12.幼児、ストックを覚える

朝に入れた風呂で、アーシャの本日の風呂ノルマはクリアだと思っていた禅一は、

「おい、禅、油が飛び跳ねて危ないから、今のうちにガキを風呂に入れてこい」

との、キレ気味のユズルの一言により、もう一度風呂に入れる事となった。

「朝にちゃんと入れたぞ」

「黙れ。俺は一日の汚れを落とさずに布団に入る真似だけは許さん」

「でも子供は暖かい日中に風呂位入れた方が良いと……」

「それが許されるのは自力で外に出られない赤子だけだ。外を歩き始めた幼児なんか不衛生の塊なんだから、しっかり磨いてこい」

「でも一日二回も風呂に入れるのは……」

「朝の風呂は昨日までの分だ。今日からは夜風呂に切り替える。行ってこい」

「明日から夜の風呂に切り替えたら良いんじゃないか?」

「あぁ?二十四時間以上風呂に入れないなんて不衛生、俺が許すとでも思ってんのか?今すぐ!入れてこい!!」

一応抵抗したのだが、キレ気味に言い放たれてしまった。

譲はちょっと潔癖気味だ。


確かに、パチパチと言っている油を、不思議そうに覗き込みたがっているアーシャは、別の場所に隔離した方がいいだろう。

油が飛んだりしたら大変だ。

そう判断して、禅一は大人しく風呂に向かった。

オープンキッチンは子供を隔離できないから厄介だ。


一日に二回も風呂に入れられたら、流石に嫌がるのではないかと思っていたが、アーシャはすんなりとお風呂に入ってくれ、しかも体を拭いてやろうとしたら、自分でやるとの意思表示を見せた。

心配でほんの少し開けた風呂の戸から確認しつつ、自分の風呂を済ませていた禅一だったが、思った以上にちゃんとやっていて安心した。

(しかし何かやるごとにドヤ顔でポーズを決めるのが可愛いな)

見守られている事を知らないアーシャは、体を拭いては胸を張り、下着を身につけては胸を張り、中々うまく留まらないスナップボタンを留めた時は、反り返りそうな勢いで胸を反らせていた。

あんまり一人で自信満々にやっているので、

「お、ちゃんと着れたな」

と、タオルを取るついでに褒めてしまった。


「アーシャ、か・み」

胡座あぐらをかいて、そう呼ぶと、待っていましたとばかりに座ってくるのも可愛い。

強風にハプハプと言いながら逆らっている姿も、何と癒されることか。

決してペットなどと思っているわけではないが、小さい動物に、お世話をさせてもらった事がない禅一にとって、この時間は貴重だ。

(そんなに急いで自分で全部しようとしなくていいのになぁ)

