13.聖女、『すーぱー』へ行く

暖かい日差しを浴びながら、親に手を引かれ、のんびりと歩く。

慌ただしい、次から次に舞い込んでくる仕事の狭間に、教会の塔の上から見た、柔らかな光景。

庶民は朝から晩まで働かないと生きていけないし、子供も幼いうちから自分のできる仕事をこなさないといけない。

しかし一部の富裕層は、そんな穏やかな時間を過ごす事が許されていた。

貧民出の聖女は、そんな姿を良いなぁ、と、感じるいとまもなく、次の仕事に向かわなくてはいけなかった。


(……贅沢……)

あの窓から見えた光景を、自分が再現する日が来るなんて、思っていなかったアーシャは、幸せを噛み締める。

空は黒い縄が張り巡らされ、地面は真っ黒に塗装され、道は魔法生物が往来しまくっているが、これはあの光景の再現だ。

暖かい日差しを浴びながら、大きな手に引かれ、のたのたと歩く。

あまり素早くは歩けないアーシャに合わせて、ゼンはのんびりと横を歩いてくれている。

小さなアーシャと手を繋ぐために、傾いて歩く羽目になっているが、気にするそぶりもない。


「わぁ」

地面は全てが真っ黒に塗り固められているかと思いきや、時々それを割って、可愛らしい植物が顔を出している。

「く・さ」

アーシャの声に、ゼンが反応する。

ゼンは大雑把な名前を教えてくれているようだ。

神の国では、花が咲いている植物は『はな』、花がついていない植物は『くさ』と区別しているようだ。

その他、色々と習った。

柵は『がーどれーる』、地面は『はくせん』、空は『でんせん』、アーシャたちを乗せてくれる魔法生物は『くるま』。

色んな事を教えてもらいながら、のんびりと散歩する。

贅沢な時間だ。


贅沢と言えば、朝のごはんも超絶贅沢だった。

今日の朝も出されたのは『うどん』だったのだが、残念なことに玉子はのっていなかった。

お貴族ではないのだから、そうそう毎日玉子が食べられるなんてないよなと、アーシャは納得しながらも、少しだけガッカリしてしまった。

朝からご飯が出てくるだけでも奇跡なのに、この頃欲張りになっているな、と自戒していたら、ニコニコと笑いながら、ゼンが昨日のサクサクを持ってきてくれたのだ。

しかも二本。

保存したら倍になるなんて魔法はないから、きっと昨日のゼンの分を一本取っておいてくれたのだろう。


昨日の黒い汁も持ってきてくれていたのだが、何と、ゼンはサクサクの一本を、うどんに放り込んでしまったのだ。

そんな事をしたら、サクサクに汁が染み込んで、サクサクでは無くなってしまう。

アーシャは慌てて、すぐにフォークでサクサクを救い出した。

そして少しでも汁が染みる前に、と、元サクサクに噛み付いたのだが………あの時の衝撃はうまく表現できない。


ジュワッとでも言えばいいのだろうか。

ただでさえ美味しい『うどん』の汁が、サクサクに染み込むことで、旨味が凝縮されて、舌にのったのだ。

汁が固体になって、しっかりと味わえたせいなのか、サクサクにそのような効能があるのかどうかは、わからない。

しかし確実に『美味しい』が、『激しく美味しい』に進化した。

しかも汁がついていない所はサクサクのままなので、サクッとジュワッが同時に味わえてしまう、豪華組み合わせだ。

もう、この世のものとは思えなかった。

『うどん』とサクサクを合成するだけで、こんなにも美味しくなるなんて世紀の発見ではなかろうか。

結局、アーシャは用意してもらっていた黒い汁は使わず、二本とも『うどん』に浸して食べてしまった。


(しかも何故かサクサクを浸した『うどん』もすごく美味しくなって……)

