27.長兄、夢を見る

(あれ……?)

半分起きたような寝たような状態のアーシャに晩御飯を食べさせて、何とかお風呂に入れて、ようやくしっかり眠らせられると安堵して、一緒に目を瞑ったはずだったのに、突然開けた視界に、禅一は戸惑った。

目を閉じたいと思っても、自分の意思に、瞼が従わない。

しかも先程電気を消して真っ暗にしたはずなのに、目の前には自然光が差し込んでいる。

(ここは一体何処なんだ……?)

崩れかけのあばら屋のようで、光があらゆる方向から入ってきて、小屋中を舞う土埃を照らしている。

自分の部屋では無いことは、一目瞭然だ。

屋根は茅葺かやぶきのように見えるが、白川郷などで見る立派な茅葺き屋根ではなく、枠組みの上に適当に並べただけのようで、所々から光が入っている。

「うぅ……」

口から呻き声を漏らしながら、体が起き上がる。

体の各所は痛むし、痒い。


(は……?)

禅一は自分が見ている映像が信じられない。

何と禅一の体が寝ていたのは、土の上に直接ひかれた藁の上なのだ。

しかもその藁も薄汚れて草臥れている。

これなら牛の寝床の方がまだ綺麗だ。


「うっ……」

体は四つん這い状態で藁の中から出て、立ち上がろうとするが、足が萎えて、上手く動かず、土の上に転がる。

とにかく体中が重くて、倦怠感が酷い。

とても動けるとは思えないコンディションだ。

「はぁ……うぅ……」

立ち上ろうとするのに、体に力が全く入らない。


(一体、これは何なんだ?しかも……この酷い匂い……気分が悪い)

吐き気を催す匂いが、一面に広がっている。

立ちあがろうとして、転がった視界には、部屋の壁が映っているのだが、この壁の方から、目に染みるような悪臭が漂ってくる。

一見、木の枠組みの中に、泥と藁を混ぜ合わせたような土壁が塗られているようなのだが、そこから排せつ物のような悪臭が漂ってくる。

泥の代わりに排せつ物が使われているのかと思うほど、酷い匂いだ。


はっきり言って正気の沙汰とは思えない小屋だ。

何故こんな所に寝転んでいるのか。

―――木をあつめないと

そんな考えが、禅一の中に流れ込んでくる。

―――ちゃんと、うごかないと

そう思って起きあがろうとするのに、やはりこの体は起き上がらない。

見れば、手足は限界まで痩せ細っており、とてもじゃないが、自重を支えることすら出来なさそうだ。


「起きたの?」

木を張り合わせただけのような、ドアと呼ぶのも烏滸がましい扉が開く。

入ってきた女性も、立っているのが不思議なくらい、病的に痩せている。

(あれ………?この顔、何処かで……)

女性はパサパサの黒い髪を荒縄で括っており、その肉のない眼窩は落ち窪み、目の大きさが際立っている。

見覚えがないはずなのに、何処かで見たような気がしてしまう。

「お……かぁ……さん」

禅一の喉からは弱々しい掠れた声が出てくる。

(あれ……?)

その声はとても幼い。


「……アーシャ、お母さんと、木苺を探しに行こうか」

女性は泣きそうな顔で声をかけてくる。

(アーシャ!?)

禅一はギョッとする。

確かに目の前の女性は、禅一をアーシャと呼んだ。

(見たことがあると思ったら……この女性、アーシャに似ているのか!!)

目の色は薄い茶色だが、アーシャが大きくなったら、こんな感じになりそうだ。


―――きいちご?いまから?

もう初雪がいつ降ってもおかしくない時期なのに、と不思議に思うのが伝わっていくる。

(これは……アーシャの心?)

半月早ければ木苺も見つけられただろうが、今はもう生物たちを死に誘う冷たい風が吹き始めている。

そんな事情が禅一に自然に伝わってくる。


小さな体は、女性に抱き上げられる。

お互い皮のすぐ下にある、骨と骨がぶつかるようで、柔らかく抱かれても、あまり心地よくない。

しかし寒風が吹く外に出ると、硬くても触れ合った所だけが温かい。

その温かさに縋るように、禅一の入っている体は動く。

(雨……?)

ポツンポツンと首筋に雫が落ちてくる。


―――おかぁさん、ないてる

そんな心の声とともに、胸が締め付けられるような感情が禅一に伝わる。

禅一が入っている体の主は、感じている。

これは木苺を探しに行くんじゃない。

母親は冬を目前に遂に決意したのだ、と。


寒い夏は十分な実りをもたらさなかった。

そのせいで領主の畑を耕す農奴たちには、冬を越す十分な食糧を分配されなかった。

特に女子供しかいない、この家は酷い物だった。

一番食べ物が溢れるこの時期に、一家で飢え死にしかけている。

このままだと、皆、冬を越せない。


飢えるか生き残るか。

そんな所まで追い込まれたら、人間としての選択は出来なくなる。

動物は生き残る可能性の強い個体に餌を集中させる。

既に飢え死にしかかっている、小さくて弱い個体を捨て、生き残る個体を選択するのだ。

追い詰められれば、人間も動物として生きる他ない。

―――おかぁさん、大すき

小さな手は、涙をこぼす母親を抱きしめる。

動物としての選択しか許されない所まで、追い詰められて、ようやく母は決断した。

その決断は遅すぎたくらいだ。


村からは早い時期に小さな子供が姿を消した。

夏に冷たい風が吹いた時点で消えた子もいたくらいだ。

でも母は、こんなに貧しいのにギリギリまで自分を捨てなかった。

―――なかないで

泣いたら力を使ってしまう。

母が元気じゃないと、大好きな兄たちを守ってくれる人が居なくなる。


「アーシャ、お腹減ったでしょう」

森の深い所まで来て、母は黒い物を差し出す。

―――パンだ

とてもパンには見えない、炭か何かの欠片に見える。

しかしこれは貴重な食糧のようだ。

母は必死に笑顔を作って、それを差し出してくる。

しかし禅一の入った体は首を振る。

「アー……シャ……いら……ない」

もうこの硬いパンを噛み砕く力すら、体には残っていない。

これは母か兄が食べた方が良い。

子どもなのに、妙に冷静にそう考えているのが、禅一には辛い。


顔を歪めた母は、小さな体を大切そうに抱き締める。

その胸は肋骨が浮いて、柔らかさのカケラもないが、心が温かくなり、同時に締め付けられるほど痛くなる。

―――さよなら、なんだ

そう覚悟したような心の呟きに、禅一の胸は潰れそうだ。


せめて寒くないようにという配慮なのか、母は周りの落ち葉をかき集める。

そして体は、その上に横たえられる。

「……ねん……ね……する……」

上からも落ち葉をかけられて、掠れた声は、そう言う。

目を開けたままだと、母は帰れなくなる。

そんな気がして、この体の主は寝たふりをする。


目を瞑ると、何度も頭を撫でられ、その後、しばらく隣で聞こえていた、母の嗚咽の声が少しづつ遠ざかる。

―――おかぁさん

足音が十分遠くなって目を開けると、最早ボロ布としか言えない服を着た後ろ姿が見える。

―――ここで、いい子にまってる

我慢していた涙が、目の前に膜を張って、その姿を滲ませる。

最後にその姿を焼き付けたいと思うのに、次から次に水は溢れてきて、何度瞬きをしても母の姿は滲み、遂には見えなくなってしまう。


―――あったかくなって、ごはんがたくさんになったら……ぜったい、おむかえにきてくれる

禅一に温かな春の様子が流れ込んでくる。

雪が溶け、草木が芽吹き、食べられる草も沢山生える。

お腹がいっぱいになった家族が手を繋いで、眠っている自分を迎えに来てくれる。

この子は、そんな姿を想像して心を慰めている。

もしかしたら、まだ『死』を理解しきれていないのかもしれない。


(誰か……誰か、この子を助けてくれ。この子を助けてくれ)

自分の意思では瞼一つ動かせない禅一は、奇跡を願うことくらいしか出来ない。

視界に映る手はちっぽけで、まだ死の意味も理解していない程、幼い。

日本なら、自分の所にいたなら、甘やかして、ダメになるぐらい甘やかして、ワガママいっぱいに育てて、家族のために自分を諦めるような事は決してさせない。

そう思うのに今の禅一には何も出来ない。




「………?」

地面に横たわる目に、不思議な物が映る。

白く輝きながら大地を覆っているもやだ。

(氣……?)

禅一は見える方ではないが、濃くなれば一応微かに見える。

大地を覆っているのは、氣のように見える。

―――きれい……

靄の中で一部分だけ、少し大きくなっている所に、震える小さな手は伸びていく。

手には何の感触もないのに、かざした所から温もりが広がる。

―――あったかい

体の主がもっと欲しいと願ったら、大地を覆っていた靄が、かざした手に集まってくる。

温もりを体の中にもっと引っ張りたいと願うと、どんどん靄は体に吸い込まれる。


やがて、すぐそばにあった靄は全部手に吸い込まれて消えた。

目を凝らして周りを見ると、少しだけ離れた所に、また靄がある。

「うっ……」

先程まで立ち上がることが出来ないほど衰弱していたのに、小さな足はぐらぐらとしながらも、体を支える。

暖を求めて足は動き、靄の所に座る。

「はぁ……」

体全体で靄を取り込むと、とても暖かい。

―――もっとほしい

体の主は、冷え切った体を温めるように、靄を探しては座り込むを繰り返す。


そうしている間に、体から倦怠感が抜け、代わりに活力が満ちていた。

相変わらず空腹感は満たされないが、動き回れる力が湧いてくるのを感じる。

そして体の中に入った活力が、次なる活力の場所に導いてくれる。

靄が出ていなくても、『引っ張れば』靄が出てくる場所を、何となく感じ取れる。

何度か靄を取り込むと、上手く体の中に入れる方法が分かって来る。

繰り返すに従い、萎えていた足は、どんどん動きが良くなって、遂には小走りまでできるようになった。

お腹は膨れないが、靄を取り込むと、元気になれる。

―――すごい!おかぁさんに、おしえてあげなきゃ!

