10.天使、現る(前)

「磯崎さん、君を見込んでのお願いがあるんだ」

狸親父がそう言う時、大抵無茶振りが来る。

磯崎いそざき美紀みきは嫌な予感しかしなかった。

彼女は歯科衛生士歴二十三年。

所謂、大ベテランである。

勤務歴の長さもあるが、この歯科が小児歯科も標榜するようになってからは、空いた時間などで、保育や児童心理などを自発的に学び、より仕事の質を高めてきた自負もある。

「あのねぇ、明日の予約なんだけど、ちょっと難しい患者さんみたいなんだ」

院長はわざとらしい困った顔でそう言った。


話を聞いてみれば、『ちょっと』どころではない。

まず、国籍不明で日本語はおろか、英語・韓国語・中国語などの目ぼしい言語が通じない。

次にネグレクトの疑いがあり、虫歯だらけで、歯磨きをした経験すらなさそうとのこと。

そして保護されて一週間未満で、親が見つかっていない。

極め付けに、今の保護者は十代の若者、しかも男の子だという。


言葉で安心を与えることはできないし、保護されて一週間未満なら、安心を与えられる保護者もいない。

パニックを起こして泣き出したりしても、クールダウンできる人間がいない。

しかもネグレクトされていたなら、大人に対する不信感も大きいだろう。

「既に虫歯だらけということですが、一回目の診察じゃ、口の中を見せてくれるかも疑問ですね。この場に来て、お話をして、歯磨きの仕方を保護者の方にレクチャーするくらいが精々ですね」

そう言ったら、院長は磯崎を拝み出す。

「磯崎さんの力で、そこをなんとかできない?ちょっとさ、別方面から万全を期してくれって連絡が来てるんだよね〜〜〜」

どうもこの院長は俗物で困る。

息子の若先生は熱心なのだが、親の方はどうも権力や名声なんかにめっぽう弱い。

「無理やり治療して、歯科恐怖症にでもするおつもりですか?」

磯崎は一従業員だが、医療従事者としての誇りがある。


そうやってペコペコと頼んでくる院長の願いを却下したが、出来るならば磯崎も子供に痛い思いはさせたくないので、早く治療はしてあげたい。

そんな思いから、いつも子供たちに見せている絵以外にも、怖い場所ではなく、歯を綺麗する場所であることなど伝えられる、簡易紙芝居を準備して、磯崎は当日を迎えた。


「磯崎さん、来たよ、来たよ!例の子!」

受付の石川さんに声をかけられて、こっそり待合室を覗き込んで、磯崎は息を呑んだ。

ネグレクトされていたとは聞いていたが、思った以上にガリガリで手足が折れそうなほど細い。

しかも怯えているのが、はっきりとわかるほど、震えている。

(これは……話すらできないかもしれないわ)

磯崎は顔を曇らせた。

唯一の救いは、保護者らしい青年にしっかりと掴まって、信頼している様子であることだ。


「ちょっと迫力があるけど、イイ男よねぇ、お兄さんたち」

ミーハーな石川さんは年甲斐もなくはしゃぐ。

確かに、手続きをしている方は、文句の付け所のない白皙の美青年で、患者を抱っこしている方は威風堂々とした騎馬民族の王のような剽悍さと荒削りな品がある。

「保護者の顔には興味はないわ」

そう言って磯崎は用意していた紙芝居を、特別室に運ぶ。

特に泣き叫ぶ子などは、他の子に不安を与えるので、完全隔離できる部屋で診察するのだ。


「磯崎さん、裕くんが癇癪を起こし始めていて……」

「嫌がるようなら無理に進めちゃダメよ。一度診療を中止して頑張ったことをしっかり褒めてあげて。私は新規の患者さんにつくから。しっかりね」

子供の気分は、秋の空より読むのが難しい。

その上どんなクレーマーより強力なクレーマー気質だ。

どんなに心を尽くして説明しようが、その時の気分で聞いてくれないし、どんなに正しい医療行為でも嫌な物は嫌と喚き散らすし、彼らの嫌な事をしたり恐い事をする我々が、彼らにとっての絶対悪なのだ。