思い出すだけで、アーシャはうっとりしてしまう。

毎食毎食、こんなご馳走を食べさせてもらって本当に良いのだろうか。

アーシャが見上げると、彼女の視線に気がついたゼンが、『どうした?』とでも言うように、優しい顔で首を傾げる。

「へへへ」

常に気にかけてくれているのが伝わって、くすぐったくて、アーシャはニヤけてしまう。

ゼンの顔を見ると、理由なんか必要ないと言う気分になってしまう。

不思議な事だが。


上機嫌なアーシャとゼンは、細い道から大通りへと出る。

「っと」

するとアーシャは抱え上げられる。

「?」

何事かと驚いていたら、背後を空を切る音が通過していく。

「ふぉ!?」

何だろうと振り向いたアーシャは驚きの声を上げた。

とても奇妙なものに乗った人間が駆け抜けていったのだ。

「耕樫……津升亮欽警牢遜栄吏駅観邑洞肪香」

ゼンは眉を顰めて『それ』を見送る。

「………………」

アーシャも過ぎ去っていった物体を、呆然と目で追った。


(車輪に直接乗ってた………真っ直ぐ並べた車輪に人が乗っていた……)

通常、二本足で、きちんと立てるのは人間くらいだ。

動物でも静物でも必要な足は、最低三本、安定して立たせたいなら四本必要だ。

馬車も四つの支え、つまり四つの車輪があるから、安定して動かせる。

農村で使うような小さな荷馬車は二輪のものがあるが、これは馬が三つ目の支えの代わりとなるから可能なのだ。

しかし今、アーシャは、その常識を覆した乗り物を見てしまった。


大きな二つの車輪と、それらを繋ぐ棒。

そして、その棒の上に乗る人間。

(いや、見間違えかも……たった二つの支えで、倒れず、あんなに早く動けるなんてあり得ないわ……)

朝から美味し過ぎるものを食べて、脳が暴走しているのかもしれない。

アーシャは幻覚を振り払うように、首を振る。

「……………」

そんな彼女の目の前に、今度はゆっくりと二輪車がやって来た。


今度のやつには、何と、前にカゴがついていて、大きな袋が入れられている。

その袋に隠れてしまいそうな、小柄な老婦人が車輪つきの棒に乗っている。

花のついた、お洒落なつば広の帽子をかぶって、優雅に乗っている。

車輪と車輪を繋ぐ棒には、どうやら座席がついているようで、老婦人は綺麗な姿勢で、棒にまたがり、そこに淑やかに座っている。

(二輪に……あんな慎ましやかな外見のご婦人が……)

アーシャは驚く事しかできない。

男性が馬に乗るように、股を開いて、淑女の鑑のような老婦人が、棒にまたがっている。

そして手綱を握るように、前の車輪の上についた棒を握って、易々と操作している。

馬にすら女は横座りで乗らなくてはいけない、人間の世界から来たアーシャには衝撃が大き過ぎる。


アーシャは理解を超えたものに、戸惑うようにゼンを見上げる。

二点しか支えのない乗り物は何なのかとか、あれは何で倒れないのかとか、この世界では女性も乗り物にまたがって良いのかとか、聞きたいことは沢山ある。

しかしアーシャは神の国の言葉を持たない。

ゼンと目があっても、ハクハクと虚しく口を開閉させることしかできない。

「筋早会免壌。称後員注楳易杭叫督。だっ・こ」

そんなアーシャの頭を、ゼンは優しく撫でてくれる。

大きな手にアーシャはホッと大きく息を吐く。

何も解決されていないが、この手には、不安を取り除いてくれる効能がある。


(この前は『くるま』で、目を瞑ってて、あまり見ていなかったけど、結構あの乗り物は多いのね)

道が違うせいか。

結構な頻度ですれ違う。

(………?あの道にどんどん入っていくし、出てくる……?)

じっと観察していたら、そのまま通り過ぎていく二輪車もあるが、多くの二輪車が入って行く道がある。

「アーシャ、すー・ぱー」

その道に近づいたら、ゼンがそう言って、指差す。

「わぁ………」

開けた視界にアーシャは声をあげる。


道だと思ったそこは、大きな広場だった。

下手な貴族の庭より広い。

その広場に沢山の『くるま』が停まっている。

「すーぱー?」

広場のことを『すーぱー』と言うのだろうかと、指差し確認すると、ゼンはアーシャの腕を持って、指差す方向を少し変える。

「すーぱー」

示されたのは、広場の奥にある建物だ。

大きな硝子窓が特徴的で、入り口と思われる場所も、大きな硝子でできている建物だ。

その建物の前には、あの二輪の乗り物が沢山停まっている。

人の往来がなかなか多く、入る者は荷物が少なく、出てくる者は大荷物だ。


(もしかして、あの中でマーケットが開かれているのかしら?)

