10.幼児、読経する

譲はぐったりと、ソファーにうつ伏せになって倒れる。

胸がムカムカして、背中を走り回る嫌悪感も止まらない。

(忘れろ、忘れろ)

意図的に物腰を柔らかくして、微笑みを浮かべ、相手が望む言葉を口にする。

そんな自分の行動を、さっさと忘れてしまいたいのに、そう思えば思うほど、脳は反芻を繰り返す。


女性が苦手だとか、嫌いだとか言うことはない。

ただ『自分を所有したい』と伝わってくる、爛々と光る目が気持ち悪い。

純粋に人間としての好意であれば、向けられても嫌ではない。

しかし、あの独占欲というか、所有欲というか、こちらを取り込もうとして、にじり寄ってくる気配には、嫌悪感が迫り上がってくる。

男性である譲に、そういう欲を向けてくるのは大半が女性だというだけで、それらを避けていたら、いつの間にか周囲から『女性嫌い』と誤解を受けてしまった。


純粋な好意にドロリとした感情が混ざる瞬間は、叫び出したいほど気持ち悪い。

だから常日頃から自分にそういう欲を向けられないように、譲は細心の注意を払って行動している。

(気持ち悪い)

その為、わざわざ自分から、その欲を掻き立てるような真似をすると、精神ダメージが大きい。

いつ相手が豹変するかという恐怖と、それを掻き立てる動きをする自分への気持ち悪さ。


「すまん……まだ全然駄目だったんだな」

情けない顔をして、でかい図体で心配そうに寄ってくる禅一は、さっさと買い物に行けと追い払った。

こういう時は気遣われるより、放置して欲しいのだ。

追い払われた禅一は、実際に時間が押していたので、アーシャに昼の残りである枝豆とスイートコーンの盛り合わせを出して、渋々ながら夕飯の買い出しに向かった。

「すぐ戻る」

一時間くらい帰ってくるなと思っていたが、有言実行の男なので、そんなに長く追い払えないだろう。


(まぁ、帰ってきたら夕飯作って、チビを風呂に入れてと忙しいはずだから、こっちに構ってこねぇだろ)

そう思い直して、譲は好きなだけ、打ち上げられたクラゲのように、ソファーでぐったりとする。

背後のテーブルでは、チビが脳天気に、うにゃうにゃと一人で歓喜の声を上げている。

(もうすぐ夕食なんだから、今更オヤツをやらなくても良いのに)

食欲の申し子のようなチビは、ただの枝豆とコーンの盛り合わせを食べているはずなのに、騒がしい事この上ない。


「ごちしょーしま!」

一頻り騒いだチビは、パァァンッと土俵入りする力士の塵手水ちりちょうずのように、激しく手を打ち合わせる。

明らかに『手を合わせる』という行為を間違えて覚えている。

(……これは矯正だな……)

そう思いつつ、すぐに訂正に行く気力はない。

教えるという行為は、ただでさえ大変なのに、チビは日本語が通じないので色々と面倒臭い。

今は気力が大きく削られているので、譲は回復に忙しい。


(そろそろ本格的に意思疎通ができるようにしねぇと)

本人の身の安全のためにも、言語による意思疎通は急務だ。

しかし、その具体的な方法が思い浮かばない。

幼児向けのアプリは数あれど、単語や数を教えるものが大半で、言語習得に向いている物は無かった。

通常、言語というものは、周りの親たちとの会話をする中で、自然と覚えていくものだから仕方ないと言えば、仕方ない。

日本語習得用のアプリも当たってみたが、母国語に対応する形で成り立っているので、母国語不明のチビには、使えないものばかりだった。

それなら翻訳アプリを使って、チビの母国語を割り出そうとも思ったのだが、自分の言葉が周りに通じないと悟っている様子で、チビは滅多に使わない。


(変なガキだよなぁ)