一度苦手意識を持たれると、その先の診療も大変になってしまうので、どんなクレーマーより気を使って対応しなくてはいけない。

指に噛みつかれても、顔を見ただけで泣かれても、笑顔で相手の気を悪くしないように、最上級に気を使い、優しく対応する。

どれだけ頑張ってもお礼のひとつ貰えなくても、お客さまは神様ですの精神で、ひたすら尽くさなくてはいけない。


(あの子は声が大きいから。泣かれたら、『アーシャ』ちゃんのプレッシャーにもなってしまうわ)

そんな事を思いながら、磯崎は待合室に急いだが、そこに至る前に、診察中の子供が爆発してしまった。

(最悪だわ……)

磯崎は頭を抱えた。

(平常心。平常心。こっちが動揺していたら、子供に伝わるわ)

磯崎は一度深呼吸して、待合室の扉を開ける。

きっと縮こまって、あの子は怯えている―――と、想像していたのだが、

「!!!」

例の子供は扉のすぐ前に立っていた。

「あれ?藤護ふじもりアーシャちゃん?」

まさか歩き回っているとは思わなかったが、動揺は表に出さず、磯崎は極めて明るい声を幼児に掛ける。


磯崎を見上げる目は緑色だ。

驚いたように見開かれているが、声をかけた磯崎に対する恐怖などは感じていないようだ。

「わ〜、嬉しいな、呼ぶ前に来てくれたの?」

磯崎はしゃがみ込んで、幼児と視線を合わせる。

幼児は戸惑ってはいるようだが、やはり大人に対する不信感などはないように感じる。

足は小鹿のようにプルプルと震えているが、緑の目は、磯崎の目をしっかりと見ている。

「あの、この子は日本語がわからなくて……」

上から、保護者をやってる青年から声がかかる。

威圧感は凄いが、不良などという人種ではなく、真面目そうな子だ。

「はい。予約の時にお伺いしたので、わかっていますよ。でも話しかけないとコミュニケーションになりませんから」

立ち上がって答えるが、立ち上がって尚、見上げなくてはいけないほど、彼は大きい。

大きすぎて圧迫感が凄い。

「さ、どうぞ」

かなり年下の子に圧倒されまいと、磯崎は背筋を伸ばして案内する。


「ほへぇ〜〜〜」

先程までガタガタと震えていたとは思えない呑気さで、新患の幼児は室内を見回す。

好奇心が強いようで、診療室を覗き込んだりしている。

「すみません。まだちゃんと歯磨きできるかわからなくて、ガーゼで拭くとかしかしていないんです。言葉が全然通じないので、歯磨き粉を飲み込むかもしれないのが怖くて……」

保護者が十代と聞いて、ヤンママ・ヤンパパと言われる人種を想像していたが、礼儀正しいし、しっかりしているようだ。

「じゃあ今日はできたら歯磨きトレーニングまでしましょうね。うちで使っているのは発泡剤が入っていない歯磨きジェルですので、飲み込んでも害はないので安心してください。しばらくはお兄さんが磨いてあげることになると思いますので、しっかりポイントもお教えしますから」

そう答えると、生真面目に彼は頷く。

「子供用の歯磨き粉とかわからないんですが、教えてもらえますか?」

「受付で院内使用の歯磨き粉や歯ブラシを売っていますので。会計時にご相談ください」

「助かります」

外見通り、受け答えもハキハキとしており、かつ、気遣って子育てをしていることがわかる、好感の持てる子だ。

しっかりお世話しているから、こんなに短期間で懐かれているのだろう。


特別室に着いたら、カウンセリング用の長机に青年と少女を導く。

室内には、口腔内を映すモニターなどもあるが、今回はあえてこれを使わず、馴染みがあるであろう紙芝居形式で説明に臨む。

「アーシャちゃん、こんにちは!」

少し不安げに青年の膝に乗った少女に、磯崎は元気良く挨拶する。

普段のテンションの低い自分とは、決別し、気分は幼稚園の先生だ。

「?」

少女はキョトンっとしていたが、青年が頭を下げるのを見て、自分も思い切り頭を下げる。

危うく机に頭を打ちそうになる程思い切りよく下げるものだから、青年が慌てて机と少女の間に手を滑り込ませている。

微笑ましい兄妹だ。


「今日アーシャちゃんの担当する、磯崎です。い・そ・ざ・き」

磯崎は胸に手を当てて自己紹介する。

わかるかわからないかではない。

自分は一人の人として、あなたと向き合うという姿勢が、必要なのだ。

すると、少女は「わかった!」とでも言うように目を輝かせて、大きく頷く。

そして磯崎の真似をするように、小さな手を自分の胸に当てる。

「いしょじゃき、アーシャにや」

胸を張って、大人ですとでも言いたげな顔での、自己紹介は破壊力が抜群だった。

「ふぐっ!」

磯崎は思わず顔面崩壊しそうになって、両手で顔を隠す。

(いしょじゃき……いしょじゃきって………)

