った。
外見も赤い宝石のようで、ピンと張った果皮の、瑞々しい美しさといったら、歯を突き立てるのが申し訳なくなる程だった。
一口目は蕩けるほど甘く、ヘタの近くまで食べ進めると、酸味が濃くなり、すっきりと終わらせてくれる。
まるで人が計算づくで作った料理のような果実だった。
「い・ち・ご」
アーシャは朝から大粒の『いちご』を三つも食べてしまった。
思い出すだけで顔がにやける。
「アーシャ、いちご、韮村畳併芝たんだな」
そんなアーシャを、ゼンがニコニコと笑って見守ってくれている。
「いちご!」
よく分からないが、『いちご』の会話をされているようなので、アーシャは元気よく、ゼンに答える。
するとゼンはニコニコと笑いながら、アーシャの頭を撫でてくれる。
現在は美味しいご飯の後の散歩中だ。
今日はユズルは一緒ではない。
また『すーぱー』へ行くのかと思っていたが、ちょっと違うようだ。
いつものように大通りに出たら、アーシャを片手でだっこして、ゼンは坂を登っていく。
『すーぱー』などを含め、今までは、全て坂を下っていたので、初めて向かう方角に、アーシャは胸を高鳴らせる。
足元は美しい柄の煉瓦が敷き詰められ、『くるま』が走り回る道との間には、不思議な柄の柵が立っている。
真横から見ると、中途半端な位置に色が塗ってあるだけの棒が連なっているだけなのだが、離れて、横から見ると、色々な絵になる。
兎や鳥、猿と様々な絵になるので、見ていて飽きない。
柵があると『くるま』が遠く感じて安心できるし、とても素敵だ。
不思議な形をした建物や、色鮮やかな看板などをアーシャが興味深く見ていたら、煉瓦造りの道の隣に、突然、大きな木が立ち並ぶ森が姿を表す。
(突然森が………?町の中なのに………?)
都市の中に森があるなんて、普通はあり得ない。
小さな花壇や、蔦が張ってしまった建物は、街中にあっても、不自然ではない。
各々の屋敷になら、小さな庭を作り、木を植えることもあるだろう。
しかし街中に森はあり得ない。
唐突に現れた鬱蒼とした森をアーシャは驚きの視線で見つめる。
アーシャを抱っこしたゼンにとっては、当たり前の景色らしく、動じる様子もない。
(神の国は道にも木を植える習慣があるみたいだから、普通なのかしら?)
アーシャは首を傾げる。
神の国では、人が歩く用の道に、等間隔に大木が植えられていたり、『くるま』が走り回る道のど真ん中に木が植わっている。
一体あれらの木はどうやって剪定するのだろう。
道には空に黒い線を張り巡らせる石柱も生えているので、神の国は本当に不思議がいっぱいだ。
右手側は『くるま』が走り回る道で、左手側は巨木のひしめき合う森という光景は、違和感しかない。
おまけに森の中からは、猿のような、動物の鳴き声まで聞こえてくる。
こんなに清潔に整然と整えられた街の中に、動物が住んでいるような森があるなんて、あり得るのだろうか。
動物たちは獲物を求めて森の外に出てこないのだろうか。
「…………?」
マジマジと森を観察していたら、煉瓦造りの道が森に入るように、枝分かれしている。
ゼンは当たり前という顔で、その枝分かれした道に進むのだ。
アーシャは慌ててしまう。
ゼンは大きい袋を背負っているだけで、それ以外、森で狼やその他の動物に襲われた時のための武器の類は持っていない。
「ゼン」
ゼンが強いのは知っているが、少し不安になってアーシャは、彼の服を握る。
「ん?」
ゼンは不安の欠片もない、いつものお日様のような顔だ。
「アーシャ、こ・う・え・ん」
彼はアーシャを抱えていない方の手で、前方を示す。
「こーえん?」
縮こまっていたアーシャの体が、ゼンの手に導かれて、伸びる。
この世界で一番安全な大きい胸の中から、少しだけ顔を出したアーシャの視線の先、ゼンの手の先には、光が溢れていた。
鬱蒼と繁った森かと思ったら、そこには美しい木々と、そこから漏れる光たちの世界だった。
気持ちよさそうに枝を伸ばす木々の間を、可愛らしい乳白色の小石に舗装された道が伸びている。
道は人の手で舗装されたものだが、わざとらしさがなく、周りの緑豊かな風景に溶け込んでいる。
木は気ままに小道の上に枝を伸ばし、葉を落としたり、赤い花を落としたりしている。
光の入らぬ森ではなく、木と木の間は大きく開いており、それぞれの木が何の遠慮もなく枝葉を伸ばし、その間を子供たちが走っている。
木が密集して生えていたのは、入り口近辺だけだったので、もしかしたらあれは、目隠しのような役割を持っていたのかもしれない。
木々の間を抜けると、広い空間が広がっており、小さな橋が架かり、その下には小川が走り、更にその先に、大きな湖があり、太陽の光をあらゆる方向に反射させ眩しく煌めいている。
「はぁぁぁ」
アーシャはため息をこぼす。
樹木を完全に刈り揃え、等間隔に並べた貴族の庭園と比べると、驚くほど自由だが、ここも庭園だ。
木々は悠然と生え、草も好きな所に顔を出しているように見えるが、人が手を入れて整えている事がわかる。
(門番も門も何もなかったけど、これは誰のお庭なのかしら)
