4.幼児、友達?を得る(前)

弾むような足取りが、繋いだ手から伝わる。

アーシャは三人でのお出かけが嬉しいらしく、良く笑い、良く動き、良く喋る。

子供としては無口な方に入ると思われるアーシャだが、今は見るからにテンションが上がって、覚えた単語を連発したり、何事か歌いながら不恰好なスキップをしたりと、とても賑やかだ。

「譲……俺は心が痛い」

ただの散歩と思っている、とても楽しそうな様子に、禅一は早くも挫けそうだ。

浮かれて、今にも何処かに走って行ってもおかしくないのに、アーシャの手は、しっかりと禅一の手を握っている。

昨日からの離れる事を嫌がる様子も相まって、保育園に預けると、酷くアーシャを傷つけそうな予感が止まらない。


「あのなぁ、たった今、お前もコイツは学ぶことが沢山あるってわかっただろ?」

先を歩く譲が面倒臭そうに振り返る。

先日、アーシャが指差す物の名前を答えながら歩いていたのだが、その中でアーシャが色んな物を勘違いして覚えている事が判明した。

いや、アーシャが何を指差しているか、正確に理解できなかった禅一が、違う物を教えていたと言った方が正しいかもしれない。

アーシャが道路の白線を指差しているように見えたので、そう教えたのだが、どうやら彼女が聞きたかったのは、足の下に広がる物の名前だったらしい。

しかしこれに、何と答えるのが正解か、禅一にはわからない。

足元のこれは何だと聞かれれば『道路』と答えるし、詳しく分類して言うなら『路側帯』、材質を聞かれているのであれば『アスファルト』、足元にあるもの全般を聞かれているなら『地面』。

アーシャが何の名前を聞いているのかわからないので、正確に答えられないのだ。


「大人の俺らが指差して物の名前教えたくらいじゃ、圧倒的に足りねぇんだよ。大人が『教えよう』って教えるには限界があるんだ。子供たちの中に突っ込んで、実地で使う単語を自分で吸収させねぇと。大人が『言葉がわからないから』って手加減して話しかけるより、容赦ない言葉のシャワーを浴びせかけるのが一番だ」

譲が言っていることは正しい。

禅一たちは言葉が通じないのもあって、それ程アーシャに話しかけられていない。

そして子供は子供の社会でしか学べない事が多い。

大人だけと一緒にいるより、子供の中に混ぜた方が、多方面から刺激を受けて、発育にも良いと思う。

「……………」

しかし、いつもよりしっかりと、力を入れて手を握っているアーシャの事が心配でならない。


「アーシャ」

大きい道に出てから抱き上げると、アーシャは嬉しそうに笑って、禅一の胸にもたれる。

(やっぱり、もうちょっと信頼関係を堅固な物にして、不安が取り除けてからの方がいいと思うんだけどなぁ)

禅一の腕で安心し切った様子で、周りを見て大騒ぎしているアーシャを見ていると、そんな考えが浮かぶ。

「おーい、きちっと歩かせろよ。通うんなら、これから毎日歩く道なんだからな」

基本的に送り迎えは禅一なので、徒歩での登園となる。

経路の確認、かかる時間の確認なども含めた散歩なので、譲は渋い顔をしている。

「いや、大通りは危ないから……」

「歩道のどこが危ないんだよ」

この所、弟に呆れられっぱなしの禅一だ。

今まで小さい生物と接触してこなかった禅一は、どうやら過保護すぎるようだ。


「わぁぁぁ!」

兄弟の会話がわからないアーシャは、歩道橋を見て目を輝かせている。

あんまり興味津々なので、

「通ってみようか」

と禅一は歩道橋を上る。

「……ちょっと先にフツーに信号があるじゃねえか……」

譲はブツブツと言いながらも、お付き合いしてくれるから、人が良い。


小学校が近くにあるから、備え付けられている歩道橋は、休日なので誰一人使っていない。

「ふわ〜〜〜〜」

まるで歩道橋を通った事自体ないような様子のアーシャは、楽しそうに周囲を見ている。

(本当に……今までどんな生活をしていたんだろうな)

