8.幼児、自立していく

「ふふ……へへへ………ふひひ」

窓から差し込む陽光の中、幼児はプラスチック製の小鳥を愛でている。

透き通った緑の小鳥に、陽の光を通して、色のついた光を手に当てたり、床に当てたりして、楽しそうにしている。

「絶対あれ、水笛ってわかっていないよな」

シャカシャカと泡立て器で玉子を混ぜながら譲が呟く。

「まぁ……今でも十分嬉しそうだから。後で使い方を教えるさ」

そう言いながらも、禅一は少し沈んでいる。


アーシャが嬉しそうに愛でているのは、『診察頑張りました』と小児科で無料で配られるご褒美だ。

シールや簡単すぎる構造のミニカー、光るボールなど様々あった中から、禅一が選んだ。

恐らくは診察の記憶を、おもちゃをもらえた記憶に塗り替えるための物で、子供が病院嫌いにならないようにとの、配慮だろう。

診察料にそんなものの料金は含まれないから、完全なる病院側の厚意の品だ。

だから言い方は悪いが、百均で売られている程度か、それ以下の、クオリティの低い玩具だ。

しかしそんな玩具を、アーシャは得難い宝物のように愛でている。

その姿は可愛いが、気の毒で仕方ない。


上機嫌に彼女は、間抜けな面の小鳥を、撫でたり頬擦りしたりしている。

あの小さな手には、百円程度で手に入る玩具すら、のったことがないのだろうと思うと、禅一の心は沈んでしまう。

玩具の入ったカゴを差し出されて『好きな物を選んでね!』と言われても、アーシャは不思議そうな顔をして、手を出さなかった。

言語が通じないのは仕方ない。

でも一つ一つ玩具を指差しても、差し出しても、彼女は選べと言われている事を理解できなかった。

不思議そうにしながら、差し出された玩具をニコニコと笑って見ていた。

『自分に何かを与えてもらえる』なんて微塵も考えつかない様子だった。

仕方ないので、アーシャが目を輝かせたもののうち、彼女の目と同じ色の小鳥を禅一が選んだのだ。

アーシャの手に握らせた時、一頻り眺めてニコニコした後、彼女はカゴに戻してしまった。

『何も貰えないのが当たり前』

そう彼女の行動は示していた。


「……俺はもっと良い笛を買ってやりたい……」

思わず禅一がそう口にすると、譲が片眉を上げる。

「アレは笛を喜んでるんじゃなくて、『自分のもの』ができたことに喜んでいるんだと思うぜ」

そう言いながら、彼は小さな湯呑みにボウルでかき混ぜていたものを入れていく。

禅一も確かにそうだと思う。

しかし、あれが笛と理解していない事は百も承知で、それでももっと良い物を与えたい。

笛だけじゃなくて、アーシャが欲しがる物を、どんどん買ってやりたい。

あの小さな手に、今までのせてもらえなかった分の玩具を、山盛りでのせてやりたい。

「言っとくけど、今日のあの調子じゃ、百均に連れて行こうが、玩具屋に連れて行こうが、アレは欲しいと言ったりしないぞ」

譲もアーシャが『諦めてしまっている子供』である事に気がついたのだろう。


「人間ってどうやったら、何かを『欲しい』って思うんだろうな」

肉類を買い忘れたので、ミックスベジタブルしか入っていない、貧相なケチャップライスを皿に盛りながら、禅一は深いため息をこぼす。

「さぁな。でもスーパーでひっくり返られるより良いだろ?育てるのにも安上がりだし」

隣の譲はクールである。

あっさりそう切り捨てて、湯呑みを水を張ったフライパンに並べて、加熱している。

「でも笛を買うのは良いかも知れねぇな」

火加減を覗き込みながら、譲は思い出したように付け加える。

「そう思うか!?」

意外にも同意をしてくれたので、禅一は顔を輝かせる。

譲はそんな禅一を見て、半眼になる。


「俺が笛がいいって言ってんのは防犯面でな!あのチビ、ボーッとしてるから、いつ危ない目に遭うかもわかんねぇだろ。……見てたら、アイツ、防犯ブザーとか使いこなせる感じじゃないし」

