15.聖女、極上パンを味わう

(こ……これは止まらない!!)

アーシャは夢中で紙の上に、インクをつけなくても、ずっと描き続けていられる不思議な棒を走らせる。

「アーシャ、め・い・ろ」

そう言って、ゼンが差し出してきたのは、物凄い可能性を秘めた紙だった。

紙の上には大きな四角が書いてあり、それを線で仕切って道を作ってある。

四角は開始する場所と終了する場所のみ線が消してあり、線で仕切られた通路を通って、出口を目指すのだ。

貴族が庭に造る芝生迷路を、こんな小さな空間で、自分で解ける日が来るなんて思っていなかったアーシャは、小躍りしてしまった。


高位貴族になると、芝生では飽き足らず、生垣で迷路を作るのだが、生垣は他者からの目を遮るので、男女の恋愛の場になっていた。

そんなことも知らず、下心に気がつかず、まんまと誘い込まれてしまった時は大変な目にあった。

公爵だか侯爵だか忘れたが、迫ってきた高位な貴族の子供をぶん投げて、生垣に突き刺したものだから、大問題になった。

周りから大叱責を受けるし、引っ叩いてきた神官長を拳で殴り返してしまって、ご飯を三日も抜かれて大変な目にあった。

以降、庭を見せるという誘いは危険と知ったので、一切断ってきたが、実はあの迷路には、凄く興味があったのだ。

芝生の合間を『あぁ、こっちは行き止まりだった!』なんて言いながら、楽しく歩いてみたかった。


迷路も迷宮も似たような物だろうと言われてしまいそうだが、迷路は絶対に出口があるが、迷宮は命懸けな上に、終点にとんでもない物が待っているのが定石だ。

とても楽しむ気にはならない。

スタンピードが起こらない程度に間引きをする為に、入り口付近を彷徨うのが、丁度良い。

命をかけて遊ぶなんて、とんでもない。


しかし惜しむらくは、紙の迷路は簡単すぎる。

楽しい時間が一瞬で終わってしまう。

正解の通路を丁寧に塗り潰してみても、すぐ終わってしまう。

早々に、ゼンがくれた三枚の迷路をクリアしてしまったら、彼は驚きながら、物凄く褒めてくれた。

沢山頭を撫でてくれて、拍手をして、新たな迷路を出してきてくれた。


いつも食事をする卓の端っこに、大きな黒い箱があるのだが、何と、ここから、どんどん迷路の紙が出てくるのだ。

この箱には沢山の迷路が入っているのだと、アーシャはうっとりしてしまう。

ゼンが次に出してくれたのは、猫や熊らしき動物の口が入り口で、尻尾に出口があるという迷路だった。

(あ、口から入るけど、出るところは尻尾なのね)

などと、ちょっぴり下品なことを考えてしまったのは、ご愛嬌だ。

これも簡単……と思ったのだが、何と通った道を塗ると猫はトラネコに、熊は耳や目の周りに柄が出てきて何とも愛嬌のある絵になったのだ。

「しゅごい……!!!」

こんな物を作ってしまうなんて、神の国、恐るべし、だ。


アーシャが迷路をしている間、ゼンは魔導書のような物を読みながら、呪文を紙に書きつけていたのだが、出来上がりを見たら、一緒にすごく驚いてくれた。

そして次はもっと複雑な迷路を出してきてくれた。

紙一杯にみっちりと線の詰まった四角があって、入り口が何処にあるのかも探さないといけない程の迷路だ。

これを前に興奮しないなんて無理だ。

アーシャは夢中で迷路を解き始めた。


指でたどり、正解方面を探し、確定した場所を塗っていく。

地味だが、物凄く楽しい。

正解ルートを見つけ出した時の快感が凄い。

一心不乱に迷路を見つめ、何回もルートを間違えて、訂正しては突き進む。

「できたぁ!」

出口に出た時は飛び上がって喜んでしまった。



そして喜び勇んで、ゼンに見てもらおうとして、横を見たら、いつの間にかユズルまで家に帰ってきていた。

「………………?」

二人は葬式にでも出るような顔で、自分達の目の前にある紙を見つめている。

アーシャも彼らが見ている紙を見て、首を傾げる。

(双頭の……魔族かしら。首がない体を持って……食べているのかしら?)