王都でも三日に一度はマーケットが開き、その日は沢山の人が行き交う。

神は綺麗好きだから、埃などが入らないように、屋根のある所で市を開いているのかもしれない。

「……?」

しかし近づくにつれ、中の様子がアーシャの知るマーケットとは違うのが見えてくる。


まず人が近づくだけで、硝子の扉が開き、勝手に閉じている。

「………?」

ドアマンが居るのかと思いきや、どこにも人は居ない。

(ダンジョンにも勝手に開く扉はあったけど……ここまで軽快に開け閉めするなんて……流石、神様の国……動きが機敏だわ)

『俺は動けるんだぜ?すごいだろ?』とばかりに時間をかけて開く、ダンジョンの勿体ぶった動きではなく、人が足を止めなくても良いように素早く開けてくれていて、気を遣ってくれているのがわかる。

勤勉な門番のようで、好感が持てる。

(しかも二枚仕立て………!!)

一つ扉をくぐると、すぐそこにもう一つ同じ扉がある。

特に扉を二重にする必要性はない気がするが、扉と扉の間には泥落とし用なのか、マットが引いてあったり、小さな車輪のついた籠や、手に持つ用と思われる籠が置いてあるので、ここはそう言う物を置くための部屋と区別されているのかもしれない。


ゼンは慣れた様子で、車輪のついた籠を手に取る。

そして、それに手で持つ用の籠を入れてしまう。

「へぇ〜〜〜!」

アーシャは感心してしまう。

この車輪の籠に、手で持つ用の籠はピッタリとはまる。

そういう風に使うように作られているのだ。

自分で籠を持たなくて良いから、凄く楽ちんだ。

(神様の世界ってホント便利!)

床が真っ直ぐだから、車輪はスルスルと滑るように動く。


ゼンは片手でアーシャを抱っこして、もう片方の手で車輪付きの籠を押す。

「………………」

彼は何気なく、二枚目の扉も超えたが、アーシャは二枚目の扉が開いた途端、呆気に取られた。

扉の先には、店々が軒を連ねていると、自分の知るマーケットが少し綺麗になったような風景が広がっていると、アーシャは思い込んでいたのだが、そこに広がっていたのは、見たこともない異空間だった。


溢れかえる、物、物、物、物。

物量は凄まじいのに、全てが規則性を持って、美しく整頓されている。

雑然としたマーケットを予想していたのに、あまりに整然と、ものすごい量の物体が並べられていて、目から入った情報を脳が処理しきれない。

かつて、ここまでの情報量が一気に入って来たことはない。

アーシャが知っている物の中で、一番ここに近い物をあげるなら、王立図書館だ。

本棚に法則を守って並べられた本のように、物が並んでいる。

図書館であれば、目に入るのは本の背表紙だけだが、ここは本の代わりに、ありとあらゆる物品が並んでいるので、情報が溢れ出し、アーシャは口を開けて、呆然と周りを見ることしかできない。


棚に本のように並べられた、野菜や果物、色鮮やかな袋、液体の入った筒。

泥付きで山積みになっていたり、腐臭が立ち込めていたり、蝿が我が物顔で飛び回ったりしていない。

商品を齧ろうと寄ってくる鼠や油虫、お裾分けを狙う猫や犬も一切いない。

キラキラと光を反射する美しい通路と、整然と物品が並んだ棚だけだ。

「アーシャ?」

あまりの情報の多さに、圧倒されて動けないアーシャに、ゼンが首を傾げる。

「……ぜん……」

彼は既に籠に色々と放り込んでいるので、かなりの時間アーシャは自失していたようだ。

しかしこの凄い施設に、アーシャは何と言えばいいのかわからない。


寸分違わぬ絵が書いてある瓶や袋が、大量に並べられている、この異様な光景は、神の世界では、ごくごく普通の事なのだろう。

もうこれは『そういう物なのだ』と飲み込むしかないと、アーシャは思う。

棚に並べられた物品たちの絵は、如何なる奇跡によって寸分違わぬように描かれているのかとか、どの絵も凹凸がなく、顔料が塗ってあるように見えないとか、小さな事にこだわってはいけない。