舌の回らない発音が可愛すぎるし、自信満々の自己紹介返しも、予想外すぎて心に突き刺さった。


あんなに自信満々に自己紹介をしたのに、「上手くいかなかった」とでも言うように赤くなって俯くのも可愛い。

「ごめんね。ごあいさつ、嬉しかったよ」

磯崎は慌てて、恥ずかしそうにしている少女に、とりなす。

すると、青年に頭を撫でてもらった事もあり、真っ赤なまま、顎に梅干しのような皺を作って、彼女は顔をあげる。

必死に「気にしてませんよ!」とでも言う顔をするのが、これまた可愛くて、磯崎は緩みそうになる顔を必死で抑える。


コホンと咳をして、磯崎は用意していた紙芝居を長机の上にのせる。

「アーシャちゃんは日本語がわからないと聞いたので、絵を描いてきました!」

自分のペースを取り戻すように、磯崎は言う。

「はい、これが今のアーシャちゃんです。今、お口の中が虫歯だらけで、エーンエーンってなってると思います」

まずは虫歯を痛がる子供の絵だ。

(あれ……?すごく好感触?)

最近の子供は動画というコンテンツに慣れすぎており、紙芝居如きに喜ぶ子は殆どいない。

しかしまだたった一枚目なのに、緑の目はキラキラと画用紙を見つめる。


「そこでアーシャちゃんは、ここにやってきました」

二枚目の子供がこの病院に来ているだけの面白みのない絵にも、大きくウンウンと頷いて、身を乗り出している。

「ここでは先生や、私たちが、いろんな道具で虫歯をやっつけます。こうやってアーシャちゃんには椅子に座ってもらって、お口の中をピカピカにしていきます」

あまりに目を輝かせるので、多少気恥ずかしいが、プライベート時間を消費してまで絵を描いてきた自分が報われた気持ちがする。

治療をする絵も、すごく好感触で、絵の中の椅子と、すぐ後ろにある椅子を見比べて「これね!」とでもいう顔をして、大きく頷いている。

「そうすると〜〜〜ほら!虫歯だらけだったお口は、こんなにキレイになります!」

綺麗になった歯を見て、少女は安堵した顔に変わる。

反応が素直すぎて、嬉しい。


「じゃあ今のアーシャちゃんの口の中を見てみようか」

ここは歯を綺麗にしてくれる所だと理解して、通院するようになって欲しい。

実際のところ、理解してくれる子供などいないが、理想に従って、磯崎は施術前と後の状態を見せている。

「あ〜ん」

手鏡を渡してそう言うと、少女は素直に鏡に口を映す。

そして自分の口を見てしょぼんとして口を閉じてしまう。

(あれっ……)

自分の口を見てショックをうける子供は殆どいない。

ショックを受けるほどの情緒が成長していないのだ。

なので施術前に鏡を見せて、写真を撮って、それが本人の口であると認識させて、施術後も同じ事をして、綺麗になった口の写真と並べることで『綺麗になった』を実感してもらおうという狙いだったのだ。