ゼンの前にある絵は、双頭の、人間に似た生物が描かれている。

軟体のようで、体が思い思いの方向に曲がり、下手に人間に似ているだけに、悍ましい。

悪夢から抜け出してきたような容姿だ。

(丸に……長丸……長方形……?こちらはさっぱりわからないわ)

ユズルの前の紙には不可解な図形が並んでいて、こちらは、どの方向から見るのかもわからない。


二人はこの図形について、何か真剣に悩んでいたようなのだが、残念な事にアーシャに手伝えることはなさそうだ。

迷路に浮かれていた自分が何となく申し訳ない。

この魔族が襲ってくるというなら、頑張って二人を守るが、今の所、アーシャに出来ることはない。

「………庫輝橿え談纂移廷版狼迷統這」

「………鵜飾あ銃篇蝋、短賊狂材蕃軍載遍井径般曲う」

彼らは深刻な顔のまま頷き合う。

アーシャが不安に思って見つめていたら、アーシャの視線に気がついたゼンはニッコリと笑う。

大丈夫だ、とでも言う微笑みにアーシャはホッとする。

珍しく二人ともが深刻な顔をしていたが、そんなに困った状況ではなかったのかもしれない。


ゼンは手に持っていた小さな箱をアーシャの手の平にのせる。

箱は彼の小指くらいのサイズで、神の金属オリハルコンでできており、とても軽い。

中頃に切れ込みが入っており、端が妙に柔らかい素材に覆われている。

「?」

これが何なのかアーシャには、さっぱりわからない。

首を傾げていると、ゼンは箱の端についた柔らかい物を外して、アーシャの口元に箱を近づける。

「ふ〜〜〜〜」

そしてこれに息を吹きかけろとでも言うような素振りをして見せる。

「………?ふ〜〜〜〜」

よくわからないが、アーシャはゼンの真似をして息を吐いてみる。

すると口元の謎の小箱が、弱々しくヒュ〜と鳴るのだ。

「!!!」

まるで葦笛だ。


「アーシャ、あむっ」

そう言って、ゼンは自分の指を咥えて見せる。

そしてちょんちょんと、小箱の先でアーシャの唇をつつく。

「………?」

ゼンが咥えた彼の指の形は、この小箱を摘んでいる事を示すように、丁度それくらいの隙間が空いている。

この小箱を咥えるように言われているのかもしれない。

「あむ?」

アーシャが遠慮がちに小箱に口をつけると、ゼンは嬉しそうに頷く。

「ふ〜〜〜〜〜」

そして息を吐いて見せる。

真似して息を吹き出すと、咥えた小箱が甲高く鳴る。

とても澄んだ高い音だ。


「これ、笛だ!!笛だよ!!」

小箱にしか見えなかったが、これは笛だ。

アーシャは驚いてしまう。

平べったくて、アーシャの知っている、葦を階段状に束ねた笛からは、程遠い姿だが、この音は間違いない。

アーシャはもう一度咥えて、今度は強目に息を吐いてみる。

するとこんな小さな笛から出たとは信じられない、甲高い、澄んだ音が響く。

「綺麗な音!」

長さが一つしかないので、音階は変えられないが、聞いた事のない素敵な音だ。

あまりに綺麗な音なので、アーシャは短く何度も鳴らしたり、長く鳴らしたり、吐く息をどんどん強くしてみたりして、楽しむ。

こんなに小さいのに、豊かな音が響くのは、やはり神の金属オリハルコンで作られた物だからだろうか。


小箱のような笛を、うっとりと見ていたら、ゼンが笛の後ろについていた紐を、アーシャが首から下げている小鳥の紐に結びつけてしまう。

「????」

透き通った緑の小鳥と笛が、仲良くアーシャの首にぶら下がる。

「アーシャの。ユズル、プ・レ・ゼ・ン・ト」

するとゼンは、笛とユズルを交互に指差す。

(『ぷれぜんと』ってもしかして……くれるって意味?)