見渡す限り庭園は続いていて、広大な敷地であることが窺える。
持ち主は、さぞお金持ちなのだろうと、周りを見回すが、建物らしきものが見当たらない。
ただ、美しい景色が延々と続き、森が途切れたかと思ったら、気持ちの良い芝生の広場が広がるだけだ。
不思議な建造物は沢山あるが、人の住む屋敷のような物は存在しない。
しかも、この庭園は沢山の人がいる。
湖の周りを身軽な服装で走る者。
飛んできた鳥に餌をやっている者。
湖を覗き込む親子と思われる者たち。
のんびりと散歩している老人。
敷物を敷いて座っている者。
どう見ても、それぞれは知り合いではなく、使用人の類でもない。
まるで町の広場のようだ。
広場の代わりに庭園を整え、人々に提供しているように見える。
(人々が自由に楽しめる庭園なんて素敵……すごく自由で……平和だわ……)
流石神の国としか言えない。
誰がこんなに見事な庭園を整えて、民に提供しているのだろうか。
見ているだけで微笑みが溢れてくる風景に、アーシャは感動する。
「あ、アーシャ」
庭園を堪能しているうちに、ゴホンゴホンと、ゼンが咳払いしながら声をかけてくる。
「え〜っと、こ・う・え・ん」
何故か改めて周囲を指して教えてくれる。
「こーえん」
アーシャは覚えたとばかりに、頷きながら復唱する。
「ゆ・う・え・ん・ち」
彼は体の位置を変え、遠くを指差す。
「ゆーちえん」
復唱しながら、アーシャは彼の指差す方向を見る。
「……………???」
すると、その方角に不思議な建造物がある事に気がついた。
巨大な円形の建物で、その周囲に、様々な色に塗られた丸い物が、等間隔でくっついている。
一体何だろうと目を凝らすと、不思議なことに、その円はジワリジワリと回っている事がわかる。
(……すっごい怪しい……)
黒魔術とか魔教とか、そんな怪しげな物のシンボルのように見える。
ここで、ゼンが再び、ゴホンゴホンと咳払いをする。
「ど・う・ぶ・つ・え・ん」
体の向きを変えて、彼が力強く指差す先には、何かの生物が絵が描かれた門と、門番が立っている。
「どーちゅえん」
アーシャが復唱すると、ゼンは力強く頷き、
「ど・う・ぶ・つ・え・ん!」
もう一度、そう言う。
心なしか、彼から染み出す神気が増えたような気がする。
(よく分からないけど、ここは三つの何かが合わさった場所なのかしら?)
アーシャは首を傾げる。
挙げられた三つは、語調と語尾が似ているので、関連があるとみて間違いないだろう。
「こーえん、ゆー赦痩、どー艦赦えん」
ゼンは三方向を変わるがわる指差し、『どうする?』とばかりにアーシャに向かって首を傾げて見せる。
(三つのうち一つを選ぶように言われているのかしら?)
アーシャは思案しながら、野生味あふれる美しい庭園と、謎の建造物、そして絵が描かれた門を順に見る。
庭園は見ているだけで心が安らぐ。
円形だらけの建物も、その正体を解明してみたい。
「………………」
しかしその方向を見ていると、ゼンの眉が悲しそうに下がる事に気がついてしまった。
「………………」
そして門の方を見ると、ゼンは期待に満ち溢れた目になって、ジワっと神気を染み出させる。
念のため、もう一度三方向を見て、アーシャはゼンの様子を確認する。
(……門の方に凄く行きたいんだわ……)
門を選択して欲しくて欲しくて堪らないが、ゼンは自分の意見を押し付けてこない。
選択権をアーシャに渡してくれている。
アーシャがゼンの様子を見ている事に気が付いたら、表情を引き締めた後に、ゼンはニッと笑いかけてくれる。
そんなゼンを見ていたら、お腹がくすぐったくなる。
ご飯を食べて寝るだけの、一人では生きていくことすら難しい、無力な存在の意見を尊重してくれる。
彼はそれが凄い事だとわかっているのだろうか。
そうしてくれることで、こんなにも、心が羽ばたいて行ってしまいそうな気分になるなんて、彼には知っているだろうか。
アーシャは真っ直ぐに、門を指差した。
「そうか!どー艦赦えんか!」
途端に、ゼンは輝くような満面の笑顔を見せる。
眩い神気がブワリと広がり、アーシャの顔を
(こんなにも行きたいのに、我慢してくれようとするなんて……ゼンって物凄くお人好しだわ)
まるで年端もいかない少年のように、無邪気な笑みを浮かべるゼンにつられて、アーシャも顔がユルユルに緩んでしまう。
ゼンは弾むような足取りで門へと向かう。
普通に歩いているはずなのに、物凄く速い。
こんなに喜ぶほど、行きたいのに、それでもアーシャの意見を尊重してくれようとしたという事がくすぐったくてたまらない。
「ふへへ」
お腹の中を蝶が飛び回っているように感じて、アーシャも笑顔になってしまう。
この右も左もわからない神の世界で、彼に会えたことは、この上ない幸運だ。
この時、幸せな気分に浸り過ぎていたアーシャは気がついていなかった。
ゼンの喜びが爆発した瞬間、門の向こう側から、悲鳴のような動物たちの鳴き声が響き渡っていたことに。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます