10.天使、現る(後)

いつ少女が目覚めて、恐怖に引き攣った顔になるかと、磯崎はハラハラしていたのだが、思った以上に、彼女は大物だった。

結局治療が全て終わっても、彼女は気持ちよく熟睡していた。

「アーシャちゃん、起きれるかな〜〜〜?」

磯崎は罪のない寝顔の幼児の肩を少し強めに揺する。

「あ……む……?」

開口器をつけられていた頬に違和感が残っていたようで、彼女は頬に手を当てながら、うつらうつらとしながら目を開ける。

「…………」

そして周りを見回して、自分が寝ていた事に気がついたらしく、目を見開いた。

見る見るうちに真っ白な頬を紅潮していく。

「あ……あわ……」

急いで立ちあがろうと、ひっくり返された亀のように、あわあわと手足を動かすのがおかしい。

「椅子をあげますよ〜〜〜」

磯崎が苦笑しながら椅子を操作すると、真っ赤になった頬を押さえて恥ずかしそうにしている。

(恥ずかしがってる。可愛い~~~)

こんな小さいのに羞恥心はしっかりあるんだなと磯崎は微笑む。


「アーシャちゃん見てごらん」

そして少女が恥じていた口の様子を伝えるべく、磯崎は彼女に鏡を渡す。

鏡を受け取った少女は気の進まない様子だが、

「あ〜ん」

と言うと、渋々ながら口を開く。

「……………っっ!!!!」

恐々と薄目で鏡を覗き込んだ彼女の顔は激変した。

驚愕、呆然、そして歓喜。

「めまいぬぅにや!!!」

彼女が何と言ったのかはわからない。

しかしそれが歓喜の雄叫びである事は疑いない。

「わぁ!わぁ〜〜〜〜!!」

彼女は夢中で、鏡の中の自分の歯を見つめる。

じんわりと彼女の目には涙がたまり、本当に喜んでいることがわかる。

こんなに自分達の仕事を喜んでくれるなんて、磯崎たちの顔も緩む。


「アーシャちゃん綺麗になったね〜」

磯崎が思わずそう声をかける。

「アーシャ、良かったな」

「お疲れ様でした」

彼女のお兄ちゃんと、狸院長も祝福の言葉を送る。

うにゃうにゃと喜びの声をあげて、鏡を覗き込んでいた少女は、突如頭を下げる。

「いしょじゃき、あうにぅんまいな!!」

深々と頭を下げられたのは、医師である院長ではなく、磯崎だ。

「あら、あら、うふふふ」

磯崎はスルーされて明らかにしょんぼりとした院長を見て、笑いが湧いてくる。

(頼まれたからって、無茶な治療をするからよ)

と、少しばかりいい気味だと思ってしまう。


「じゃあ、ご褒美に行こうね!」

磯崎は意気消沈した院長を気にする事なく、治療後のお楽しみに幼児を案内する。

「すみません、有難うございました」

義理堅い兄は、しっかりと院長に頭を下げている。

「ははは……」

院長は少し寂しそうに笑って首を振る。


そんな兄と院長のやりとりを見た後、少女は少し考える素振りをして、

「あうにぅんまいな!!」

兄に抱っこされながら、院長に向かって元気よく頭を下げた。

何て空気が読める幼児だろう。

にっこりと満面の笑みで頭を下げられた、院長の顔がデレっと緩む。

嬉しそうに手を振って幼児を見送る院長の姿に、磯崎は笑いを噛み殺す。

あんなに真っ直ぐお礼(?)を言われて嬉しくないはずがない。

若先生と違って患者からのウケが良くない院長は、尚更嬉しかっただろう。


「アーシャ、良い子だ」

お兄ちゃんに撫でてもらって、良くわかってない様子ながら、少女は嬉しそうだ。

「アーシャちゃん、はい、どうぞ」

そんな彼女に磯崎はガチャガチャのコインを渡す。

これが治療を頑張った子供たちへの『ご褒美』なのだ。

少女はもらったコインを、裏返したりしなが観察しつつ不思議そうな顔をしている。

「ガチャガチャだよ。どうぞ」

そう言ってガチャガチャ本体を指し示すが、やっぱり彼女はわからないようで、戸惑った顔をしている。

ガチャガチャの前に下ろされても、コインを持ったままぼんやりしている。


「あ………」

そこでようやく磯崎は気がついた。

彼女はガチャガチャがわからないのだ。

本人があまりにも朗らかで、大人を警戒するそぶりもなく、しっかりとした子だったので、頭から抜けていた。

『ネグレクト』

彼女は他の子供たちが喜んで飛びつくような存在も知らされずに、育てられたのだ。

(そうだった……こんなに痩せて、虫歯もほったらかしにされて……)

それなのに、気落ちする老人(院長)にまで気を遣えるなんて。

(天使か……!!)

