23.聖女、癒す

彼は例えるならば、光の柱。

あの圧倒的な神気は、とても人の物とは思えない。

(人があそこまでの神気を纏えるはずがない……でも神様じゃない)

手を伸ばしてくれた時の、必死な顔と、抱きしめられた腕の力の強さが、彼を『人』だと認識させてくれた。

少なくとも今までアーシャを忘れ去ってしまっていた神では、絶対ない。

アーシャの熱と痛みを持つ頬を見て、怒りと悲しをないまぜにした顔をした彼なら、どんなに遠い所からでも、どんな事情があっても、絶対にアーシャの所に来てくれた。

アーシャが守りたいと思った人々を、一緒に泥まみれになって、助けてくれたはずだ。


ゼンは穏やかな顔に戻り、彼が大地から引っ張り出した神気は、周囲にゆっくりと広がっている。

彼の神気は凄く重いので、広がるものの、霧散したりはしない。

(凄い身体強化だった……)

ゼンの上着に、おくるみのように包まれながら、アーシャは振り返る。

魔力でも、神力でも身体強化のやり方は同じだ。

体を巡る力を一時的に堰き止め、腕や足など、強化したい部分に圧縮するのだ。

稀に魔素や神力を周囲から取り入れながら、体全体を強化する者もいるが、これはかなり繊細な制御が必要になってくる。

布袋に必要以上の物を詰めたら破れるのと同じく、一線を越えると体を壊してしまうのだ。


しかしゼンの身体強化は全く違う。

類を見ないやり方だった。

普段から驚くほど神気を放出しているのだが、単純に、その放出力を異様なまでに増やし、更には大地の神気まで共鳴させ、噴き上がらせ、身に纏う。

布袋の中に力を詰め込むのではなく、圧倒的な勢いで放出し続けるのだから体は壊れないだろうが、普通の人間ができることではない。

正に『神業』だ。


「お禰望榎、薄炉児並蓋い掲兄う慌既趣杢遮」

「既段……翁婚棲寛嚇置鐙妨欠喬好越子城尺諌此鍛睡蛇丑活い性頒表い九」

「匡凄蘇軟拘暦決航墜礎氏版詔或惨危廼績軒尺磯罪専績尽。舛烏載」

そんな神業を見せたゼンだが、今は地面に座り込んで、砕け散った緑色の破片をせっせと集めている。

周囲は憲兵と思われる人々が集まり、物々しい雰囲気なのだが、彼はそんな事お構いなしだ。

大きな手で小さな破片も拾って、ニカっと腕の中のアーシャに笑って見せる。

「話壬防鐸膏逗強嬬寂悉畢辺」

破片を拾って入れた胸ポケットをポンポンと叩いて、置いていかないから安心しろとばかりに示してくれる。

「……じぇん……!!!」

初めての宝物を、持ち帰ってくれようとするのが嬉しくて、またアーシャの目は滲んでしまう。

もう子供のようだとか何だとか変な意地は張らず、アーシャはおくるみの上着から両腕を出して、ゼンの首ったまに抱きつく。

「はぁ、佃滑吉昧、畠匹垣婚閤奴」

ユズルはため息を吐きながらも、緑色の小鳥がいなくなってしまった紐を首にかけてくれる。


まだ紐にくっついている笛に、アーシャは恐る恐る息を吹き込む。

すると変わらない音色が笛から出てくる。

「ちゃんと出た!」

一緒に踏まれてしまったが、こちらは壊れなかったらしい。

アーシャはホッとして笛に頬擦りする。

(全然失ってなんかなかった)

ふふふ、とアーシャは笑う。

小鳥は形こそなくなってしまったが、破片になっても美しい緑色は変わらないのだ。

ゼンが持って帰ってくれるから、今度から物凄く跳ねる玉と一緒に、家で大事にしたらいい。

アーシャが笑うと、ゼンも目尻を下げる。


「廠砕逗竣峻塑淵媒潟贋厩輔、穀遊義栢牟玩始傭他?」

そんなゼンに、集まった憲兵が声をかける。

その厳しい雰囲気にアーシャは心臓が跳ねる。

ゼンはアーシャを助けるため、『くるま』を殺してしまった。

もしかしたらその罪を問われるのかもしれない。

「……ゼン……」

瘴気をまとっているなら、神気で吹っ飛ばすこともできるが、憲兵にその様子はない。

ここに未だ止まっている神気を使えば、人をも入れない強力な結界は構築できる。

閉じこもっても、一時凌ぎに過ぎないが、アーシャのために戦ってくれたゼンが罰されるのを、むざむざ傍観もできない。

やるべきか、やらざるべきか、アーシャは迷いながら、ゼンの服を握り締める。


「梼佳葎並降弼軸迭乱曾冠覗機防鷲猟膳備吃林招」

そこに凛とした女性の声が割り込む。

振り向くと真っ白な上着をはためかせ、髪を一纏めにした女性が堂々と胸を張って立っていた。

(あ、あのお医者様)