譲は心の中で、しみじみとそう思う。

自力で動き回れない程、衰弱した姿で見つかったのに、どこから来たのかが、わからない。

一切の捜索願いなどが出されていない。

全く聞き慣れない言語を使う。

変な力があり、その使い方を熟知している。

禅一に見せてもらった動画では、杖術らしきものを使い熟し、荒ぶっていた。

普通の人間では近付く事すら難しい禁域に、たった数日一緒にいただけの男のために、張り切って乗り込む。

そして全抗体を持っているという、謎過ぎる体。

真面目に数えていたらキリがない。


奇妙な所が多すぎる子供だが、その中でも、ユズルが気になっている部分がある。

「はぁ〜〜〜」

追い払っても追い払っても、近づいてくる。

普通の子供なら、笑わない、話しかけない、容赦なく叱る、そんな大人に懐くはずがないと思う。

大きな声を出した時点で、怯えの対象にされても、おかしくない。

「はぁ〜〜〜」

しかしこのチビ助は懲りずに譲に寄ってくる。

「はぁ〜〜〜」

今も『ここにいます。遊んでください』とでも言うように、わざとらしいため息を吐きながら、ベヨンベヨンと譲が寝るソファーに頭突きをかましている。


うつ伏せで、こちらの表情も見えないので、寝たふりで無視してやろうと思っていたのだが、とてつもなくしつこい。

「うるせぇぞ、チビ助」

遂に耐えられなくなった譲は、真っ黒な綿毛頭にチョップを入れる。

チョップを入れられたチビは、それでもちょっと嬉しそうな顔をする。

「みぃにゅひんにゃい」

腹が立ったので、思い切り頬を潰して、タコ顔にしてやる。

その頬はまだ柔らかくなったとは言い難いが、最初の頃のガサガサでガリガリの貧相な状態からは幾分か良くなっている。

「フンっ」

ポカンとして、なすがままに間抜けな顔になっている様子を鼻で笑って、譲はソファーから立ち上がる。


譲は幼児と遊ぶ方法など知らないし、遊ぶ気もない。

しかしながらチビの方は構って欲しそうである。

ならば自学習させるのみである。

(わかる単語を増やしておいて損はないだろ)

いくつかの学習用アプリをダンロードしておいたタブレットを手に、譲はソファーに戻る。

「ここ座れ、チビ」

横向きに寝そべり、腹の辺りの空いたスペースを、譲は叩いて示す。


ここに座れと言われた事がわかったらしく、チビはソファーに登り始める。

手足の短いアーシャには、ソファーを登るのも一苦労らしく、陸に上がり損なったペンギンのように、ジタバタしている。

「んふっ」

真剣な顔をして、間抜けにもがく姿を見て、吹き出しそうになった譲は、手で口を覆う。

無事登頂したチビが、清々しく、やり切った顔で譲の方を見るから、思わず腹が痙攣してしまう。


譲は何度か空咳をして体勢を立て直してから、アプリを開いて、チビに見せる。

「ほら」

アプリには動物、鳥、野菜など様々なカテゴリーがあり、その中の一つをタップすると、カテゴリに応じた写真がずらりと並ぶ。

後は写真をタップすると、その名前を発音してくれるという仕組みだ。

これなら直感的に使い易いだろう。

譲は食欲魔神が一番興味を持つであろう、果物のカテゴリを開いて、示していた。

「…………?」

しかしそれを見たアーシャは首を傾げて、それをじっと覗き込むだけだ。

タップの一つもしない。

勝手に触らせて、何となく単語を耳に入れる所から始めようと思っていた譲には予想外の行動だった。


普段、誰かに何かを教えたりしない譲は頭を抱える。

子供はタブレットを見せれば勝手に触るものだと思っていたが、目の前のチビは「ほ〜」なんて感心するばかりで、画面を眺める以外しない。

「ここを押したら喋るんだ」

譲は一番最初にあるリンゴの写真をタップして、説明を試みる。

「りんご」

すると素っ気無い合成音声が、応える。

「!!!」

それを聞いた瞬間に、顎が取れそうな勢いで、チビの口が開く。

物凄い驚きようだ。

「……?」

そんなに驚く要素があっただろうかと、首を傾げて、

(そうか、タブレットに触ったことがないんだな)