磯崎は今すぐこの子を持ち上げてヨシヨシとしまくりたい母性本能に抗って、口を噛み締める。


「わぁ〜!」

青年に手伝ってもらって、なんとかガチャガチャを回した少女は素直に嬉しそうな声を上げる。

カプセルが出てきただけで大喜びだ。

出てきたものに文句をつけるクソガキも珍しくないと言うのに、無邪気過ぎる。

(めちゃくちゃいい子やん……!!)

更に勢力を強める母性本能を磯崎は根性で抑え込む。


「……なぁに?」

そんな磯崎に少女が出てきたカプセルを渡す。

不思議に思いながらも磯崎がカプセルを受け取ると、彼女は磯崎の足にギュッとしがみついて、にっこりと笑う。

意味がわからないが、親愛を示してくれていることだけはわかる。

人懐こい笑みに、磯崎もつられて笑顔になる。

「どうぞ」

開けて欲しいのだろうかと、磯崎はカプセルの上を開いて差し出すと、不思議そうな顔をしながら、彼女はカプセルの中を覗き込む。

「うぃにぃ!」

そして朗らかに微笑みかけてきてくれる。

喜んでいるのかと、磯崎は微笑ましく思い、彼女が手を出すのを待ったが、少女は眺めるだけで、一向に手を出してこない。


これは一体どうしたことだろう。

戸惑った磯崎が青年の方を見たら、彼は悲しそうに笑った。

「アーシャのだよ」

そして彼は磯崎の持ったカプセルに入った、ラメ入りの透明のスーパーボールを、小さな手に握らせる。

「???」

少女は不思議そうに握らされたスーパーボールを見つめる。

そしてスーパーボールを持った小さな手を、磯崎に伸ばす。

まさかの返却だ。


返すのが当然とでもいう顔の妹に、兄の顔が、ますます悲しげに翳る。

「アーシャ・の」

そう言って彼は、スーパーボールを持った小さな手を、大切そうに自分の手で包んで、少女に戻す。

キョトンとして少女は、大人二人を交互に見る。

ああ、と、思いながら、磯崎は彼女の視線に応えるように頷く。


彼女はこれが『ご褒美』とすら理解できないのだ。

『ご褒美』に素直に大喜びしてくる子もいるし、ガチャのコインの置き場所を覚えて強奪を企む、盗賊のような子供や、こんなものは嬉しくないと、やり直しをせがむ子供もいる。

興味を持たずに放置して行ってしまう子なんかもいる。

子供は十人十色。

大人たちが思うように動いてくれる事はなく、型にはまらない自由な生き物なのだ。

でも、こんな風に『貰える事が理解できない』子供は初めてだった。

自分が物を貰った事がわからないほど、理解力が育っていないわけではない。

寝ているうちにやって来た院長にすら配慮のできる子だ。


全く与えられた経験がないから、それが理解できない。

(……こんな小さな子供が……)

磯崎は笑いながら、マスクの中で口を噛み締める。

『何も与えられない』が、彼女にとっては当たり前の状態にされてしまっているのだ。

全く見知らぬ、この子をこんな姿にした彼女の親に、腸が煮え繰り返りそうだ。

青年も恐らくは同じ気分なのだろう。

彼から感じる圧が増えたような気がする。


幼児は少し考え込んだ後、胸に抱かされたスーパーボールを、両手でギュッと抱きしめる。

「………みみゆぅん、もいわしみぅんない?」

それは自分のものであるか確認しているように思えたので、磯崎は大きく頷いた。

「わぁっっ」

それを理解した瞬間、緑の目が部屋中の光を受け取ったかのように煌めいた。

小さく弾むと、彼女は磯崎の足に飛びついた。

「あうにぅんまいな!!」

それはきっと彼女の言葉での感謝を表す言葉なのではないだろうか。

無邪気に喜色満面で自分を見上げる顔に、磯崎は微笑みながらも心が苦しい。

こんな小さな、どちらかと言うと、ガチャではハズレの部類のスーパーボールだけで、少女は踊り出しそうな勢いで喜んでいる。

(ガチャガチャを開けて、一番おっきいスーパーボールをあげたい……!!!)

