22.愚者、虎の尾を踏む

禅一はアーシャを看護師に任せて、待合室のソファーに座った。

その表情は冴えない。

「なぁ、いきなり尿検査って何でだと思う?何か問題が見つかった……とかか?」

アーシャがいる時は不安を見せないようにしている禅一だが、いなくなれば、落ち着きがない。

先程から鬱陶しい程気にしている。

「さぁな。誰かさんが甘やかして、何やかんや食べさせるから、血糖でも出てんじゃねぇ?」

対する譲は面倒臭そうに答える。

「そんなに食べさせてないと思うんだが……」

「ついさっき、チョコを食わそうとしてた奴は誰だ?」

「いや、今日は、注射とかあるし……これからちょっと頑張らないといけないから……景気付けに……?あのチョコも歯医者で買った奴だし……麦茶飲ませたら、綺麗になるし、ちょっとくらい、良いかな、と」

「診察前に物を食わそうとしてんじゃねぇよ」

ゴニョゴニョと口ごもる禅一に、譲は容赦ない。


採血は上手くいったが、注射もそうとは言えない。

禅一は突然の検尿検査もあり、本日何度目かわからない溜息を吐く。

「ったく、過保護なんだよ。か・ほ・ご!あのチビは採血の時もケロッとしていただろうが」

放っておくと、すぐジメッとなる兄に、譲は冷たい。

「そう言っても……出すのと入れるのじゃ大きな違いがあると思わないか?」

「針刺す時点で一緒だ。あんな微々たる液体が出ようが入ろうが大勢に影響ねぇよ」

阿呆なやりとりをしているので、待合室の保護者たちの目が、チラリチラリと長身の兄弟に注がれる。


ただでさえ人目を引く兄弟が、小児科なんて似つかわしくない所にいるので、好奇の視線が吸い寄せられてくる。

顔の基本造作は似ているのだが、黒髪褐色肌で線の太い禅一と、全体的に色素の薄い痩せ型の譲は、印象が真逆で、一目で兄弟とは思う人は少ない。

『あの三人どんな関係なのかしら?』

という視線がちくちく刺さって、譲は不機嫌な顔をする。

一方、禅一はアーシャの心配で、他人の視線など気にしている余裕がないようだ。


「しかしお前が素直に看護師に任せるとは思わなかったよ」

心配のあまり、アーシャに影のように付き従う禅一に、皮肉っぽく譲は笑う。

「あぁ。だって女性の検尿って、どうやれば良いかわからないだろ?」

しかし譲の揶揄いめいた言葉を受け取った禅一は、豪速球で投げ返してきた。

「………は?」

「股のどこから出てくるかわからなくないか?出てきたのを、どうやって受け止めるのかとか。男と比べて難易度高過ぎるだろ。くだないし」

ブッと何人かの保護者が吹き出す音を聞きながら、譲は頭を抱える。

禅一は稀に見る、デリカシーのない男だったと、今更思い出しても手遅れだ。

「わからないのに、俺までトイレに入ったら、狭くて邪魔にしかならないし。ちょっと新人ぽいけど、優しそうな看護師さんだったから、任せられるかな、と」

「………あぁ、そう。もうお前はちょっと黙っとけ」

周囲の空気を全く感じ取っていないらしい禅一は首を傾げたが、素直に静かになる。


いや、静かにしようとしたのだが、その時、彼は異変を感じ取った。