しかし今の彼女は、写真を残す事が残酷に感じる程落ち込んでいる。

まるで思春期の女の子に『口が汚いね!』と指摘してしまったかのような後ろめたさがある。


「絶対綺麗にするからね!」

丸くなる小さな背中には、あまりにも哀愁が漂っていて、そう言わざるを得なかった。

「ほら、この子もお口を治療して、こんなに綺麗になっているでしょう?絶対に私たちが綺麗にするよ!」

治療して歯が綺麗になるという過程の二枚の絵を指差して、磯崎は必死になってしまう。

「いしょじゃき……」

「任せてね!」

潤む目で見つめられると、そうとしか言えなくなる。


写真を撮るのはやめて、磯崎は少女を診察用の椅子を勧めたら、

「んくっ!」

ここでも磯崎の腹筋に試練がきた。

頑張る気満々で自ら椅子に駆け寄った少女であったが、大人兼用の椅子は彼女に高過ぎた。

「んっんっん〜〜〜っ」

上半身を座面に乗せ、何とか登ろうとしているが、枯れ木のような足には、体を押し上げる力がないようで、ペヨンペヨンと小さなお尻が左右に揺れるだけだ。

最初は小さかった揺れが、足の高速回転によって激しく揺れ出すのに、上方向には微動だにしない。

まるで壊れたおもちゃのようだ。

「ップ」

遂には見兼ねた青年が、椅子に押し上げる。

「〜〜〜〜」

座れたら座れたで、やり遂げた!と言う顔なのが、またおかしい。


磯崎はにやけ顔を隠してくれるマスクに感謝しながら、紙ナプキンを幼児の首に掛ける。

彼女はちょっと不満そうな顔をするも、微笑み掛けると、不承不承ふしょうぶしょう、小さく頷く。

前掛け一つつけるにも戦いになる幼児には、考えられない素直さだ。

言葉は通じないかもしれないが、紙コップを渡すと、お兄ちゃんに習いながら、頑張ってうがいもやっている。

凄く素直な頑張り屋のようだ。


磯崎は歯磨きを説明する画用紙と小さな歯ブラシを少女に見せる。

「アーシャちゃん、歯を綺麗にしようね」

これを見てね〜などと注意を引くまでもなく、彼女はしっかりと画用紙を見つめている。

食べ物のカスなどの詰まった歯を磨いて、綺麗にする図だ。

細かく説明すれば、歯を磨く順番や気をつける所なども書いているのだが、歯磨き自体初めてかもしれない彼女には敢えて細かい説明はしない。

「大丈夫かな?」

と尋ねると、日本語がわからないはずなのに、自信を持った顔で頷くのが面白い。


「じゃあ椅子を倒しまーす」

そう言って声を掛けて椅子を倒したのだが、背もたれに体を預けていた彼女は、動き出した椅子に、跳び上がらんばかりに驚いた。

恐らく歯医者に来た経験がないので、椅子が倒れることを知らなかったのだろう。

もしかしたら椅子を倒さないと言い張られるかもしれない、と、磯崎は心の中で覚悟を決める。

実は歯医者で寝転ぶことを拒否する子供は、さほど珍しくない。

多くはないが、珍しいと言うほどではない。

「アーシャ、ゴロン」

そう言われた少女は心細そうな顔でビクビクとしながらではあるが、もう一度椅子に体を預ける。

心細い、怖い、不安。

そんな心の中が顔に滲み出ている。


これ以上椅子を倒すべきか否か。

笑顔を崩さないまま、磯崎が判断を悩んでいると、幼児の手を、そっと青年が握る。

すると彼女は明らかにホッとした顔で、両手でしっかりと、その手を握り返す。

高身長な青年は、手を握らせるために、かなりキツい中腰姿勢になっているが、チラッと視線で確認すると、小さく頷く。

続行してくださいと言う事らしい。

(まだ出会ってちょっとしか経っていなくても、アーシャちゃんが懐くはずだわ)

自身の不自然な姿勢など、おくびにも出さない。

穏やかな表情で、少女を見守ってあげている。

謎の圧迫感のある子だが、いいお兄ちゃんだ。


歯磨き中も、時々震えながら一生懸命口を開けている妹の手を握りつつ、こちらの歯磨きの手順説明も食い入るように、しっかりと見ている。

ちょっと真剣すぎて、こちらの手が震えてしまいそうな迫力があるのが難点だが、説明をちゃんと聞いてもらえるのは有り難い。

(尊い……尊い兄妹だわ……)

