8.幼児、通園グッズを選ぶ(後)

「アーシャ、行こう」

「ん?」

ぬいぐるみに喜ぶアーシャを想像しながら、禅一はフワフワとした足取りで、玩具の並べられた通路を目指す。

不思議そうな顔をしていたアーシャも、禅一の楽しい気分が移ったのか、楽しそうにぴょんぴょんと弾みながらついて来る。

「わぁ!」

オモチャだらけの通路に来たら、アーシャは歓声を上げる。

そんなアーシャを微笑ましく見守っていた禅一は、ふと目に入った玩具の値段に声を上げそうになる。

(え……!?ぬいぐるみって意外と高い……!!)

一番安くて二千円くらいで、禅一が思い描いていた、子供が抱っこするようなサイズは五千円前後の法外な値段だ。


(いや……オモチャって高過ぎないか!?)

並んでいる箱についている値札に、禅一は愕然とする。

とにかく高い。

五千円付近のオモチャが非常に多い。

駄菓子屋に置いてある程度のオモチャの価格帯を想定していた禅一は、ギャップが大き過ぎて戸惑う。

(千円以内のオモチャなんかあるのか!?)

頭を抱えたい気分だったが、アーシャが近づいて行ったのは、ぬいぐるみでもなく、箱入りの豪華オモチャでもなく、下の棚に並べられたミニカーだった。


禅一はアーシャの隣にしゃがみ込む。

そしてしっかりと、そのお値段を確認して目を見開く。

ワンコインで買える価格だ。

(あ……そう言うことか)

周りを見て、気がつく。

子供の視点で見えるオモチャの価格帯は、上の棚に比べ、十分の一程度なのだ。

大人の視点に置いてある箱入りのオモチャは、大人が子供に買い与える用で、子供の視点に置いてあるものは、子供が欲しがる用なのだろう。

(コレくらいの価格帯なら、買い物に付き合ってくれたご褒美に買ってあげられるって事か)

毎回五千円近いオモチャを欲しがって、泣き叫ばれたら堪らないので、自然と客足は店から遠のいてしまう。

しかし懐に大ダメージを与えない、お値段控え目な物なら、まぁ仕方ないかと買い与えるので、売上になる。

(そういえば、スーパーでも下の棚には、安い駄菓子が置いてあるもんな)

考えてあるなぁと、禅一は感心してしまう。

子供を連れていないと気が付かない事だった。


ミニカーの安さに安堵しつつ、禅一が見守っていると、アーシャはそっとミニカーに触れる。

優しく押されて、コロコロと進むミニカーに、アーシャは満面の笑みになる。

「しゅやむみぃに!!ね、ぬぃんにぃみ!」

言葉はわからないが、顔を紅潮させ、喜びの報告をしてくれた事だけはわかる。

禅一はウンウンと、興奮しているアーシャに相槌をうつ。

(もっと走ったら、もっと喜ぶかな)

