3.聖女、お仕事(?)を得る

1.聖女、危険な美味を知る

今日も早起きができなかった。

アーシャは己の自堕落っぷりに大きく肩を落とした。


朝は起こされるまで惰眠を貪り、優しく起こしてもらったら、抱っこして水場まで連れて行ってもらい、身なりを整える手伝いをしてもらう。

神の国の水事情は凄くて、どこにいても透き通った清らかな水が手に入る。

人間たちの国では、飲むための水さえも、ろくに手に入れられず、水の代わりにエールを飲んでいると言うのに、夢のような環境だ。

しかも望めば勝手に沸いて、程よく温まった水が出てくるのだから驚きだ。

温水で顔を洗うと、フワフワで優しい感触がする上に、良い匂いまでする、素晴らしい布が差し出される。

至れり尽くせりとは、正にこの事だ。


そして手を繋いで卓のある部屋に導かれ、外を見れば、今日も既に洗濯物が風を受けていた。

(今日もお手伝いできなかった)

しょんぼりとしていたら、心配したような顔でゼンが顔を覗き込んでくれる。

「アーシャ、臼慾遅投?」

攫われかけたアーシャを、何を置いても迎えに駆けつけてくれたゼンは、相変わらず優しい。

アーシャのために怪我をしても、見返り一つ求めてこないし、それどころか突然倒れるように眠ってしまったアーシャの面倒を甲斐甲斐しく焼いてくれた。

眠くてたまらなくて、起ききれなくて半分眠っている中でも、凄く美味しい、水でもなければ氷でもない物を飲ませてくれた。

(あれは飲んだのかしら?食べたのかしら?)

とても甘やかで爽やかな檸檬の香りがする、水のように飲み込めるのに、舌にはプルプルと触れる、不思議で美味しい物だった。


今もアーシャを椅子に座らせて、ご飯の準備をしてくれている。

(体の中にあった『漆黒』……きっと物凄く辛いと思うのに)

アーシャは全く歯が立たなかった、ゼンの中に巣食うものに思いを馳せる。

ゼンは何でもない顔をして動き回っているが、ゼンほどの神気を生み出す存在だから、死なずに済んでいるだけで、普通なら触れただけで、生き残るのは難しい状態に追い込まれるだろう。

(陣を敷いて、神具を用意して……以前住んでいた所くらい神気に満ち溢れた場所なら何とか出来ると思うんだけど)

攻撃を仕掛けて、見事返り討ちにあったアーシャはうんうんと悩む。

圧倒的な力の差を思い知らされたから、無謀な挑戦はしない。

しかし絶対に成し遂げて見せると、アーシャは決心を新たにする。


まずはこの貧弱なゴブリンの体を何とかしなくてはいけない。

とにかく、この体は体力がない。

ちょっと無理をすると体力回復のために、延々と眠り続けてしまう。

三日とは言わないが、せめて一日は舞を続けられる体力が欲しい。

神気を練り上げて、練り上げて、練り上がった所をぶつけて、『漆黒』をゼンから追い出さねばならない。

ゼンは見る限り、すぐに危ないとかではない。

時間をかけて準備し、万全を期したほうがいいだろう。

(体力もつけないといけないし、こちらの言葉も覚えて準備を手伝ってもらえるようにしないと)

