6.兄弟、虫を捕まえる(前)
「……禅、お前、何でそっちに行こうとしてんの?」
「え?昼ごはん、食べるんだろ?」
「その道の先には、ぎゅうぎゅう亭しかねぇんだが?」
「え?行かないのか?平日限定ぎゅうぎゅう焼肉ランチ九八〇円」
「行かねぇよ!!俺に焼肉臭漂わせながら役所に行かせる気か!!」
「え〜〜〜、じゃあ……」
「欧米人は生魚食べられないかもしれないから回転寿司はやめとけ」
「……エスパー?」
「誰がエスパーだ。今、お前がガン見してただろうが」
昼もしっかり食べたい禅一と、昼はお手軽に済ませたい譲の協議の結果、お昼に選ばれたのは、大手のハンバーガー店だった。
「チビはハッピーなセットでも食わせときゃ良いだろ。サイドは豆にするぞ」
「へぇ、ポテト以外も選べるんだな。あ、飲み物はリンゴジュースで。好きみたいだから」
スマホを見ながらポチポチと注文を決めつつ、禅一は抱っこしているアーシャの様子を確認する。
行きは車に怯えに怯えていたが、今は禅一の胸にくっついて離れないものの、リラックスしている様子だ。
「禅はどうする?」
「あ〜〜〜、俺はハンバーガー三つ。飲み物はお茶のSで」
「………適当すぎるだろ」
「そうか?これがコスパ最強だろ」
パンは嫌いではないが、米と違って、量を食べないと食べた気にならない。
満腹になる量を食べたいが、ファーストフードに焼肉ランチの九八〇円以上を払いたくない。
そんな自分の条件をクリアするためには、そんな注文になってしまう。
注文を決めながら歩いていると、
「うっ……」
と言いながら、アーシャがお腹を押さえる。
道を行き交う車の音のおかげで聞こえないが、どうやら腹の虫が泣き出したようだ。
「アーシャ、ご飯にしようか」
そう言って禅一は店を指差すが、アーシャの反応は芳しくない。
『一体なんだろう』とでも言いたげな顔で、建物を観察している。
(これだけ有名なチェーンも知らないんだな)
ジャンクフードを食べさせない方針の家庭は数あるだろうが、アーシャがここを知らないのは、そんなポジティブな理由には思えない。
大体、建物すら知らないなんて、あり得ない。
(閉じ込められて育ったのかもしれないな……)
緑の目を見開いて、物珍しそうに周りをキョロキョロと確認する姿は、非常に愛らしいが、同時に可哀相にもなってしまう。
「席よろ」
「あぁ」
譲と禅一は注文と場所取りに分かれる。
禅一は壁側のソファー席を選択する。
柔らかい席の方がアーシャの居心地が良いだろうと思ったのだ。
(そう言えば遊んでから手を洗っていないな)
自分達だけの時は、手を洗うなんて発想出てこなかったが、アーシャはご飯前に洗わせた方が良いだろう。
席取りのために上着をテーブルの上に置きながら、禅一は周りを見る。
手を洗うためにトイレの所在を確認しようと思ったのだが、店内には普通に手洗い場所があった。
(自分に必要じゃない情報は見えないもんだな)
カラーバス効果というやつだ。
人は見たいものを見る動物だという事を、アーシャと暮らすようになって、実感するようになった。
「ゼン、ユズゥ?」
周りを興味津々に見ていたアーシャは、譲がいなくなったことに気がついて、少し心配している様子だ。
「すぐ帰るよ」
商品を取りに行っただけだと説明したいが、言葉が通じない、
禅一は、すぐそこにいると指差すだけに止める。
「アーシャ、手、洗おう」
禅一は手を洗うジェスチャーをするが、アーシャには良くわからなかったようで、首を傾げられてしまう。
「あ、あ、あ、ゼン」
仕方なく抱き上げて、手洗い場に行こうとするが、アーシャは必死な顔で、テーブルを指差している。
「………?大丈夫だ。譲ならもうちょっとかかるからな」
譲を置いて、どこかに行くとでも思ったのだろうか。
アーシャに対して譲は素っ気無いが、アーシャは結構、譲を気に入ってくれているらしい。
手を洗い終わったら、アーシャは小さな足でパタパタと走ってテーブルに戻る。
譲を探しているのか、ご飯を探しているのか。
(テーブルの上を探しているからご飯かな)
みんなのテーブルにも食べ物があるので、自分達のテーブルにも食べ物が来ているとでも思ったのだろうか。
子供らしい無邪気な思考だ。
「お腹が空いているんだな〜」
お目当ての食べ物がなくても、騒いだりしないアーシャの頭を『いい子』とばかりに禅一は撫でる。
アーシャはジッと禅一を見ながら、きちんとお座りする。
初めての外食なので、何かトラブルが起こるのではないかと思っていたが、全くそんなことはない。
「ふっっ」
そんなアーシャは斜め前の窓側の席に来た、騒がしい女子高生を見て驚いた顔になる。
(騒がしいから驚いているのか?)