そう思って、ミニカーを掴んで、少し後ろに引くと、バネが回る感覚が手に伝わる。

プルバック式で進むタイプだ。


そっと禅一が手を離すと、ミニカーはトタトタと走り出す。

「!!!!!!」

それを見たアーシャは目と口を大きく開き、歓喜に頬を染め、何回もミニカーと禅一を交互に見る。

目は口ほどに物を言うというが、ミニカーが走っている喜びを、視線だけで伝えてくる。

「あっ」

トタトタと走り、棚からコースアウトしそうになったミニカーを、アーシャは両手で受け止める。

「ふふふ、ないしゅいみぃん!」

そしてヒヨコでも持つかのように、大切そうに柔らかくミニカーを包み込み、頬を寄せて笑う。


「みぃ、じゅうな!」

アーシャはそっと優しくミニカーを棚に戻す。

そして少し見守った後、動き出さないミニカーに不思議そうに首を傾げる。

「なぁにょういんぬ?」

声をかけても当然動かないミニカーの天井を、アーシャは励ますようにナデナデと優しく撫でている。

「っっっ!!!」

なんて面白可愛い。

完全にミニカーを生き物認定して、語りかけている。

アーシャの気分を害してはならないので、禅一は必死で吹き出しそうになるのを堪える。


動くだけで生物認定してしまう所も、動かない事に腹を立てるどころか心配している所も、子供とはなんと愉快で可愛いのだろうか。

しかしいつまで経っても動かないミニカーを心配させるのは可哀想だ。

禅一はミニカーを元の位置に戻してから、もう一度走り出させてやる。

「わっ!」

再びトタトタとゆっくり走るミニカーにアーシャは歓喜の声をあげる。

そしてまた、棚から落ちないように、アーシャは両手を広げて準備しようとしたのだが、

「……あっ」

後ろに来ていた少年が、突然アーシャの手を乱暴に押し退けて、ミニカーを掴んだ。


アーシャと禅一は一緒に、呆然と、突然割り込んできた少年を見る。

ミニカーを掴んだ少年は、取られまいとするように、懐にそれを抱き込む。

歩いてきていた少年が、アーシャが遊んでいる様子を見ている事に、禅一は気がついていたのだが、棚には同じ商品が沢山並べられているので、まさかアーシャが触っているミニカーを奪われるとは思っていなかった。

(えっと……こういう場合は取り返した方が良いのか……?)

禅一は迷う。

大きさ的にアーシャと同程度の少年に、禅一がミニカーを返すように言ったら、どんなに優しく言っても、怯えて泣かれる未来しか見えない。

普通であれば、遊んでいたミニカーは、同じ物がまだ沢山あるので、それをアーシャに渡せば丸く収まるのだが、ミニカーを生き物と思っているアーシャに、そんな対応をして良いのか判断がつかない。


普段は割と即断即決なのだが、子供関連は判断が難しい。

悩む禅一に、救いの手はやって来た。

「こら!お友達の取ったらダメでしょ!!」

少年の母親と思しき、ひっつめ髪の女性だ。

保護者が介入してくれれば解決だと、禅一はホッとする。

「やっ!」

「みぃ君!ほら、こっちに同じのがあるから。それはお友達にどうぞして?」

「やっ!」

「………どうしてお友達のものばかり取るの!!」

しかし安心したのも束の間。

抵抗する子供に、女性の口調がキツくなる。

女性はヒステリーを起こす、決壊一歩手前といった様子で、再び雲行きが怪しくなる。


アーシャを確認したら、ミニカーを取られたことを全く気にしている様子はない。

それどころか、母親の方を心配そうに見ている。

(ここはこちらが引くか)

そう思って禅一が口を開きかけた時、

「お友達のを取ったらダメだって言ってるじゃない!!どうぞして!!」

女性は実力行使で、子供からミニカーを取り戻そうとした。

「いやぁぁぁ!いやぁぁぁぁぁ!!」

すると少年の方が、一歩早くヒステリーを起こしてしまった。

金切り声を上げながら、ミニカーを持った手を振り回す。


(いかんな)