彼女はカッカッカと靴音を響かせ、憲兵とゼンたちの間に割り込む。

そして女王然とした威厳を以て、憲兵たちに何やら命令している。

ゼンよりも、憲兵よりもずっと小柄なのに、ゼンやアーシャたちを庇うように立ち、全く怯むことなく発言している。

(……かっこいい……)

彼女は女主人である、あの建物の中だけで強気でいるのではない。

外部の、しかも自分より屈強そうな男性に、一歩も引かず、意見している。

アーシャのように力に訴えるのではなく、自分の言葉と姿勢だけで、対等にやりとりをしている姿には、尊敬の念を抱かずにはいられない。


遂に女性医師は憲兵たちを説き伏せて、戻らせてしまう。

そして彼女はくるりとこちらを振り向くと、突然深々と頭を下げた。

「湾恰誹越遼桜鵠仁私椅奪抄学、消杜仇お足首鍵置軸尊尋唯立乃画款様庇い、喬氏玉あ曳祖侶梧匁尭」

芯が入っているかのように、背筋が真っ直ぐに伸びた、美しいお辞儀だ。

(神の国では女性もお辞儀なのね)

ふむふむと学習したアーシャも、真似して頭を下げ、挨拶を返す。

「おっと」

が、自分も綺麗にお辞儀をしようと張り切った結果、ゼンの腕から落ちそうになって、支えられてしまった。

何とも情けない事だが、どうもゴブリンの体はバランスが悪く、頭のほうが重いのだ。


「冨僅鎌う満い殿或思。……禄支肝範汝、味筈救珍枢井顕客秤却」

「塚、題荒習裁丞潰有栽准熱良水皆壇及、劃典拭愛荷鴛丞肝週畏番譜柴勺頗達諜鵬謁剖曳闘批。兵組紡噺潜桔嫁此牛傍去托逼貼器、非甘蚤撹潅黒騎胎袈陳宏交購笈漕療?」

アーシャが落ちかけたせいで中断してしまった話が再開する。

「……?」

もう邪魔しないように、大人しくしようと、アーシャは思っていたのだが、足に何か濡れた感触がする。

(ま、ま、まさか……さっき怖くて粗相を………!?)

慄然としたアーシャは濡れた感触がする所に手を伸ばす。

万が一粗相だったら、何が何でも下ろしてもらわなければ。

恥ずかしすぎる。

「ぽ?」

そう思っていたアーシャは、戻した手を見て、変な声が出てしまった。

手の平いっぱい赤い。

「ほぇぇあああああ!!!」

それが血だと認識した途端アーシャは叫んでしまった。


アーシャを包んでいるゼンの上着は、内側のアーシャから感じられる程濡れているのだ。

「ゼン!ゼン!!」

彼が怪我しているのは間違いない。

アーシャは慌てて、濡れていない方の手でゼンの胸を叩き、彼の注意を引く。

「ん?」

ゼンは優しい顔をアーシャに向けて……手を見て硬直した。

「あぁぁぁアーシャ!!けが、けが、けが、けが、けが……」

そして慌ててアーシャを地面に下ろし、壊れたように何か呟きながら、覆っていた上着を剥がし、アーシャの点検を始める。

「あ、あ、あの、私じゃなくて!!」

アーシャは血に濡れている足を中心に点検するゼンを止めようとするが、慌てる彼は聞いていない。

「いや、翁捧駐革捉」

そんなゼンの左手を、冷静な顔の医師が指差す。

見れば彼の拳は四箇所ほどが、パックリと切れている。

「速郵紡」

それを見たユズルが冷めた顔で、バコンとゼンの頭を叩く。


「孝併、洞求済」

血の出所がわかったゼンは、あっさりと『解決した』みたいな顔で笑う。

かなりザックリと切れているのに、呑気過ぎる。

アーシャは彼の手に飛びつく。

「アーシャ?刈渓夢侃?」

突然触れられたゼンは不思議そうな顔だ。

触れていれば、声で神気を操る必要は無いし、細かい治癒が出来る。

その上、途中で揮発する神気も無いので効率が良い。

しかしそんな事を説明できる言葉をアーシャは持たないので、しっかりと両手でゼンの手を握る。


アーシャは周囲にある、ゼンが呼び起こした大量の神気を体に取り入れ、ゆっくりと触れた手に注ぐ。

(うぅっ、相変わらず重いっっ)

ゼンの神気は相変わらず物凄い密度だ。

周囲に泳ぐ程の神気が溢れているが、アーシャの取り込み性能では、ちょっとづつしか入れられない。

(あ、小さな異物が……)

アーシャは目を瞑って、操作に集中する。

異物が体の中に残らないように、注いだ神気で押し出しながら、傷口を塞いでいく。

元はゼンが放出した神気なので、物凄く馴染みが良い。


(なのに、何でこんなにも塞がらないの!?)