学生や子供が多く、静かとは言い難い店内で、一際うるさいが、非常識なほどではない。
ギリギリ常識の範囲内だ。
禅一が不思議に思って観察していたら、アーシャは女子高生本体ではなく、ジッとその荷物を見ている。
(あぁ!)
彼女らのスクールバッグには、大きなぬいぐるみが付いている。
きっとそれを羨ましく思っているのだろう。
「アーシャもぬいぐるみとか欲しいなぁ」
子供といえばぬいぐるみ。
フワフワな物が好きだろう。
そう言えば、ぬいぐるみではないが、小鳥の形の水笛はすごく喜んでいた。
禅一はアーシャの頭を撫でながら、
(ぬいぐるみってどこに売ってある物だっけ?)
と記憶をたぐる。
全く自分に必要ないと思っていた情報だから、全く脳が認識していない。
「いらねぇぞ、ぬいぐるみとか。ホコリとダニの住処にしかならねぇよ」
そこに過積載のトレイを両手に持った譲が帰ってくる。
何故か物凄く不機嫌な顔になっている。
どうした?と問いかけようと思ったのだが、アーシャの腹の虫がびっくりするほど大きくて複雑な鳴き方を始めた。
「〜〜〜〜〜〜!!」
真っ赤になってアーシャは腹を押さえるが、そんな物で彼女の腹の虫は止まらない。
「ふふふ」
こんなに小さいのに、一人前に恥ずかしがるのが、微笑ましい。
ご飯ご飯!お腹すいた!と大騒ぎしてもいいくらいなのに、アーシャはとても控え目だ。
食べ易いように、チーズバーガーの包み紙を、禅一は曲げる。
「アーシャ」
そうしてチョンチョンとアーシャの肩をつついてから、目の前に持っていくと、
「えいにぃ………!?」
アーシャはかつてない程、目を輝かせ、次の瞬間には、口を開けて飛びついてきた。
「わっ」
はぷっと音を立てながら、豪快に齧り付いてきたアーシャに、禅一は思わず声が出てしまう。
勢いは凄かったが、齧り口は小さい。
「んんん!!」
小さな手がバーガーを持つ禅一の手を、ガシッと掴んで引き寄せる。
もう食べ物に夢中になっているのが見てとれる。
モッモッモッと、物凄い速さで咀嚼する姿も相まって、小さなリスのようだ。
(手からナッツをあげたりする動画、憧れていたんだよな〜〜)
目を見開いたり、首を振ったり、食べ物を飲み込んで幸せそうな声をあげたり、人間である分、リスより表情がわかって、可愛いさが半端ない。
夢が実現したわけではないが、リスのように、小さな両手で手を握り込まれると、幸せしかない。
一生懸命食べているので邪魔はしないが、本音で言えば、頭を撫で倒してしまいたい。
そんな禅一の様子を見ていた譲は、わざとらしくため息を吐く。
「小動物に見向きされないからって、幼児で餌付けロールプレイしてんじゃねぇぞ。ちゃんと自分で持って食わせろ。自分で」
「見向きされないわけじゃない。そもそも俺の前に出てくる小動物がいないんだ」
「胸を張って主張すんな。あと、重要な後半を聞き逃してんじゃねぇ。自分でやれることは自分でさせろ」
「聞こえない」
「開き直るんじゃねぇ!」
譲はなおも言い募ろうとしたが、不意に口を閉じた。
「席も近い〜〜〜」
「もはや運命じゃん!?」
「声かけてみなよ!せっかくじゃん!」
キャイキャイと、明らかにこちらに聞こえる音量での会話が響く。
(あぁ……)
ああいう年頃の女子は見分けがつかないので、禅一は全然気がついていなかったが、先ほどの女子高生の群れに、譲の追いかけをやっている子が混ざっていたようだ。
譲の外見は『理想の王子様』に見えるらしく、結構モテる。
モテるのは大変良い事だと思うし、素直に羨ましいのだが、何故か譲を好きになる子は、複数でやって来て、外堀に空き缶を投げつけるような真似をする者が多い。
複数人で近づいてきては、こちらをチラチラ見ながら、こちらに聞こえるように、好意があるような内容を口にしつつ騒ぐのだ。
遠回しに好意を伝えて意識してほしいのだろうが、気難しい譲に、この方法は悪手だ。
そんな事をやられる度に、ただでさえ埋めにくい外堀が、物凄い勢いで拡張してしまっている。
複数人で、お気に入りだった定食屋に毎回押しかけられたり、通学路で待ち構えられていたり、よく行っていたコンビニで待たれていたりして、騒がれる。