(『神の世界はこういう物』なのよ。考えてはいけないわ。あるがままに受け入れるのよ)

次から次に湧き出す疑問を、アーシャは飲み込む。


「アーシャ、凱景い漫齢箔あ祇浩?」

ゼンは特に色に溢れた棚を指差す。

「?」

どの棚も凄かったが、この棚は特に賑やかな絵が多い。

ゼンは次々と美しい絵が描かれた袋や箱を、アーシャに見せてくれる。

どれもとても綺麗で、見たこともない程、鮮やかな物ばかりだ。

何か買う物を相談されている気がするのだが、アーシャには、見せられている物が、何なのかすらわからないので、全く返答できない。


やがてゼンはアーシャを通路に下ろす。

そして小さな物が沢山詰まった棚を指差す。

「アーシャ、桐帽噛麻稚畠曹楳いい蜂?」

棚の中は小さな袋や箱、色鮮やかな包み紙でいっぱいだ。

この中から何かを探すように依頼されているのだろうか。

アーシャはゼンの役に立ちたいが、何をしたら良いのかが、全くわからない。

求めに応じられなくて、泣きたい気持ちになってくる。

どれだけ頑張って見ても、全て未知の物ばかりなのだ。


『結果が出せない役立たず』

誰かに罵られた言葉が脳裏をよぎる。

ゼンにだけは役立たずと思われたくない。

でも何もわからない。

いよいよどうしようもなくなって、アーシャの目頭は熱を持つ。

「アーシャ」

そんなアーシャの肩を、ゼンがツンツンとつつく。


振り向いたら、しゃがみ込んだゼンが、左右の手に、それぞれ一つづつ包みを持っていた。

「あ、この前の……」

ゼンが右手に持っていた袋に、色は違うが、この前見た、美味しい怪物の絵が書いてあったので、アーシャは思わず手を伸ばす。

するとゼンはニカっと笑って、その包みをアーシャに渡す。

左手に持っていた物は棚に戻してしまう。

「???」

次にアーシャにも持てそうな小さな籠を、彼女の目の前に突き出してくる。

意味がわからなくて、首を傾げていたら、ゼンはニコニコと笑いながら『ここにそれを入れろ』とばかりに、籠と包みを交互に指差す。

「こう?」

小さな籠に包みを入れると、ゼンは嬉しそうに大きく頷く。

「???」

そして小さな籠の持ち手をアーシャの手に持たせる。


意味がわからなくて、疑問符だらけになっているアーシャを余所に、ゼンは立ち上がって、棚から何やら選んでいる。

「どっ・ち?」

そしてまた右手と左手に、それぞれ袋を掴んで、アーシャに示すのだ。

ゼンは『どっちが良い?』とばかりに、右手と左手の袋を交互に振って見せる。

アーシャは二つの袋をよく見る。

(え……?これってもしかして干し肉!?)

どちらも不思議な絵が書いてあるが、ゼンが左手に持っている方の袋は、一部透明になっており、中に小さな干し肉らしき物が見える。

白と黒の、丸だけで構成された不思議な絵と、干し肉にどんな関係があるのかわからないが、アーシャが選ぶなら断然お肉だ。


そっと、そちらを指差すと、ゼンはニカっと笑って、干し肉の袋をアーシャに渡す。

アーシャがドキドキしながら籠に干し肉を入れると、ゼンは笑って、大きく頷く。

正解だったようだ。

「あ物笛怨晋都妾桃稚片、う礁会顕い局い砥秤妖羊」

たったそれだけの事なのに、よく出来ましたとばかりに頭を撫でられて、アーシャはくすぐったくなってしまう。

ゼンは籠を持ったアーシャの手を引く。

籠を持ったアーシャは、胸が高鳴り始める。

まるで、これは、アーシャがお買い物をしているようではないか。


(そう言えば、お買い物ってした事がないわ)

マーケットを遠目に見て、品物と金銭を交換する事などは知っていたが、アーシャは物を買った経験がない。

実はお金すら持った経験がない。

仕事の合間や、移動時間に、買い物をする自分を夢想していたくらいだ。

(もしかして、もしかして……)

籠を持ったアーシャは、同じように籠を持った人たちの列に並ぶ。

どうやら、『すーぱー』では中の品物を、出口のところで検査して、お金を払って出るシステムのようだ。

列の前の方では、店の者が、籠の中身を調べている。

(今から、お買い物をするのかしら!?)