磯崎は心の中で感動に震える。

はっきり言って、最近の若者はちゃんと挨拶もできない輩が多いし、目上を馬鹿にしたような言動もとるしで、磯崎は好ましく思っていなかった。

「アーシャ、頑張ったな!」

しかし歯磨きを終えて、全力で褒めている兄と、嬉しそうな照れ笑いを浮かべる妹の姿は、間違いなく尊い。

手放しで褒められてキラキラと輝く顔は、やせ細っているが、びっくりするほど可愛い。


「次はぁ〜〜〜ジャンっ!歯が元気か見ていきます!」

こうなると磯崎もノリノリになってくる。

検診の説明を書いた紙を見て、ウンウンと少女は頷いている。

傾く椅子にも慣れたようで、堂々と寝転んでくれる。

青年の手をしっかりと握っているのは相変わらずだが。

「あ〜ん」

と言うと、恥ずかしそうながら、しっかりと口を見せてくれる。

覗き込んだ磯崎と目が合うと、『信じている』とばかりにジッと見つめて彼女は目を閉じる。

(信頼の視線……!!)

子供から、こんなアイコンタクトを取られたことなんてこれまであっただろうか。


「ん〜〜〜、C〜〜〜1〜〜〜」

篠崎は明るく、楽しそうに聞こえるように意識しながら、歯を一本一本確認していく。

確かに全く歯磨きがされていない感じだが、幸いなことに、神経までに到達していると思われるような重度な虫歯はない。

歯磨きをしていない代わりに、ろくな食事を与えられていなかったから、口内が酸性になる事が少なく、虫歯が進行しなかったのだろう。

多くは表面のエナメル質にできている虫歯で治療で痛い思いはしなくて良さそうだ。

栄養が足りなかったせいか、歯も歯茎も、やせ細っているが、今からでも、しっかり気をつけていけば、きっと改善するはずだ。


「………?」

そんな事を思いながら、口腔内をチェックしていた磯崎は首を傾げた。

しっかりと開けられていた口が、じわじわと閉まってくる。

「………アーシャ?」

異変に気がついた青年も、軽く幼児を揺する。

しかしそれに反応はない。

「え……?寝ちゃった……!?」

気がつけば、くぅくぅと気持ちよさそうな寝息が聞こえる。

「………すいません……寝ちゃったみたいです……」

気まずそうに青年が、磯崎に答える。

「ま……まぁ、きちんとチェックはできましたから。歯医者さん初回としては上出来なくらいですよ!歯磨きもちゃんとできましたし!」

寝るほどリラックスしてくれるなんて、こちらを信頼してくれている証でもある。


今日はこのまま終了。

恐ろしいほど順調だった。

磯崎がそう心の中で安堵した時だった。

「おぉ〜〜〜流石磯崎さん!リラックスさせ倒して、眠らせるなんて中々できるものじゃないよ〜」

ニコニコ顔の院長が部屋に入ってきた。

そして検診結果を見ながら、ウンウンと嬉しそうに笑い、

「磯崎さん、開口器、お願い」

とんでもない事を言い出した。


「………院長、まさかと思いますが……」

「ちょちょっと削って、レジンで埋めるだけだから。寝ているうちにやったら、患者さんの負担も減るんじゃない?ね?お兄さんもそう思うよね?」

治療する気満々は院長は、保護者である青年を落としにかかる。

「えっと……何も説明せずにやってたら、起きた時、びっくりして危なくないですか?」

「大丈夫。起きたらすぐに作業を中断して説明するから。虫歯は初期のうちにしっかりと処置していた方が良いと思うんですよ。進行して痛い目にもあわないで済むし」

青年は戸惑っていたが、プロにそう言われてしまっては納得するしかなかった。


「……院長……」

磯崎は院長を睨むが、彼は飄々とした姿勢を崩さない。

現れたタイミングの良さから、少し前からここを覗いていたのかもしれない。

(ほんっとうに権力に弱いんだから……!!)

磯崎は怒鳴りたがったが、患者さんとその保護者の前でそんなことはできない。

悔しいことに、この院長、根っからの太鼓持ち気質のくせに、腕は凄まじく良い。

高潔な精神を持った彼の息子に、その腕前が遺伝したのは本当に素晴らしい奇跡と言える。

(若先生の出勤日だったら……!!)

そう思いながら磯崎は院長を睨む。

そりゃあ恐怖を感じながら治療されるより、寝ているうちに終わったなら、少女にとっても良い事だ。


少女は天使のような無垢な顔で眠っている。

(こうなったら、最高のサポートをするからね)

磯崎は心の中で、最善を尽くす事を天使に約束するのだった。



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