9.聖女、果物を覚える

「ん〜〜〜!」

無事に家に帰る事が出来たアーシャを待っていたのは、美味しい二種類の豆の盛り合わせだった。

豆だけが入った紙の器を出された時は驚いたが、透き通った匙で掬って食べると、今までの認識を塗り替えられる味が口の中に広がった。

そして気が付いたら、夢中でアーシャは豆を食べていた。


二種類の内、一つは、大きさがえんどう豆くらいで、形はそら豆に少し似ている、緑色の豆だ。

食感はどちらの豆にも似ていない。

えんどう豆もそら豆も、皮の中はホクホクとした柔らかい実が詰まっているのだが、この豆は皮の中もプリプリとしていて、歯当たりが凄く気持ち良い。

ほんのりと塩味がついた豆に、キュッキュという噛み心地と合わさると、何とも爽快な美味しさだ。


もう一つはレンズ豆くらいの大きさで、なんと四角くて黄色い豆だ。

色も形もとても珍しくて、流石、神の国と思わざるを得ない。

「あま〜〜〜い!」

そして何と、豆のくせに、物凄く甘いのだ。

食感も緑色の豆同様、皮の中がプリプリしていて、歯触りだけでも幸せになってしまう。


それぞれの豆を一個づつ味わうも良し、二種類一緒に味わうも良し。

(流石、神の国!!お豆が、こんなに美味しいなんて!!)

豆は庶民の強い味方だったので、人間の国にいた時、アーシャもよく食べていたのだが、スープに入れてやっと食べれるくらいの、そっけない味だった。

(きっと何か特別な畑で作っているのだわ。こんな美味しい物を作るなんて、どんな畑なのかしら)

うっとりと味わいながら、アーシャは神の国の畑に思いを馳せる。

これでもアーシャの二つ名は『豊穣の聖女』だった。

豊かな実りを与えるために、沢山の畑に出向いてきたので、そこそこ詳しい自負がある。

(神の国なんだから、雲の上で作物を育てていても驚かないわ)

でも神の国は予想外の事ばかりだから、きっと想像もつかない方法で育てているに違いない。


アーシャは大事に大事に、噛み締めるようにして豆を食べていたのだが、どれだけ大事に食べようと、終わりは絶対にやってくる。

残しておいた、緑色と黄色の豆、二粒一気に口の中に入れ、最後の一口を贅沢に味わう。

「ごちしょーしま」

しばし食後の幸せに浸った後、神の国の食事後の祈りの言葉を述べて、アーシャは椅子から下りる。


ゼンはアーシャに豆を出してくれてから、急いで出かけていったので、不在だ。

ユズルは帰って来てから、ずっとソファーの住人になっている。

「ふっ、ほっ!うぬぅぅぉぉ!」

そういうわけで、豆の入っていた紙の器を、何とか一人で洗い物をする台にのせようと、アーシャは頑張る。

体を伸ばして、つま先立ちになり、それでも届かないので、左足で片足立ちをして、右手を限界まで伸ばし、ようやく紙の器を台の上にのせることに成功した。


(……紙の器って洗えるのかしら?)

無事お片づけてきた事に満足して頷いていたら、ふとそんな事が頭をよぎる。

「…………」

しかし気がついた時にはもう遅い。

限界まで背伸びして台の上にのせた器には、もう手が届かない。

アーシャはどうしようかと思案した結果、ユズルが寝転ぶソファーに、助力を求めにいく。



しかしユズルは買い物で疲れてしまったのか、ソファーに寝そべって動かない。

普段ソファーに寝そべっている時に近寄ったら、うるさそうに追い払われてしまうのだが、今はそれもなく、何故かうつ伏せで倒れ込んでいる。

ピクリとも動かない。

思った以上に体調が悪いのかもしれない。

(……治癒したほうがいいのかなぁ……)

そうは思うが、先程怒られたばかりなので下手な手出しができない。


助力を求めることも、治癒する事もできず、かといって心配で離れる事もできなくて、アーシャはユズルを見守る。

(こっそり治癒したら怒られるかしら)

アーシャは手を開閉して自分の状態を確認するが、残念なことに、自分の力は、もう分け与えられるほど残っていない。

自分の中の力を分け与えられないなら、舞いで神気を呼び起こしての治癒しかできない。

しかし、家の中は地面から離れているので、神気を呼び起こすには、かなりの時間を要する。

ゴブリンの筋力に乏しい体では、静かに舞うなんて芸当は絶対できないので、やったら確実に絶対にバレてしまう。


(どこまでが良くて、どこからがやってはいけない事なのかしら……)

アーシャはちょっとだけ途方に暮れている。

植物を育てるのは絶対に駄目。

治癒も恐らく、駄目。

では結界を張ったり、浄化したりするのは、どうなのだろう。

基本的に舞いで神気を呼び起こし、練り上げる動作は共通なので、駄目な気はする。

(でも、あの神気に溢れた土地では、特に怒られなかったわ。何か駄目な条件があるのかしら?)