しっかりしすぎている幼児は、すぐに自立しそうなので、ちょっと寂しいくらいだ。


爬虫類くらいならイケるかもと近寄った亀は防御姿勢に入るし、ならば両生類と、捕まえた蛙はねっとりと粘液を出して固まっていた。

今まで禅一のお世話を受け入れてくれるのは魚類くらいだ。

人間を認識していなくても、反射的なものでも、餌を食べてくれて可愛いと思っていた。

「よ〜し」

頭をくしゃくしゃと撫でれば、嬉しそうに笑ってくれる。

感情が双方向になるなんて何て素晴らしいことだろう。

もう魚類に戻れる気がしない。


次は自分の髪の毛と、ドライヤーを当て始めたら、精一杯伸びて、お手伝いしようとしてくれる。

嬉しすぎて倒れそうだ。

「ふふふ、楽ちんだな」

笑いかけたら、逃げていくのではなく、アーシャも嬉しそうに笑ってくれる。

猫は逃げていくし、犬は腹を見せてくる。

ブラッシングなど夢のまた夢で、譲の頭を梳かしてみたら蹴られた事もある。

しかし今、ブラッシングどころか、頭を乾かすのを手伝ってくれる、可愛い妹がいる。

禅一は幸せを噛み締める。



「遅い!!」

嬉しくて時間をかけすぎたせいか、風呂から上がったら、譲が不機嫌になってしまっていた。

「お、美味そうだな〜」

譲の不機嫌の理由なんてわかっているので、禅一は素早く卓に着く。

天ぷらは揚げたてこそ至高。

それが譲の持論だ。

因みに禅一は揚げ物がそれほど得意ではなく、しばしば狐色を超えて褐色くらいにまで揚げてしまうので、揚げ物料理は絶対にさせてもらえない。

それ程、譲の揚げ物に対する拘りは強い。

先に食べ始めていればいいのに、律儀に待っている所が、また譲らしい。


禅一とアーシャが座ると、譲は手を合わせてさっさと食べ始める。

アーシャは盛大に腹の虫を鳴かせながら、天ぷらを見分している。

食べたことがないのか、クンクンと匂いを嗅いだりして、不思議そうにしている。

「え・び・ふ・ら・い」

ゼンはそう言って、用意してあった天つゆに浸けたエビの天ぷらを、アーシャに差し出す。

「フライじゃねぇ。天ぷらだ。エビ天」

「まぁ似たようなもんだろ」

譲は大いに文句がある顔をしながら、大葉の天ぷらを食べている。

アーシャの皿には一枚、禅一皿には三枚と常識的な量だが、譲の皿には数えられないほどの大葉がのっている。

しかも譲のだけ二枚重ねで揚げる贅沢仕様だ。


アーシャは、しばしエビ天を見つめていたが、意を決したように、パクッと噛み付く。

「!!!」

噛みついた瞬間、カッと目が見開く。

そして始まる高速モグモグ。

初めて見る譲は少し引き気味だが、ゼンは慣れてきた。

(美味しかったんだな)

そう微笑ましく見守れる。

「うぃにぃあぅみぅ〜〜〜!!」

アーシャが雄叫びを上げながら、落ちそうなほど反りくり返っても、慌てずに背中を支える余裕がある。


アーシャはうにゃうにゃと言いながら、人参に齧り付くウサギのようにエビ天を食べる。

彼女の唇を光らせているのは、油だろうか、涎だろうか。

「良かったな。譲の天ぷら、喜ばれてるぞ」

「………どこの欠食児童だよ……」

頬っぺたが落ちてしまうとでも言うように、頬を押さえて、左右に揺れるアーシャに譲は多少……いや、かなり引いている。

こんなに美味しそうに食べているのに、不思議なものだ。


「おっと、尻尾はまだ止めておいた方がいい」

玄人は尻尾まで頂くそうだが、幼児に食べさせるのは心配だ。

尻尾に飛びつこうとするアーシャから、禅一は箸を遠ざける。

さて次の一本を、と禅一が思った所で、前に座った譲が立ち上がる。

「自分で食え!自分で!」

譲はそう言って、アーシャにフォークを渡してしまう。

「あぁ!!」

「『あぁ!』じゃねぇ!禅、お前わかってやってるだろ!」

鬼が好物を食べている隙に、癒されていたと言うのに、容赦ない。

「食べ方がわからないようだったから……」

「じゃ、もう食べ方がわかったから、禅はお払い箱だな。大人しく冷めないうちに自分のを食え!」

禅一は未練たっぷりにアーシャを見るが、彼女は足までピョコピョコと動かしながら、フォークに差したエビを堪能している真っ最中だった。


そんな姿に癒されながら、禅一もエビを食べる。

禅一がやると油の塊のようにベッタリとなってしまう天ぷらが、サクサクに上がっている。

「うん。旨い。譲の天ぷらは旨いよな」

「どっかの誰かさんみたいに、冷やしもしない、粉が溶け切るまでしっかり混ぜ切るなんて事しなけりゃそうなるの」

シャクシャクっと譲は満足そうに、まだ大葉を食べている。

一度、大葉を、真っ直ぐ広がらない・ギトギト・割れるなどの状態にしてしまった時は、半日くらい無視されたものだ。


アーシャは最後のエビに手を出そうとして、ウンウンと何やら考え込んでいる。

すごく食べたいけど、最後のお楽しみにも取っておきたい。

そんな葛藤が見てとれる。

(最後に食べたいんだったら、俺のをやるのに)

禅一は小さなことで悩んでいるアーシャに頬が緩む。

(人のものを取るなんて考え付きもしないんだろうなぁ)