ゼンの指が、笛とユズルの間を何往復かする間に、ジワジワとアーシャの中に喜びが浮かび上がってくる。

こんな良い音を奏でる笛が『アーシャの』だ。

アーシャは小鳥と笛をギュッと掴んで、抱きしめる。


喜びが爆発しそうで、アーシャは走り出す。

「ユズゥ!ありがと〜〜〜!」

そして勢い良く、台所に向かって振り向きもしない、ユズルの足に飛びつく。

贈り物をしてくれたと言うのに、ユズルはいつも通りそっけない。

「果賄!世健轡足陰出判う冬消、載使う満い横!」

シッシと野良猫を追い返すような仕草をしている。

何やら食べ物を作るのに忙しいようで、贈り物なんて大したことないとでも言うような顔だ。

こんなにいい物をくれたのに、全く押し付けがましさがないのが凄い。


「ユズル、鈷緯溶献鵜」

「闘潔招禍栂柘!!逃諜宍租準圧凹縛析橿比歪聴嵯尉一撹於打斬箔い康悶核亮旨康、始善窪韓訪妬晩口吏搬!」

ゼンとユズルは何か言い合いをしているが、彼らは本当に険悪になる事はない。

きっと物凄く仲が良いのだ。

言い合いの末に、ユズルが銀色に光る半円の器を、ゼンに押し付ける。

「?」

隣に座ったゼンの持っている器を覗き込むと、ミルクと細長い鉄の糸を束ねた不思議な形の道具が入っている。


「橿耽燕然洞却反達絢八隆顛詳」

首を傾げるアーシャにゼンは笑う。

そして不思議な形の道具で、ミルクを混ぜ始める。

「???」

混ぜられたミルクは泡立つが、何かと混ざっている様子はない。

混ぜても混ぜても、出てくるのは、ただのミルクだ。


一体何の儀式だろうと観察していたアーシャであったが、次第に飽きが来る。

「…………」

視界に首元の笛が入ると、顔が緩んでしまう。

アーシャは笛を咥えて、小さく笛を鳴らす。

「はい」

するとミルクを混ぜているゼンがそう言って、アーシャを見つめる。

そして何でもないとわかると、また熱心にミルクを混ぜ始める。


「………?」

不思議に思ったが、また小さくアーシャは笛を吹いてみる。

「はい」

するとまたゼンが返事をする。

「???」

返事をし終わったゼンは、また熱心にミルクを混ぜる。

不思議に思いつつ、もう一度笛を吹けば、やはり同じようにゼンは返事をする。

(もしかして……!)

アーシャは思いついた事を確かめるために、もう一度笛を吹く。

「はい」

と、やはりゼンは返事を返す。


ゼンはアーシャの笛に返事を返しているのだ。

ニヤニヤとしながらやっているので、きっと遊びで返事しているのだ。

ピッと短く笛を吹けば「はい」、ピ〜〜〜っと長く吹けば「は〜〜〜い」、ピッピッピッと吹けば「はっいっ」とゼンは笛に合わせて返事を返してくる。

可笑しくなって、アーシャはくすくすと笑ってしまう。

そしてゼンが絶対に返事してくれるのが嬉して、何度も笛を繰り返し吹いてしまう。


「わぁぁぁぁ」

楽しくてずっと笛を吹いていて、気がついたら、ゼンが混ぜていたミルクが、雲のように湧き上がってきていた。

『凄いでしょ?』とでも言うように、ゼンが持っていた混ぜ物で、雲を上の方に引き伸ばして見せる。

「すごぉぉい!!」

アーシャは惜しみない拍手をゼンに送る。

ただ混ぜているだけで、ミルクがこんな風になるなんて、アーシャは知らなかった。


感動していたら、台所から、とんでもなく良い匂いが漂い始める。

パンが焼ける匂いに似ているのだが、それかなり甘い気がする。

クンクンとアーシャが行儀悪く匂いを嗅いでいる間に、ゼンが作ったふわふわのミルクを袋に詰めたり、ユズルは忙しく動き回る。

アーシャは伸び上がって見ようとするが、台所は彼女にとって高すぎて、何も見えない。


既に受け入れ準備できましたとばかりに、卑しく鳴き始めた、お腹を押さえつつ、アーシャは痩せた野良犬のように、ユズルの周りを歩き回る。

「ふあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」

そしてユズルが振り向いて、待望の姿が見えた時、アーシャは声を上げてしまった。

うず高く積まれた分厚いパン。

白く見えるそれは、もしかしなくても、小麦で焼いた超高級品ではなかろうか。

庶民が食べるライ麦製の噛み切るだけで一苦労の黒パンでない。

しかも白き頂に鎮座している黄色い塊は、貴族が食べていると聞く『バター』ではないだろうか。

(恐ろしく料理を美味しくするという噂はかねがね聞いております……!!)