しかし以前やった時は、ばっちり長時間、ユズルの前で舞ったが、怒られなかった。

言葉さえ通じれば、何が駄目なのか教えてもらえるのだが、今のアーシャには仮説を立てることしか出来ない。


(と、すると、舞うのは良いのかしら。あそこで使ったのは結界と浄化……のつもりだっだけど、何かが体の中に入って……あれは結局何だったのかしら……)

思い返して、アーシャは首を傾げる。

自分じゃない何かに体を乗っ取られた、あの不思議な感覚。

乗っ取られたと言っても、全く不快ではなく、むしろ体を満たす神気と万能感は心地良かった。

己が巨大な理の一部になったような、理を取り込んだような、筆舌しがたい感覚だった。

己の五感が遠のいたようでいて、しかし周りの全てを見渡し細かく感知できる、不思議な状態。

この世界の事は何も分からないはずなのに、あの時、体は完全に何をすべきか悟っていた。

(そう言えば、あの時のゼンも何か違っていたような……)

ずっと意識があったはずなのに、思い出そうとすると、認識していた物が、朧げに感じる。


(とりあえず、結界はやって良くて……浄化は、どうなんだろう。あれは神気を練り上げたものを、ぶつけるだけだから、結界が良いんなら、やって良いような気がするけど)

そう結論づけてみるが、いまいち、自信を持って正解と言い切れない自分がいる。

(神の国の言葉がわかったらなぁ)

アーシャはため息を吐きながら、ソファーに頬を預ける。


毎日、美味しい物ばかり食べさせてもらって、温かい家と清潔かつ極上の寝床を提供してもらって、大量の水を消費して綺麗に洗ってもらって、その上、今日は用途不明だが沢山の品物を買ってもらって、至れり尽くせりなのに、アーシャにできることは、迷惑をかける事だけなんて、切ない。

言葉さえわかって、この国の決まりや説明さえ聞けば、きっと何か、ゼンたちのためにできる事を、見つけられるはずである。


ゼンが見返りを求めて、アーシャを助けてくれているわけじゃない事は、すごく良くわかっている。

アーシャが嬉しい時に、それを一緒に喜んでくれて、危ない時は何を置いても駆けつけてきてくれた。

神の『無償の愛』なんて嘘っぱちだと思っていた、ひねくれ者のアーシャであるが、絶え間なく雛に餌を運ぶ親鳥の如きゼンの愛情は、無償だと確信している。


(でも無償で与えてくれるからと言って、貰い続けるだけなんて絶対駄目。何か、きっと私からも返せる物があるはずよ。その為にも一生懸命、神の国のことを勉強………するために、まず、言葉を覚えないと)