それなのに傷の治りは遅い。

じわりじわりと塞がってはいるが、びっくりするほど治りが悪い。

そういえば、以前にゼンのコブを治した時も時間がかかった。

(もっと深く同調して……)

アーシャは自分の波長を、ゼンのそれに合わせる。

波長が合うにつれ、流れる血液、鼓動、繋がっていく傷口の様子が、手に取るようにわかり始める。

すると傷の治りがにわかに早くなった。


(もっと……もっと深く……)

傷口には薄皮が張った。

更に綺麗に治そうと、アーシャは同調を深めていく。

「…………っっ」

その瞬間、悍ましい気配をアーシャは捉えた。

(これは…………漆黒!?)

ゼンの血液の流れの中心に、先日封じた物の一部の存在を感じる。

(この神気の中で消滅せずに存在しているの!?)

相変わらずゼンからは清廉な神気が流れ出ているから、彼の神気によって浄化されたのだとばかり思っていた。

しかし彼の中に入り込んだ漆黒は、しっかりと彼の体に根を張って居着いている。


彼の凄まじい神気に押されて、小さくなっているが、こんな物が体の中にあるなんて考えられない。

聖女にしか見えない程度の、弱い瘴気さえ、人を病にしたり、心を蝕んだりするのに、こんなものが入っていては、さぞかし苦痛だろう。

(追い出してやるわ!!)

ゼンの体に我が物顔で居座られてたまるものか。

傷口を塞ぎ終わったアーシャは、全ての力を、ゼンの中の漆黒へ向ける。


消滅させるには、もっと大掛かりな陣を組まなくてはいけないし、神具も必要だ。

しかし外に弾き出すくらいなら出来るはずと、アーシャは周囲の神気を取り込み、注ぎ込む。

(とにかく絡みついている根を一つづつ切り離さないと)

神気を手繰ってアーシャは攻撃を試みる。


しかし彼女は失念していた。

周囲に満ち溢れている神気はゼンの物であり、彼の中に巣食っている『漆黒』は、これに晒されて、尚、存在し続けている物なのだ。

その一部を利用しての攻撃など効くはずがない。

「っっっっ!!!」

切り離そうとした瞬間、アーシャの意識に、稲妻のように闇が食い込む。


アーシャは声を出すことも出来ずに、仰け反って倒れた。

「アーシャ!!」

ゼンの声が聞こえたが、思わぬ反撃を喰らったアーシャは反応が出来ない。

深く同調し過ぎていて、それを上手く切り離すことも出来ない。

(ダメだ……同調させたままだと……ゼンにも影響が………)

薄れ行く意識の中で、アーシャは必死にゼンの中に入り込んだ力を、引き戻そうとする。

焦るのに、どんどん意識は白み、遂には、プツンと切れてしまった。







(あ………れ………?)

確かに意識は切れたはずなのに、感覚が目覚める。

アーシャは不快な湿気と、肌がじっくり焼かれているような暑さを感じる。

さっきまで寒くて上着を脱いだだけで凍えそうだったのに、おかしい。

おまけにジーワジーワと耳をつん裂く不快な音が、何重にもなって聞こえる。

(ここは……どこ……?)

朝焼けか、夕焼けか。

はっきりしないが、薄暗い部屋に強烈な日差しが差し込んでいる。

視点はアーシャの意志で動かせない。

目は床に散乱している『何か』を無感動に見つめている。

割れた皿、こぼれた水、小さな鉄の筒、砕けた茶色のガラス……そしてそれらを覆うように広がる茶色の長い髪。


視界は動き、床に座り込んでいる少女を捉える。

陽を受けた髪は、短いが金糸のように輝き、透けるような肌は、強い光も跳ね返すほど白く、アーモンド型の瞳は、つぶらで可愛らしい。

しかしその表情は恐怖のまま固まっている。

服が破れて、顔や体の各所が汚れている事から、何か禍事に巻き込まれたのかもしれない。


アーシャの体は床に散乱した色んな物を避けながら、少女に近づいていく。

「あ……あ………」

すると少女は、その目から涙が次々とこぼす。

アーシャの手は、その少女の頭を撫でる。

いや、撫でようとしたが、その手が濡れている事に気がついて、寸前で止まる。

アーシャの体はしゃがみ込む。

「じょうちゃんは何もしてない。何もわからない。いいな?」

喉から出たのは、風邪で掠れたような声で、アーシャのものではない。

ビクンと震えた少女は、嗚咽を漏らし始める。

その姿に胸が重苦しく感じる。

(日差しが……強くて…………眩しい………)

目を瞑りたいと思ったら、ズルンと、その体から意識が抜ける感覚がした。


体から抜けると、どんどん周りの景色は黒くなっていく。

(いやだ………『漆黒』みたい………)

そう思ったのを最後に、今度こそアーシャの意識は途切れた。

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