白パンにバター。

そしてその脇を泡立ったミルクが美しく飾っている。

拝みたくなるほど尊い光景だ。


感動に震えるアーシャは、ひょいっと椅子の上に座らされる。

その椅子が朝まではなかった、明らかにアーシャの体格に合わせられた高椅子なのだが、豪華なパンを、目から吸い込みそうな勢いで見ている彼女は気がつかない。

震える手で、皿に添えてあったフォークとナイフを握り、

「ましゅ!」

ゼンたちがご飯を食べる前に捧げる言葉を元気よく唱える。


「ふぉぉぉぉ!」

少し力を入れてパンに突き立てたナイフは、ふわりと受け止められ、包み込まれるようにして、皿にまで到達する。

驚くべき柔らかさだ。

こんなに柔らかいパンが実在するなんて、信じられない思いだ。

(しかも、こ、こ、この甘い匂いは………!!まさか蜂蜜!?)

お行儀良く、お行儀良く、と思っているのだが、ついつい一口分には大きいサイズに切ってしまったパンを、アーシャはじっと見つめる。

上から何やら蜜がかかっており、フォークが歓喜に震えるほど、甘く芳しい匂いがする。


「ふひぇ!!」

口に入れると、とんでもない甘さが、全ての感覚を支配する。

何かを口に入れたまま言葉を発するのはマナー違反と知りつつ、声が抑えられない。

口に入れただけで、ジュッ……っと蜜が、パンから溢れ出てくる。

本当に自分は今、パンを食べているのだろうかと思うほど、口の中のパンは柔らかい。

歯のない老人ですら、食べられそうなほど柔らかさだ。

「お、お、お……」

一口があっという間に喉の彼方に消える。

早く次を!と叫ぶ、舌、歯、喉、胃に急かされて、アーシャは次の一切れを口に詰め込む。

(美味しすぎるぅぅぅぅぅぅ!!!)

二口目は耐性がついたかと思いきや、全くそんなことはなく、身が捩れるほどの美味しさだ。


パンと、それに染み込んだ蜜に、消化器系を掌握されたアーシャは、気がついていなかったが、三口目はバターが溶けて染み込んだ箇所だった。

「うっっっっ!!」

蕩けるほど甘い蜜。

その蜜の中から現れた、程よい辛さと濃厚な味わいが、突如口の中を占領する。

「お………おいひぃ………おいひぃ……」

もう何も考えられない。

美味しいと咽びつつ、この極上パンを、次々と体の中に取り入れ続ける事しかできない。

「アーシャ、アーシャ」

そんなアーシャの肩をトントンと叩く者がいる。

「ん?」

ゼンだ。


彼は振り向いたアーシャの顔を見て、小さく噴き出す。

そして水で濡らした紙で、アーシャの顔を綺麗に拭いてくれる。

どうやら白パンに夢中になりすぎて、顔が乙女にあるまじき状態になっていたようだ。

「へへへ」

照れ笑いを浮かべるアーシャに、彼も微笑む。

そしてアーシャの手ごとナイフを掴んだかと思うと、美しく飾られたミルクの泡をナイフで掬う。

ミルクは黒い何かが、かかっていたので、飾りなのかと思っていたら、食べられるらしい。

ゼンは掬ったミルクをパンに塗る。


パンにミルク。

すごく美味しそうだ。

なんてアーシャは呑気に考えながら、ミルクを塗ったパンを口に入れる。

「!!!!!!!!!!」

パンがフワッと入り、蜜がジュワッと広がる。

そこまでは想定内だ。

その後、フワフワっと、何とも言えない感触と共に濃厚な甘い物が口に広がり、一瞬で溶ける。

しかも後口が微かに感じる苦味に〆られ、すっきりする。

「おいし〜〜〜〜〜〜〜〜〜い!!」

もう叫ばずにはいられなかった。

一瞬天に召されるかと思うほどの、美味しい衝撃が体を駆け巡り、気がついたら椅子の上に立ってしまっていた。

淑女にあってはならないマナー違反である。


ユズルの冷たい視線を感じ、はしゃぎ過ぎたアーシャは何事もなかったですよという顔で、しゃがむ。

「………コホン」

そして咳払いして、座りなおす。

そして口に入りきれるサイズにパンを切って、お行儀よく食事を進めようとするが、

「おいししゅぎるぅぅぅぅ!!」

すぐに自分の食い意地に負けてしまう。

もうマナー違反でも、行儀が悪くても、ユズルに軽蔑されても仕方ない。

この美味しさは絶対的強者だ。

屈服するしかない。


ゼンは微笑ましそうに、時々濡れた紙でアーシャの頬を拭いてくれる。

「冥い場」

「美味しい!」

彼が笑って許してくれる間は良いか。

アーシャは自分の中で勝手なルールを作りつつ、初めての白パンを心ゆくまで楽しんだ。

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