しかし手詰まりだ。

言語の習得となると、二カ国語を話せる人に師事するのが一般的だが、その師事できる相手がいない。

書物もない。

発音の仕方も全然違うので、まだ上手く聞き取る事すらできない。

ないない尽くしである。

打開できない状況に、アーシャのため息が止まらない。


そんなアーシャの頭がポコンと叩かれる。

「う拒智培嗣、チビ渠」

顔を上げたら、体の向きを変えたユズルが、不機嫌そうな顔をしている。

近距離でため息を吐きすぎて、うるさかったのかもしれない。

「ごめんなふぁひぃ」

慌ててアーシャは謝ったが、両頬を思い切り掴まれて、唇が鳥の嘴のように変形させられてしまう。


ユズルはブニブニと、アーシャの頬を変形させまくる。

しばらくそうやって、満足したらしく、「フンっ」と鼻で笑ってから、体を起こす。

そして卓の上に置いてあった、いつぞやゼンが見せてくれた、『真実の鏡』の神の国版を手に取って、ソファーに戻ってくる。

「砦寄宥閤、チビ」

今度は横向きに寝そべったユズルは、自分のお腹の前辺りの、空いた場所を、ポンポンと叩く。

そこに座れと言う意味だろうか。

いつもはソファーで寛いでいる所に近付くと、容赦なく追い払うユズルが珍しい。


アーシャが短い足を駆使して、何とかソファーに登って座ったら、ユズルはその隣に、神の国の『真実の鏡』を置く。

それは見た目は羊皮紙一枚分くらいの大きさの、厚みのある金属の板なのだが、前が硝子張りになっており、触れると、遠くと繋がるのだ。

以前、これで小人族の祖母と孫が、物凄く美味しそうな肉料理を作っているのを、見せてもらった。

『神の国の真実の鏡』では無駄に長いので、アーシャは勝手に、心の中で『奇跡の鏡』と名付けている。


「ほれ」

ユズルが奇跡の鏡をアーシャに向ける。

「……………?」

今日は一体どんな所に繋がっているのだろうと、ワクワクしながらアーシャは覗き込んだのだが、そこには、ずらっと色鮮やかな果物が並んでいるだけだった。

画面全体に色々な果物が一緒に並んでいるわけではなく、小さな四角の枠の中に、それぞれの果物が一種類づつ入っているのだ。

(全然動いていないわ。……いや、いくら神の国と言っても、果物が一人で走り回ったりするわけないし、したら怖いんだけど……なんかこう……変?)

初めは、世界のどこかにある果物が映っているのかと思ったが、果物は微動もしないし、何か違和感がある。


(もしかして……これ、絵なのかしら?)

しばらくじっと見て、アーシャは気がついた。

鏡の中の果物は、どう見ても実物に見えるのだが、丸のままの果物の前に、中身が見えるように切った物が並べられたりしていて、まるでその果物を見せるために書いた絵画のような構図なのだ。

しかも果実だけがはっきりと描いてあり、その周りの風景が滲んでいる。

これは絵画でないと、できない事だ。

(こんな瑞々しく、本物と見まごうような果物を描くなんて……神の国の画家は凄いわ)

アーシャは感心してしまう。


(林檎、オレンジ、葡萄……これは苺……?)

その色鮮やかさから、恐らく全て果物だと思うのだが、殆ど見た事がない物ばかりだ。

沢山並んだ果物の中で、アーシャが認識できるのは、わずか三種類だけだ。

苺らしきものは、色とヘタから、そうではないかと思ったのだが、アーシャの知る苺はもっとブツブツしていた気がする。

(苺なんて、王都に出てから食べる機会もなかったからなぁ)

足の早い苺は、作物として育てるのには向かないので、畑には無い。

野山に分け入って、食べる分だけを摘んでくる物なので、王都に連れて行かれてから、目にする機会は無くなっていた。

甘酸っぱくて美味しかったのは覚えているのだが、姿形に関しては記憶が薄くなっている。


「鷺矩おお盛たら射辱んだ」

奇跡の鏡を見ながらアーシャが首を傾げていたら、ユズルが何かを説明しながら、左上の枠にある林檎に触れる。

「普曇優」

するとそれに呼応するように奇跡の鏡が喋った。

「!!!」

アーシャが驚いていたら、ユズルは次は林檎の隣のオレンジに触れる。

「掛主汎労式膿夙灼」

するとやっぱり奇跡の鏡は喋る。

若い女性の声のように聞こえるのだが、妙に違和感を覚える、抑揚のない話し方だ。

鏡が感情的に話したら、それはそれで怖そうだが、全く平坦な喋り方も怖い。


ユズルは触ってみろとばかりに、アーシャの手と奇跡の鏡を、指差しながら往復する。

ゴクリと唾を飲み込んで、アーシャは林檎の絵に、そっと触れてみる。

「普曇優」

すると奇跡の鏡は何事か喋る。

一体何と言っているのだろうと、耳を澄ましながら、もう一度触れる。

「普曇優」

先程と同じ言葉だ。

「普曇優」

「普ん優」

「普んご」

「りんご」

何回も触って、何回も同じ事を喋らせて、ようやく耳が慣れてきた。

「いんご?」

アーシャは確信を持って、林檎の絵を指差しながらユズルに尋ねる。

「りんご、な」

ユズルは片頬を上げて、小さく頷く。


(凄い!!!)