列が少しづつ進み、アーシャの期待と緊張は最高潮に達する。


大丈夫か気になって、アーシャは何度もゼンを見上げるが、その度に彼は笑って頷いてくれる。

遂にアーシャの番が来ると、ゼンはアーシャを持ち上げて、籠を台に置かせてくれる。

「祇頬芽災訊蓋穴足」

店番の少女は優しく微笑んで、アーシャを迎え入れてくれる。

そして透明の袋を取り出し、アーシャの小さな籠の品を確認して、それに入れてくれる。

「どーぞ」

少女は優しく笑って、アーシャの手元に、透明の袋を差し出してくれた。

「……有難うございます!!」

アーシャは嬉しくて、受け取ったそれに、頬擦りしてしまう。


アーシャの背後では、ゼンの籠の精算が続行されていたのだが、初めて自分で選んだ物を受け取って、感動に震えている彼女は気がつかない。

透明の袋に入った、二つの品が輝いているような気がして、目が離せない。

アーシャが選んで、お店の人から受け取った。

間違いなく、これはアーシャにとっての、初めての買い物である。

買い物には金銭が必要という事は、興奮しているアーシャの頭の中から、まるっと抜け落ちている。


「アーシャ」

アーシャが品物をうっとりと眺めていて、気がついたら、ゼンは自分の買い物品を、背負い袋に入れてしまっていた。

言葉にならない感謝を込めて、アーシャはゼンの足にしがみつく。

しがみつかれたゼンは可笑そうに笑って、アーシャの背中を撫でる。

アーシャはふわふわとした足取りで、ゼンと連れ立って『すーぱー』の二重扉から出る。


「跨柏巽畔稲袴雑い沢い蒜煽雪」

人の流れから離れたゼンは、悪戯っぽくアーシャに笑いかける。

「?」

ゼンは濡れた紙を取り出して、アーシャと自身の手を丁寧に拭く。

(…………?手を拭くのも、やっぱり紙なんだ)

そう思っていると、ゼンはアーシャの持つ袋を指差す。

「ん?」

アーシャの買った品が欲しい様子だ。

差し出してみると、ゼンは干し肉の入った袋を取り出して、豪快に破いてしまう。

「あっ」

せっかくの絵が裂けてしまって、アーシャの口から、思わず声が出る。


しかし直ぐにそんな事も吹っ飛んでしまった。

「アーシャ、あ〜ん」

袋の中で、更に小さい袋に包まれていた干し肉を、ゼンが取り出して、差し出したのだ。

買ったからには、いつかは食べるのだと、うっすら思っていたが、突然そのままを勧められるとは思っていなかった、アーシャは焦る。


行軍の場合、干し肉をそのまま齧って大量のエールで流し込む事は珍しくない。

戒律上エールが飲めないアーシャは、飲み水の確保も一苦労だったので、塩辛い干し肉をそのまま齧るのは辛く、それ程食べた経験は多くない。

しかしそれでも、そのまま齧ると、物凄く不味い事は知っている。

生臭いし、塩の味しかしない。

不味いのに異様に硬いから、しっかり噛まないと飲み込めない。

お肉の良さを台無しにした状態、それが干し肉なのだ。

最高の状態は塩抜きして調理された状態、次点はスープ、最低でも炙って食べたい。


「あ〜ん?」

もう一度言われて、アーシャは覚悟を決めて口を開けた。

干し肉が、迷いなくアーシャの口に進んでくる。

(うぅ………………あれ?)