アーシャを預けた看護師が、一瞬、翻った処置室のカーテンの隙間から見えたのだ。

「…………」

禅一の元にアーシャは返されていない。

「おい、どうした?」

突然立ち上がって、トイレに向かう兄に譲が尋ねるが、彼は止まらない。

待合室を抜けて『こどもようトイレ』と書いてある扉を迷いなく開ける。


「アーシャ?」

扉を開けてすぐに禅一は呼ぶ。

しかし返答はない。

「………」

禅一は次々にトイレの個室を開けて、踵を返す。

「禅?」

只事ではない禅一の様子に、後をついてきた譲は、トイレから出てきた兄の表情を見て、眉をひそめる。

「アーシャがいない」

禅一は短く事実を告げる。

「尿検査以外にも何か検査があったのか……?」

譲は首を傾げる。

考え込む譲に対して、禅一の意思決定は早かった。


止める間も無く、禅一は歩き出す。

「おい、禅、どうする気だ?」

「さっきの看護師を捕まえて聞いてみる」

ズンズンと処置室に乗り込んで行く禅一を、慌てて譲は追いかける。

「おい、勝手に―――」

「しっ!!」

止めようとした譲の口が塞がれる。


禅一はその場で頭をぐるっと動かす。

そして突然走り始める。

「おいっ!禅!?病院を走るんじゃ「笛だ!」……はぁぁ!?」

禅一は病院の廊下を、非常識なスピードで走り、『STAFF ONLY』と書いてあるドアを躊躇なく開く。

そしてキョロキョロと目標を探すように周りを見る。

「おい!禅!笛なんか本当に聞こえたのか!?」

少なくとも譲の耳には全く聞こえなかった。


禅一は譲の質問に答えずに、廊下の突き当たりの窓を開ける。

「おいおいおいおいおいおい!禅っ!こらっ!お前何やってんだ!!」

譲が声を荒げたのは、胸くらいの位置にある窓の縁に手をかけて、あっという間に禅一が窓枠の上にのったからだ。

慌てて窓に駆け寄った譲の目に、病院裏の駐車場の様子が入る。

「………チビ!?」

男二人に拘束された小さな黒綿毛。

小さな足をバタバタさせながら、黒塗りの車に詰め込まれている。

「譲、警察呼べ」

振り返りもしないで、禅一は指示を出す。

「あぁ。わかっっったぁぁぁぁぁぁぁぁ!!??」

『わかった』と譲が返事する前に、禅一は窓枠を蹴った。

「馬鹿かぁぁぁぁ!!ここは実質三階なんだぞぉぉぉ!!」

譲の雄叫びに、何事かと見にきていた看護師たちの悲鳴が重なる。

そして悲鳴をかき消すように、物凄い衝突音が下から響いた。


「あぁぁぁ!!クソッ!」

譲はスマホを取り出しながら、非常灯に向かって走る。

目指すは避難用の外階段だ。

「めちゃくちゃキレてんじゃないかよ!!急がねぇと人死が出るぞ!!」

譲は階段を滑るように駆け降りる。

勿論、走りながら、律儀に警察へも連絡を入れる。



◇◆◇



無事に目標を手中に収めた。

多少の手違いで、袋のまま目標を確保する事はできなかったが、車一台がやっと通れる細い道は人気ひとけが無いし、周りの建物は大きい道の方向を向いて建っているので、こちらに視線は集まり難い。