このままでは女性が怪我をしてしまう。

禅一は女性と少年の間に入ろうと思ったが、それより早く動いた者がいた。

「ほっ!」

掛け声を上げつつ、アーシャが少年の手を引っ張ったのだ。

「わっ!!」

「へぁっ?」

距離を取らせると言う発想は良かったが、足元のおぼつかない幼児は、急激な体重移動でバランスを崩しあって、二人揃って、コロンと倒れそうになる。

「おっと」

その小さな背中を禅一は支える。


「ゼン」

倒れかけた状態のまま、アーシャは禅一を見上げて、全幅の信頼を込めて、無邪気に笑う。

禅一に支えられたとわかれば、あっという間に、彼女は筋肉の緊張を解いてしまう。

「ピッ」

対する少年は禅一を視界に入れた途端、悲鳴になり損ねた、何かの鳴き声のような音を出して、硬直してしまう。

禅一に対する普通の幼児の反応だ。

幼児二人を立て直すと、少年は石像のように固まり、アーシャは遊びの一環であったかのように嬉しそうに禅一を見上げる。

「突然お友達の手を引っ張ったらダメだぞ」

一応、保護者らしく、アーシャのおでこを人差し指でつついて、禅一は注意を促す。


「……すみません、うちの子が……」

静かになった子供を前に、冷静さを取り戻した母親が頭を下げる。

「うちの子も、突然手を引っ張ってしまって、すみません」

禅一も慌てて頭を下げる。

『うちの子』と言うのは何となく面映い。

まだノービスと言うのも烏滸おこがましい、子育て初心者だからだろうか。


「凄く、優しい子ですね」

勝手に禅一が照れていると、アーシャを見ていた女性がポツンと呟く。

「そうでしょう!」

謙遜すべきところで、禅一は思わず全力で肯定してしまう。

女性が驚いた顔になるのを見て、禅一は顔に血が集まるのを感じる。

これでは空気の読めないバカ親だ。


「………あ、すいません。この子は……親戚の子で、最近引き取ったばっかりで、その、凄く良い子だなって思っていて……つい本音が……」

言い訳にもならないような事を、ゴニョゴニョと禅一が言っていると、女性はフッと笑う。

「ホント、凄く良い子です。ほら、うちの子を気遣ってくれて」

見れば、アーシャは固まってしまった少年を元気づけるように、盛んに何か話しかけている。

ミニカーを取られた事も全く気にしていない様子で、笑顔で少年に対応している。


「……ホント、凄く良い子……」

そんな子供たちを見ていた女性の表情は暗い。

まるで良い子であることが悪い事のようだ。

「どうかされました?」

余計な事かとは思ったが、禅一は聞いてみる。

「いえ……うちの子とは、全然違うなと思って……」

母親の目は、追い詰められた者のそれに見える。

「そうですか?ほら、二人で仲良くやってますよ」

何やら話している子供たちに、禅一は目を細める。

ちびっちゃいドングリが、仲良く動いている様子は、何とも癒される。


「うちの子は……全然ダメなんです。入った幼稚園でも、トラブルばっかり起こして。ちっともじっとしてくれないし、さっきみたいに、お友達のオモチャを奪ったり、お友達を叩いたり、噛み付いたり。どんなに怒っても聞いてくれなくて……もうすぐ幼稚園に入って一年になるのに、お友達も全然できなくて……」

話しているうちに、女性の顔はどんどん暗くなっていく。

水を向けたものの、自身は全くの子育て未経験の禅一には解決できなさそうな話だった。

「言葉も増えないし、さっきみたいに癇癪もすぐに起こして……もう三歳なのに、夜泣きも全然治らなくて……」

禅一は女性の話を聞きながら、自分の中の知識の引き出しを開けまくるが、全く気の利いたアドバイスが入っていない。

アーシャは時々荒ぶるが、基本的に大人しいし、他害をするなんて絶対ありえないし、夜も禅一のシャツを齧る事がある程度で、問題らしい問題もなく、朝までぐっすりだ。


全く相談相手になれる力量はないが、明らかに目の前の女性は助けがいるレベルに病んでいることはわかる。

一体自分は彼女に何ができるのか。

禅一はかけるべき言葉を探す。

「ぶっぶ〜」

そんな中、少年の楽しそうな声が響く。

声と一緒に、床に放たれたミニカーが走り抜けていく。

「おおおっ!」

それを見たアーシャは顔を輝かせて、激しく拍手をしている。


「こらっ!みぃ君!」

母親は商品を床で走らせる少年を捕まえようとするが、大きく迂回して、少年はミニカーを追いかけていく。

そして少年は捕まえたミニカーをアーシャの方向に、再び発進させ、それを見たアーシャは大喜びでぴょんぴょんと跳ねている。

すっかり打ち解けてしまった様子で、ミニカーを動かせないアーシャに、少年が動かし方をレクチャー始めている。


「とりあえず、『お友達』はできたみたいですよ?」

キャッキャと笑い合う子供たちを、女性は信じられない様子で見ている。

「えっと……素人考えで申し訳ないんですが、お子さんがパニックを起こすスイッチのようなものがあるんじゃないですかね?そのスイッチを押さない子とだったら、案外、ああやって上手くやれるのかもしれないですよ」

「そう……でしょうか……」

「俺はまだ、子育てとか全然わからないんですけど、その『スイッチ』に思い当たることはありませんか?」

そう聞くと、女性は疲れた顔で首を振る。

「う〜ん……じゃあ、子供のプロに頼ってみたらどうでしょう?」

「え?」

「お子さんのプロはお母さんですけど、もっと色々な子供を見ているプロがいると思うんですよ。えぇっと……小児科医的な……?沢山の子供のデータを持っている人。そんな人に相談してみてはどうでしょう?良い対応策を知っているかもしれませんよ」