「笛か……確かに。笛なら遊びで何回も吹かせておければ、何かあった時、躊躇いなく吹けそうだな」

防犯ブザーはかなり有効だが、音が大きいので、鳴らす練習などできないから、言葉が通じないうちは笛の方が良さそうだ。

「あれだな。ほら、小学生の頃習った標語があるだろ?ああいうの教えといた方が良いな」

「あぁ、『いかのおすし』だったか?」

禅一は卵と牛乳を混ぜ合わせながら、譲はフライパンに蓋をしながら首を傾げる。


「『い』……一撃必殺……?」

「いや、攻撃じゃないだろ。とにかく逃げろ的な標語だったろ?『い』……石を投げろ……?」

「石の方がまずいだろ。『い』……一気に仕留めろ……?」

「子供が大人を一気に仕留められないだろ。投石で威嚇して逃げる方が有効だろ」

残念な兄弟は一個も思い出せないが、『いかのおすし』とは、知らない人について『いか』ない、知らない人の車に『の』らない、『お』おきい声を出す、『す』ぐにげる、大人に『し』らせる、と言う子供のための防犯標語である。

標語の方は覚えているのに、内容を忘れている、攻撃によりがちな残念兄弟は首を傾げ合いながら、

「まぁ知らない奴には近寄るな、逃げろって教えたらいいんだよな」

「あのチビはかなり走るの遅いぜ。とにかく笛を吹けって仕込んだ方が良いかもな」

そんな結論に落ち着く。



実がありそうで、全くない会話をしながら、禅一は大盛りのオムライス、譲はオヤツ用のプリンを仕上げていく。

「アーシャ」

玉子が焼き上がったあたりから、ソワソワと尻を浮かせていたアーシャに声をかけると、ぱぁぁぁと効果音がつきそうなほど、顔を輝かせたアーシャが禅一に向かって走ってくる。

ご飯は禅一の膝で取るものと認識されているようで、禅一は相好を崩す。

迷うことなく腕を広げて来るアーシャを禅一は抱き上げる。


「ふわぁぁぁぁ!!」

視点が上がって、テーブルの上が見えたアーシャは嬉しそうな声を上げる。

「みぃ、みぃ、みぃぬうぃ!!」

その目はオムライスに釘付けだ。

耐えきれないとばかりに、派手に彼女の腹の虫が鳴き叫んでいる。

手を組んで、感涙に目を潤ませている所を見ると、おなかが減っていたようだ。

物欲を育てるのは、この食欲が足掛かりにした方が良さそうだ。

スーパーに連れて行って彼女が食べたがるものを、どんどん買い込んで、『与えられる』感覚を育てるのも良いかもしれない。


「あ、ケチャップ、ケチャップ」

仕上げのケチャップをかけるのを忘れていた禅一は、食卓に持ってきていたケチャップの容器を取って、アーシャのオムライスにかける。

「あっ、あっ」

すると膝の上から悲しそうな声が上がる。

バタバタっと落下するケチャップを見て、アーシャは顔を引き攣らせている。

明らかにケチャップに衝撃を受けている。

「……あれ?何か落ち込んでいないか?」

衝撃を受けた様子に、禅一は首をかしげる。

「あぁ?ケチャップのかけ方が汚ねぇからじゃねぇの?お子様ランチとか、ケチャップでガキ向けの絵が書いてあるだろ」

成程、と、禅一は納得する。

言われてみれば、確かに玉子の上に血痕が残っているような見た目になってしまった。

どうせ表面に伸ばして食べるものだからと、適当にかけすぎたようだ。


「う〜ん」

ここからリカバリーする方法を禅一は考える。

真ん中にどでかいケチャップの丸があるから複雑な形にはできない。

(あ、ハート型にならできるか?)