禅一はそっと自分のエビをストックしておきながら、悩んだ末に玉ねぎの天ぷらを食べ始めたアーシャを見守る。


「!!!!!!」

どうやら玉ねぎも美味しかったようで、また目の玉がこぼれそうなくらい、目を見開いている。

アーシャの顔を見ながら食べているだけで、ご飯が数倍美味しく感じる。

「ほふっ、ほふっ、はひぇいぬぁ〜〜〜」

アーシャは最高の笑顔で、ご飯を食べている。

小さな口をせっせと動かし、揺れたり、頭を振ったり、忙しそうだ。

たった一切れの玉ねぎも、アーシャが食べ切るには結構時間がかかる。

エビ天三本に、大葉と玉ねぎが一つづつ。

最初はアーシャの食事の量が少ないのではないかと思ったが、十分すぎる量だったようだ。

因みに観察しながら、禅一は一玉半程の玉ねぎの天ぷらを平らげている。


「……………」

玉ねぎを食べ終わったアーシャは、大葉を少しだけ見たが、スルーすることに決めたらしく、スプーンを握る。

確かに大葉は匂いが独特だし、形がその辺の雑草に似ている。

子供はスルーしたいだろう。

「おい」

しかし黙っていない奴がいる。

「テメェ、天ぷらの王様を無視するとはいい度胸だ」

大葉大好きな譲だ。

禅一は正直な所、天ぷらの王様はエビかナスだと思っているが、沈黙を守る。


「うにぃぬんみっっ!!」

立ち上がった譲が、アーシャの鼻を掴み、開いた口に大葉の天ぷらを突っ込む。

「あ、こらっ!」

止める間もなかった。

「うぃにぃあぅみ………!!」

幸いな事に、口に突っ込まれたアーシャは目を輝かせる。

サクサクと軽快な音を立てて、アーシャが美味しそうに食べ始めると、譲は満足そうに頷いた。

(どんだけ好きなんだ……)

弟はちょっと拘りが強過ぎる傾向がある。


大葉を食べ終わったアーシャは、次は炊き込みご飯をスプーンで食べ始める。

「ん〜〜〜〜!」

これも美味しかったようで、食べながら何回も歓声が上がる。

釜飯の素を、米を研いだついでに入れただけだが、何となく嬉しい気分になる。

因みに、炊き込みご飯と味噌汁は、禅一作だ。

揚げ物だけは、揚げ物将軍がいるので任せるが、基本的にご飯は禅一が作ることが多い。

譲に任せると、調理実習のようにキッカリやるので、食べるまでに時間がかかりすぎるのだ。


「………?」

小さなご飯茶碗に、顔を突っ込むようにして食べているアーシャが、グスグスと言っているのは気のせいだろうか。

「……何か泣いてんだけど……」

覗き込もうとする前に、ようやく大葉の山を食べ終えた譲が、ドン引きした顔で報告してくる。

「……そう言えば拾ってすぐの時も泣きながら食べてたな。よっぽど碌なものを食べさせてもらっていなかったんだろ」

しんみりと禅一は答える。

スーパーで二百円程度で買ってきた釜飯の素を米に混ぜて炊いただけ。

そんな物を、こんなに喜んで食べている姿が切ない。

(まだ、おかわりもあるからな。たっぷり食え)

高価なものはないが、量だけはたっぷりある。



「…………あ」

茶碗半分くらいを食べ終わった所で、アーシャはポツリと呟いた。

ぴたりと彼女の食事が止まる。

スリスリとアーシャはお腹をさすって、困った顔をしている。

「………?」

お腹いっぱいになったのかと思ったが、スプーンをフォークに持ち替えて、プルプルしている。

フォークをエビ天に向けて、「うぷ」と口を押さえている。

満腹なのに、それでもエビ天を食べようとしているのだ。

「アーシャ、無理に全部食べなくて良いんだぞ」

子供が食べる量がわからないので適当に盛っただけなので、食べられる分だけ食べれば良い。


言葉だけでは通じかないかと思って、禅一はアーシャから皿を遠ざけたのだが、

「あ、あ、あ〜〜〜」

アーシャは情けない声を出して皿に手を伸ばす。

「?」

お腹いっぱいの様子なのに、エビ天に熱視線が注がれている。

(あぁ、もしかして、最後の楽しみにとっておいたのに、入らなくなったのが悲しいのか?)