アーシャは目を輝かせながら、奇跡の鏡を見つめる。

何と、奇跡の鏡は遠くの場所を映すだけではなく、神の国の言葉を教えてくれるのだ。

今、一番アーシャが望んでいる知識をくれるなんて、何て素晴らしい鏡だろう。

「材絹徽や著から、爪狽備殖え杏」

ユズルは使えとでも言うように、その鏡をアーシャの方に押す。

大切な奇跡の鏡を床に落としたりしないように、気をつけながら、アーシャは硝子面に触れる。


それからアーシャは奇跡の鏡に夢中になった。

聞き取れるまで、何度も同じ果物の名前を喋らせるのに、奇跡の鏡は苛つく事もなく、ずっと同じ調子で、淡々と教え続けてくれる。

素っ気ないが、優しい鏡だ。

聞き取れるまで、名前を繰り返してもらって、自身も鏡の声を真似て、発音する。

(何でオレンジは三つも名前があるのかしら?『ぐれぇぷふるぅつ』『みかん』『おれんじ』何が違うのかしら?色?大きさ?)

しかし中々理解できないし、覚えられない。

何せ殆どが見た事ない果物ばかりなのだ。


(神の国は何て凄い数の果物があるのかしら。……絵と単語を覚えるだけで一苦労だわ……)

何十回やっても上手く覚えられなくて、思わず心が折れそうになってしまう。

(いいえ!『都は一日にして成らず』よ!聖典を覚えさせられた時も無理だと思ってたけど、少しづつ頑張ってやり遂げたじゃない!)

アーシャは折れそうな自分を鼓舞する。

しかもこれは面白味の欠片もない聖典ではなく、アーシャの求めていた知識である。

(こんなに鮮やかな色の果実は、どんな味がするのかしら?)

時々心の中で脱線しながらも、アーシャはせっせと言葉を覚える。


「ん?」

隣で見守ってくれていたユズルは、いつの間にか目を瞑って、寝息を立てている。

神の国の家は、外がどんなに寒くても、中が凄く暖かい。

石造りではなく、木でできているせいだろうか。

家の中は常春のように過ごし易い。

(でも何もかぶらずに寝たら風邪をひいちゃう)

アーシャは腹ばいでソファーを滑り下り、椅子に掛かっていた、ユズルの上着を引っ張って取る。

「ふっ、はっ!」

それを短い手足で、苦労しながらユズルに掛ける。



不格好ながら、何とか掛け終えたところで、ガチャリと出入り口が開く音が響いた。

「!」

アーシャは飛び上がるようにして、扉の方を見る。

そこには予想した通りの、大きな影が入ってきている。

「ゼン!」

離れていたのは少しの間だけだったが、殆ど離れる事がないので、帰ってきてくれると、すごく嬉しい。

アーシャはバタバタと駆け寄っていく。

「アーシャ、総鶴い才」

嬉しさそのままに、ついついアーシャは助走をつけた全力で飛びついてしまったが、ゼンは微動だにせずに受け止めてくれる。


どんなに思い切り力を込めても、ダメージにならないことを知っているから、アーシャは臆する事なく全力で彼を抱きしめる。

自分でも驚くほど、ゼンが帰ってきた事が嬉しくてたまらない。

「お瑞祇痢血俊吋主かったな。尋汚節佐お績湛月醇没室疹たからな」

そんなアーシャを軽く抱きしめ返してから、ゼンは小さな袋をアーシャに見せる。

荷物の大半は、彼の背負い袋の中のようだが、これだけは別に持って帰ってきたらしい。


渡してもらった袋を覗き込んで、アーシャは目を大きく開く。

透明の包みに入った、輝く大粒の、赤い艶めき。

「い・ち・ご!!」

アーシャは張り切って、たった今の学習の結果をご披露する。

ゼンは驚いたように目を見開く。

「漣う、いちごだ。庵漣旗いた篤か?」

ゼンに『正解』とでも言うように、頭を撫でてもらって、アーシャは鼻高々である。

まさかこんなにも早く勉強の成果を発表する機会に恵まれるなんて、最高についている。

「い・ち・ご!」

胸を張りすぎて、反り返りそうになりながら、自信満々にアーシャは繰り返す。

「嬰呼だな。いちごだな。簡約庵詰慣貝些噺うな」

そんなアーシャの様子がおかしかったらしく、ゼンは笑っている。


覚えたての『いちご』の美味しさはまだ知らないが、まるでプレゼントのように渡されたことが嬉しい。

アーシャはゼンに笑い返しながら、もう一度、彼の足に抱きつくのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る