鼻先を掠めた匂いは、全く生臭くない。

それどころか、食欲を刺激する良い匂いだ。

(まさか胡椒?……いやいや、まさか。王宮料理ですらケチられる香辛料よ)

アーシャは胡椒について詳しくない。

食べた事はおろか、使われている食べ物を見た事すらない。

ただ、とても良い匂いで、驚くほど肉が美味しくなる魔法の香辛料だと伝え聞いているだけだ。


「あむっ」

覚悟を決めて、アーシャは干し肉を口の中に迎え入れる。

「!」

しかし口に入った、円筒形の肉は、あの舌が痺れるような塩辛さがない。

それどころか、まだ噛んでいないのに、肉と何らかの香辛料が混ざった良い匂いがするし、程よい辛さが唾液を誘う。

「!!!!????」

恐る恐る奥歯で噛んでみると、驚くほど柔らかい。

少し力を入れて噛み締めるだけで、プツンと表面の皮のような物が切れて、容易く歯を受け入れる。

そして口の中に程よい辛さの肉の味が広がる。

爽快な歯ごたえと、肉の味に、アーシャは自分の口を押さえる。

そうしないと、あまりの美味しさに叫び出してしまいそうだったのだ。


「ん〜〜〜〜〜〜!!!」

しかし唸り声は止められない。

溢れ出した涎が、肉の旨味を口の中全体に広げる。

噛む度に肉の旨味が飛び出してくる。

(肉だ!本当に美味しい肉だ!豚!?いや、鶏!?カラカラなのに脂身を感じるのは何故なの!?)

もっと、もっと、と、噛んでいたのだが、喉が反乱を起こして、ゴクンと飲み込んでしまう。

味がなくなるまで噛んでいたかったのに、とても耐えられない衝動だった。


「美味しい!!」

アーシャが張り切って報告すると、ゼンは嬉しそうに笑って、彼女の頭を撫でる。

そして彼はもう一つ小袋を出して、『こうやって開けるんだよ』とでも言うように、袋の端を指差して、破って見せてくれる。

「あ〜ん」

出した干し肉は、またアーシャの口に放り込んでくれる。

「んん〜〜〜〜!」

美味しさに身を捩るアーシャを、ゼンは微笑ましそうに見守ってくれる。


アーシャの喉が、また耐えられずに、ゴクンと飲み込んだのを見計らって、ゼンはアーシャの買い物が入った透明の袋を、彼女の手に戻す。

そうしてアーシャを抱え上げて、歩き始める。

アーシャは手の中に戻ってきた袋を見つめて、唾を飲み込む。

口の中には、まだ絶妙な肉の味が残っている。

お伺いを立てるように、アーシャがゼンを見つめると、彼は破顔して、頷いた。


アーシャは早速小袋を取り出して、開けよう……と思ったのだが、中々に難しい。

ゼンがやっていたように、しているつもりなのだが、袋は硬くて破れない。

「ん〜〜〜〜っ」

見守られながら、四苦八苦して、遂にアーシャは袋から肉を取り出す。

干し肉よりすごく柔らかいし、表面もスベスベしている。

「ゼン」

アーシャはゼンの胸をノックする。

「ん?」

「あ〜ん」

干し肉をゼンの唇に持っていったら、彼は物凄く驚いた顔をした。

「いい謙稀?」

首を傾げる彼にアーシャは大きく頷いた。

こんなに美味しいものを、お裾分けしない選択肢はない。


「猟障飛肪野来蛭」

ゼンは何事か呟いて、口を開く。

干し肉を放り込むと、彼は嬉しそうに笑ってくれる。

「うん、梢妊衛い」

「へへへ」

アーシャも顔が緩んでしまう。

初めての買い物を、分け合って食べる人がいる。

これは凄い事だ。


また苦労して小袋を開けて、口の中に美味しい干し肉を放り込んで、美味しさに震えながら、アーシャは自分の幸せな環境も一緒に噛み締めた。

アーシャが食べたら、次はゼン。

そうしていると、家に帰る前に干し肉は無くなってしまった。

それ程沢山は入っていなかったのだ。

しかしその量に反して、アーシャは胸はいっぱいだった。

(また、『すーぱー』にゼンと行けると良いな)

アーシャは満ち足りて、一人こっそりと微笑むのだった。

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