ふっと禅一の脳裏には、変わり者の乾医師が浮かぶ。


「でも……主人が……そう言うのに反対で……」

女性の顔は沈む。

恋人すらいない禅一には、夫婦のありようなど想像もつかない。

しかしパートナーの窮地を、更に追い詰めるような奴の言う事を聞く義理があるのだろうかと、首を傾げる。

「ご主人って、貴女以上に、お子さんの事を知っていますか?」

「いえ……全然。うちはほぼワンオペで……」

「じゃあ、口を挟むなって言ってやって良いですよ。口を挟んで良いのは、ちゃんと問題に向き合っている人だけです。この問題は、お子さんのプロである、貴女の判断が優先されるべきです」

禅一は自信を持って言い切る。

内情を知らない部外者の講釈ほど役に立たないものはない。


子供たちは無邪気にハイタッチなんかして、キャッキャと笑っている。

「解けない問題を一人で考え込むより、解答を知ってる人に教えてもらう方が、効率も良いし、楽ですよ。一人で頑張って解くのも、そりゃあ達成感はありますが、お母さんはただでさえ大変なんだから、ちょっとの事でも楽をできる道を選んだ方が良いと思います」

禅一が『若奥の会』に助けてもらったように、彼女も誰かに助けてもらったほうが良い。

手を繋いで移動を始めた子供たちに、禅一は目を細める。

女性も仲良くしている子供たちを見て、目尻を下げている。


「どーぞ!」

女性と禅一の視線の先で、少年がミニカーをアーシャに差し出す。

「……あの子が『どうぞ』をするなんて……」

それを見た女性は目を潤ませる。

どうやらあまり人に物を譲ると言う事ができない子のようだ。

「多分、スイッチさえ踏まれなかったら、お子さんも『良い子』なんですよ。お子さん的にもスイッチを避けて、ああやって笑っていられた方が良いんじゃないかなと思います」

笑い合って、ギュウっと短い手でお互いを抱きしめ合う子供たちを見て、女性は曖昧に頷く。


女性の横顔には迷いと疲れが見える。

(物凄い疲れてるみたいだな)

精神的なものか、肉体的なものか、禅一には判断がつかないが、子供のための行動を起こす前に、女性自身に病院の助力が必要そうに見える。

(乗り掛かった船だ。取り敢えず、譲に話をして、何か相談できそうな所に連れていくくらいはしても良いだろ)

こうなるとお節介心がムクムクと頭をもたげる。


「アーシャ」

禅一は譲の所に行こうと、アーシャを呼ぶ。

呼ばれたアーシャは嬉しそうに禅一を見上げて、隣の女性を見てギョッとした顔をする。

そしてトトトっと急いで女性に駆け寄る。

「ひ、ひんうぃにぃな?」

小さな手がセッセと女性の太ももを撫でる。

どうやら慰めているようだ。

確かに普通の子供とは、ちょっと行動パターンが違う気がする。


女性を心配そうに見上げていたアーシャは、クルリと禅一に向き直り、勢い良く両手を上げる。

「ゼン、むぃんじゃしゃいにぃ。いにぃ」

見事なキューピーちゃんポーズだ。

グッグッと伸びているところを見ると、抱っこして欲しいようだ。

「どうした?」

突然の要求に首を傾げながらも抱き上げると、アーシャはニーッと歯を見せて大きく笑う。

「へへへ」

抱っこだけで、こんなに嬉しそうに笑ってくれるのだから、やり甲斐がある。


そんな事を禅一が思っていたら、真面目な顔になったアーシャは大きく息を吸い込んだ。

そして何だろうと思う間も無く、透き通った高音の声が響いた。

人間離れした、妙なる歌声。

普段の子供らしい声と、響く歌声は全く別物で、アーシャが歌い出して暫くしてから、禅一はアーシャが歌っていることに気がついた。

まるで歌声を手で広げているかのように、アーシャの腕が動く。

ふわりふわりと空気を持ち上げ、かき回し、少年の母親に何かを注ぐような動きを、禅一は不思議な物を見る気分で、ぼんやりと見ていた。

歌声も柔らかい腕の動きも、全てが現実離れしている。


「チビ!!」

夢見心地で歌を聴いていたら、鋭い声が、それを切り裂いた。

ハッと意識を取り戻した禅一たちの方へ、まなじりを決した譲がズンズンと近づいてくる。

(あ、もしかして……)