大切そうに両手に包んで、キラキラと輝く目で、スーパーボールを見つめる姿が、可愛すぎて、可哀想だ。

『愛しい』を『かなしい』と読む時の気分は、きっとこんな物なのだろう。


戦利品を見せられる青年も、幼児の頭を撫でながら、どこか悲しげである。

「アーシャちゃん、お疲れ様でした!」

感傷を振り切るように、磯崎は診察室への扉を開く。

これ以上見ていたら、ガチャガチャ本体を持ち帰らせてしまいたくなってしまう。

「ユズゥ!」

彼女は弾むような足取りで、もう一人の保護者の元へ駆けていく。

「……あぁ、スーパーボールか」

その外見通り、クールな彼はあっさりと流して、スマホに視線を戻す。

そんな彼に伸び上がるようにして、少女は必死に手の中のスーパーボールを見せている。


(もうちょっと構ってあげたら良いのに……まぁ、あっちの方が年頃の男の子らしい反応といえばそうなんだけど……)

そう磯崎が思った瞬間だった。

「あぁぁ!!」

白皙の美青年は流れるような動きで、少女の手からスーパーボールを取ったかと思ったら、思い切り床に向かって投げたのだ。

「ぁぁぁぁああああ!?」

床に打ち付けられたエネルギーそのままに、スーパーボールは宙に舞い上がる。


乱舞した末に行方不明になるスーパーボール。

スーパーボールを探して泣く少女。

そんな想像が、磯崎の脳裏を横切った。

「おっと」

しかし、物凄い速度で打ち上がっていくスーパーボールを、何気なく捕まえてしまう猛者がいた。

動体視力には全く自信のない磯崎には、スーパーボールの軌跡すら追えていなかったが、もう一人の保護者は緩やかなボールを受け取るくらいの調子で、キャッチしてしまった。

「譲、いきなり投げるなよ。アーシャがせっかく喜んで見せに行ったのに」

そして説教までしてくれる。

そうだ、もっと言ってやれ!と心密かに応援した磯崎だったが、

「あぁ?スーパーボールの正しい使い方を教えてやったんだろ?」

もう一人の青年には全く響いていない様子だ。


「あのなぁ、譲、お前もうちょっとアーシャに優しく……」

「してんだろ」

そう言って白い方の青年が、小さな小袋を、黒い方の青年に渡す。

(あれ?)

色と雰囲気が全然違うので、正反対な兄弟だと思っていたが、並ぶと造形が凄く似ている。

黒い方の青年が少し大きいので、お兄ちゃんと思っていたが、この二人実は双子なのでは?と、磯崎は全くどうでも良い事に気がついてしまう。

「『歯医者さんが作ったチョコ』?」

「砂糖の代わりにキシリトールで作られてるんだと。ビービー泣いて出てくると思ったから、買っといた。折見て食わせとけ」

そう言って白い方の青年は、またスマホを弄りはじめる。


受付では歯ブラシ、歯磨き粉、フロスと併せて、ご褒美用のチョコレートも売っている。

これは虫歯の原因となる砂糖を一切使っていない、食べた後に歯磨きも必要ない、治療後のご褒美には最適なおやつだ。

(何だ、ただのツンデレか……)

小さい女の子をいじめる性悪なら鉄槌を下さねばならなかったが、違ったので、磯崎は安心して胸を撫で下ろす。


少女は少し強めに床に投げて、打ち上がったスーパーボールにピョコンと飛びついて、大切そうに抱きしめている。

磯崎はその姿を見て、微笑んで扉を閉める。

(次はアーシャちゃんの番にでっかいスーパーボール出るように工作しておかなくっちゃ)

扉が閉まる直前に見えたのは、天使のような無邪気な笑顔だった。




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