何処かに閉じ込められて育ったのか、もしくは日本とは全く違う住環境に居たのか。

「……………」

禅一は昨日見た悲惨な夢を思い出す。

例えば、飢えに追い込まれ、親が泣きながら、子供を選別せねばならないような過酷な環境で育ったなら―――

「あわわっ!!」

そこまで考えたところで、大型トラックが下を通った影響で、歩道橋が大きく揺れて、アーシャが飛び上がる。

そしてピュッと禅一の腕に隠れてしまう様子は、臆病なクマノミのようだ。

橋は衝撃を吸収するために揺れるようになっているのだが、この揺れがアーシャには怖くてたまらないようだ。

「ゼン〜〜〜〜」

泣きそうな声だ。

「よしよし。怖かったな」

大きな揺れが収まったら、出来るだけ速やかに禅一は歩道橋を渡り切る。


「ううううう」

すっかり怖いスイッチが入ってしまったのか、そこからアーシャは怯えまくりだった。

横断歩道では信号停車している車を、ビクビクと見ているし、右左折して横断歩道直前で止まる車が来た時は、禅一の首が締まりそうな勢いで掴まってきた。

国道沿いの道はトラックや、消音器に細工をしている車が走ることもあって、アーシャは可哀想なくらいに震えていた。

(う〜〜〜ん、毎日通っていたら慣れるのものなのかなぁ……)

この怯えようを見ていたら、どれくらいストレスがかかっているのかわかる。

帰るとか言って泣き出さないのは助かるが、顎に梅干型の皺を作って、ブルブルと震えながら、必死に耐えている姿は、見ていて可哀想になる。


子供たちの騒がしい声が聞こえてきて、保育園に着いたのだとわかった時は心底ホッとした。

「結構近いな」

「歩いて十五分って所か。走れば七分ってところだな」

禅一がそう言うと、譲は渋い顔をして兄を見る。

「ちょっとフェンスが低くないか?これくらいならすぐ脱走できるぞ」

格子状のフェンスは目が細かいが、高さは二メートル程度しかない。

「いや、禅みたいに脱走する子供なんていねぇから」

「………そうか?」

「このフェンスは普通は外敵を入れないためのモンなの。園児を逃さないためじゃないの」

「……まぁ、譲は大人しかったもんなぁ」

禅一は常に落ち着きのない冒険心旺盛な子供で、双子の弟である譲は室内で絵を描いたり本を読んだりするのが好きな子供だった。

園児の逃走の可能性を考えないのは、仕方ない事だ。


譲はため息を吐きながら、門柱につけられたカメラ付きのインターホンを鳴らす。

「アーシャ」

それを見ながら、禅一は震えるアーシャの肩をつつく。

顔を上げたアーシャに保育園を指差すと、

「わぁっ」

と、緑の目が輝く。

保育園の庭には、砂場やブランコなどの遊具があり、その中でも正面にある遊具は一際視線を引く。

登り棒や、ボルダリングの要領で登る壁、屋根付きの物見櫓のような台に、縄ばしごなど、様々な遊びの詰まった遊具で、両サイドにアーシャが大好きな滑り台がついている。

この前病院にあった滑り台でも、大喜びで遊んでいたから、大きな滑り台と、螺旋を描く滑り台は魅力的だろう。

『遊びたい!』と顔に書いてあるアーシャに、禅一は目を細める。


保育園に入れるのが、可哀想な気がしていたが、アーシャもあそこにいる子供たちと一緒に遊具で遊んだらきっと楽しいだろう。

子供の扱いに全く慣れていない禅一より、遊びのプロである子供たちと一緒に遊んだほうが絶対楽しいだろう。

(そうだよな……友達が必要だよな)

内に囲い込んで守ることばかりを考えていたが、アーシャのためを思えば、社会と触れさせていかなければならない。



「園長の里見川です。昨日ご連絡くださった、藤護さんですね?」

インターフォンを鳴らした後出てきたのは、柔和そうな老婦人だった。

波打つ真っ白な髪を短く切り揃え、動きやすいジャージ生地の服の上に、可愛らしい象と兎のついたエプロンを着ていて、とても快活そうだ。

「はい、藤護です。本日は急な見学依頼を受けていただいて有難うございます」

禅一は頭を下げる。

「お話は乾先生から聞いていますよ。まだお若いのに、ご兄弟で妹さんを引き取るなんて、素晴らしいことですけど、ご苦労も多いでしょう。私どもの園を選んでいただいた時はもちろんですが、そうじゃなくても、いつでも頼ってくださいね」