問題ない。

そう、男たちが安堵した瞬間、は降ってきた。


最初に気がついたのは、前を見ながら、車を進めようと、サイドブレーキに手をかけた運転手の男だった。

屋根などの遮蔽物がない青空駐車場で、車に何かが降ってくるなど、予想もできなかったので、が視界に入った時、彼には何が起きたのか分からなかった。

ただ、あまりに理解できない光景だったので、フロントガラスの向こうの映像が、コマ送りのように細切れになって、脳に送られてきた。


黒い底の強力そうなブーツを履いた足。

それが車の鼻先に着地して、大きくたわむボンネット。

降ってきた足がグッと踏み締められ、腰を落としたことにより、フレームインしてきた、真っ黒で飾り気のないコートと、真っ黒な髪。

そして前転するようにして、ボンネットから転がり落ちていく黒い塊。


衝撃で大きく前に傾いた車の後輪が、大きな振動と共に着地する。

墜落してきた物が人間だと、漸く脳みそが認識した時には、物凄い破裂音と同時に、目の前が真っ白な物に覆われた。

エアバッグが開いたのだと理解した時には、男はエアバッグと座席に挟まれて動けなくなってしまっていた。


「な、な、何が、何が……」

何が起こったのか。

運転手の男は、それすら全て言い切る事ができなかった。

ウィンドウから音がした、と、右を振り返った次の瞬間に、鋭い小石を中指と薬指の間に握り込んだ拳が、眼前に広がっていた。

「はっ………ぎぃぃいい!!」

細かく割れたガラスの破片を浴び、小石が人中に突き刺ささり、次いで、何かが折れる音を聞いたのを最後に、男の意識は消し飛んだ。


「何なんだよ!?」

「何が起こったんだ!?」

後部座席の男たちは、何が起こったのか、全く理解出来ていない。

そんな狼狽する男たちにお構いなく、運転席の窓を叩き割って、車内に突っ込まれた手は、ペタペタとドアを探り、素早くドアロックを解除する。


次いで後部座席のドアが全開にされる。

「は!?………へ!?」

そんな事を言う前に、その男にはしなくてはいけない事があっただろう。

しかし突然ボンネットに降ってきて、窓を運転手ごと突き破り、侵入してくる非常識の塊に、彼の理解は追い付かなかった。

「ぎゃああぁああぁあああぁぁああ!!」

誰が、こんな平和な国で、ドアが開いた次の瞬間に拳が飛んでくると予想できるだろうか。

右肘の関節が殴り込まれ、異音と共に、あり得ない方向に曲がり、子供の顔を押さえていた右手が弾かれたように外れる。

そして悲鳴を上げながら悶絶する男の腕から、素早く子供が引き出される。


「アーシャ!」

そこで漸く襲撃者の顔を、三人目の男が見た。

「ふ……藤護!!」

男は思わず叫ぶが、襲撃者は男に目もくれない。

「アーシャ、すまん。気がつくのが遅れた!」

そう腕の中に取り戻した子供に語りかけている。

「じ、じぇん………じぇんんんん……」

ぐずっぐずっ、と、子供が泣く音がする。


運転手の男は気絶、子供を確保していた男は腕を押さえて、痛みに悶え苦しんでいる。

一瞬で二人を無力化してしまう、恐るべき襲撃者。

(敵うわけがない……!敵うわけがない!!)

男は震える手をドアノブに伸ばす。

車が大破した時に派手な音もしたし、窓を破る音や、絶叫なんかも、周囲に響いているだろう。

もう作戦は失敗だ。

ここは自分だけでも逃げるしかない。


「顔を……殴られたのか?」

そう決意した男の耳に、地底から響いてくるような、恐ろしく低い声が届いた。

ドアを開けた男の心臓は縮み上がる。

子供の顔を叩いたのは彼だった。

笛を取り上げる以上に、抵抗する子供への見せしめの意味で叩いた。

自分達が圧倒的に強く、その自分達に逆らったらどうなるか教え込む。

数倍大きい相手に殴られた衝撃や恐怖などに対する配慮など不要だ。

恐怖を植え付け、自分達に都合のいいように動く人形にしなくてはいけないのだから、これからどんどん殴って躾けるつもりでもあった。


男は暴力を振るう側には慣れていたが、その逆の立場になったことは無かった。

初めての恐怖を感じながら、襲撃者が子供に気を取られているうちに、男は車の外に這い出す。

獰猛な捕食者は、子供に夢中だ。

逃げるなら今しかない。

震える足を無理やり動かして男は走り出す。

「…………ひっ!」

しかし男の逃亡劇は始まって二歩で終了した。

「逃げられると思うか?」

男の目の前には、巨大な壁がそびえていた。


コートで子供を包み、襲撃者は静かな表情で、真っ黒な目を男に向けていた。

いつの間にこちら側に回り込んだのとか、疑問に思うことはあったが、それを解決している時間はない。

声も表情も静かさを装っているが、全身から煮えたぎるような怒気が滲み出している。

男は一通りの訓練を受けており、かなり優秀な『護人もりびと』だった。

なまじ優秀で、挫折した事も無かったし、怖いと感じたことも無かった。


しかし今、彼は少しでも力を抜けば、膝から崩れ落ちそうな恐怖を感じていた。

(これが……『藤護』………)