譲はそんな事を繰り返されて、すっかり嫌気がさして、定食屋には行かなくなって、超近距離なのに学校までも車で移動するようになって、わざわざ遠くのコンビニに行くようになってしまった。
真正面から来られたら対処のしようがあるのだが、こうやって複数で近づいて来て、決定的なことを言わずに騒がれると、追い払いようも、注意のしようもない。
チラチラと自分を見ながら、大きな声でのアピールが始まると、譲は途端に不機嫌になってしまう。
(気の毒な……)
好きになった女性も、好きになられた譲も、双方、特のない関係だ。
そんな事を思う禅一は、双子であるはずなのだが、全くモテない。
外見は似たようなもののはずなのだが、立ってるだけで怖がられて、避けられる。
サイドのサラダを譲は黙々と消費していく。
「う……うぃにぃあぅう………!!」
静かになってしまった譲の分もアーシャが賑やかだ。
夢中で食べながら、時々真顔でこちらに何か報告して来たりするから面白い。
夢中で、包み紙に顔を突っ込んで食べている様子が、いかにも小動物っぽい。
(そろそろ紙を折って食べ易くしてやりたいんだが)
そんな事を思いながらも、今の状態が途切れるのが惜しい。
「あっ………!!」
しかし遂に、アーシャが禅一の手ごと握っていたことに気がついてしまい、夢の時間が終了する。
「ゼン……みぃにゅいんない……」
手が離れると同時に、物凄く申し訳ない顔で、頭を下げられる。
怒られると思ったのか、すかさず譲の顔色を見ているのが可笑しい。
「……ユズゥ……」
アーシャは声をかけるが、現在の譲は気配を消している最中だ。
(全く消せ切れていないが)
相変わらず後ろの女子高生たちはうるさいし、チラチラと譲を見ている。
禅一は食べ易いように包装紙を折り曲げ、アーシャの手に渡す。
そして彼女が喜ぶであろうリンゴジュースにストローを挿す。
「アーシャ」
そう声をかけて、ジュースのパックを差し出すが、アーシャは不思議そうな顔で、クンクンと匂いを嗅ぐばかりだ。
「……にぃんまぃ?」
片目を瞑ってストローの中を覗き込んだりしていて、全くこれが何かわからない様子だ。
(もしかしてジュースも飲んだ事がないのか……?)
キョトンとした顔で自分を見上げるアーシャに、禅一は愕然とする。
「アーシャ、あ〜ん」
ストローすら良くわかっていないようなので、咥えてもらえないだろうかと思ったが、唇まで持っていったら、恐る恐るアーシャはストローを口の中に迎え入れる。
そこで禅一が紙パックを押して、ジュースを口の中に出すと、アーシャは目を見開く。
「……のえにぃんまぃぬ!!」
ジュースという事がわかったらしく、アーシャはジュジュッジュッと不規則な音を立てながら、飲み始める。
うにゃうにゃと言いながら、幸せそうにジュースを飲む姿を見ながら、禅一も手早く昼食を始める。
「うぃにぃあぅ!」
輝くような笑顔で、何やら報告されるので、禅一は頷きながら、黒い癖っ毛を撫でる。
アーシャは嬉しそうな顔で食事を再開するが、すぐに中断して、じっと禅一を見つめる。
「ん?どうした?」
禅一にとってハンバーガーは、腹持ちがいいスナックという感覚なので、一個目はさっさと食べ終わって、二個目に手を伸ばす。
アーシャは目をまん丸にして、そんな禅一を見ている。
「食べるか?」
人が食べる物にも興味が湧いたのだろうかと、差し出してみたが、アーシャは首を大きく左右に振る。
「???」
食べ方でも気になるのだろうか。
何か要求するわけでもなく、ただじっと見つめられる意味がわからずに、禅一は二個目のバーガーの包み紙を畳む。
それを見ながら、何か納得したらしく、アーシャはウンウンウンと何度も頷く。
その姿はゼンマイ仕掛けのおもちゃみたいだ。
何かを納得しながら、アーシャが食事を再開するのを見守っていたら、イライラした様子で、譲が食べていたバーガーの包みを握り潰す。
「禅、あのガキどもを威圧しろ」
そして地底から響いてくるような声で言ってくる。
見れば、譲に向かって、女子高生がスマホを向けている。