「有難うございます」

「よろしくお願いします」

老女は福々しい笑みでウンウンと頷きながら、門を開け、三人を迎え入れる。


「「っっ」」

門をくぐった瞬間、禅一と譲は同時に息を呑む。

全く気配がしなかったのに、門の影になる部分に、黒髪の女性が立っていたのだ。

(……び、びっくりした……)

目立つド派手なピンクのエプロンをしているのに、この気配の消し方は何なのだろう。

造形的にはアジアンビューティーという言葉が似合うのだが、醸し出す気配のおかげで、貞子か雪女の親戚筋のように感じる。

一纏めにされた黒髪は、緑髪と言って良いほどの艶やかさで、顔も非の打ち所がないほど整っている。

それなのに最初に感じたのは『なんか怖い』だった。

目が合うと、笑って会釈してくれたのだが、その笑い方も口だけ可動式になった能面のようで怖い。


「あら?こちらがアーシャちゃんね。こ・ん・に・ち・は」

園長はビビる兄弟に気がつくことなく、福々とした微笑みで、アーシャに話しかけている。

「こ……こんちゃ……?」

(おお!!)

咄嗟に教えていない挨拶を返して、頭まで下げてしまえるアーシャの素晴らしい天才っぷりに、禅一は感動する。

園長も相好を崩している。

視界の隅の貞子が心臓あたりを押さえて悶えているのは、ちょっと怖い。


「アーシャちゃん」

「ぴっっ!!」

瞬間移動かと突っ込みたくなるほどの素早さで、女性はフレームインしてくる。

突如接近してきた女性にアーシャも少し飛び上がっている。

いぬい峰子みねこです。これからよろしくお願いします」

ここは普通、保護者に挨拶をする所から始めると思うのだが、女性はアーシャの目だけを見てしっかり挨拶をする。

どうやら彼女こそが、乾医師の娘さんらしい。

(好意的に取ると……子供メインの育児を心がけている……と言うことか……?)

その割に子供相手に、握手を求めて手を差し出しているのが、チグハグな感じがする。


アーシャは不思議そうな顔をしたが、小さな手でキュッと差し出された手を握る。

すると能面の目まで大きく動いた。

握り返してもらえると思っていなくて、驚いたのだろうか。

(いや、怖い。怖い。怖い)

握手をされて嬉しいのかなと思うが、ニィッと捲れた唇は、ホラー映画に出てきそうな微笑みだ。

彼女はブンブンとアーシャの手を振り回す。

根拠はないが、彼女は子供にあまり好まれない性質のような気がする。

(何となく……同類臭が……)

何故か子供に怖がられる禅一は、そこはかとなく自分と同じ香りを感じる。


「峰子先生と呼んで。み・ね・こ・せ・ん・せ・い」

彼女は熱い期待を込めた眼差しを、アーシャに向ける。

凄くそう呼んで欲しいのが伝わってくる。

「みにぇこしぇんしぇい、アーシャにや」

そんな彼女にアーシャは微笑んでそう言う。

子供特有の、もたついた発音がとにかく可愛い。

「ふぐっ!!」

無事に呼んでもらえた峰子先生は心臓を押さえる。

効果は抜群のようだ。


三秒ほど震えて、貞子……ではなく峰子先生は能面に戻った顔を持ち上げた。

「失礼。取り乱しました」

「ふふふ、峰子先生はとても熱心なんですけど、ちょっとばかり……気迫を持て余し気味で」

そんな峰子先生に園長先生は微笑む。

『気迫を持て余す保育園の先生』とは初めて聞く分類だ。


身長は女性としては高めだが、際立って高身長ということではない。

体つきもスレンダーと呼ばれるタイプで、スラリとしている。

圧迫感を感じる要素は皆無なはずなのに、妙に迫力がある。

あっという間に元の雪女フェイスに戻った先生を、つい無遠慮に、しみじみと禅一は見つめてしまう。

「………因みに、ナイスバディな女性の名前は不二子です。峰子ではありません」

すると突然彼女はそんな事を言い始める。

「……は?」

「……失礼。私のスキニーな体型に疑問を感じていらっしゃるのかと、早とちりしました。峰子と不二子を混同なさる方が一定数いて、時々そのような苦情が来ますので、思わず、訂正してしまいました」

彼女は全く顔色を変えずに言い切る。

(体型に苦情が来るとは一体どういう状況なんだ……?)