ぼんやりと聞き入ってしまっていた禅一は、今更、女性の様子を確認する。

(……やっぱり……)

そして禅一は自分の頭を掻き回す。

瞬時に成長した小松菜程ではないが、先ほどまで萎れかけていた女性の顔が、生命力を取り戻している。

白っぽいと思っていた顔には赤味が差し、光を失っていた目が生気を取り戻している。

間違いなくアーシャが、あの不思議な力を使ったのだ。


「ゆ、ユズゥ……」

明らかに怒り顔の譲に、アーシャの小さな手が、禅一のシャツを強く握る。

「な・に・し・て・ん・だ!」

そんなアーシャの頬を、譲は容赦なく伸ばす。

「あひゃ、いひゃぁい、いひゃぁい〜〜〜」

「ゆ、譲!」

反射的に禅一は、譲の手を握ってアーシャから外す。

すると今度は怒りに燃えた、色素の薄い目が、禅一を睨む。

「お前は止めもせずに何をボサっと見てんだよ!」

「うっ」

しっかり脛に蹴りを入れられて、禅一は声を漏らす。


「こんな店の中で大声で歌わせるな!コイツは止めなかったら所構わず歌うんだ!」

「す……すまない……」

大声ではないが、怒りを押し殺している、荒い語調に女性が目を見開いている。

突然現れた譲にも、その怒りにも驚いている。

「……すいません、うちのチビ、いきなり歌い出す癖があって、いつも止めるように言っているんですが」

譲は無理やり自分を紳士モードに切り替えて、女性に頭を下げる。

「あ、いえ……えっと……」

突然現れた美青年の微笑みに、女性の血色は、ますます良くなっている。

そんな女性に譲は爽やかに笑いかける。

普段は愛想の『あ』の字もないくせに、最大限に自分の外見を使い始めた。


「何かどこかで見た、舞台か何かの真似を、どこかまわずするんです。……ほら、禅、お前も謝れ!」

「あ、と、突然すみませんでした」

禅一も慌てて頭を下げる。

「あ、い、いえ、私の方が、悩みとか聞いてもらっちゃって……」

「悩みですか?それ、俺も聞かせてもらっても良いですか?」

普段の譲を知っている身から見れば、怪しさ全開だが、一般の人から見たら物凄く爽やかで物腰の柔らかいイケメンに見えるんだろう。

女性の顔色は『血色が良い』を通り越して、真っ赤になっている。

「悩みって口に出すだけで、気分がスッキリして元気になりますよね。迷惑をかけたお詫びにもなりませんが、お力になりたいです」

一体目の前の好青年は誰だろうと言いたくなる別人ぶりを、譲は見せる。

後光でも差しそうな勢いの笑みに、女性の目は潤んでいる。


イケメンスマイルで女性を釘付けにしつつ、女性から見えない位置で、譲はシッシと手を振る。

(凄いな……)

アーシャが歌った事を、自分の存在感で上書きする気だ。

女性の体調が良くなったのも、悩み事を吐き出したからだと、全力で誤魔化す気なのが、ありありと伝わってくる。

禅一には絶対できない芸当だ。

(すまん)

本当は絶対やりたくない事をやっているであろう譲に、心の中で詫びて、禅一はその場を後にする。

(少年もすまないな)

アーシャを連れて行かれて少し寂しそうな顔の少年にも、心の中で謝りつつ、手を振ったら、固まってしまった。

これは余計な事をした。



大きい体ながら、何とか存在感を消して、レジの見える通路に移動した禅一は盛大にため息を吐いた。

完全に禅一の失態だった。

歌い出した時に気がついて止めるべきだったのに、呑気に聞き入ってしまった。

「ゼン、みぃにゅいんない」

禅一が止めそこなったアーシャは、しょぼんと頭を下げる。


アーシャは悪いことはしていない。

むしろあの女性を心配しての行動だったし、目に見えて回復したのだから、良い事をしたのは間違いない。

きっとあの女性は活力を得て、何かしら行動を起こすことができるはずだ。

本来なら褒められるべき事をした。

それなのに、今にも泣きそうな顔をして反省しているのが、可哀想でならない。

禅一は小さくなるアーシャの頭を撫でる。


(でもこんな力があるなんて知れたら、誰に狙われるか分からないからな……)