どうやら堂々と盗撮されているようだ。
「いや……怒るのはわかるが、俺は意図してそういう事ができないんだ」
譲曰く、禅一は『氣』を常人より吐き出すことができて、これで他人を無意識に威圧しているらしいのだが、禅一本人には全くわからない。
上手く操作できたなら、小動物から逃げられることも無くなるのではないかと、何回も操作を試みているが全くできない。
そもそも本当にそんなに出ているのか?と疑問に思っている程だ。
「朝の感じでやれ」
「朝って……ああ、型をやっている時か?」
「そうだ。やれ!蹴散らせ!」
「いやいや……こんな店内で型をやり始めたらおかしいだろ」
「呼吸だけでいいから。やれ」
譲は我慢の限界を迎えている。
「……わかった。紙袋をもらってくるから、外で食べよう」
早急に引き離してやらないと、譲が暴走しそうなので、禅一はそう提案する。
「何で俺らが快適な店内から尻尾巻いて逃げないといけないんだよ!」
「逃げるが勝ちって言うだろ」
そんな言い合いをしていたら、不穏な気配を感じ取った、アーシャが顔を上げて、アワアワと禅一と譲を交互に見る。
「んふっ!」
不安にさせてしまって申し訳ないと思うのだが、アーシャの鼻と口の周りにケチャップがくっついて、子供のピエロみたいになって、動きも含めて、物凄くコミカルで、禅一は思わず噴き出してしまう。
「……ゆ、ユズゥ……」
「あぁ?」
静かな怒りを滾らせていた譲も、苛ついた顔をアーシャに向けて、
「プッ!!」
噴き出した。
無意味に体の前で両手を動かしていて、その動きも妙に笑いを誘う。
「口がデカくなってるぞチビ助」
途端に譲の頬が緩んで、眉間の皺が取れる。
トレーにのっていた紙ナプキンで、譲はアーシャの顔を拭く。
無愛想に振る舞っているが、譲も小さい生き物が好きなのだ。
「「んふっっっ」」
拭かれて、力が入ったらしいアーシャの顔が、梅干しみたいになるのが可笑しくて、禅一と譲は同時に噴き出してしまう。
どうしてこんなにも子供は表情が面白いのだろう。
「うしっ」
アーシャの顔が綺麗になったら、譲は満足そうに頷く。
「ユズゥ、えいにぃーぬ」
顔が綺麗になったアーシャは、前後に頭を揺らす。
謝っているのか、お礼を言っているのかは、はっきりしないが、どちらかを言っているのは理解できる。
「まぁ、うるさく騒いで周りに迷惑をかけていねぇんだから、偉いんじゃねぇの?」
可愛い仕草に、譲も我慢できなかったのだろう。
ヨシヨシと頭を撫でる。
「何、あの汚いガキ」
「髪ボッサボサでホームレスみたいじゃん」
「骨みたいで気持ちわる〜〜〜」
「ウッザ〜〜〜、顔ぐらい自分で拭けって」
途端に斜め前の女子高生たちの声が高くなる。
超絶外弁慶の譲が、珍しく外で表情を崩した。
しかもデフォルト位置がポケット内の譲の手が、他人の頭を撫でるなんて、レアな仕事をした。
その相手が、子供とはいえ、性別は女だ。
精神的にも未成熟な彼女らは、大人気なく、嫉妬を覚えてしまったのかもしれない。
「………………は?」
等と、女性の複雑な心理を理解する機構を、禅一は持ち合わせていない。
思わず出た禅一の低い声に、幼児への罵倒を開始しようとしていた女子高生たちが止まる。
髪がボサボサに見えるのは、垢や汚れで固まって、切る以外なかったせいだ。
骨みたいなのは栄養失調だ。
アーシャのせいではない。
この子が日本語を理解しないから、心無い言葉で傷つけられることはなかった。
しかし本人のせいではない事で、こんなに小さな子を貶める言葉を吐く。
その精神が許せない。
誰かを好きになる気持ちは止められないだろうからと思い、こちらが距離を空けることで穏便に済ませようと思った。
しかし悪意をぶつけてこようとするならば、話は別だ。
アーシャが言葉を理解するようになっても、あんな輩に付き纏われていたら、どんな被害を与えられるかわからない。
(釘を刺す必要はあるだろう)
禅一に睨まれた女子高生らは、既に怒られることを察知してか、真っ青になって震えている。
立ち上がって、一言、物申してこよう。
「ゼン?」
そう思った禅一の服の裾が引かれる。