ナイスバディではないと文句をつけるなんて、とんでもない事だと思うのだが、彼女は傷づくどころか、気にする素振りさえない。


「はぁ……えっと……大変ですね……?」

禅一は自分のコミュニケーション能力に問題はないと思っていたのだが、峰子先生との言葉のキャッチボールは果てしなく難しい。

「ええ。最近『子』のつく名前は逆に珍しいようで。私の名前を貞子と間違う園児も多くて困っています」

多分それは名前のせいではない。

思わずそう言いそうになるが、禅一は何とか沈黙を守る。

峰子先生の背後にいる譲は、口を押さえて肩を震わせている。

「あ〜……アーシャは、その、記憶力の良い子で、間違えることはないと思います」

峰子先生が譲の方を見て、気を悪くしたら申し訳ないので、禅一は話を繋ぐ。

「……ええ、私もそう確信しています」

すると峰子先生はニタッと、嬉しそうに笑った。

……嬉しいと表現するには、少しばかり邪悪な微笑みだったが、恐らく嬉しいのだろうと思う。


「園では二歳さんまでの乳児クラスと、三歳以降の幼児クラスは年少中さんと年長さんに別れています」

「意外とクラス分けが少ないんですね」

「ええ。うちはそれ程、園児さんの数が多いわけでもないので、一応担任・副担任というものは付けていますが、先生全員でみんなを見守る形にしています。一人一人、成長の度合いは違いますから、それに合わせて対応しています」

「へぇ」

譲はさっさと話し相手を園長に定めたようで、言葉の暴投キャッチボールには近寄ってこない。

「基本的に登園は七時半から九時まで、九時から朝のお支度、十時から午前中の活動遊び、十二時から給食、十三時からお昼寝、お昼寝が必要ない子はそのまま午後の活動遊び、十五時におやつ、十五時半から十八時までにお迎えを、お願いしています。今はみんなでお外遊びの時間ですね。週に二回くらいは近くの公園にお散歩に行ったりもするんですよ」

ニコニコと園長は説明を続ける。

「おや……?ちょっとアーシャちゃんは場所見知りしちゃったみたいですね」

そして禅一にべったりと張り付いているアーシャに気がついて、彼女は首を傾げる。


「あれ……アーシャ?」

声をかけると少し顔を上げるが、すぐにポスンと禅一の胸に顔を張り付かせてしまう。

強烈なキャラの登場に気を取られてしまっていたが、ちょっと様子がおかしい。

先程まで遊具で遊びたそうに、顔を輝かせていたのに、今は何かから逃れるように禅一に張り付いている。

「初めてこんなに子供がいるところに来たから、驚いてしまったのかもしれません」

そう言いながらも、驚いているというより、怯えている様子に、禅一は戸惑ってしまう。


(峰子先生が怖いのか?)

真っ先にその可能性が出たが、峰子先生が呼びかけてもアーシャはちゃんと顔を上げる。

しかしオモチャで遊ぼうと誘われたりしたら、大きく首を振って、禅一にめり込んでしまう。

「アーシャちゃん、ここが貴女のクラスですよ」

「アーシャちゃん、ここは蛇口が小鳥さんで可愛いですよ」

「アーシャちゃん、雨の日はここで遊ぶんですよ」

と、必死に声をかけてくれているのに、顔を上げては首を振るで、申し訳なくなってしまう。

「アーシャちゃん、給食室ですよ」

食べ物には反応が少しだけ大きかったが、やっぱりすぐに禅一にこびり付いてしまう。


「う〜ん、ちょっと警戒しちゃってるみたいですね。お外でみんなが楽しく遊んでいる所を、お兄ちゃんと一緒に見てみましょうか」

園長先生も苦笑して提案してくる。

「禅、用意するものとか、施設の詳細とか俺が聞いとくから。とにかくチビがここに馴染めそうか確認してこい。環境が良くてもチビが馴染めそうになかったら通わせるのは無理だからな」

譲の言葉に、斜め後ろの能面の動きが止まる。

激しく衝撃を受けているようだ。

「……………遊んでみたら、きっと馴染めるはずです」

表情変化がないのに、気迫だけ伝わってくるのが怖い。


そして禅一たちは熱意溢れる彼女に先導され、園庭で遊ぶこととなった。

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