こんな聞いた事もないような奇跡を、欲しがらない人間の方が少ないだろう。

治癒を望む者、研究したい者、利用したい者。

きっと無数の人間が、この無力で小さな子を狙うだろう。


ノロノロと顔を上げたアーシャに、禅一は人差し指を唇の前に立てて見せる。

「アーシャ、な・い・しょ。な?」

そう言うと、ますますアーシャの顔が暗くなる。

この子を守れるのが、この身のたった二本の腕しかないことが悔しい。

もっと禅一が力を持っていて、誰にも手出しさせない自信があれば、彼女の良心を押さえつけるような真似もしなくて良いのに。


(内緒だけど悪い事じゃないんだ)

己の無力が腹立たしい。

その優しい心を摘み取る事でしか守れない事が悔しい。

言葉が通じない事がもどかしい。

「アーシャ」

呼びかけると、普段の明るさが削げ落ちて、落ち込んでしまった顔が、禅一の方を向く。

こんな表情をさせたくないのに。

禅一は丁寧にアーシャの頭を撫でる。

しかしその表情は光彩を失ったままだ。


「……………」

禅一は忸怩たる思いを飲み込んで、思い切り笑う。

そして頭を撫でる手に力を入れて、フワフワの黒髪を掻き回す。

「アーシャ、良い子、良い子っ」

明るい声で、唐突に褒め称えると、アーシャは驚いた顔になる。

「バレたら大変だからナイショなんだけどな。俺はアーシャの事を誇りに思ったよ。鼻が高い」

それは偽らざる禅一の本心だ。

難しい言葉なんて、理解できるはずがない。

それでも伝わって欲しいと願わざるを得ない。


緑の目がじっと禅一の目を見つめている。

「……って言葉で伝わったら楽なんだけどな〜〜〜。アーシャは良い子、良い子!」

悔しい思いを込めて、禅一は小さな体を、何かから守るように抱きしめて、もどかしさのままに、左右に振る。

「ひゃっ!」

アーシャはびっくりしたようだが、振り回されて、ちょっと面白かったらしい。

その頬が緩む。


「良い子、良い子!」

そう言いながら、高い高いをしてやると、緑の目がまたキラキラと輝く。

内緒にしなくてはいけないが、悪いことはしていないし、怒られているわけではないのだと伝われば良いと思う。

「良い子、良い子!」

少し空に舞い上げるようにしてやると、

「ふふふっ、ふひゃっ、ふひゃっ!」

アーシャは愉快そうに笑い始める。

問題の先送りでしかないが、今はアーシャが笑ってくれれば良いと禅一は思う。



「………店内で何やってやがる」

そのままアーシャを放り上げて、局地的なわっしょい祭りを開催していた所、無事、譲に叱られたことは言うまでもない。


「……どうだった?」

恐る恐る禅一が訪ねると、譲は苦虫をどんぶり一杯口に突っ込まれたような顔になる。

「一応役所の相談窓口と、乾さんトコを紹介しといた」

無理やり発動させたキラキラ好青年モードのせいか、譲はぐったりと疲れている。

「えっと……歌の事は……」

更に声をひそめて尋ねると、譲は仏頂面で頷いた。

「念入りに、『誰かと話すだけで元気になったりするから』って言っといた。チビのことはすぐ忘れるだろうよ」

キラキラモードは自分でも気持ち悪かったらしく、譲の顔は不本意そうな顔のままだ。

「疲れた。俺は先に車に戻って休んどく」

そして譲は、しっかりと入園セットをかき集めたカゴを禅一に押し付けて、フラフラと車に戻っていってしまった。



(『普通』じゃないこの子を、どうやって育てていけば良いんだろうなぁ)

能力も性格も行動も、『普通』ではない子を、育児のノウハウを全く持っていない、ただの学生が、良い所を潰さないように、かつ、安全に育てられるだろうか。

「ふぉぉぉぉぉ〜〜〜〜」

禅一の悩みなど知らず、アーシャは大きな買い物袋を、こぼれ落ちそうに目を見開いて見ている。

たくさん笑ったせいか、表情はすっかり戻っている。

この無邪気さだけは守ってやりたいものだ。

「ぜーんぶ、アーシャの」

サンタクロースの袋のようになった買い物袋を、持ち上げながら禅一は笑った。

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