見れば、アーシャが不安そうな顔で禅一を見上げている。
「どうした?」
足先に傾いていた重心を腰に戻して、禅一はアーシャの小さな背中を撫でる。
するとアーシャはホッとした顔で、禅一にくっつく。
モゾモゾと動いて、小さな体が禅一の体にフィットするように動く。
そしてホッと息を零して、アーシャの体から力が抜ける。
「……眠くなったのか」
背中を撫でる内に、あっという間にアーシャは寝息を立て始める。
脱いだ上着でアーシャを包んで、倒れないように背中を支える。
「………ん?」
そして顔をあげると、女子高生たちの姿がない。
代わりに、真っ青な顔の壮年の男と、禅一たちと同年代の男がテーブルの横に来ている。
正面の譲は呆れた顔をしている。
「えっと……状況が掴めないんだが……
突然現れた武知に声をかけると、ビクッとした彼は姿勢を正す。
「すみません。離れて警護にあたっていたのですが、挨拶をしておりませんで!」
誰かがついてきているのは知っていたが、昨日の今日なので、関係者が見張りがついているのだろうと気にも留めていなかった。
それが何故、突然挨拶に来ることになったのだろう。
しかもこんなに顔を青くして。
「いやぁ……俺も追い払えって言ったけど……チビ関係になると、お前、ちょっと手加減しなさ過ぎだろ」
譲は呆れたように呟いた。
「ん………?もしかして氣が漏れたか?」
「漏れたとかいうレベルじゃねぇよ。既に引火してガス爆発起こった勢いだよ。お陰でうるせぇ女たちは一目散に逃げていったし、隠れてたおっさんたちが炙り出されちまったじゃねぇか」
どうも禅一の『氣』は、自身の感情で急激に増えることもあるらしい。
とばっちりを食わせてしまった武知とその部下らしい青年には申し訳ないことをした。
「申し訳ない……自身で調節が効かなくて……」
「いえ!我々も警備に着く前に挨拶をすべきでした!申し訳ありません!」
謝ると、武知たちは最敬礼で返す。
真面目に職務を果たしているだけの人に酷いことをしてしまった。
頭を下げる姿に、昔、八つ当たりで蹴った木からボトボトと転げ落ちたカブトムシが重なり、禅一は更に申し訳ない気分になる。
「何とか調節できるようにならねぇの?それ。上手く使えるようになったら最強の虫除けになるんだけど」
譲は気に入らない虫の駆除に、使う気満々である。
「だから無理だって……調節できるなら初めからやっている」
禅一は深々とため息を溢す。
調節できたなら、祖母の田舎の家で自給自足し、猫や犬やその他小動物に囲まれて幸せに暮らせたはずだ。
アーシャが『氣』の影響を受けない子で、本当に良かった。
「あの、ちょっといいっすか?」
そんな会話をしていたら、武知の連れている青年が、小さく手を挙げた。
禅一の『氣』が治まったせいか、顔色が良くなっている。
「分家の方とか顔出さないんスか?分家頭の息子さんは、そういうの得意で……」
「馬鹿!藤護の内部に口出しをするんじゃない!」
言いかけた青年を、慌てて武知が遮る。
『知ってるか?』
『全然』
『捕まえるか?』
『捕まえよう』
禅一と譲は短くアイコンタクトを交わす。
そして二人はそれぞれ手を伸ばす。
「まぁ座って行きませんか?」
「俺ら、実はそれほど藤護の内情を知らねぇんだよ」
それぞれの手が、武知と青年の手首を掴む。
「あ、あのっ、我々は藤護本家への直接の干渉を、本来は、禁止されておりまして……」
武知は抵抗素振りを見せるが、掴んだ手は離さない。
「あ、俺たちは本家で作業するし、戸籍の関係上、藤護を名乗っていますけど、基本、外の人間なんで」
禅一は愛想良く笑ったつもりだったが、武知と青年は「ヒィ」と小さな悲鳴をあげる。
「コーヒー買ってくる」
譲はさっさともてなしの品を買って、逃げ道を塞ぐつもりだ。
(予想外だったけど、良いカブトムシが採れたな)
たまには木も蹴ってみるものである。
ぐっすりと眠ってしまったアーシャを、寝易い姿勢にしてやりながら、禅一は密やかに笑った。
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