アーシャが一人、決意を固めていたら、トントンっと目の前に皿が並べられていく。


「ふわぁぁぁぁ!!」

アーシャは真剣に考えていたのだが、皿を見た途端、歓喜の声を上げてしまう。

神の国では、お馴染みになってきた、『こめ』と黄土色のスープ、これだけでも朝からご馳走だ。

どちらも体に染み入る程、美味しいし、食べ応えがあるのだ。

しかしここにもう一つ、平皿が追加されたのだ。

白い皿の上に鎮座するのは、目に眩しい純白の衣に包まれた金色の玉子様。

その姿だけで十分に尊い。

「お、お、お肉!!!」

それなのに何と言う事だろうか。

その純白の衣の下に、まん丸の肉が敷いてあるのだ。

しかも二枚も。


こんな豪華な食事があって良いのだろうか。

本来食事をする事を許されない、朝のこの時に、肉が二切れも供される。

しかも小さい肉片なんかじゃない。

アーシャの掌ほどもある、円形の大きな肉だ。

これは現実だろうか。

アーシャは信じられなくて、そっと人差し指で、肉に触れてみる。

「じ……実在している!!!」

幻覚を疑ったのだが、確かにそこに、お肉様が控えている。

「チビッ」

ぽこんと頭の頂点を叩かれる。

「は……痛くにゃい……夢か……」

そんな事を呟くアーシャの手にフォークとスプーンが握らされる。

「杵念御回謄厨討襖瀬過常腿器壕」

渋い顔でユズルは何か言っている。

何やら注意している感じがするので、卑しくも一人でご飯を食べてしまおうとしていると、勘違いされたのかもしれない。


叩かれた頭が、全然痛くなかったので、夢を疑ったのだが、手には冷たい金属の感触を、しっかりと感じる。

アーシャはゴクンと唾を飲み込む。

「アーシャ、い・た・だ・き・ま・す」

自分の皿も運んできたゼンは、隣の席に座って、手を合わせる。

「いたぁきましゅ!」

アーシャもゼンに倣って、お祈りをする。

手を合わせた時に、両手それぞれに持っていた、フォークとスプーンがぶつかった音に、ユズルは片眉を上げたが、特に口に出して注意する事はなかった。


ナイフの用意はないので、アーシャはフォークで肉を押さえ、スプーンで切り分ける。

どきどきしながらアーシャは切り分けた肉にフォークを刺す。

そして素早く口の中に運ぶ。

「お………おにくぅ〜〜〜〜〜〜!!」

舌にのった瞬間、歓喜の声をあげてしまった。

これはきっと庶民のお肉代表・豚だ。

庶民のお肉代表とは言っても、庶民がお肉を食べられる機会なんて滅多にない。

雑食で何でも食べるし、自分で食べる物を探す事もできるから、豚を飼育していることが多いと言うだけで、気楽に潰して食べる事なんかできない。

ついでに神殿では豚の飼育は禁止されているし、鳩を捕まえたりする事も禁じられているので、お肉には年中飢えていた。


「おいしいぃぃぃ〜〜〜!」

裏をカリッと炙られ、表面に肉汁をのせたお肉は、最高に美味しかった。

薄く切られているのに、頼りなさなど全くなく、むしろ噛み心地がしっかりしている。

肉特有の生臭さも全くなくて、食欲を刺激する美味しい匂いしかしない。

その上、薄く味がついていて、噛む度に、程よい塩っ気と肉の旨味が混ざり合って、口に広がる。

朝から、こんなに美味しい物を食べられると思っていなかった口の奥から、慌てたように唾液が染み出してくる。


「アーシャ、アーシャ」

頬を押さえて、感動に震えるアーシャの肩を、ゼンがちょんちょんとつつく。

「ん?」

肉の喉越しの余韻に震えていたアーシャは、少し反応が遅れてしまったが、彼の方を見る。

「アーシャ、しょー・ゆ!」

すると彼はチャポンと真っ黒な液体の入った小瓶を示す。

「しょー・ゆ?」

アーシャが首を傾げると、ゼンはうんうんと頷いて、小瓶を渡してくる。

「………?」

受け取ってみたが、一体どうしたら良いのかわからなくてアーシャは首を傾げる。


こんな真っ黒な液体見たことがない。

煤でも溶かしてあるのかなと思い、じっと見ても下に何かが沈殿する様子もない。

何か黒い物を溶かし込んだ液体なのではなく、液体自体が真っ黒なのだ。

こんなに黒い液体は、染料か、黒魔術の道具ぐらいしか思いつかない。

黒い液体の入ったガラス瓶の上には、注ぎ口と思われる小さな丸い突起と、その真後ろに穴が開いている。

(小さな水差し……?に入った黒い液体……)

一体これでアーシャは何をすれば良いのだろう。


「アーシャ、じゃ〜〜〜」

戸惑うアーシャに、玉子様と貴重な肉に向かって、ガラス瓶を倒して、注いでごらん?とでも言いたげな身振りをゼンがやってみせる。

(このドス黒い液体を貴重な食料にかける……!?)

いやいや、そんな馬鹿な、と、アーシャは自分の解釈に首を振る。

それはお肉様や玉子様への冒涜だ。


そんなアーシャを見て、ゼンは「う〜ん」と呟いて、首を捻る。

そして思いついた!とでも言う顔で、ゼンがいつも食事の時に使う二本の木の棒を手に取る。

ユズルもなのだが、二人とも、この棒を巧みに操る。

食べ物を切り分けたり、くるんと物を包んで持ったり、すごく柔らかいスープの具も上手に掴む。

初めは奇妙な物を見る気持ちだったが、慣れてくると、カラトリーを持ち替える事もなく食事する様は、とても優雅に見える。

(私もあれを使えるようになりたいなぁ)

アーシャの羨望の眼差しの先で、ゼンは器用に二本の棒で肉を切り分け、黒い液体のかかった黄身のカケラを、肉で巻く。

(それ!絶対美味しいやつ!!)

ゴクンとアーシャは唾を飲み込む。

黒い液体はちょっと怖いが、肉で卵を巻くなんて、尊き身分にしか許されない、豪華で豪快な食べ方ではないだろうか。


(私もやろう!!)