禅一は丸の上に山を二つ描いて、下に三角を付け加える。

しかしケチャップは気ままに滲んでいく。

「あっ、あっ、あっ」

ケチャップが滲む度に、アーシャの口から悲しげな声が上がる。


「………難しいな」

禅一は成果物を前に、がっくりと首を折る。

「……………」

「……………」

とてもハートとは言えない図形が描かれたオムライスを、しょっぱい顔で譲とアーシャが見つめる。

最初から細やかな作業が得意な譲にやってもらうべきだった。

そう後悔しても今更だ。

「ザビエルの肖像画が、こんな毛が生えたハートみたいなの持ってたよな……」

ポツリと呟いた譲の言葉に、思わず禅一は吹き出してしまう。

それは『灼熱の心臓』の事だ。

心臓と言われてしまったら、グロテクスさに磨きがかかるような気がする。


「ま、まぁ見た目はアレだけど旨いから!」

取りなすように、禅一は努めて明るい声で言う。

「アーシャ、あ〜ん」

見た目が影響してか、いつも元気に口を開けてくれるアーシャが、恐る恐る口を開ける。

「ん〜〜〜」

しかし見た目は悪くとも、味は普通のオムライス。

もぐもぐと口を動かすにつれ、アーシャの目がキラキラと輝き始める。

そしてゴクンと嚥下すると、歓声とともに、頭をフリフリして踊り始める。

ベーコンもハムもウィンナーも入っていない貧乏オムライスだが、気に入ってくれたらしい。


譲はお店で出てくるオムライスのように、美しい波をケチャップで描いて、可もなく不可もなくと言った様子で食べている。

禅一も自分のオムライスにケチャップを撒いて、ひと匙食べてみる。

こんなに喜ぶ程度ではないが、普通に食べられる味だ。

「あ〜ん」

とスプーンを差し出すと、アーシャは嬉しそうに飛びついてくる。

「んんん〜〜〜!」

そして美味しい!とばかりに頬を押さえて、左右に揺れる。

可愛いなぁと、その様子を観察しながら、禅一は交互にスプーンを進める。


そんな様子を見ていた譲が、はぁっと強めに息を吐いて立ち上がる。

「自分で食え、自分で!」

そして禅一が持っているアーシャのスプーンを取り上げて、彼女に握らせてしまう。

「じ・ぶ・ん・で・く・え!」

ゆっくりはっきり言っても日本語は日本語に変わりないから通じるはずがない。

キョトンとするアーシャの手で、譲はオムライスを掬わせる。

アーシャは驚いた顔をしたが、『自分で食べていいんだ!』とでも言うように、スプーンにのったオムライスを口に運ぶ。


そして鼻の頭にケチャップをつけながら、アーシャは夢中でオムライスを食べ始めた。

「あぁ……俺の楽しみが……」

禅一は悲しみの声をあげる。

「このド阿呆。コレはペットじゃなくて人間なんだ。自分でできることは自分でできるように躾けていかなくっちゃいけないんだよ。医者の話だともう五歳くらいなんだろ?飯くらい一人で食わせろ」

項垂れる禅一に譲は容赦しない。

「俺の手から食べてくれる相手なんて滅多にないのに……」

禅一は恨みがましく譲を見る。

「大丈夫だ。まだ魚類がお前には残されてる。餌やりは公園の鯉にでもしてやれ」

「うぅぅぅぅ……魚類は反射で飲み込んでる感じだし、表情変化もないし……」

「でも今までのお前はそれで満足していただろ」

しょんぼりと項垂れる禅一に、うにゃうにゃと時おり顔をあげて何かを報告してくれながら、アーシャはご飯を頬張る。

そんな幸せそうな顔を見られるだけでも、良いのかも知れない。


「ほら、見てみろよ。スプーンの握り方がちゃんとしてる。もう一人で食べれるんだよ」

譲はアーシャのスプーンを握る手を指差す。

確かに子供にありがちな、スプーンを鷲掴みにして握り込む持ち方ではなく、大人のように鉛筆を持つような形で握っている。

禅一の膝にのせて、ギリギリ皿に手が届く程度の大きさなので、掬うのには苦労しているようだが、他は大人と遜色のない。

……鼻にしっかりとケチャップをつけてしまっているが。


何やら目を輝かせながら、禅一にむけてオムライスを解説している様子が、無邪気で可愛らしい。

鼻を拭いてやりながら、禅一も彼女に笑みを返す。

「これなら子供用の椅子を買ってきたら、自分で座れそうだな」

何とか気を取り直して昼食を再開した禅一に、更なる追い討ちがかかる。

「は!?」

「子供用の椅子だよ。要るだろ?」

「いや、俺が膝に乗せれば買わなくても……」

「ママのお膝でご飯を食べても良いのは三歳までだ。コイツは親じゃない俺らが養育するんだ。ちゃんとしたマナーも覚えさせねぇと、こいつ自身が『これだから』って言われる事になるぞ。禅もその辺は良くわかってんだろ?」

正論にぐうの音も出ない。


突然できた小さな妹のお世話に心を躍らせていた禅一だったが、早々にドリームは崩壊した。

「まさかこの大きさで五歳とは思わないよなぁ……」

寂し気に禅一は呟く。

手がかからない事は結構な事だが、これから少しづつ手を離していく予定だったので少し寂しい。

(でも箸はまだ使えないだろうから、麺類は俺の出番があるよな)

心密かにそんな事を考える彼だったが、後日、フォークを持った譲に、その願望は打ち砕かれる事となるのだった。

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