そう思って、家がある方角を見て、走り出そうとして、自分が置かれた状況を思い出して、気持ちが萎んでしまう。

自分が帰れば家族は飢えてしまう。

兄たちは体が大きいし働かなくてはいけないのに、アーシャがいたら食べ物を渡してしまう。


―――むぎも、これをたべたら、げんきになるのかな

小さな体はペタンと木の根元に座り込む。

靄を吸い続けていないと、途端に小さな体は冷え切ってしまう。

―――ごはんがなる木だ

寒さに耐えるように、木の幹に寄り添った所で、彼女は気がつく。

葉はほぼ落ちてしまっているが、黄色い実ごはんが生る木のようだ。


「………」

彼女は靄が出る場所を探して、精一杯そこで力を吸い上げてから、果物の木にしがみつく。

―――なって!なって!!

そして自分の中に溜め込んだものを、木に押し込んでみる。

全力で注いでみるが、木には新芽が少し出たくらいだ。

「………!!」

彼女はまた周りを見回して、力を吸い上げられる場所を探す。

そしてまた木に注ぐ。


何回も何回も小さなジョウロで水を注ぐように、彼女は同じ事を繰り返す。

「………………なんで?」

しかし葉が広がり、花まで咲いたが、果物はならない。

そうだろう。

一部の稀有な植物を除き、果実が身を結ぶためには、虫などの授粉を手伝う存在が不可欠なのだ。

こんな寒い森で活動している虫はもういない。

「………かえれない」

たくさんの果物ごはんがなったら、帰っても大丈夫かもしれない。

「ごはんなってよぉ!!」

一度希望を持ってしまった彼女は諦めきれずに、また何度も力を注ぐが、木が無駄に成長するばかりだ。


「おかぁさぁん……おにぃちゃぁん………」

生い茂った木の根元で彼女は涙を零す。

木は異様に成長して、木に入りきれずに溢れた力のお陰で、茶色一色だった周りの風景は、草が芽吹き、春のようになっている。

草むらになった、木の根元で彼女は涙を流す。

精一杯わかったふりをして、我慢していたけど、気力が戻ると、家族が恋しくてたまらなくなったのだろう。


寂しい、恋しい、怖い、寂しい、寂しい。

帰りたい。帰りたい。

そんな気持ちが流れ込んで来て、禅一はたまらない。

寂しくないようにしてやりたいのに、体の中にいるから、どうしたらいいかわからない。

「………アーシャ!!」

そう思っていたら、声が出た。

それと同時に、『自分の体』が覚醒するのを感じる。




昼が一転して夜に変わり、肌を指すような冷気は柔らかな毛布に変わる。




「……アーシャ」

腕の中には平和そうな顔をして、ピィピィと鼻を鳴らしながら眠っているアーシャがいる。

泣いていないし、寂しがってもいない。

満ち足りた顔で、口から涎を垂らして、しっかりと禅一のシャツを握って眠っている。

「……夢か」

フーッと禅一は息を吐き出す。

禅一は枕元のティッシュで涎を拭いて、鼻が詰まっていないか確認して、彼女に毛布をかけ直す。


匂いや、寒さなどやけにリアルな夢だったが、夢は夢だ。

禅一は夢を振り払うように、小さく首を振る。

夢の中のアーシャが住んでいたのは、どう見ても外国の貧村で、あんな飢えるほどの状況だったなら、アーシャが今、日本にいるはずがない。

飛行機や船に乗る金も捻出できないだろう。

それにアーシャは今まで一回も誰かを恋しがるような素振りを見せなかった。

あんな気持ちになるくらい大切な親兄弟が居たなら、絶対に恋しがって泣くはずだ。


(そう考えると、アーシャは今まで一体どんな所で暮らしてきたんだろうな)

人懐っこくて、曲がったところのない素直さで、無邪気で、聞き分けも良い。

性格的には愛情いっぱいに育てられた子供のように見える。

しかし体は痩せ細って、垢だらけで、何も与えられた経験もなさそうで、誰かを恋しがる様子もない。

そして誰に教わったのか、自然と『氣』を使い熟し、様々な奇跡を起こせる。

とてもアンバランスだ。


「うぃにぃあぅ〜」

もにゃもにゃと言いながら、アーシャが禅一の服をモグモグしている。

「……シャツは食べたらダメだぞ……」

禅一は苦笑しながら、アーシャの口からシャツを取り出す。

(まぁ、良いか)

難しい事は考えなくて良い。

禅一はこの子を守ると決めた。

この子に最善と思われる環境を作り、毎日美味しいご飯を食べさせる。

それだけで当面は良い。


(次はもっとまともな、夢らしい夢を見られると良いんだが)

そんな事を思いながら、禅一は目を閉じた。

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