プッと禅一は吹き出してしまう。

本当にこの子は食い意地だけは強い。


「食わねぇんなら、俺が食うぞ」

そんなアーシャの熱視線を受けるエビに、堂々と手を出そうとするのが、譲である。

「あぁ〜〜〜」

アーシャは悲しそうな声をあげる。

「こら!」

禅一は皿を持ち上げて、譲の箸からエビ天を守る。

そして未だ皿に熱視線を送るアーシャに、微笑みかける。

「アーシャ・の」

これはアーシャ以外に食べさせる気は無い、と、どうやったら通じるだろうか。

禅一は頭をひねる。


「何だよ、天ぷらなんて一度冷えたら不味くなるだろ!」

譲は不満そうな顔をしながら、自分のエビを尻尾まで、スナックを齧るかのようにパリパリと食べている。

「トースターで焼けば少しはパリッとするだろ。こんなに食べたがってるんだ。明日食わせてやる」

手を出すなとばかりに、シッシッと手を振って、禅一は皿ごとエビ天をアーシャに渡す。

手元にエビが戻ってきたアーシャは、嬉しそうに顔を綻ばせている。

そんなアーシャを、禅一は冷蔵庫の前に運ぶ。

そして彼女が持っている皿にラップを貼って、冷蔵庫を開ける。


大切そうにエビ天を持っている姿はいじらしい。

彼女に持たせることで、『彼女のもの』と示しているつもりなのだが、伝わっているだろうか。

アーシャを持ち上げて、冷蔵庫の隙間をトントンと示す。

自分の物だから、自分の手で保存する。

これは彼女の物だと示す手段は、これくらいしか思いつかなかった。

アーシャはそっと、示した場所に皿を置く。

「アーシャ・の」

皿を指で叩きながら、禅一がそう言うと、アーシャの目はキラキラと輝いた。

「………アーシャ、の」

そしてちょっと恥ずかしそうに、確認するように呟く。

初めての言葉による意思疎通だ。

通じているぞという気持ちを込めて、禅一は大きく頷いた。


アーシャは顔を紅潮させ、満面の笑みになる。

「アーシャの!」

そして腕の中で精一杯手を伸ばして、禅一の首に飛びついてきた。

グリグリと、黒綿毛のような髪を押し付けられるのが、くすぐったい。

「うん。アーシャ・の」

小さい全身を使った、全力の抱擁に、禅一も破顔する。

たかがエビ天、されどエビ天。

『自分の物』と言われて相当嬉しかったらしい。

(憧れの犬アタック……いや、犬じゃないけど……)

禅一も犬に飛びつかれて、グリグリされまくるという夢の疑似体験ができて、嬉しい。


さて次は彼女が残した炊き込みご飯と、味噌汁を保存してやろうと振り向くと……

「譲………お前なぁ……」

「あぁ?」

そこには手付かずの彼女の味噌汁を食べてしまっている譲がいた。

「お前、ここで何で食べちゃうんだよ!」

「味噌汁ぐらいいつでも作れるだろ?」

「そう言うんじゃなくて、これは『アーシャのもの』にしてやりたかったんだよ!」

「あーハイハイ。じゃあ明日、俺が心を込めて、こいつに『朝餉』にお湯を注いでやるから」

「インスタントかよ!!せめて手作りする気はないのか!」

「馬鹿、企業が総力を上げて作ってる商品だぜ?素人が作るより絶対美味いだろう」

ああ言えばこう言う、口の減らない弟である。


仕方なく、残った炊き込みご飯をラップで包み、ギュッギュと形を作らせると、アーシャは楽しそうに、弾ける笑みを見せてくれた。

米の方は急速冷凍庫に入れさせる。

「アーシャの!」

「うん。アーシャの」

アーシャと禅一は笑い合う。


ニコニコと笑うアーシャを、明日はスーパーに連れて行ってやろう。

そしてスーパーで色々おやつを買い込んだりするのだ。

喜ぶアーシャを想像しながら、禅一は自分のご飯を食べてしまうのだった。



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