譲は自己解決する。

道理で積極的に触れようとしないはずだ。


譲はリンゴの隣のグレープフルーツをタップする。

「グレープフルーツ」

すると今度は驚きながら、タブレットを訝しむような顔で眺め回し始める。

新しい道具を与えられた猿のように、各方位からタブレットを観察しまくっている。

(未開の原人かよ)

内心で譲は突っ込む。

やっぱり手を出そうとしないので、譲は『触れ』と指差しでアーシャに指示する。

するとチビは、緑の目が零れ落ちそうなほど目を見開いて、タブレットを見る。

そしてゴクリと音を立てて唾を飲み込む。

(大げさ過ぎるだろ)

やはり譲は内心で突っ込む。

欧米人は表情豊かと聞くが、その中でも、このチビはトップクラスなのではないだろうか。


チビはそっとタブレットに触れて

「りんご」

と応答されて、ビクッと跳ね上がる。

そのまま引いてしまうかと思えば、恐る恐るタブレットに耳を近づけて、またリンゴの絵をタップする。

「りんご りんご りんご りんご りんご」

そして何を思ったのか、そのまま続けてタップしまくっている。

(……小猿……)

タップしまくりながら、段々と顔を輝かせ始めるチビを、譲は生暖かく見守る。


「いんご?」

チビは『あたってる?あたってるでしょう?』と言わんばかりに、キラキラと目を輝かせながら、タブレットの中のリンゴを指差しながら聞いてくる。

対応した物の名前が発音されると理解したようだが、リンゴと隠語いんごでは意味が違いすぎる。

んご、な」

『り』を強調しながら譲は訂正する。


何がそんなに嬉しいのか、チビはタブレットを見ながら、満面の笑顔である。

「貸してやるから、大事に使えよ」

そう言って譲は苦笑する。

チビの方にタブレットを押すと、ウキウキとチビはタブレットに触れ始める。

最初のビビりっぷりは何だったのかと聞きたくなる程の順応力である。


「グレープフルーツ グレープフルーツ グレープフルーツ………」

怖いほど何度もタブレットに喋らせて、ふむふむとチビは真面目な顔で聞いている。

「ぐえぷふりゅうぷ」

その口から出てきた単語は、近いような、全く別物のような。

ウンウンと真面目に頷きながら練習しているが、その様子は見ているだけで腹筋が震える。

「もも」

「もも!」

マ行は得意らしく、聞くのも発音も一発でできている。

誇らしげに、一人でドヤ顔を決めている。

「レモン レモン レモン レモン……」

「りぇみょん」

ラ行が苦手らしく、その影響が得意なマ行にも出ている。

(レモンって果物の括りなんだな)

譲は横で聞いていて、そんな事を思う。

「みかん みかん みかん みかん」

「みかむ」

何回も何回も合成音声を鳴らしては、それを真似るということを、チビは延々と続ける。

こんな単調な作業だから、すぐに飽きると思ったのだが、思いの外、頑張っている。


心の中でツッコミを入れながら聞いていた譲であったが、次第に瞼が重くなってくる。

(……腹がぬくい……)

腹に触れた、子供特有の高い体温が、妙に気持ち良い。

自分以外の体温が側にあるという事に慣れていない譲だが、小さな生きたカイロはタブレットに夢中で、自由にやっているので、気を使って、緊張を感じたりする事はない。

(そう言えば、自分以外の体温が側にあるって、今までなかったよな)

かなり小さい頃には、祖母と禅一の三人で布団を並べて眠っていたが、くっついて寝るなんてことはなかった。

時々転がってきた禅一を蹴り出す事はあったが、寄り添って寝るなんてなかった。

禅一が全小動物に怯えられる体質なので、犬や猫などは飼えず、寄り添われたこともない。

(……ぬくい……)

なので、こんなに自分以外の体温が、眠気を誘うものとは知らなかった。


先程まで体を支配していた不快感は、すっかりなくなっている。

絶え間ない、合成音声とチビの声が混ざって、お経のように聞こえる。

(ホント変なガキ)