最早人としてのカテゴリーが違うとしか言えない、圧倒的な『氣』が、襲撃者を中心に展開されている。

コンクリートやアスファルトに舗装された土地の力は、大きく弱まる。

そのはずなのに、輝くような『氣』が、襲撃者に共鳴して、大地から噴き出している。

その凄まじい勢いは『視る』ことができなければ良かったと思うほどだ。

これに挑めるはずがない。

バターナイフでマシンガンに向かっていくような無謀だ。


「っっっ!!」

もう恥も外聞もない。

男は病院側に逃げるため、踵を返す。

表道路に抜けるには階段を登らないといけないが、子供を抱えている相手になら負けないだろう。

そう思っての逃走だったが、

「どーーーっん!」

振り向いた瞬間に、顔に靴がめり込んでいた。

自分が走り出したエネルギー分、カウンターパンチのようになって、男は吹っ飛ぶ。

そして容赦なく、倒れ込んだ背中を踏まれる。

「お前、ラッキーだったな〜、俺に蹴られて。今の禅に殴られてたら、生き残れるか微妙なラインだったぞ」

突然現れて、人の顔に蹴りを入れて、その上全体重をかけて背中を踏みつけておいて酷い言い草だ。

「おい、ゴキブリみてぇにカサカサしてんじゃねぇよ。俺が一時的に死亡フラグを折ってやったんだから、後は大人しく国家権力の庇護に入っとけ」

何とか逃げ出そうともがいていたら、上から重量級の『氣』で押さえつけられる。


「………足でも折っておけば動けなくなるぞ」

それでも逃げることを諦めきれない男の耳に、冷たい言葉が入る。

「その武闘派ギャグ面白くねぇから。止めれ」

「真剣な提案だ。子供を殴るような輩は全身の骨を折ってやっても良いくらいだ」

脅しとかではなく、心の奥底からそう思っているように言われて、男は動きを止める。


大きなため息が、男の頭の上で、吐き出される。

「チビにそんな姿見せられねぇだろ?」

「……………」

「止めとけ。今だけで十分に立派な過剰正当防衛だから」

その声にサイレンの音が重なる。

それを聞いて、襲撃者は骨を折ることを諦めたらしい。

降り注いでいた『氣』が収束していく。


「結構到着が早かったな。お前、助けてくれた国家権力に感謝の限りを尽くして、動機とか背後とか素直に吐くんだぞ。あと、仲間に『子供を攫おうとした俺たちが全部悪かったんで、顔が変形しても、腕が変形しても自己責任です』って言うように説得しとけよ」

めちゃくちゃな言い分である。

普段なら怒鳴り返す所だが、

(こいつらには勝てない………)

絶対的な力の差を感じて男は沈黙した。





その場に駆け付けた警官が見たものは、

「じ、じぇん……ふじゅぅ…………」

「うん。遅くなった。すまない」

「俺の名前が面影すらなく崩れてるぞ、チビ助」

ぐっすぐっすと泣いている被害者と思われる子供、そしてそれを大切そうに抱きしめている大男と、平然とした顔で犯人の背中を踏んでいる美丈夫。

そしてボンネットが大破し、エアバッグが開いた車と、その中で悶絶しながら気絶している残りの犯人たちだった。

「ええっと……これはどう言う状況なのかな」

誘拐事件など、こんな田舎町で大事件!と張り切って駆け付けた警官は、現場の状況に戸惑うばかりであった。


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