早速真似しようと、フォークとスプーンを構えた時だった。

「アーシャ、あ〜ん」

ニコニコと笑ったゼンが、肉巻き玉子をアーシャの口元に差し出してくるではないか。

「お拭錆爾牟揃芦瑛局汐局」

「い潤、貢槻尭跡汀蕗荷範梗傾葬惇芳狸斬続話菊慶?」

呆れたように何か言うユズルに、ゼンが何やら抗弁している。

それを聞きながら、アーシャは口の奥から溢れてくる唾を、またゴクンと飲み込む。

黒い液体はちょっと変わった匂いがするが、害はなさそうで、むしろ美味しそうに感じる。


「……あ〜ん」

結局黒い液体に対する警戒心より、好奇心と食欲が優った。

アーシャは『しょーゆ』のかかった、豪華なタッグを口に迎え入れた。

「!!!」

そして刮目かつもくした。

ひと噛みした瞬間、卵と絡み合った『しょーゆ』が、口に広がったのだが、その味は衝撃的だった。

何といえば良いのだろう。

黄身の濃厚な味わいに、ただの塩味ではあり得ない深い味が混ざり、その美味しさを何倍にもしている。

黄身との相性が物凄く良い。

これが肉と混ざり合うと、震える美味しさだ。

噛む度に口から幸せが生まれてくる。

「おいしぃぃぃ〜〜〜」

アーシャはその味に身悶える。

感動をどう伝えたら良いのかわからなくて、ゼンを見上げると、彼は白い歯を覗かせて『良かった』とばかりに笑いながら、アーシャの頭を撫でてくれた。


そして感動を飲み込んだら、迷う事なく、アーシャは『しょーゆ』の小瓶を手に取った。

どれくらいかけたら良いのか、わからないので、最初は控え目に、黄身の山から肉の山裾へ向かって、一本の黒い川を作ってみる。

そしてドキドキしながら、肉で卵を巻く荒技に挑戦する。

「んっ……んんん〜〜〜」

しかしフォークとスプーンでは上手に巻けない。

仕方ないので重ねるだけで、スプーンで掬って、口の中に迎え入れる。

早く早くと、急かすように湧いてくる唾を前に、のんびりと巻いている暇がなかった。

「おいひぃぃぃ〜〜〜」

しかし巻かずとも十分に美味しい。


(ここで『こめ』を投入!!)

食べ物を更に美味しくしてくれる『こめ』まで参入させると、口の中が絶対的天国だ。

ほんのりと甘い『こめ』は肉や卵の、最高のパートナーだ。

(更にスープ!)