ぼんやりと見ていたはずの目は、いつの間にか閉まっていた。





「ゼン!」

再び譲が意識を取り戻したのは、嬉しそうなチビの声と、バタバタと走る足音のせいだった。

玄関ドアが閉じる音と共に、

「アーシャ、ただいま」

と、禅一の声がする。


ハッと目覚めた譲には、何故か自分のコートが逆さまにかけられていた。

通常、襟を頭側に持ってくると思うのだが、譲の肩はコートの裾に包まれている。

「…………」

たった今、禅一が帰ってきたのなら、犯人はチビだろう。

「お留守番させて悪かったな。ちゃんとお土産も買ってきたからな」

「い・ち・ご!!」

「そう、イチゴだ。知っていたのか?」

そんな二人の会話を聞きながら、譲はコートをひっくり返す。


「い・ち・ご!」

覚えたての言葉を早速ご披露できたチビの声は、顔を見なくても、物凄くドヤ顔をしていることがわかるほど、誇らしそうだ。

「そうだな。イチゴだな。後で一緒に食べような」

応える禅一の言葉の端が、揺れている。

あまりに自信満々に繰り返すから、吹き出しそうなのだろう。


譲はせっかく気分も良くなったし、もう少し微睡むのも悪くないと、目を瞑る。

するとドッテドッテと、不器用なスキップ音と共に、チビがソファーに帰ってくる。

「〜〜〜♪〜〜〜♪」

何やら聞き覚えのないメロディの鼻歌まで口ずさんで、超ご機嫌だ。

チビは再び、ジタバタと、もがきながらソファーによじ登る。

「ふんっ!」

そして気合を入れるように力んで、タブレットに向かう。

まだまだ学習する気満々な様子だ。


「…………?」

しかし何やら慌てている気配が伝わる。

譲が薄目を開けて確認すると、放置した事により自動ロックがかかって、真っ暗になったタブレットを、チビはオロオロと見回している。

まるで人間を起こすように、そっとタブレットに手を添えて、揺らしてみるが、当然タブレットは反応しない。

困り切ったチビは、タブレットに顔を寄せる。

「えい、わみにゅいぬぅ?」

そしてこっそりと囁くように、タブレットに何やら語りかけている。

「ふぐっ!!」

何とか寝たふりを続けようとしていた譲の我慢も、そこまでだった。

笑いを噛み殺す事ができなかった。

まさかタブレットに囁きかけるとは思わなかった。


「ゆずぅ」

クックックとソファーに顔を埋めて譲が笑っていると、チビは助けを求めるように、ちょいちょいと彼の肩を叩く。

「あ〜、はいはい」

何とか笑いの衝動が過ぎ去ってから、譲はパスコードを打ち込んで、タブレットのロックを解除する。

「……………」

そしてちょっとした悪戯心で、表示されていたカテゴリーを果物から野菜に切り替える。


「ほらよ」

何気ない顔で渡すと、嬉しそうにタブレットを覗き込んで、すぐにチビの顔が固まる。

「うぇ、うぇねもぅにっ!」

先程と打って変わって、野菜だらけになった画面に驚愕している。

そしてやっぱり何やらタブレットに、うにゃうにゃと話しかけているが、当然カテゴリーが元に戻ったりはしない。


しばらく、困ったように、チビはタブレットへの説得を試みていたが、「フンっ」と、気合を入れ直して、再びタブレットに向かう。

「キャベツ キャベツ キャベツ キャベツ」

「くぁべちゅ」

再び始まった、タブレットと幼児による、共同読経を聞きながら、譲は目を閉じる。


(色々とおかしいガキだけど……まぁ、良いか)

目につく様々な違和感は、とりあえずの所、棚上げで良いだろう。

このチビが如何なる事情を抱えていても、自分達に害を及ぼそうなどと、この緩そうな頭で思いつくはずがない。

譲たちは、この子供の身柄と安全を確保する。

当面はそれだけで良い。

無力で無邪気で無鉄砲な子供は、浮世離れした価値観で、あっさりと全てを捨てそうな禅一の、良き重石おにもつとなるだろう。

(………ぬく………)

かけられたコートと、腹の所で丸くなっている生きたカイロの温もりで、再び睡魔が訪れ、譲は目を閉じた。

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