恐ろしいコクを持ったスープは、美味しい余韻を、別の美味しさで上書きして、また次なる一口を、最高の状態でお迎えできるようにしてくれる。

「んうぅ〜〜〜〜!」

唸らずを得ない。

朝からアーシャを堕落へと誘う、超絶罪深い取り合わせだ。


もう手も口も止まらない。

アーシャはせっせと最高の組み合わせを胃に収めていく。

「チビ、蕎杜銑石発汗、獅拭旋!」

すると正面に座ったユズルが、アーシャの斜め前に置いてある小さな器を指で弾いた。

「?」

その小さな器には、緑が飾ってある。

卓に花ではなく、葉っぱを飾るなんて珍しいなぁと思ったのだが、ユズルはしきりと、その器をアーシャの方に押す。

「えっと……きりぇいな緑でしゅね?」

言語は違うが、感想を求められているのかと思ったのだが、ユズルの眉間の皺は、どんどん深くなっていく。


「ゼン……」

ユズルは何を言っているのか、彼なら上手く教えてくれるのではないかと、振り仰いだのだが……

「ん?」

ゼンはバリバリと豪快に、その葉っぱを食べている最中だった。

「!!!!!???」

アーシャは目を剥く。

生の葉っぱを食べるなんて、とんでもない。

どんな病気になるか、わかったものではない。

野菜は絶対に生で口にしてはならないものだ。

アーシャは慌てて引っ張り出そうと手を伸ばしたが、葉っぱは、あっさりゼンの口の中に吸い込まれてしまう。

「ゼン!ゼン!お腹こわしましゅ!生の葉っぱなんてあぶないでしゅ!!」

口の中からでも引っ張り出さねばと手を伸ばすのだが、ゼンはびっくりした顔でアーシャの手を避ける。

そして遂にはゴクンと飲み込んでしまう。


「あぁぁぁぁ〜〜〜」

青くなるアーシャにゼンは不思議そうな顔だ。

「アーシャ備羽塀苗丞伝嘗傾饗近?」

そう言って、ユズルが押していた器を指差す。

今すぐ治癒をかけた方が良いのだろうかと、オロオロしたアーシャだったが、ゼンが指差した方向を見て、ふと気がついた。

『こめ』とスープと卵と肉がのった平皿。

これに付け加え、各々、葉っぱの入った器が付属している。


葉っぱは飾られているわけではなく、食事の一品だったのか。

まさか神の国では生の野菜を食べる習慣があるのか。

そう思い至ったアーシャは、愕然とする。

「アーシャ枝織鷺升誌よい?」

ゼンは卓の上に置いてあった、真っ白い物が入った涙型の容器と、油や黒っぽい液体が入った容器を、両手それぞれに持つ。

何か尋ねられているようだが、アーシャは答えることができない。

アーシャの感覚で言うと、肉に火を通すのと、野菜に火を通すのは同じ事だ。

生肉を食べることが言語道断であるように、野菜も生で食べるなんて有り得ない。

虫や病原菌、生の野菜には大きな危険が潜んでいるのだ。


もしかして神の国の野菜は、生で食べても病気にならないようになっているのだろうか。

しかし生には抵抗が大きい。

「穫叩護牟貼遊製音伐榊宋創鋤饗……」

「秘播寵妊挺麟且伴忌兼伊……号者祈艦愈!乞昇浮伴!」

呆然としているアーシャを他所に、ゼンとユズルは何やら言い争いをしている。

(言われてみれば、艶々しているし、泥一つついていない)

アーシャは恐る恐る、葉っぱの盛られた器を覗き込む。

虫食い一つないし、色も瑞々しさを感じさせる鮮やかな緑だ。

こんなに綺麗な野菜、見たことが無い。


「!?」

アーシャがじっくり観察していたら、ポタポタポタっと上から葉っぱに白い物が注がれる。

見上げると、先ほどゼンが持っていた、涙型の容器をひっくり返しているユズルがいた。

「く・え!」

ユズルはビシッと白い物まみれになった葉っぱを指差す。

「???」

食べてみろと言っている気がするが、この液体とも固体とも言いようのない、白いものは何だろうか。

(ちょっと白い芋虫みたい……)

丁度、白い線は、美味しそうに葉を食べている芋虫のようで、アーシャは躊躇う。

「くえ!」

そうこうしていたら、痺れを切らしたユズルが、葉っぱを一枚摘んで、アーシャの鼻先に突きつける。


「〜〜〜〜」

辞退しにくい空気に、アーシャは腹を括る。

目を瞑って、勢いを付けて「えいや!」とばかりに、葉っぱに食らいついた。

シャクッと爽快な歯触りと、生の野菜の青臭さが口に広がる。

アーシャは、この青臭さに馴染みがない。

「う〜〜〜」

それでも何とか飲み下そうと、咀嚼する。

「…………?」

絶対に危ないと言われている、生野菜の恐怖に怯えながらの咀嚼だったので、最初は気が付かなかった。

「………!!!」

しかし口の中に広がる、何ともまろやかでコクのある味は、強力にアーシャの味覚に訴えかけて来た。


美味しさに、恐々と閉じていた瞼が持ち上がる。

そして味わうように葉っぱを咀嚼する。

するとシャクシャクと気持ちの良い歯触りと、生野菜特有の青臭さを乗っ取ってしまうほどの旨味に、口の中が満たされる。

「美味しい…………!!!」

信じられるだろうか。

生野菜が美味しいのだ。

この白い物体が生野菜を、物凄く美味しくしている。


気がついた時には、アーシャは青虫のようにせっせと葉っぱを齧り始めていた。

「……おぉ……」

自分が食べさせようとしたユズルの腰が引けるほどの勢いだった。

「アーシャ、アーシャ」

ユズルが無言で自分の席に座り直すと、ゼンが目をキラキラとさせて、アーシャに葉っぱを差し出す。

「あむっ!」

アーシャは大口を開けて、それに飛びつく。

(止まらない!止まらない!!生野菜が美味しい!?生野菜が美味しいぃぃ!??)

これまでの価値観が一瞬でひっくり返されて、混乱するが、美味しいは正義だ。

もうお腹が痛くなっても構わない。

これを食べないのは人生の損失だ。


アーシャは青虫のように葉っぱを平らげ、満足して大きく息を吐く。

とにかくあの白い物が凄い。

全部食べてしまっても、名残惜しくて、行儀悪く唇を舐めてしまう。

「アーシャ、龠い黽〜〜〜」

そんなアーシャの頭をゼンがグリグリと撫でる。

美味しい物を食べて褒められるのだから、やっぱりここは天国だ。


まだ卵も肉も、楽しみは残っている。

アーシャの幸せなため息は止まらなかった。

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